ジャパンエナジー共同石油の合併と、石油精製・販売の一社化

27年前に自ら外へ出した販売会社を、なぜ本体へ戻したのか——集約化政策が残した分業の畳み方

時期 1992年12月
意思決定者(推定) 日本鉱業・共同石油 両社取締役会 合併後の日鉱共石社長は長島一成
論点 精製と販売を分けた分業の解消
概要
1992年12月、日本鉱業が共同石油を合併し、商号を日鉱共石に改めた経営判断。1965年8月に通産省の集約化政策のもとで自ら設立した共同販売会社を、27年を経て本体へ取り込み、石油の精製と販売を一つの会社に収めた。翌1993年12月にはジャパンエナジーへ商号を変更している。
背景
1963年12月の産業構造調査会報告を受け、通産省は集約化に応じた企業へ精製設備の許可と給油所建設で優先的に配慮すると表明した。優遇のもとで共石グループの精製シェアは10.4%から18.8%へ伸びた一方、販売シェアは13.7%にとどまり、精販ギャップと呼ばれる開きが残った。
内容
販売専業の共同石油と、精製を担う日本鉱業を一つの法人へまとめた。共石36・精製64で利益を分ける個別決済方式と、生産の割り当てをめぐる会社間の交渉は、これで社内の配分の問題へ移った。合併の半年前には、金属3部門を日鉱金属へ分離している。
含意
アジア石油はコスモ石油に吸収され、東亜石油は昭和シェル石油グループへ移り、集約化のために集められた企業はすでに散っていた。合併から11カ月後には米国の銅箔子会社グールドの清算で約900億円の特別損失を計上し、長島一成社長は身軽な形で再スタートする必要があると語った。
筆者の見解

分業を解くのに要した27年

1965年に日本鉱業が手放したのは、自社の石油販売部門そのものであった。集約化に応じれば精製設備の許可と給油所建設で優先的な配慮が得られる——その条件と引き換えに、売る仕事を共同石油へ預けた。設備は政策どおり広がり、精製シェアは10.4%から18.8%へ伸びた。だが販売シェアは13.7%で止まり、どの油種をどれだけ作るかの割り当てが各社の収益を左右する仕組みが残った。27年後の合併は、この分業を自社の内側へ戻す判断だった。

ただ、一つの会社になったことが、共石グループの27年を正当化するわけではない。アジア石油はコスモ石油へ、東亜石油は昭和シェル石油グループへ移り、集約化のために集められた企業は散った。「民族系中核企業の育成とは何だったのか」という業界の声は、この合併そのものへ向けられている。合併から11カ月後にグールドの清算で約900億円を落としたことも、統合の第一歩が身軽さの回復であったことを示している。政策に沿って組んだ分業を解くのに、27年がかかった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

政策がつくらせた販売会社

1963年12月、産業構造調査会の総合エネルギー部会は、採油部門を持たない日本の石油精製業の存立基盤を強めるには、集約化と財政資金の投入、国策会社の創設を検討すべきだとする報告をまとめた。通産省はこれを受け、集約化に応じた企業には精製設備の許可と給油所建設で優先的に配慮すると表明した。1965年8月、日本鉱業はアジア石油・東亜石油の両社と24の金融機関の出資を得て、共同販売会社の共同石油を設立した[1]

日本鉱業社長の三間安市氏は1969年5月の講演で、この集約の狙いを外資への対抗として説明している。当時は日石グループの約18%を筆頭に、外資系各社が販売シェアの約60%を占めていた。共同石油のシェアは10.2%で業界第3位、1971年度には約19%となって日本石油と肩を並べる見通しであった。ただし石油の販売は給油所や人員を増やすだけで一朝に拡大できるものではない、と三間社長は付け加えている[2][3]

精製は伸び、販売は伸びず

1969年、通産省は共石強化のための8項目を提示し、同グループへ精製設備の許可を優先して与えた。精製シェアは設立時の10.4%から18.8%へ伸び、能力は日産111万バーレル強と業界1位に達した。だが販売シェアは当初の10.5%から1976年度上期の13.7%までしか伸びず、この開きは精販ギャップと呼ばれた。共同石油が多く売ったのは採算の悪い重油で、燃料油の販売単価は1キロリットル3万534円と、主要10社で最も低かった[4][5]

共同石油と精製各社の利益配分には、個別決済方式がとられていた。共石が売った製品の売上から原油などの精製コストを引き、残りを共石36・精製64の割合で分ける。どの会社にどれだけ生産を割り当てるかで収益が決まるため、収益性の高い油種を多く納める会社が有利になった。1975年度の日本鉱業はグループ内の精製能力シェアが22.4%であるのに対し、ガソリンは35%以上を共石へ供給していた。販売や経理といった共石の主要部門の部長も、日鉱出身者が占めた[6][7]

決断

27年後に本体へ戻す

1992年5月に金属3部門を日鉱金属へ分離した半年後の同年12月、日本鉱業は共同石油を合併し、商号を日鉱共石に改めた。1965年に自ら外へ出した販売会社を、27年を経て本体へ取り込む合併であった。精製と販売を別々の法人に置き、生産の割り当てと取り分を会社間の交渉で決める仕組みは、これで終わった。共石グループの中核であった二社が一つになったことで、集約化政策のもとに組まれた枠組みも実質を失った[8]

共同石油は、石油精製を親会社に依存する販売専門の会社として発足していた。1990年6月に8代目の社長へ就いた長島一成氏は、その翌年の取材で、販売シェアは約12%を占めて業界4位まで伸びたと語る一方、過当競争のため需要が増えても業績が良くならないのが実情だと述べている。販売に特化していながら消費者の動きをつかみ切れていない、という自己評価も残した。売る仕事だけを担う会社のまま伸ばせる余地は、この時点で細っていた[9][10]

散った共石グループ

通産省の優遇策で共石グループの精製設備は広がったが、販売力は当初期待されたほどには伸びなかった。1976年3月期には東亜石油が経常損益で120億900万円、東亜共石が144億2,700万円の赤字を計上し、共同石油自身も21億9,700万円の経常赤字と77億3,700万円の繰越損失を抱えていた。石油危機の前後に4カ所30万バーレルの精製設備を新増設した金利負担が、需要の鈍化とともに重くのしかかった[11][12]

グループの結束も長くは保たれなかった。アジア石油はコスモ石油に吸収され、東亜石油は昭和シェル石油グループの一員となって、集約化のために集められた企業は散った。残る日本鉱業と共同石油が一つになったことについて、日本産業史は「民族系中核企業の育成とは何だったのか、という声も業界内にはある」と記している。行政の配慮を受けながら精製と販売を分けてきた27年は、その二つを同じ会社へ収めることで終わった[13]

結果

合併11カ月後の900億円清算

合併から1年たたないうちに、日鉱共石は旧日本鉱業が抱えていた米国事業の後始末に向き合った。1993年11月、同社は銅箔子会社グールドの清算に伴い、その期に約900億円の特別損失を計上すると明らかにした。長島一成社長は、銅箔事業から撤退するわけではないとしたうえで、いったん区切りをつけ、身軽な形で再スタートする必要があると判断したと述べている。財務体質が悪化したままでは士気も上がらない、とも述べている[14][15]

清算にあたっては、常務以上の役員が報酬を削った。旧日鉱の問題でなぜ共石系の役員まで責任を負うのかという問いに、長島社長は、事前に意見を聞いた共石出身の役員は皆「両者を区別すべきでない」という考えだったと答えている。900億円がだれの責任かを明らかにすべきだという問いには、個人の責任追及は減点主義につながりかねないと応じた。合併の翌年12月、同社は商号をジャパンエナジーへ改めた[16][17]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1977年2月14日号「共同石油スタディ 船頭多くしてままならぬ経営安定」
  • 日経ビジネス 1991年2月25日号「新社長登場 長島一成氏(共同石油) 意思疎通を第一に」
  • 日経ビジネス 1993年11月22日号「900億円清算,身軽になって再スタート。長島一成[日鉱共石社長]に聞く」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年 第7巻第6号「日本鉱業の現状と将来」(三間安市)

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