ジャパンエナジー の歴史

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創業 1905年
創業者 久原房之助
創業地 茨城県日立
創業
1905年12月、久原房之助氏が茨城県の赤沢銅山を大橋真六氏から買い取り、久原鉱業所を起こして日立鉱山と改めた。1912年9月に資本金1,000万円の久原鉱業株式会社へ改組し、大戦の好況で豊羽・佐賀関など各地の鉱山と製錬所を次々に取得する。しかし1920年以降の不況で銅の滞貨が積み上がり、資金繰りが行き詰まった。1928年12月、鮎川義介氏が大衆持株会社の日本産業へ改め、翌1929年4月、鉱山・製錬部門を継ぐ資本金5,000万円の日本鉱業株式会社を設立した。1933年9月には秋田県の雄物川油田で出油し、ここで石油が加わる。ただし1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ、1945年に化学部門と石炭部門を統制の求めで譲渡した。
決断
銅と石油をひとつの資本で抱え、どこで割るかを決め続けてきた。1965年8月、通産省の集約化政策に沿ってアジア石油・東亜石油と共同石油を設立し、翌1966年7月に自社の石油販売部門をそこへ集約した。1985年のプラザ合意による円高で非鉄の採算が崩れると、1988年11月に米グールドを10億5,000万ドルで買収して電子材料へ移ろうとしたが、900億円の損失で決着する。1992年には7か月のうちに正反対の判断を並べ、5月に金属3部門を分離して日鉱金属を設立し、12月に共同石油を合併して精製と販売を一体にした。翌1993年12月、日鉱共石はジャパンエナジーへ商号を改め、1929年から続いた日本鉱業の名が消えた。
現況
収益で子会社に抜かれた親会社が、資本市場の側から決着をつけられた。分離した日鉱金属は1998年8月に東証一部へ上場し、分離後5年9か月で親会社と並ぶ上場企業になる。同じ年、ジャパンエナジー本体は1998年度に70億円の経常赤字へ転落する見通しとなり、800名の合理化を予定していた。石油と非鉄を一つの資本で持つ形は、親子上場という構造のまま市場と格付機関の評価にさらされる。2001年11月の発表を経て2002年9月に日鉱金属との共同持株会社・新日鉱ホールディングスを設立し、ジャパンエナジーは単独の上場企業として市場から消えた。最終期となった2002年3月期の連結売上高は2兆834億円、経常利益254億円で、当期純利益は3億円にとどまった。
競合
民族系の中核として政策で育てられた各社は、市場の側で組み替えられた。共同石油は、採油部門を持たない日本の石油精製業を集約するという1963年の構想から生まれ、通産省は参加企業に精製設備の許可と給油所建設で優先的な配慮を与えた。だが販売力は期待ほど伸びず、参加したアジア石油はコスモ石油に、東亜石油は昭和シェル石油グループに入る。ジャパンエナジー自身は2006年6月、上流・精製・物流・燃料電池で新日本石油と業務提携し、両社合計の国内燃料油シェアは35%に達した。2010年7月、同社は新日本石油へ吸収合併されて法人としても消滅する。水島の製油所と佐賀関の製錬所は、次の資本の下へそのまま移った。
ジャパンエナジー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1981年3月期2010年3月期
ジャパンエナジーにおける経営の転換点(その1) Q なぜ日本鉱業は1933年に石油へ手を伸ばし、非鉄と石油の二正面経営になったのか
A 久原鉱業は1905年に久原房之助氏が赤沢銅山を買って始めた銅山会社である。地下資源を掘る技術は鉱山でも油田でも変わらないという理屈から、日本鉱業は1933年9月に秋田県の雄物川油田で出油に成功し、1939年に船川の製油工場を買収して採油から精製までを自社に揃えた。1942年に石油鉱業部門を帝国石油へ譲渡して採油は抜けたが、1961年6月の水島製油所で精製から入り直す。1955年3月期の総売上高113億8,000万円は銅45.2%、石油製品20.9%で、値動きの異なる二つの市況商品を一つの資本で抱える構造ができた
ジャパンエナジーにおける経営の転換点(その2) Q なぜ1992年に金属事業を切り離しながら、同じ年に共同石油を合併したのか
A 1992年、日本鉱業は5月に金属3部門を分離して日鉱金属を設立し、12月に共同石油を合併して日鉱共石となった。7か月のうちに金属を切り離して身軽にし、石油を取り込んで重くしている。逆に見える二つの決断は、いずれも銅と石油を一つの資本で抱えた構造をどこで割るかを決めている。分離では、1988年に10億5,000万ドルで買収して赤字を垂れ流していた米グールドを本体側に残している。1993年9月に発表された同社の解散で900億円の損失を負ったのは石油側の会社であり、分社は金属事業をこの損失から切り離す働きもした
ジャパンエナジーにおける経営の転換点(その3) Q なぜ2000年に市場が拒んだ持株会社構想を、2002年に同じ形で実現したのか
A 2000年6月に日鉱金属との共同持株会社構想が報じられると、800円台半ばだった同社株は300円以上下がって500円台に落ち、両社は検討を中断した。石油の赤字を金属の利益で埋めるだけの再編と受け取られたためである。それでも野見山昭彦社長が構想を捨てなかったのは、金属では日鉱金属が親離れの意向を見せ、石油は昭和シェル石油との提携が深まれば精製の実権が合弁会社へ移り、残る柱の電子材料も両社に分かれていたからだった。2002年9月27日に新日鉱ホールディングスが発足し、ジャパンエナジーは単独の上場企業でなくなった

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ジャパンエナジーの沿革1905〜2010年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1905〜1945年久原房之助の赤沢銅山買収から日産コンツェルンの中核会社まで久原房之助氏が茨城県の赤沢銅山を買収
久原鉱業を設立
佐賀関製錬所の操業を開始
鮎川義介氏のもとで久原鉱業を大衆持株会社の形態に改め、日本産業に商号変更
日本産業の鉱山・製錬部門を分離独立させ、日本鉱業を設立★★
雄物川油田で出油に成功
早川石油製油工場を買収
戦時経済の要請により石油鉱業部門を帝国石油へ譲渡
化学工業部門を日本油脂へ、石炭鉱業部門を日本炭砿へ譲渡
敗戦により簿価約4億円、全資産の約半分にあたる在外資産を失う
1946〜1985年非鉄と石油の二正面経営と、民族系元売をまとめた共同石油中条油業所で天然ガスの供給を開始
水島製油所が操業開始
貿易自由化を控え、人員整理を含む合理化を労働組合の了解のもとで実施
アジア石油・東亜石油と24金融機関の出資により共同販売会社の共同石油を設立★★
石油販売部門を共同石油へ集約★★
丸善石油・大協石油と均等出資でアブダビ石油を設立
東亜共石の経営を譲り受け知多石油が発足
日鉱グールド・フォイルを設立
ザイールのムソシ銅山から撤退
1986〜1997年金属を切り離しながら石油を厚くした、分離と合流の十年円高を受けて花輪・藤ケ谷の両鉱山を閉山
釈迦内鉱山を閉山
銅箔メーカー・グールドを10億5,000万ドルで買収★★
金属3部門の分離による日鉱金属の設立と、東証一部への子会社上場

1992年5月、日本鉱業が金属資源開発・金属製錬・金属加工の3部門を分離独立させて日鉱金属を設立し、同年11月に3部門を譲渡して新会社が営業を始めた経営判断。日鉱金属は1998年8月に株式を公開し、東京証券取引所第一部へ上場した。

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★★★
共同石油の合併と、石油精製・販売の一社化

1992年12月、日本鉱業が共同石油を合併し、商号を日鉱共石に改めた経営判断。1965年8月に通産省の集約化政策のもとで自ら設立した共同販売会社を、27年を経て本体へ取り込み、石油の精製と販売を一つの会社に収めた。翌1993年12月にはジャパンエナジーへ商号を変更している。

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★★★
グールドを翌年3月までに解散すると発表★★
ジャパンエナジーに商号変更
1998〜2010年子会社に収益で抜かれた石油会社が持株会社に行き着くまで石油部門の不振により経常赤字70億円の見通しとなり、800人の合理化を計画
日鉱金属との共同持株会社・新日鉱ホールディングスの設立と上場廃止

2002年9月27日、ジャパンエナジーと子会社の日鉱金属が株式移転により共同持株会社・新日鉱ホールディングスを設立し、両社ともその完全子会社となって上場を廃止した経営判断。同じ構想が2000年6月に市場から否定されて中断してから、1年半をおいての再合意による設立であった。

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★★★
石油事業を分割し新ジャパンエナジーを設立
清水康行氏が新日鉱HD社長に就任
豊羽鉱山の操業休止と委託製錬の終了により亜鉛事業から撤退
新日本石油と株式移転による経営統合契約を締結★★
新日本石油と新日鉱ホールディングスの経営統合とJXホールディングス設立

2008年12月、石油元売り最大手の新日本石油と、石油・金属を手掛ける新日鉱ホールディングスが経営統合で合意し、2010年4月に共同持株会社JXホールディングスを設立した経営判断。1999年の日本石油・三菱石油合併以来、10年ぶりの大型再編となった。

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★★★
出典・参考
  • 有価証券報告書(新日鉱ホールディングス第8期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)「日本鉱業」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「32_鉱業 概説」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「石油-高度成長の光と影、石油ショック」
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-存亡をかけた加工業への転換」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
  • 証券アナリストジャーナル 1969年7巻6号
  • 私の履歴書 経済人9(日本経済新聞社)「鮎川義介」

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