出光商会を創業。石油販売ビジネスを開始
1911年に出光佐三氏(神戸高尚=神戸大出身・当時25歳)は「将来は石炭ではなく石油の時代が来る」と判断し、九州の港町である門司にて「出光商会」を創業した。
【起業した理由】
独立した1つ目の理由は、出光氏の実家が連帯保証によって破産状態にあったためである。そこで、資金を稼ぐために当時勤務していた酒井商会をやめて独立を選択した。なお、創業資金は、淡路島出身の資産家であった日田重太郎氏が、ほぼ全財産を出光佐三に無条件で託す(返済や業績報告は不要)ことで捻出しており、日田氏が出光興産創業における恩人とされる。
2つ目の理由は、石油ビジネスが将来有望であると判断したことにあった、九州地区では石炭産業が発展しつつあったが、出光佐三は熱効率の観点から「石油が有利である」と判断し、石油ビジネスの展開を決めた。
【石油販売のターゲット顧客】
当時の日本ではガソリンを大量消費する自動車は全く発展しておらず、石油の需要は「船舶向け燃料」や「機械油」に限られていた。このため、出光商会は創業期において「漁船向け燃料販売」と「機械向け潤滑油販売」の2つに的を絞ってビジネスを展開した。
創業地を九州の門司に設置した理由も、出光佐三の故郷が福岡県赤間であったことと、工業が発達した九州であれば機械油の需要があると判断したためであった。当時、九州では石炭産業や鉄鋼産業が発展しつつあり、機械油の需要の増加が予想された。
【仕入れにおける特色】
仕入れの面では、高額であった欧米系の石油メジャーから購入するのではなく、日本石油から仕入れる形をとった。以後、出光佐三は「欧米メジャーは高値で石油を売りつけている」として、適正価格での販売を出光興産の事業目的とした。
このため、日本国内の取引を重視する「民族系」であることが出光興産の特色となり、事業の目的を「欧米メジャーの寡占を打破することで石油価格を引き下る」ことに据えた。
満洲鉄道向けに車軸油の供給を開始
1919年に出光興産は、中国大陸の満洲鉄道向けに「車軸油」の供給に成功した。当時、満洲鉄道向けの機械油は欧米系の石油メジャーが販売を担っていたが、冬季に油が凍結して事故が多発する問題を抱えていた。そこで、出光興産は機械油の調合を変更することによって、冬季でも凍結しない油の開発に成功し、満洲鉄道への車軸油の販売に成功した。
満洲鉄道という大口顧客を開拓したことによって、出光興産は中国大陸における販路を拡大していった。海外を目指した理由、日本国内は日本石油が各地に販売店を設置していたためである。出光興産が未開拓だった中国大陸に進出することは、仕入先である日本石油からすれば「国内で限られた需要を取り合うことなく販売を拡大できる」メリットがあった。
1919年以降、出光興産は日本国内ではなく、中国大陸における販売網・石油備蓄設備に投資をした。この結果、戦前の1930年代までに出光興産は「中国大陸での進出で業容を拡大した会社」となった。
なお、1925年に出光佐三の実弟である出光計介氏が東京高商(現・一橋大学)を卒業して満洲鉄道に入社している。