赤字のグールドは本体に残り、非鉄金属だけが外へ出た。この配り方が、その後の6年を分けた。日鉱金属は発足の翌年度に26億円の経常赤字を計上したが、抱えていたのは自社の製錬と加工の採算だけであった。佐賀関の自溶炉を2炉から1炉へ落とし、従業員を2,261名から1,748名へ減らす手を、石油側の都合と切り離して打てている。専門に特化すれば効率が上がるという言い方の内側にあったのは、痛みを別々の帳簿で引き受ける仕組みである。
日鉱金属の手に渡ったのは、自前の鉱山がほとんどない製錬と加工の事業だった。投資鉱山から調達する比率は、1998年になっても30%にとどまった。分離によって非鉄の弱さが消えたわけではない。日本産業史が日鉱共石の誕生を新たな再編成の種とみなした理由も、この機動性が裏を返せば小ささでもあった点にある。親は900億円の損失を抱え、子は非鉄で首位に立ちながら、資本の上では親子のまま並んでいる。1992年の分離は、この関係までは解きほぐしていない。