1911年〜 門司の機械油行商から、大陸八十店の販売網へ
電化で先細ると止められた機械油を選ぶ
1911年6月、出光佐三氏は福岡県門司市(現・北九州市門司区)で個人商店の出光商会を興し[1]、関門地区を中心に石油販売業を始めた。元手は知人の日田重太郎氏が返済も利子も報告も求めずに融通した8,000円[2]である。神戸高等商業学校を出ながら小さな油商へ丁稚奉公に入った[3]経歴で、前垂れ掛けの店に学校出が入ったことを友人は「学校のつらよごし」と非難した[4]。佐三氏が商材に選んだのは小麦粉ではなく機械油で[5]、潤滑油は毎月売れるためまず衣食の道が立つという読みによる。門司では日本石油やスタンダードにいた先輩たちが、電化の進展で油の需要は先細ると独立を止めた[6]が、佐三氏は方針を変えなかった。
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [1]1911年6月 出光佐三が福岡県門司市で出光商会を創設し関門地区中心に石油販売を開始
- 出光佐三「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [2]創業の元手 日田重太郎が融通した8,000円(返済・利子・報告を求めず)
- [3]神戸高等商業学校卒業後に小規模な油商へ丁稚奉公
- [4]前垂れ掛けの店に学校出が入ったことへの友人の非難「学校のつらよごし」
- [5]商材に小麦粉でなく機械油を選択 潤滑油は毎月売れて衣食の道が立つという読み
- [6]先輩らが電化の進展で油の需要は先細ると独立を止めた
佐三氏が向かったのは陸上の電化ではなく動きつつある需要で、1913年に下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手し[7]、1914年には満州へ進出して旧満鉄への機械油納入を足掛かりとしている[8]。以後は華北・朝鮮・台湾・華中へ順に店舗網を広げた[9]。株主も債権者も持たない個人商店であったため[10]、問屋を介さず消費者へ直接売る形を最初から通せている。1932年時点で各種油類の年間売上高は1000万円を超え[11]、国産石油の担い手として戦前から一定の地位を得た。
- 出光佐三「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [7]1913年 下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手
- [10]株主も債権者も持たない個人商店として問屋を介さない直売を選択
- [8]1914年(大正3年)満州へ進出し旧満鉄への機械油納入を足掛かりとした
- [9]満州進出後 華北・朝鮮・台湾・華中等へ店舗網を拡張
- 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく・出光商会主・出光佐三氏」
- [11]1932年時点 各種油類の年間売上高が1000万円超、国産石油の担い手として一定の地位
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [1]1911年6月 出光佐三が福岡県門司市で出光商会を創設し関門地区中心に石油販売を開始
- 出光佐三「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- [2]創業の元手 日田重太郎が融通した8,000円(返済・利子・報告を求めず)
- [3]神戸高等商業学校卒業後に小規模な油商へ丁稚奉公
- [4]前垂れ掛けの店に学校出が入ったことへの友人の非難「学校のつらよごし」
- [5]商材に小麦粉でなく機械油を選択 潤滑油は毎月売れて衣食の道が立つという読み
- [6]先輩らが電化の進展で油の需要は先細ると独立を止めた
- [7]1913年 下関で発動機付き漁船の燃料油販売に着手
- [10]株主も債権者も持たない個人商店として問屋を介さない直売を選択
- [8]1914年(大正3年)満州へ進出し旧満鉄への機械油納入を足掛かりとした
- [9]満州進出後 華北・朝鮮・台湾・華中等へ店舗網を拡張
- 石油時報 1932年9月号「石油市場の尖端をいく・出光商会主・出光佐三氏」
- [11]1932年時点 各種油類の年間売上高が1000万円超、国産石油の担い手として一定の地位
大陸の油槽所と、軍の命令による法人化
1939年、上海近郊に約10万キロリットル余を収容する大油槽所を建設した[12]。同年12月には現地の営業財産を分割し、上海に中華出光興産[13]、新京に満州出光興産を設立している。内地の元売各社が国内市場で競っていた時期に[14]、出光の営業は大陸の側へ偏っていた。海外の店舗網は満州から華北・華中へと広がり、終戦時の店舗総数は80カ所以上、北満・太原・漢口・広東など東亜の全域に及んでいる。国内の精製設備を持たない販売専業のまま、営業の基盤を外地に置いた構えである。 [15]
- [12]1939年(昭和14年)上海近郊に約10万キロリットル余の大油槽所を建設
- [13]1939年12月 現地営業財産を分割し上海に中華出光興産・新京に満州出光興産を設立
- [15]終戦時の店舗総数80カ所以上 北満・太原・漢口・広東など東亜全域
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [14]創業から終戦まで中国大陸等の海外へ進出し続けた
1940年3月30日、出光商会の朝鮮・台湾・関東州および内地の営業財産を継承し[16]、資本金400万円で出光興産株式会社を設立した。本社は東京に置き、出光佐三氏が社長に就いている。個人商店を経営の理想としてきた佐三氏にとって法人への組織変更は本意ではなく、軍の命令によるものだった[18]。株式は同族と関係会社で固め、会社の形をとった後も外部資本を入れない構えは変えていない。この資本構成が、戦後に外部資本を受け入れるまでの六十年間ほぼそのまま保たれる。 [17][19]
- [16]1940年3月30日 東京に出光興産株式会社を設立(1947年11月に出光商会と合併)
- [17]設立時の資本金400万円 本社を東京に設置 出光佐三が社長就任
- [18]1940年の法人化は軍の命令による組織変更
- 週刊東洋経済 2000年6月3日号
- [19]株式を同族と関係会社で固め外部資本を受け入れない資本構成を維持(外部資本受け入れは2000年が初)
- [12]1939年(昭和14年)上海近郊に約10万キロリットル余の大油槽所を建設
- [13]1939年12月 現地営業財産を分割し上海に中華出光興産・新京に満州出光興産を設立
- [15]終戦時の店舗総数80カ所以上 北満・太原・漢口・広東など東亜全域
- [16]1940年3月30日 東京に出光興産株式会社を設立(1947年11月に出光商会と合併)
- [17]設立時の資本金400万円 本社を東京に設置 出光佐三が社長就任
- 出光興産 有価証券報告書【沿革】
- [14]創業から終戦まで中国大陸等の海外へ進出し続けた
- [18]1940年の法人化は軍の命令による組織変更
- 週刊東洋経済 2000年6月3日号
- [19]株式を同族と関係会社で固め外部資本を受け入れない資本構成を維持(外部資本受け入れは2000年が初)