1965年に日本鉱業が売却したのは、自社の石油販売部門そのものであった。集約化に応じれば精製設備の許可と給油所建設で優先的な配慮が得られる——その条件と引き換えに、売る仕事を共同石油へ預けた。設備は政策どおり広がり、精製シェアは10.4%から18.8%へ伸びた。だが販売シェアは13.7%で止まり、どの油種をどれだけ作るかの割り当てが各社の収益を左右する仕組みが残った。27年後の合併は、この分業を自社の内側へ戻す判断だった。
ただ、一つの会社になったことが、共石グループの27年を正当化するわけではない。アジア石油はコスモ石油へ、東亜石油は昭和シェル石油グループへ移り、集約化のために集められた企業は散った。民族系中核企業を育てるという政策の目的からみれば、残ったのは精製と販売を一つに戻した日本鉱業一社であった。合併から11カ月後にグールドの清算で約900億円を落としたことも、統合の第一歩が財務の軽量化であったことを示している。半年前には金属3部門を日鉱金属へ分離しており、翌年には商号もジャパンエナジーへ改めた。政策に沿って組んだ分業を解くのに、27年がかかった。