ジャパンエナジー金属3部門の分離による日鉱金属の設立と、東証一部への子会社上場
石油と金属を一つの資本で抱え続けるか、割るか——赤字のグールドを本体に残した分離
- 概要
- 1992年5月、日本鉱業が金属資源開発・金属製錬・金属加工の3部門を分離独立させて日鉱金属を設立し、同年11月に3部門を譲渡して新会社が営業を始めた経営判断。日鉱金属は1998年8月に株式を公開し、東京証券取引所第一部へ上場した。
- 背景
- 1985年9月のプラザ合意に続く円高で、ロンドン金属取引所の外貨建て相場に連動する非鉄の採算が悪化した。1986年には国内16鉱山が閉山し、日本鉱業系でも花輪・藤ケ谷が消える。1988年11月に10億5,000万ドルで買った米グールドは、赤字が続いていた。
- 内容
- 非鉄金属の3部門を全額出資の新会社へ移し、赤字のグールドは本体側に残した。本体は1992年12月に共同石油を合併して日鉱共石となり、金属側は鉱山をほとんど持たない製錬加工業として、非鉄専業で単独に立った。
- 含意
- 日鉱金属は1993年度に26億円の経常赤字を出したのち第一次構造改革に入り、1997年度には非鉄大手で経常利益・配当とも首位に立つ。1998年度に経常赤字70億円を見込んだ親会社との間で、収益力の順位が6年で入れ替わった。
別々の帳簿で引き受けたもの
赤字のグールドは本体に残り、非鉄金属だけが外へ出た。この配り方が、その後の6年を分けた。日鉱金属は発足の翌年度に26億円の経常赤字を出したが、抱えていたのは自社の製錬と加工の採算だけであった。佐賀関の自溶炉を2炉から1炉へ落とし、従業員を2,261名から1,748名へ減らす手を、石油側の都合と切り離して打てている。専門に特化すれば効率が上がるという言い方の内側にあったのは、痛みを別々の帳簿で引き受ける仕組みである。
分離が非鉄の弱さを消したわけではない。日鉱金属が引き継いだのは鉱山をほとんど持たない製錬加工業であり、投資鉱山からの調達比率は1998年の時点でなお30%にとどまっていた。日本産業史が日鉱共石の誕生を新たな再編成の種と見たのは、この身軽さが同時に小ささでもあったからである。900億円の損失を負った親と、非鉄で首位に立った子が、資本の上では親子のまま並ぶ——1992年の分離は、そこまでは解いていない。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
円高が消した国内鉱山
1985年9月のプラザ合意に続く円高は、非鉄金属の採算をそのまま削った。銅・鉛・亜鉛の相場はロンドン金属取引所の外貨建てで決まり、国内価格はそれを円換算して決める。円高になれば地金価格が下がり、鉱石を売る国内鉱山は収入を減らし、製錬所も収入となる製錬費が目減りする。1986年に閉じた国内鉱山は16に上り、約4,000人の合理化を伴った。日本鉱業系では花輪と藤ケ谷が、翌1987年には秋田県の釈迦内が閉山している[1][2]。
稼働中の金属鉱山は、1985年4月の59から1988年4月には29へ半分以下に減った。鉱山を失った各社に残ったのは、買った鉱石を製錬して売る工程である。日本産業史は、日本の非鉄金属会社が鉱山をほとんど持たない製錬加工業に偏った業態であり、企業規模の点でも世界の同業と渡り合うには力が足りないと書いている。石油と非鉄を併営していた日本鉱業も、非鉄の側では同じ条件のもとにあった[3][4]。
グールド買収という誤算
国内で鉱山を閉じる一方、日本鉱業は海外で買収に出た。1988年11月、米国の銅箔メーカーであるグールドを10億5,000万ドルで取得する。銅箔はプリント基板に貼る素材で、コンピューター産業に欠かせない。グールドを傘下に収めれば世界シェアの約40%を握り、三極生産体制が整う。市況で値の動く非鉄金属や石油と違う電子材料を厚くすれば業績が安定するという読みもあり、先方の売り込みから3か月で契約した[5][6]。
グールドを買った判断そのものは、当時の非鉄各社が置かれた条件から見れば筋が通っている。市況商品でない分野を持たなければ、業績は為替と相場に振られ続ける。誤算はグールドの中身にあった。内容は極端に悪く、赤字が続いて日本鉱業はその処理に苦しむ。大気汚染対策の認可を得られず米国での銅製錬所建設を1992年3月に断念した三菱金属の例と並べると、バブル期に手がけた海外事業の危うさが見て取れる[7][8]。
決断
金属3部門を切り出す
1992年5月、日本鉱業は金属資源開発・金属製錬・金属加工の3部門を分離独立させ、日鉱金属を設立した。新会社が営業を始めたのは同年11月で、3部門はこの時点で譲渡された。日鉱金属がのちに繰り返し語る「分離後5年9か月での上場」は、この11月から数えている。発足時の従業員は2,200人を超え、大分県の佐賀関製錬所と神奈川県の倉見工場が主力であった[9][10][11]。
日本鉱業は戦前から石油を非鉄と併せて二本柱に置いてきた会社である。1929年に日本産業の鉱山・製錬部門が分離独立して発足した会社が、63年後に自らの金属部門を切り出した。分離の翌月にあたる1992年12月、本体は共同石油を合併して日鉱共石となり、石油の精製と販売が一体になった会社として再出発する。非鉄金属は、その本体の外に置かれた[12][13]。
赤字のグールドを本体に残す
分離にあたって、赤字を出し続けていたグールドは本体側に残された。日本産業史は、グールドについては日鉱共石が引き継ぎ、非鉄金属部門を身軽な形にして独立させたと記している。処理が表に出たのは1年後で、1993年9月、日鉱共石はグールドを翌1994年3月までに解散し、事業を全額出資の新会社へ移すと発表した。損失額は900億円に上り、新会社への出資も300億円程度を見込んでいた[14][15]。
切り出された側にも代償があった。石油精製部門がそのまま合併会社へ移ったぶん、日鉱金属の企業規模は日本鉱業時代より小さくなる。日本産業史は、非鉄金属の側から見れば日鉱共石の誕生が新たな再編成の種を残したとみている。日鉱金属は日本鉱業の全額出資で発足しており、株式は親の手のなかにあった。分離は資本を手放すことではなく、勘定を分けることから始まった[16][17]。
結果
独立直後の赤字と第一次構造改革
円高と非鉄市況の下落に直撃され、日鉱金属は1993年度に26億円の経常赤字へ転落する。非鉄専業となった以上、本業の競争力を高めるほかに道はない。1994年度から第一次構造改革計画に入り、主力の佐賀関製錬所を自溶炉2炉から1炉へ集約した。酸素をさらに富化し、従来3本だったバーナーを高性能の1本にまとめて処理速度を倍にしたことで、製錬コストは40%下がっている[18][19]。
金属加工では、神奈川県の倉見工場を高付加価値の製品へ寄せた。伸銅品では首位を持つりん青銅を伸ばし、フレキシブルプリント基板などに使われてシェア8割を握る圧延銅箔に特化する。人員も削り、1994年3月に2,261名いた従業員は1998年3月には1,748名まで23%減った。その間に売上を26%増やし、従業員1人当たり売上高は1993年度の9,500万円から1997年度の1億6,300万円へ7割以上伸びている[20][21]。
6年で入れ替わった親と子
1998年3月期の日鉱金属は、売上高2,428億円・経常利益177億円を計上した。この経常利益は三菱マテリアルの162億円、住友金属鉱山の159億円を上回り、非鉄業界の首位に立つ。売上規模は親会社の6分の1にとどまるが、経常利益では1996年3月期から親を上回り、ジャパンエナジーの連結経常利益の66%を占めた。原料面では投資鉱山からの調達比率がなお30%にとどまり、2000年初頭に65%へ高める計画を掲げていた[22][23]。
1998年8月4日、日鉱金属は株式を公開し、東京証券取引所第一部へ上場した。営業開始から5年9か月であった。ジャパンエナジーは1997年度に4,286万株、公開に伴って2,500万株を売り、合計315億円の特別利益を得ている。同じ1998年度、ジャパンエナジー本体は経常赤字70億円の見通しとなり、3年間で800名の合理化を予定していた。坂本卓社長は両社を兄弟会社と呼び、経営には干渉しないと述べている[24][25]。
- 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社, 1994年)「非鉄金属鉱業-国際化に向けて再編成へ」
- 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社, 1994年)「非鉄金属鉱業-存亡をかけた加工業への転換」
- 週刊東洋経済 1998年10月31日号「「ヤマ日鉱」が蘇る日 設立5年9カ月で上場実現した日鉱金属」
- 週刊東洋経済 1998年6月27日号「日鉱金属 98年度東証上場に照準」
- 週刊東洋経済 1998年8月29日号「ザ・トーク 日鉱金属・坂本卓社長」
- 新日鉱ホールディングス 有価証券報告書【沿革】