沖電気工業DRAM量産からの撤退と、半導体事業そのものの売却
投資体力で劣る後発が最先端メモリを持ち続けるか、半世紀続けた事業を手放すか
- 概要
- 1998年10月、社長に就いたばかりの篠塚勝正氏が経営再建計画「フェニックス21計画」でDRAM量産からの撤退を決め、10年後の2008年10月には半導体事業そのものをローム(株)へ譲渡した。1961年のトランジスタ生産開始から半世紀弱で、沖電気工業は半導体から手を引いた。
- 背景
- 1978年に本格参入した半導体は、DRAMの需給変動で収益が大きく振れる事業となっていた。1988年3月期からの10年の累計設備投資は3440億円で、同期間の半導体売上高1兆5652億円に対する倍率は4.6倍と、NECの7.5倍に見劣りした。
- 内容
- 64メガビットで量産を止め、128メガ以降は量産しない。半導体の設備投資額は1997年度の334億円から1999年度100億円へ圧縮し、米オレゴン工場の閉鎖などと合わせて年間総コストを300億円削減する。人員は2001年3月期までに計2700人を減らす計画であった。
- 含意
- 撤退でいったん営業損益は黒字化したが、旧世代DRAMの残存者利益はITバブル崩壊で消え、2002年には設計開発と生産の分離へ進んだ。最終的に事業ごと手放し、2009年3月期は半導体分の減収841億円を含めて450億円の当期純損失を計上した。
勝てない事業を、どこまで抱えるか
この判断の中心にあるのは、勝てないと分かった事業をどの速さで手放すかという問いである。篠塚勝正氏は1997年7月の時点でDRAMに勝ち目がないという結論に達し、翌年の再建計画で量産投資を断った。判断そのものは早い。ただし工場も従業員も残し、現行製品は作り続けるという中途の形を選んだため、事業が完全に切り離されるまでにはさらに10年を要した。雇用と生産設備を抱えた会社が、市況の谷で決めた撤退を谷のうちに完了させることの難しさが、この10年に表れているとみることができる。
手放した後の姿も、単純な成功とは言いがたい。半導体を切った2009年3月期は世界同時不況と重なって450億円の損失を計上し、売上高は7000億円台から5000億円台へ落ちた。それでも、需給で数百億円が振れる事業を持たなくなったことは、その後にATMやEMSを軸へ据え直す前提になった。1969年に山本正明氏が公共色の濃い機種ゆえの低収益を語り、1998年に篠塚氏が投資体力の差を語った——沖電気工業の歴史では、身の丈をどう測るかという問いが繰り返し現れている。半導体からの撤退は、その問いにもっとも高い授業料を払った回答であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
後発参入と、守られなかった3つの条件
沖電気が半導体事業へ本格的に参入したのは1978年である。電電公社出身の三宅正男社長は、半導体をやらなければ沖電気は自動車でいうただのボデーメーカーになってしまうという危機感を持っていた。もっとも日本電気や東芝、日立製作所といった先発組がすでに走っており、後発がどう戦うかの検討には外部の助言も入った。マッキンゼー・アンド・カンパニーにいた大前研一氏が示した結論は3つの方針である。バイポーラではなくCMOSに重点を置く、汎用品は作らずカスタム専業でいく、ディーラー販売は行わず直販で売る。当初はこれを守り、デジタル腕時計や電卓、オートフォーカスカメラ用のカスタム半導体で大きなシェアを握った[1][2]。
方針は長く続かなかった。米国の一流企業と取引したい技術者の思いからメモリ進出を求める声が強まり、三宅社長は独創技術であることを条件に認める。そこで生まれたのがプラスチック実装のDRAMで、従来のセラミック実装に比べて製造コストは10分の1になった。1981年、64キロビットDRAMで沖電気はメモリの世界へ入る。ところがこの実装方式はすぐに大手も採用し、独創技術としてのハードルは低すぎた。以後、需給の振れがそのまま収益に跳ね返るDRAMに引きずられる事業構成が定着する。1997年3月期には16メガビットの価格急落で、半導体売上2141億円のうち約5割を占めたDRAMが数百億円の赤字を出し、全社の経常利益は前期比8割近い減益となった[3][4]。
投資効率の差と、繰り返された再建計画
規模の差は投資効率の差として現れた。1988年3月期から1997年3月期までの10年間で、沖電気の半導体への累計設備投資額は3440億円、この間の半導体売上合計は1兆5652億円で、倍率は4.6倍にとどまる。最大手の日本電気は投資額1兆0800億円に対して生産額合計8兆0600億円、7.5倍であった。同じ設備を回しても回収の効率が違えば、市況が戻っても損益は積み上がらない。1997年に社長を務めていた澤村紫光氏は、ミニNEC・ミニ富士通の考え方から抜け出し、百貨店から専門店になると述べ、事業領域を絞る方向を掲げた。半導体は全社を支える立場へ移し、外販偏重をやめて社内向け供給を最優先にする組織へ組み替えている[5][6]。
計画そのものは何度も作られていた。1992年度に連結で329億円の最終赤字を計上して以来、故・神宮司順社長、続く澤村紫光社長が「経営再建計画」「経営再建計画パート2」と切れ目なく再建を進めている。にもかかわらず1998年度には過去最大となる430億円の赤字へ転落した。悪循環の芯にあったのは、シリコンサイクルで収益が大幅に上下するDRAMである。1992年度の大赤字を受けて計画を定めたのに、1994・95年度は同じDRAMが稼ぎ頭となり経常益段階で連続最高益を更新した。このままでも意外と利益は出るではないかという油断が再建の遂行に水を差し、直後にDRAMが採算割れして再び巨額赤字へ落ちた[7][8]。
決断
1998年10月、フェニックス21計画
1998年6月に社長へ就いた篠塚勝正氏は、「緊急施策」と2000年度の復配を目指す経営再建計画「フェニックス21計画」を10月に公表した。DRAMは64メガビットで量産を止め、128メガ、256メガ以降は量産しない。量産ラインへの投資が消えることで、半導体の設備投資額は1997年度の334億円に対し1998年度124億円、1999年度100億円へ圧縮される。米オレゴン工場の閉鎖など生産体制の合理化と合わせ、半導体事業の年間総コストを300億円削減する計画であった。篠塚氏は投資体力の差を言葉にしている。年間800億〜1000億円の設備投資ができれば続けるが、沖には300億〜400億円の力しかない、これでは勝てない、と[9][10]。
決断の期限は前年に切られていた。篠塚氏は1997年7月初頭に半導体事業の担当となり、7月10日にはDRAMに投資を続けても沖は勝つことができないという結論に達したと語っている。世界のメモリはすでに設計技術や製造ノウハウではなく、製造装置を買う資金力が最も重要な事業へ変わっていた。財務の余裕も残っていない。グループの有利子負債は4300億円に膨らみ、1998年9月22日には日本格付投資情報センターが長期債の格付けをAマイナスからトリプルBへ引き下げている。人員も2001年3月期までに本体1万0500人のうち1500人、国内グループ会社1万3500人のうち1200人の計2700人を削減する計画に踏み込み、役員報酬の10%カットや賞与抑制も積み上げた[11][12]。
工場は残し、設計と生産を切り離す
撤退の設計には、当時の沖電気なりの手加減があった。半導体生産子会社である宮城沖電気や宮崎沖電気の売却は一切考えず、強化するロジックやシステムLSIのラインへ転用する方針を採っている。DRAMの生産自体も止めていない。メモリ事業は半導体事業の中で1996年度に47%、1997年度に44%を占める主力であり、設備と従業員を抱えたままでは作らないほうが損になる。新規の量産ライン投資を断ち、現行製品は作り続けるという中途の形であった。日鉄セミコンダクターを台湾のUMCへ売却して半導体から足を洗った新日本製鐵と比べれば、決着は緩やかである[13][14]。
続く一手は2002年10月の第三次構造改革であった。篠塚氏は先端DRAMの次の注力事業にシステムLSIを掲げたが、育てるには大規模投資が要る。そこで不可分が常識だった設計開発と生産の関係を断ち切り、台湾の受託生産大手UMCとの提携によって設計開発部隊が他社の最新設備も使えるファブフリーの体制を採った。投資しなくても世界水準の生産能力を持てるようになるという説明である。工場は工場で沖電気本体に頼らず自ら営業を行う。同じ改革でNTT向けの既存電話網に充てていた900人の人員を190人まで削り、IP技術で通信ソリューションを提供する部門へ650人を配分した[15][16]。
結果
黒字転換と、二度目の急落
第一次構造改革となった先端DRAM撤退の効果は早く出た。投資負担が消え、1998年度に382億円の赤字だった営業損益は1999年度に138億円の黒字へ転じ、2000年度はIT・通信バブルの追い風もあって283億円へ倍増している。16メガビットなど旧世代DRAMの生産を続けた判断も当たった。減価償却が進んでおり、割安な価格でも長期契約で顧客を囲い込めば利益が出たためで、ゲーム機向けなどで残存者利益を得た。ところが2001年度にITバブルが崩壊し、米国同時多発テロも重なる。先端DRAMの価格が急落して沖電気の旧世代メモリより安くなる異常事態となり、営業損益は272億円の赤字へ再び落ちた[17][18]。
その間、事業の入れ替えも進んだ。1999年には東芝から国内民間向けの金融自動化機器事業を譲り受け、篠塚氏はグループで細かいものも含め20ほどの事業の売却を考えており、拡散していた研究開発テーマも半分に絞ったと語っている。篠塚氏は東芝から譲り受けたATMを注力事業強化の第一弾に据えている。ただし本体の赤字は止まらず、2002年9月末の連結欠損は359億円に達する。1998年度期初に2万5800人いた国内グループ人員は、2002年度末に1万8500人へと3割減った。半導体を抱えたまま体を絞り続ける経営が、この時期の沖電気工業の姿であった[19][20]。
2008年10月、半導体からの完全な撤退
2008年10月1日、沖電気工業は半導体事業に関して有する権利義務を会社分割によって新たに設立した株式会社OKIセミコンダクタへ承継させ、その発行済み株式の95%相当をローム株式会社へ譲渡した。有価証券報告書は、これによって半導体事業から撤退したと記している。関係会社は子会社が20社、関連会社が6社減り、宮崎沖電気・宮城沖電気の両生産会社も沖電気工業の連結から離れた。会社は理由を、競争が激化するなかで企業競争力を高め企業価値を拡大するため、全社を挙げて進める経営改革の中で半導体事業の位置づけを検討した結果と説明している。1961年に八王子でトランジスタの生産を始めてから、およそ半世紀での退出であった[21][22]。
退出の代金は損失として計上された。2009年3月期は、半導体事業の譲渡による損失52億円、たな卸資産評価損106億円、為替換算調整勘定取崩額74億円などを特別損失に積み、当期純損益は前期の6億円の利益から456億円悪化して450億円の損失となった。連結売上高は5457億円で前期比24.2%の減収、うち半導体分だけで841億円が消えている。世界同時不況が重なった年でもあった。株価は上場来最安値圏の50円台をうろつき、2006年度から5年のうち3期が最終赤字となる。DRAMをやめる決断から10年をかけて、沖電気工業は半導体という事業そのものを持たない会社になった[23][24]。
- 週刊東洋経済(1997年9月6日号)
- 週刊東洋経済(1998年10月31日号)
- 週刊東洋経済(1999年3月20日号)
- 週刊東洋経済(2002年12月21日号)
- 沖電気工業 有価証券報告書(2009年3月期・連結)
- 沖電気工業 有価証券報告書【沿革】