創業地福岡県門司市
創業年1900
上場年2006
創業者出光佐三

独立系・個人創業商法・モデル革新で差別化1911年6月、出光佐三が福岡県門司で出光商会を興し、機械油の販売から事業を始めた。問屋を通さず漁船や満鉄へ直接納め、価格の差は運賃と税のほかにないという見方で世界市場と末端を結んだ。卸の取り分を抜いた分だけ安く供給できることが満州・朝鮮・華北への販路を広げ、石油を自前で調達して国内へ流すまでを、創業期から自社の手で担った。

垂直統合既存路線の固持・不転換出光の事業構造を決めたのは、原油を国際メジャーにも政府の統制にも頼らず自前で完結させるという一点である。1953年の日章丸事件でイランから原油を直接輸入し、1957年の徳山製油所で調達から精製までを一本につないだ。業界の生産調整に反対して1963年に石油連盟を脱退し、タンカーと石油化学まで自社に抱えた。調達から直営販売まで民間資本で閉じた垂直統合が、系列外の流入も値崩れも寄せつけない供給力を生んだ。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1953年に国際紛争のさなかイランから原油を直接輸入したのか
A 国際メジャーを通さず原油を自前で調達できれば、産地と末端を運賃と税の差だけで結べると出光佐三が見たためである。1953年5月、英国とイランの石油国有化紛争のさなか、出光は自社タンカー日章丸二世をイランへ派遣し、メジャーの圧力を押し切って原油を直接輸入した。出光佐三は「石油は世界的商品だから常にその水準相場がある。これに差をつけるのは、運賃と税金だ」と記し、世界市場と直結する合理性を主張した。事件は外交問題に発展し、民族系最大手という立場を業界に印象づけた。
Q なぜ1963年に業界協調を拒んで石油連盟を脱退したのか
A 安価な原油を無制限に国内産業へ流すことを優先し、生産調整は供給を絞って高値を支える発想だと出光佐三が退けたためである。1962年に業界が自主生産調整へ動くと出光は反対に回り、協議は決裂、1963年11月に石油連盟を脱退して1966年10月の調整撤廃まで単独路線を続けた。同社はベイルートやテヘランなど中東各地に事務所を開き、メジャーを経由しないDD契約で原油を確保し、内航やサービスステーション運営会社も自前で設けた。系列外の流入も値崩れも寄せつけない供給力がここで固まった。
Q なぜ2016年に創業家の反対を押してまで昭和シェル石油の統合に動いたのか
A 国内石油需要の縮小と原油急落で独力の現状維持が難しくなり、規模を持つ統合でなければ精製能力の過剰を解けないと木藤俊一体制が判断したためである。2015年3月期に営業赤字1,048億円・純損失1,380億円へ転落したのを受け、2016年12月に昭和シェル石油の議決権31.3%を取得した。創業家はサウジアラムコ資本の受け入れが独立の理念に反すると反対したが、2017年7月の公募増資で創業家の持株比率を3分の1未満へ薄め、2019年4月の株式交換で統合を完了した。国内元売は4社から実質2社体制へ移った。

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1911年〜1984年 機械油行商から日章丸・石連脱退へ至る民族系独立路線の確立

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

機械油の行商から日章丸事件に至る民族系独立の原点

1911年6月、出光佐三が福岡県門司市(現・北九州市門司区)で出光商会を興し、機械油販売から事業を始めた[1]。創業前後、知人からは「これからだんだんと電気が発達してきて油を使わなくなる」(私の履歴書・出光佐三 1956/7)[2]と事業の将来性を疑問視された。漁船燃料や満鉄向け機械油納入を足掛かりに満州・朝鮮・台湾・華北へ販路を広げた。1932年時点で各種油類の年間売上高は1000万円を超え[3]、国産石油の担い手として戦前から一定の地位を得たと石油時報は伝えている(石油時報 1932/9)。1940年3月に東京で出光興産株式会社を設立(1947年11月に出光商会と合併)した[4]が、1945年8月の敗戦で海外財産と国内事業基盤の大半を失う。引き揚げ者を含む従業員を1人も解雇せず[5]、ラジオ修理・印刷・農業・水産・発酵と雑多な事業で食いつないだ。1947年10月の石油配給公団発足とともに石油業界に復帰し[6]、1949年4月に元売業者に指定された[7]

復帰後の出光が国際メジャーに対抗する姿勢を決定づけたのが、1953年5月の日章丸事件である[8]。英国とイランのアングロ・イラニアン石油国有化紛争のさなか、出光は自社タンカー日章丸二世をイランへ派遣し、国際メジャーの圧力を押し切って原油を直接輸入した[9]。出光佐三は当時「石油は世界的商品だから常にその水準相場がある。だから、どこから買ってもその価格は大体同じである。これに差をつけるのは、運賃と税金(関税、消費税など)だ」(国内石油の現状を我社 1953/7)[10]と記し、世界市場との直結によるコスト削減の合理性を主張した。事件は国際的な外交問題にまで発展し、出光佐三の「人が中心の経営」理念と独立路線を広く知らしめた。産油国と直接取引する独立系の姿勢を業界史に示した事件として、民族系最大手というブランドの原点となった。

徳山製油所一貫体制と石油連盟脱退の単独路線

1957年3月、旧海軍第三燃料廠跡地の払い下げを受けた徳山製油所が第一期工事を完成させた[11]。元売から精製まで一貫体制を持つことは、輸入精製主義の下で国際カルテルと政府の統制が交錯する市場で独自の原油調達余地を確保する手段だった。1959年11月にソ連原油を初輸入、1973年5月には中国大慶原油を導入し[12]、中東DD契約と合わせて調達先を多様化した。1963年1月に千葉製油所、1970年10月に兵庫製油所、1973年9月に北海道製油所、1975年10月に愛知製油所と、徳山に続く国内拠点が次々に竣工した[13]。1972年6月には沖縄石油精製にも45%出資して沖縄拠点を確保し[14]、1970年代には国内5拠点+沖縄の精製ネットワークが整う。輸入原油を国内で一貫処理する独立系の物流・精製体制を完成させ、民族系最大手としての供給力を数字で裏付ける足場ができた。

1962年に業界が自主生産調整に動いた際、出光は反対に回った。協議は決裂し、1963年11月に石油連盟を脱退、1966年10月の調整撤廃まで単独路線を続けた[15]。出光佐三は自由競争を貫く理由を「供給は無制限だし、価格は世界一安いということならば、これによって日本の産業は非常に勃興するでしょう。だから、この石油をいかにして日本が有効に使うかということが肝心だと思う」(実業の日本 1962)[16]と語り、安価な原油を国内産業の基盤に据える発想を示した。ベイルート・テヘラン・クウェートなど中東各地に事務所を開設し、国際メジャーを経由しないDD契約で原油を確保する体制を整えた。1961年10月にサービスステーション運営会社アポロサービス(現アポロリンク)を設立し[17]、1962年5月には内航部門として宗像海運を設立し[18]、国内物流の自前化も並行して行った。

石化・上流・タンカー ── 多角化の原型

独立路線を支えるために、出光は周辺領域へ事業を広げた。1962年8月に船舶部を分離して出光タンカー株式会社を設立[19]、同年には世界初のマンモスタンカー日章丸(三世)14万トンを就航させ[20]、1966年には20万トン超の出光丸を投入した[21]。調達の独立性と輸送の独立性は一対の戦略である。販売末端の自前化も徹底し、1978年時点で全国24ブロックに分けて問屋を通さず直営でガソリンスタンドを運営した。全国8100カ所のスタンドのうち1100カ所を自社所有とし、系列外からの製品流入や値崩れを排除する体制である(日経ビジネス 1978/2/13)[22]。1983年10月に出光エンジニアリング、1986年4月に出光クレジットを設立し、1992年10月には米国潤滑油製造工場Idemitsu Lubricants America Corporationも建設するなど[23]、民間資本で完結する垂直統合が整っていく。

1964年9月に石油化学部門を分離して出光石油化学株式会社を設立し、同年10月に徳山工場を竣工してエチレン製造拠点を整えた[24]。1971年1月に出光日本海石油開発を設け(1976年7月に出光石油開発に商号変更)、1976年9月に新潟阿賀沖で海洋油・ガス田の生産を開始し[25]、上流資源の自社開発にも踏み込んだ。1975年2月には出光石油化学の千葉工場も竣工し[26]、石化拠点を複数化した。1988年6月にはオーストラリアのエベネザ石炭鉱山の権益を取得して輸入を開始し、1989年6月にはマッセルブルック石炭鉱山を保有する豪州社の全株式も取得した[27]。下流の元売・精製から始まった事業が輸送・石化・上流・資源へと広がり、垂直統合の輪郭が整った。

1985年〜2013年 非上場のまま走る民族系巨艦と東証一部上場および業界再編の芽

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

優先株発行で凌いだ非上場時代の財務基盤

出光は長く非上場を貫いた。創業家の支配と「人が中心の経営」の理念が背景にあり、株式市場の規律より独立性を優先した結果である。だが1990年代後半から2000年代初頭にかけて、国内石油需要の頭打ちと過当競争で財務は圧迫された。2000年6月に優先株式2,900千株を発行して290億円を増資し、2001年3月末までにさらに880千株を追加発行して合計378億円を増資し[28]、非上場のまま資本基盤を補強した。2001年10月にはLPガス部門を分社化して出光ガスアンドライフを営業開始[29]、2002年4月には電子材料室(現電子材料部)を設置して有機EL分野へ進出し[30]、石油単一依存からの多角化も模索している。上場企業であれば公募増資で済む局面を優先株の引き受け手を探して凌いだ格好であり、独立性を守るための代償でもあった。

2003年4月には兵庫製油所の精製機能(8万B/D)を停止し、2004年3月に閉鎖した[31]。国内需要減少局面での精製能力削減としては業界に先立つ動きであり、1970年代に広げた5拠点体制の縮小が始まった。2003年10月にはクレディセゾンとの包括提携により出光クレジットを合弁会社化[33]、同年11月には沖縄石油精製の製油所機能(11万B/D)も停止し[32]、国内精製能力の圧縮と金融周辺事業の整理が並行で進んだ。同じ2004年8月、1964年に分離していた出光石油化学を出光興産を存続会社として吸収合併し[34]、石化をコア事業に再統合した。翌2005年4月には三井化学とポリオレフィン事業を統合して合弁会社プライムポリマーを設立し[35]、石化の業界再編に主体的に関与した。分離と再統合の往復は、石油と石化の収益構造が時代によって入れ替わったことを示している。

東証一部上場 ── 40年越しの市場入り

2005年10月に386億円減資して優先株式3,780千株を消却し、第三者割当増資により普通株式7,321千株を発行して512億円を増資、資本を組み替えた[36]。2006年4月には三菱商事グループとLPガス事業(出光ガスアンドライフ)を統合してアストモスエネルギーを設立し[37]、業界再編への主体的な関与はこの頃から輪郭を持ち始める。2006年10月、出光は東京証券取引所市場第一部に上場した[38]。同月にはノルウェー領北海フラム・イースト油田の生産も開始し、同年11月にはオーストラリアでボガブライ石炭鉱山も開山する[39]など、上場に合わせて上流事業の拡張が重なった時期である。2003年10月のノルウェー領北海フラム・ウェスト油田生産開始[40]から続いた北海油田投資の延長線上にあり、出光佐三の死去から40年、民族系最大手が株式市場に登場するまでに長い時間を要した。

上場後も経営体制は動いた。2008年6月に天坊昭彦から中野和久へ、2012年6月に月岡隆へと、創業家以外からの社長起用が続いた[41]。創業家が5代にわたって出光姓の社長を輩出した体制は、上場と前後して名実ともに非同族経営へ移行した。2009年以降はソーラーフロンティアのCIS太陽電池が昭和シェルとの統合で出光グループに入る非石油の柱となり[42]、2002年4月に設置した電子材料部の有機EL事業も高付加価値素材への多角化として育っていた。2010年にはベトナム南部沖合ナムロン・ドイモイ油田の生産を開始し、英領北海バーリー油田の生産も始まる[43]など海外上流案件の商業化も重なった。石油一本足から複数事業への広がりが、上場以降の収益構造の幅を支えた。

徳山製油所の精製機能停止と国内需要縮小の直撃

2014年3月、徳山製油所の原油処理機能(12万B/D)を停止し、2014年4月に徳山製油所と徳山工場を統合して徳山事業所を新設し、石化拠点へ転換した[44]。1957年3月の第一期工事完成以来、出光の一貫体制の原点だった徳山の精製能力をゼロにする決断である。国内ガソリン需要は乗用車の燃費改善と保有台数減少で縮小を続け、軽油も物流効率化で頭打ちだった。製油所1基の停止は単独の合理化ではなく、業界全体の構造問題の現れである。2013年3月にはノルウェー領北海ビグディス・ノースイースト油田の生産も始まり、2014年9月に同国Hノルド油田、2015年3月にクナル油田も生産を開始する[45]など、国内精製能力の圧縮と海外上流の積み増しが並行して進む構図がはっきりと現れた。

2015年3月期、2014年後半からの原油価格急落が在庫評価損となって直撃し、営業赤字1,048億円・純損失1,380億円を計上した。FY13の連結売上高5兆349億円がFY14は4兆6,297億円へ縮んだうえでの赤字である。同じ時期に業界の各社も赤字に沈み、需要の減少・在庫の評価損・設備の過剰という三重苦が表面化した。独立路線で走ってきた民族系最大手に、独力での現状維持はもはや選択肢ではないと経営判断を迫る節目となる。翌FY15も営業赤字196億円・純損失360億円と連続赤字が続き、業界再編の議論が現実的な選択肢となった。1911年の創業以来守ってきた独立路線そのものの転換が経営アジェンダとして前面に出る段階に入り、財務健全化と統合相手の選定は、月岡体制から木藤体制への引き継ぎ事項として持ち越された[46]

解説
  • 有利子負債残高はFY13に1兆819億円でピークを付け、FY18には9,514億円へ圧縮、支払利息もFY2005の190億円からFY2018の86億円へ半減以下まで縮小した。
  • 精製能力削減と海外上流投資が並行する局面で、金利低下も追い風に金融コストを落としつつ統合に耐える財務体力を整える動きが数字に表れている。

2014年〜2023年 昭和シェル統合による4社2社化と脱炭素下の収益構造組み替え

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

昭和シェル31.3%取得 ── 創業家との対立を越えて

2016年12月、出光はロイヤル・ダッチ・シェル ピーエルシーの子会社から昭和シェル石油株式会社の議決権比率31.3%を取得した[47]。1985年の昭和石油とシェル石油の合併で生まれた外資系メジャーの日本拠点を[48]、民族系最大手が囲い込む構図である。しかし創業家はこの統合に強く反対した。理念の対立は上場企業の議決をめぐる異例の長期抗争となり、統合プロセスは一度立ち往生する。2017年6月に月岡隆から木藤俊一へ社長が交代して統合を主導する体制に組み替え[49]、同年7月に公募増資で普通株式48,000千株を発行して1,195億円を調達し[50]、統合に耐える財務基盤を整えた。同年10月には千葉製油所と千葉工場を統合して千葉事業所を新設し[51]、徳山事業所に続く製油所・石化の一体運営モデルを広げた。

2018年10月に昭和シェル石油との株式交換契約を締結し、同年12月の臨時株主総会で承認を得たうえで[52]、2019年4月に出光を株式交換完全親会社、昭和シェル石油を株式交換完全子会社とする株式交換を実施した[53]。同年7月に出光を吸収分割承継会社、昭和シェル石油を吸収分割会社とする吸収分割で昭和シェル石油の全事業を承継し、2020年4月には従業員との雇用契約に関する権利義務も承継した[54]。国内石油元売は4社体制から実質2社体制へ移り、出光は国内シェア約3割の最大手連合の一角を占める。1911年の創業以来の独立にこだわった会社が業界再編の主導者へ転じた瞬間であり、2019年10月時点で国内精製業界全体には稼働調整と拠点統合の動きが広がり、再編の波は他社にも連鎖した。

出光興産と昭和シェル石油の経営統合(2019年) 民族系元売最大手の出光と旧シェル系の昭和シェルが2019年に合流し、国内石油元売は2社体制へ
1900/1911 1940/1942 1947/1948 1985 2019 2026 出光商会 1911年創業 出光興産 1940年法人設立 出光興産 1947年商会と合併 ライジングサン石油 1900年設立 シェル石油 1948年改称 昭和石油 1942年3社合併設立 昭和シェル石油 1985年両社対等合併 出光興産が昭和シェル株31.3%取得(Shell グループより) 昭和シェル石油 2019年株式交換→吸収分割
出光興産と昭和シェル石油の経営統合(2019年) 民族系元売最大手の出光と旧シェル系の昭和シェルが2019年に合流し、国内石油元売は2社体制へ
1900/1911 1940/1942 1947/1948 1985 2019 2026 出光商会 1911年創業 出光興産 1940年法人設立 出光興産 1947年商会と合併 ライジングサン石油 1900年設立 シェル石油 1948年改称 昭和石油 1942年3社合併設立 昭和シェル石油 1985年両社対等合併 出光興産が昭和シェル株31.3%取得(Shell グループより) 昭和シェル石油 2019年株式交換→吸収分割

コロナ禍・統合コスト・海外製油所

2018年11月、ベトナムのニソン製油所(NSRP)が商業運転を開始した[55]。出光の海外製油所投資が実を結ぶ形だったが、稼働初期のマージン環境と金利負担は収益を圧迫し、後年まで貸倒引当金の計上理由として残る。国内で昭シェル統合の実務を進めながら、海外の拠点が資本コストを膨らませるという二重の課題が重なった時期である。2020年7月に出光エンジニアリングと昭石エンジニアリングが合併[56]、2020年10月にはアポロリテイリングとライジングサンが合併してアポロリンクへ商号変更[57]、2021年10月にはリーフエナジーとエスアイエナジーが合併して出光エナジーソリューションズへ商号変更[58]と、旧昭シェル系列のグループ会社統合が順に進んだ。統合後のシナジー抽出と海外投資の回収を並行して進める運営が経営に求められた。

2020年3月期はコロナ禍と原油急落が重なって営業赤字39億円・純損失229億円を計上した。販売数量の急減と在庫評価損が再び直撃した格好である。2022年4月に東証プライム市場へ移行し[59]、2022年12月には西部石油と東亜石油の全株式を取得して旧昭シェル系列の完全子会社化を完了した[60]。2024年3月には西部石油山口製油所の原油処理機能(12万B/D)を停止し、同時に住友化学から富士石油株の議決権比率6.46%を取得[61]、同年8月にはJERAからも富士石油株の議決権比率8.75%を取得して京葉地区の供給体制を再編した[62]。2021年8月にはノルウェー領北海ドゥーヴァ油ガス田の生産も始まり[63]、徳山・山口と製油所の精製機能を順に落とす一方で海外上流の積み増しが続き、国内需要縮小と業界再編の最終段階の姿がなった。

決算数値が示す昭和シェル統合後の収益力回復

統合の効果は数字に現れた。FY21(2022年3月期)の連結売上高は6兆6,867億円、営業利益4,344億円、当期純利益2,794億円と増益に転じた。原油価格上昇期の在庫影響と燃料油タイムラグ収益、統合後の国内マージン改善が重なった結果である。FY22は売上高9兆4,562億円で規模の拡大が続き、FY23も営業+持分利益3,630億円(在庫影響除き3,106億円)、当期純利益2,285億円と水準を維持した[64]。ROE11.3%、自己資本比率35.9%、Net D/E 0.67と財務指標も改善し[65]、2016年の昭和シェル株取得決定から約5年越しに、統合プロセスの難航期を抜けて収益性の高い2社体制の片翼としての立ち位置が数値で確認される段階に達した。数値で裏付けられた時点から、石油精製からカーボンニュートラル投資への資本配分の組み替えが次の経営の主題となった。

一方で課題も残った。ベトナムNSRPの貸倒引当金が411億円計上され[66]、1994年10月に開山したオーストラリアのエンシャム石炭鉱山の譲渡やマッセルブルック終掘[67]など、旧昭シェル由来を含む資源ポートフォリオの圧縮が並行して進んだ。資源セグメントの目標ROICは17.2%から14%へ引き下げられ、リチウム・バナジウムなどへの転換が明示された。FY23までに高機能材セグメントではエルモーデュ・アクリル酸・BPAなど不採算の機能化学品事業からの撤退を決め、同セグメントのROIC目標は4.5%から10%へ引き上げた。統合で手に入れた規模を石油需要縮小と脱炭素への備えに再配分する作業は本格化する。資源ポートフォリオの圧縮と機能化学品の選別を同時に進め、FY23以降の収益体質を次期中計に向けて組み直す段階に入った。

出典

石油時報(1932年9月)
国内石油の現状を我社(1953年7月)
日経新聞連載(私の履歴書・出光佐三)(1956年7月)
私の履歴書・出光佐三 1956年07月
実業の日本(1962年)
実業の日本 1962 1962年
日経ビジネス(1978年2月13日) 日経BP
日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
日本会社史総覧 東洋経済新報社 1995年11月01日
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