NEC の歴史

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創業 1899年
母体 米国ウェスタン・エレクトリック社
創業地 東京都
創業
1899年7月、米ウェスタン・エレクトリック社との合弁で日本電気株式会社が設立された。前年に発足した日本電気合資会社を母体に、資本金20万円の株式会社へ改組し、日本初の外資系合弁メーカーとなった。主力は電話交換機と通信機で、量産技術も特許も乏しい国内では、外資と組んで技術を取り込むほうが速かった。株式は1918年にI.W.E.社へ、1925年にはITT傘下のI.S.E.社へ移り、1932年には同社が経営を住友本社へ委託する。1941年12月に株式が敵国資産として処分されて資本提携は切れ、1943年に住友通信工業へ改称したが、1945年に旧称へ戻し、1951年に資本提携を復活させている。
決断
広げた事業を、赤字が出るたびに祖業から順に手放してきた。1978年、小林宏治会長がコンピュータと通信の融合を掲げ、通信機・半導体・コンピュータの多角化を一つのビジョンへ集約した。しかし1990年代末に多角化の採算が崩れ、1999年3月期の連結経常損益は2,247億円の損失へ転落する。同じ1999年2月、過去最大の赤字とともに社長を交代し、1万5,000人の削減を打ち出した。2001年には半導体を本体から切り離し、2002年11月にNECエレクトロニクスを分社した。2009年3月期に上場後最大となる2,966億円の最終赤字を出すと、翌2010年には日立製作所・三菱電機との統合で半導体から離れた。市況で振れる設備投資型の事業を本体から外したことが、国内ITの利益だけで全社の損益が決まる今の収益構造を作った。
現況
収益源は、機械を作る事業ではなくシステムを預かる事業である。2026年3月期の売上収益3兆5,827億円のうち、ITサービスが2兆5,089億円と7割を占め、社会インフラは9,353億円にとどまる。セグメント利益もITサービスの3,367億円が大半を占める。2021年にBluStellarへ事業モデルを組み替え、製品1万点を500商材・30シナリオへ集約して売り切りから脱したことで、営業利益は2021年3月期の1,538億円から3,599億円へ伸び、純利益2,702億円とともに過去最高となった。ただし日本が売上の8割を占め、国内で積んだ高採算の受注が利益率を押し上げた反面、海外に同じ厚みがないことが次の成長を買収に依存させている。
競合
世界首位に立った半導体も、国内で過半を握ったパソコンも、現在は手元にない。半導体は1985年に世界シェア8.2%で売上首位に立ったが、1996年のマイクロンショックと韓国・台湾勢の追い上げで採算が崩れ、2010年にルネサスエレクトロニクスへ移した。1982年発売のPC-9800シリーズも国内の過半を握ったが、2011年にレノボとの合弁へ移した。同じ総合電機でも、富士通は半導体・携帯・パソコンを連続して手放したのちに業種横断のサービスへ寄せ、日立は1兆円でGlobalLogicを買収することでデジタルの成長軸を外から買い、東芝は主力事業のメモリを売却したうえで市場から降りた。祖業を手放しきった結果、NECが海外で競う相手は通信機メーカーではなく、テレコム向けソフトの供給者へ入れ替わった。

設立ストーリー 通信機メーカーから総合電機へ、多角化100年の道のり (1899年〜)

外資合弁で出発した通信機メーカーの基盤形成

日本電気の誕生に先立ち、わが国の通信制度は段階的に整った。電信の利用は1869年に始まり、1877年からは電話が使われ、1890年には官営による本格的な公衆通信事業が始まって、1896年には電話拡張の七カ年計画が成立した[1](『企業の歴史:明治百年』1968)。当時すでに世界最大の通信機会社であった米国ウェスタン・エレクトリック社は、世界活動の一環[2]として日本市場への進出を望んでいた。1899年の通商条約改正と同時に、前年の1898年に設立されていた日本電気合資会社(資本金5万円)を基礎とし、ウェスタン社からの出資を加えて資本金20万円の株式会社へと改組された。[3]前身の合資会社を母体に外資との合弁会社として発足したこの経緯が、続く国際的な性格を方向づけた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]電信利用は1869年、電話使用は1877年に開始、1890年に官営の本格的公衆通信事業開始、1896年に電話拡張の七カ年計画成立(明治百年)
    • [2]ウェスタン・エレクトリック社は当時すでに世界最大の通信機会社で、世界活動の一環として日本市場進出を望んだ(明治百年)
    • [3]前身の日本電気合資会社は1898年設立・資本金5万円、1899年の通商条約改正と同時にWE出資を加え資本金20万円の株式会社へ改組(明治百年)

NECは1899年7月、米国ウェスタン・エレクトリック社(W.E.社)との合弁により日本電気株式会社として設立された。日本初の外資系合弁メーカーであり[4]、設立当初の主力事業は電話交換機と通信機だった。通信機産業は大量生産のノウハウと特許網が事業基盤を決める装置産業であり、国内に量産技術の蓄積が乏しかった当時、欧米資本と提携して技術を取り込む選択は合理的だった。1918年にはW.E.社の海外投資部門が分離してI.W.E.社がNEC株式を承継し[5]、1925年にはI.W.E.社がITTに買収されインターナショナル・スタンダード・エレクトリック(ISE社)と改称した[6]。NECは発足当初から欧米資本の一部として通信機事業を育てた。

  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1899年7月 米W.E.社との合弁により日本電気株式会社を設立(日本初の外資系合弁メーカー)
    • [5]1918年 W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が当社株式を承継
    • [6]1925年 I.W.E.社がITT(インターナショナル・テレホン・アンド・テレグラフ社)に買収されI.S.E.社(インターナショナル・スタンダード・エレクトリック)と改称

1932年6月、ISE社はNECの経営を住友本社に委託[7]した。これが後の住友グループとの関係の起点である。1941年12月、ISE社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携が解消[8]、1943年に社名を住友通信工業株式会社へ変更した。[9]敗戦後の1945年11月に日本電気株式会社へ戻し[10]、1949年5月に東京証券取引所へ上場[11]、1951年11月にISE社との資本提携を復活した。[12]後年、小林宏治社長は業界状況を『電気通信分野の技術と業界の実情は(中略)特許の面では、9割までが外国特許であった。関連する素材、部品産業は、甚だ貧弱で存在しないにも等しい状況であった』[引用元](経済同友 1966/6)と振り返り[13]、国産技術で追いつくために払った努力を語った。戦時下に外資との関係を一度断ち切り、戦後すぐ再接続する異例の経緯を持つ会社として、国際ネットワーク事業の基盤を欧米資本との継続的な関係のうえに置いた。

  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
    • [7]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
    • [8]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
    • [9]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
    • [10]1945年11月 社名を日本電気株式会社に戻す
    • [11]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [12]1951年11月 I.S.E.社と資本提携復活
  • 経済同友(1966年6月)
    • [13]小林宏治の発言「特許の面では、9割までが外国特許であった」(経済同友 1966/6)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]電信利用は1869年、電話使用は1877年に開始、1890年に官営の本格的公衆通信事業開始、1896年に電話拡張の七カ年計画成立(明治百年)
    • [2]ウェスタン・エレクトリック社は当時すでに世界最大の通信機会社で、世界活動の一環として日本市場進出を望んだ(明治百年)
    • [3]前身の日本電気合資会社は1898年設立・資本金5万円、1899年の通商条約改正と同時にWE出資を加え資本金20万円の株式会社へ改組(明治百年)
  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1899年7月 米W.E.社との合弁により日本電気株式会社を設立(日本初の外資系合弁メーカー)
    • [5]1918年 W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が当社株式を承継
    • [6]1925年 I.W.E.社がITT(インターナショナル・テレホン・アンド・テレグラフ社)に買収されI.S.E.社(インターナショナル・スタンダード・エレクトリック)と改称
    • [7]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
    • [8]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
    • [9]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
    • [10]1945年11月 社名を日本電気株式会社に戻す
    • [11]1949年5月 東京証券取引所に上場
    • [12]1951年11月 I.S.E.社と資本提携復活
  • 経済同友(1966年6月)
    • [13]小林宏治の発言「特許の面では、9割までが外国特許であった」(経済同友 1966/6)

C&C思想が加速した多角化と半導体・PC事業

1961年4月、NECは事業部制を導入し、通信機・電波機器・電子機器・電子部品・商品・海外の6事業部制[14]に切り替えた。同年10月には東京証券取引所第一部へ移行[15]、1963年1月には米国にニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社(現NEC Corporation of America)を設立し[16]、海外展開を本格化させた。1975年9月には中央研究所を完成させ[17]、1970年代から半導体・コンピュータ領域への投資を継続的に拡大した。通信機単品のメーカーから、情報処理と通信を横断する総合電機メーカーへ事業領域を広げる助走期である。1966年には小林宏治社長がソフトウェアの将来を『今から10年くらい前の電子計算機は、お得意さんに機械を供給すると、お得意さんが使いこなしていた。これが、最近ではコンピューターにソフト・ウェアをつけてお得意さんにこれも供給して満足を受けるように、ソフト・ウェアの業務がハードと統合されている』[引用元](経済同友 1966/6)と捉えていた。[18]

  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1961年4月 事業部制を導入(通信機・電波機器・電子機器・電子部品・商品・海外の6事業部)
    • [15]1961年10月 東京証券取引所市場第一部へ移行
    • [16]1963年1月 米国にニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社(現NEC Corporation of America)を設立
    • [17]1975年9月 中央研究所完成
  • 経済同友(1966年6月)
    • [18]1966年の小林社長のソフトウェア観の発言(経済同友 1966/6)

1978年、小林宏治会長はインテルコム'78で『C&C(Computers & Communications)』の融合というコンセプトを提唱した[19]。後に小林宏治会長は『私はC&Cを提唱し、事業領域間の相乗効果を生かすべきだとしたのである』[引用元][20]、単独領域で世界と戦うには資源が足りないから領域間の相乗効果で対抗するしかなかった事情を明かしている。1982年10月発売のPC-9800シリーズは[21]1990年代前半まで国内PC市場で過半のシェアを握り、1980年代にはDRAMで世界シェア首位を取った。1983年の業界誌は『日本電気は、ただのハイテク企業ではない』[引用元]『「C&C」(コンピューターとコミュニケーション)の提案に象徴されるように、巧みな時代感覚で“夢”をぶち上げる。』[引用元]『1981年からは『万年1位』の日立製作所を蹴落として3年連続1位となった』[引用元]とブランド[22]上昇を評した。

  • 構想と決断(小林宏治、1989年)
    • [19]1978年 小林宏治がC&C(Computers & Communications)の融合というコンセプトを提唱
  • 構想と決断(小林宏治 著, ダイヤモンド社, 1989)
    • [20]小林宏治の著書発言「私はC&Cを提唱し、事業領域間の相乗効果を生かすべきだとした」(構想と決断 1989)
  • 日本電気 有価証券報告書
    • [21]PC-9800シリーズは1982年10月発売
  • 強さの研究・日本電気(1983年12月26日)
    • [22]1983年業界誌のブランド評(3年連続1位等)(強さの研究・日本電気 1983/12/26)
  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
    • [14]1961年4月 事業部制を導入(通信機・電波機器・電子機器・電子部品・商品・海外の6事業部)
    • [15]1961年10月 東京証券取引所市場第一部へ移行
    • [16]1963年1月 米国にニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社(現NEC Corporation of America)を設立
    • [17]1975年9月 中央研究所完成
  • 経済同友(1966年6月)
    • [18]1966年の小林社長のソフトウェア観の発言(経済同友 1966/6)
  • 構想と決断(小林宏治、1989年)
    • [19]1978年 小林宏治がC&C(Computers & Communications)の融合というコンセプトを提唱
  • 構想と決断(小林宏治 著, ダイヤモンド社, 1989)
    • [20]小林宏治の著書発言「私はC&Cを提唱し、事業領域間の相乗効果を生かすべきだとした」(構想と決断 1989)
  • 日本電気 有価証券報告書
    • [21]PC-9800シリーズは1982年10月発売
  • 強さの研究・日本電気(1983年12月26日)
    • [22]1983年業界誌のブランド評(3年連続1位等)(強さの研究・日本電気 1983/12/26)

多角化の重みが競争力分散として表面化した1990年代末

多角化は成長の装置であると同時に、競争力の分散装置でもあった。1990年代後半には韓国・台湾勢の台頭でDRAM事業の採算が悪化し、PC領域でもIBM互換機(DOS/V)の普及でPC-9800の独自規格の優位性が失われた。通信機事業は国内市場では強かったが、海外では北米・欧州のシーメンス・アルカテル・ノーテルなどに対して相対的な弱さを抱え、規模の経済で戦えない構造の弱点がじわじわと表面化した。1990年、社長の関本忠弘氏は『最高のソフトは理念なんです。私はいま、企業理念、企業文化は第5の経営資源であるという言い方をしています』[引用元](日経ビジネス 1990/6/18)と述べ[23]、ソフトと理念で差別化する路線を打ち出していたが、DRAMとPCのハードウェア価格下落の圧力を覆すには至らなかった。C&C思想のもとで広げた事業領域の一つひとつが、世界市場の再編のなかで採算の取りにくい位置へ押し込まれ始めた。

  • 日経ビジネス(1990年6月18日)
    • [23]関本忠弘の発言「最高のソフトは理念なんです…企業理念、企業文化は第5の経営資源」(日経ビジネス 1990/6/18)

1999年2月、日経新聞は『1999年3月期の連結最終損益が過去最大の1500億円の赤字に転落する』[引用元]『世界で従業員の約10%にあたる1.5万人を今後3年間で削減』[引用元]『国内だけで9000人を対象』[引用元]とリストラを報じた。2000年4月の社内カンパニー制導入は[24]、3本柱を独立採算で運営して責任の所在をはっきりさせる試みだった。しかし同じ時期、半導体メモリ市場の価格崩壊で事業ポートフォリオの見直しは待ったなしになり、2002年11月には半導体事業を分社化してNECエレクトロニクスを設立した。[25]祖業の一翼を本体から切り離す最初の大手術である。2003年4月に事業ライン制、2004年4月にビジネスユニット制と短期間で組織を入れ替え続けた[26]事実は、最適な形を見つけられずにいた当時の迷走を物語っており、多角化の遺産を処理する組織設計が定まらないままDRAMの価格崩壊という外部環境の変化に直面した。

  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]2000年4月 社内カンパニー制と執行役員制を導入
    • [26]2003年4月 事業ライン制、2004年4月 ビジネスユニット制へ移行
  • 日本電気 有価証券報告書
    • [25]2002年11月 半導体事業を分社化しNECエレクトロニクスを設立
  • 日経ビジネス(1990年6月18日)
    • [23]関本忠弘の発言「最高のソフトは理念なんです…企業理念、企業文化は第5の経営資源」(日経ビジネス 1990/6/18)
  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]2000年4月 社内カンパニー制と執行役員制を導入
    • [26]2003年4月 事業ライン制、2004年4月 ビジネスユニット制へ移行
  • 日本電気 有価証券報告書
    • [25]2002年11月 半導体事業を分社化しNECエレクトロニクスを設立

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NECの沿革1899〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1899〜1999年通信機メーカーから総合電機へ、多角化100年の道のりW.E.社との合弁で日本電気を設立★★
W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が日本電気株を承継
I.W.E.社がITTの子会社となり親会社がISE社に商号変更
ISE社が日本電気の経営を住友本社に委託★★
ISE社所有の日本電気株式が敵国資産として処分
社名を住友通信工業に変更
社名を日本電気に戻す
渡辺斌衡東京証券取引所に上場
渡辺斌衡ISE社と資本提携を復活
渡辺斌衡事業部制を採用
渡辺斌衡東京証券取引所一部に移行
渡辺斌衡ニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社を設立
小林宏治中央研究所が竣工
田中忠雄C&C構想の提唱——コンピュータと通信の融合という全社ビジョン

1977年10月、米アトランタの通信展『インテルコム'77』の基調講演で、小林宏治会長がC&C(コンピュータと通信の融合)を世界へ提唱した経営判断。通信機・半導体・コンピュータの多角化を一つの事業ビジョンに束ね、1970年代末から1980年代にかけて全社へ定着させた。

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★★★
関本忠弘PC-9800シリーズ発売★★
関本忠弘事業本部制を採用(22事業本部)
西垣浩司過去最大の連結赤字の公表と、金子尚志社長の退任・西垣新社長への交代

1999年2月、日本電気(NEC)が1999年3月期の連結最終損益が過去最大の1,500億円の赤字になる見通しと、世界の従業員の約10%にあたる1万5,000人の3年間削減を公表し、同時に金子尚志社長が突然退任して西垣浩司新社長へ交代した経営判断。1978年のC&C提唱以来、関本忠弘会長を中心に約20年続いた経営体制の終わりでもあった。

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★★★
2000〜2015年2966億円の赤字を起点とした「捨て続けた10年」西垣浩司社内カンパニー制と執行役員制を導入
西垣浩司半導体事業の分社化とNECエレクトロニクスの設立

2001年、過去最大級の赤字に直面した日本電気(NEC)が、西垣浩司社長の主導で祖業の一翼である半導体事業を本体から切り離す判断に踏み切り、2002年11月にシステムLSI・マイコンを担うNECエレクトロニクスを分社設立した経営判断。初代社長には半導体の外で育った戸坂馨氏を充てた。

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★★★
矢野薫NECインフロンティアを完全子会社化
矢野薫連結最終赤字2,966億円を計上★★
遠藤信博遠藤信博氏が社長に就任
遠藤信博半導体子会社NECエレクトロニクスのルネサステクノロジとの統合

2009年4月27日、日本電気(NEC)は半導体子会社のNECエレクトロニクスを、日立製作所と三菱電機の半導体会社ルネサステクノロジと統合させると発表した。存続会社をNECエレクトロニクスとし、2010年4月に世界第3位の半導体会社ルネサスエレクトロニクスを発足させる経営判断で、矢野薫社長のもとで決めた。

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★★★
遠藤信博FY11連結最終赤字1,103億円
遠藤信博NECカシオモバイルコミュニケーションズがスマホ新機種開発から撤退★★
遠藤信博BIGLOBEをKKR系ファンドに売却
2016〜2025年BluStellarで再定義された事業モデルと過去最高益新野隆新野隆氏が社長に就任
森田隆之新野隆から森田隆之に社長兼CEO交代
森田隆之BluStellar戦略への転換と再成長——ハード売り切りからの脱却

『捨て続けた10年』で祖業周辺を整理し国内IT事業へ集中したNECが、2021年4月就任の森田隆之社長のもとでハードの売り切りビジネスから脱却した戦略。2021年4月発表の2025中期経営計画を出発点に、DX・生成AI・セキュリティを束ねる価値創造モデル『BluStellar』を2024年5月に公表し、社会価値と経済価値の同時実現を掲げた。2020年代を通じて固まった面的な事業モデルの再設計にあたる。

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★★★
森田隆之NECネッツエスアイを完全子会社化★★
森田隆之従来型の5G基地局(RU・CU)事業を2025年度末で終息すると発表★★
出典・参考
  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
  • 日本電気 有価証券報告書
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 構想と決断(小林宏治 著, ダイヤモンド社, 1989)
  • 日経ビジネス(1990年6月18日)
  • 経済同友(1966年6月)
  • 強さの研究・日本電気(1983年12月26日)
  • 構想と決断(小林宏治、1989年)

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