過去最大の連結赤字の公表と、金子社長の退任・西垣新社長への交代

20年続いた関本体制の終わりに際し、西垣浩司新社長は過去最大の赤字と多角化の重みにどう向き合おうとしたか

更新:

時期 1999年2月
意思決定者 西垣浩司 社長
論点 経営体制と多角化の重み
概要
1999年2月、日本電気(NEC)が1999年3月期の連結最終損益が過去最大の1,500億円の赤字になる見通しと、世界の従業員の約10%にあたる1万5,000人の3年間削減を公表し、同時に金子尚志社長が突然退任して西垣浩司新社長へ交代した経営判断。1978年のC&C提唱以来、関本忠弘会長を中心に約20年続いた経営体制の終わりでもあった。
背景
C&C構想のもとで半導体・コンピュータ・通信へ広げた多角化は、1990年代後半に採算が悪化した。連結経常損益は1998年3月期の910億円の黒字から1999年3月期には2,247億円の損失へ転落し、多角化の重みが競争力の分散として表面化した。
内容
1999年2月20日、日本経済新聞が過去最大1,500億円の連結赤字と1万5,000人削減(国内9,000人)を報じ、同月に金子社長の退任と西垣新社長への交代が示された。翌2000年4月には社内カンパニー制と執行役員制を導入した。
含意
確定した1999年3月期の連結最終損益は約1,579億円の赤字で、当時としての過去最大であった。以後、半導体・パソコン・携帯電話を切り離す選択と集中が続き、「捨て続けた10年」とも呼べる長い整理の始まりとなった。
筆者の見解

カリスマ体制の長期化と、転換の遅れ

この判断の中心にあるのは、過去最大の赤字と1万5,000人削減という財務の応急処置よりも、1978年のC&C提唱から約20年続いたカリスマ的な経営体制を、金子社長の突然の退任という異例のかたちで手じまいした点にある。半導体・コンピュータ・通信を一枚看板のもとに束ねたC&Cは、NECを理工系人気1位の企業へ押し上げた原動力であった。その求心力が多角化をまとめていた反面、体制の長期化は、世界市場の再編に合わせて事業を選び直す判断を遅らせた面もうかがえる。

西垣新社長以降のNECがたどったのは、C&Cのもとで広げすぎた事業を、半導体からパソコン、携帯電話へと一つずつ手放していく道であった。1999年の赤字公表とトップ交代は、その「捨て続けた10年」とも呼べる整理の始まりにあたる。好調の余力があるうちにではなく、過去最大の赤字に追われるなかでカリスマ体制に手を入れた点に、この判断の重さがある。長く続いた成功と一枚看板が、次の転換をどれだけ遅らせるのか——NECの1999年は、今日の日本企業にも通じる問いを残しているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

C&C構想が広げた多角化と、関本体制の20年

日本電気(NEC)の多角化を貫いていたのは、1978年に小林宏治会長が掲げたC&C(Computers & Communications)という一枚看板であった。半導体、コンピュータ、通信という三つの分野を、それぞれ単独で世界の頂点へ育てるには経営資源があまりに足りない。小林会長は後に「日本電気がこうした個々の分野において各個撃破の形で優位に立つのは……大変難しい」「そうであるからこそ、私はC&Cを提唱し、事業領域間の相乗効果を生かすべきだとした」(構想と決断 1989)と、この構想の狙いを明かしている。個々では戦えないからこそ、領域をまたいだ相乗効果に賭ける——それがNECの多角化を支える論理であった[1]

C&Cは事業の看板にとどまらず、企業イメージの上昇も呼び込んだ。1983年の業界誌は、NECを「ただのハイテク企業ではない」とし、「『C&C』の提案に象徴されるように、巧みな時代感覚で『夢』をぶち上げる」「1981年からは『万年1位』の日立製作所を蹴落として3年連続1位となった」(強さの研究・日本電気 1983/12/26)と、理工系学生の人気企業としての評価を伝えた。この多角化を実務で率いたのが関本忠弘氏であり、日経ビジネスは後にこの体制を「20年間続いた関本体制」と呼んだ[2][3]

多角化の重みが競争力の分散として表面化した1990年代末

多角化は成長の手段であると同時に、競争力を分散させる要因でもあった。C&Cを掲げた小林会長自身、事業の伸びが従来の延長線上では続かないことに早くから触れていた。「今後もこうした伸びを期待するのは無理かもしれないというのが私の感触である。従来の延長線上でものを考えないほうが良い。今後われわれに課せられた大きな課題である」(構想と決断 1989)——広げた事業のそれぞれが、世界市場の変化のなかで採算を保ちにくくなり始めていた[4]

重みは、やがて数字となって表れた。連結経常損益は、前期(1998年3月期)の910億円の黒字から1999年3月期には2,247億円の損失へ転落し、連結売上高も約4兆7,594億円へ縮んだ。半導体メモリ(DRAM)やパソコンの価格下落が採算を圧迫し、1990年代半ばまで売上を伸ばしてきた多角化の構図が、1990年代末には大幅な赤字へと反転した[5]

決断

過去最大の赤字と1万5,000人削減の公表

1999年2月20日、日本経済新聞は、日本電気の1999年3月期の連結最終損益が過去最大の1,500億円の赤字に転落する見通しを報じた。あわせて、世界の従業員の約10%にあたる1万5,000人を今後3年間で削減すると伝えた。売上高で国内首位級の総合電機が、多角化で膨らんだ人員と事業を一気に絞り込む——それは、規模の拡大を前提としてきた経営からの明確な転換であった[6]

削減の中身は、退職者の自然減や採用の抑制を中心とし、国内だけで9,000人を対象とするものであった。会社予想の段階では赤字1,500億円と見込まれたが、確定した1999年3月期の連結最終損益は約1,579億円の赤字となり、当時としての過去最大を記録した。祖業の通信機から半導体・コンピュータへ広げてきた事業の裾野を、赤字の止血のために刈り込む作業が、ここから始まった[7][8]

金子社長の退任と、西垣新社長への交代

同じ1999年2月、経営体制そのものも入れ替わった。金子尚志社長が突然退任し、西垣浩司氏が新社長に就く人事が示された。日経ビジネスは「20年間続いた関本体制、ついに終焉」「金子社長突然の退任劇で揺れるNECの行方」(日経ビジネス 1999年2月22日号)と、この交代を報じた。1978年のC&C提唱以来、関本忠弘会長を中心に約20年続いた経営体制が、過去最大の赤字公表と時を同じくして幕を下ろした[9]

新社長の西垣浩司氏が引き受けたのは、過去最大の赤字と1万5,000人削減という重い荷物であった。日経ビジネスは、西垣新社長の「“突進力”が再建のカギ」(日経ビジネス 1999年2月22日号)になると見立てた。カリスマ的な指導者の求心力が多角化を束ねてきた体制から、赤字を止め、事業を選び直す実務家の体制へ——このトップ交代は、単なる人の入れ替え以上の意味を帯びていた[10]

結果

反攻に向けた社内カンパニー制と選択と集中

西垣体制が最初に手をつけたのは、もたれ合いと呼ばれた社内構造の作り替えであった。2000年4月、NECは社内カンパニー制と執行役員制を導入し、NECソリューションズ・NECネットワークス・NECエレクトロンデバイスの3カンパニー体制へ移った。事業ごとに独立採算で損益の責任を負わせ、意思決定を速める狙いであった。1996年に一部で試したカンパニー制を、危機を機に全社へ広げた形であった[11]

組織を作り替えても、多角化の重みそのものは残った。確定した1999年3月期の約1,579億円の赤字を境に、NECは半導体・パソコン・携帯電話といった祖業まわりの事業を一つずつ切り離していく。2002年11月には半導体事業を分社してNECエレクトロニクスを設立し(詳細は別稿)、以後の選択と集中へと連なった。広げ続けた事業を今度は手放し続ける——1999年の判断は、その長い整理の皮切りとなった[12]

続いたトップ人事と組織の混乱

体制の刷新は、一度で落ち着いたわけではなかった。2003年1月、日経ビジネスは「西垣浩司社長、退任へ。関本前相談役と相打ちか」「NEC、トップ人事の混乱は“業”」(日経ビジネス 2003年1月20日号)と、西垣社長自身の退任と、その後も尾を引くトップ人事の混乱を伝えた。20年続いた体制の終わりは、後継の人事がすぐに落ち着くことにはつながらなかった[13]

組織のかたちも定まらなかった。2000年のカンパニー制は、2003年4月に事業ライン制、2004年4月にはビジネスユニット制へと短い間隔で組み替えられた。赤字を止め、多角化の遺産を整理しながら最適な体制を探る試みが、数年にわたって続いた。トップと組織の両面で揺れが残ったこと自体が、20年におよぶ体制の重さを映していた[14]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1999年2月22日号「20年間続いた関本体制、ついに終焉 西垣新社長の“突進力”が再建のカギ 金子社長突然の退任劇で揺れるNECの行方」
  • 日経ビジネス 2003年1月20日号「西垣浩司社長、退任へ。関本前相談役と相打ちか NEC、トップ人事の混乱は“業”」
  • 日本経済新聞(1999年2月20日)
  • 日本電気 有価証券報告書(1999年3月期・連結)
  • 小林宏治『構想と決断』(ダイヤモンド社, 1989)
  • 「強さの研究・日本電気」(1983年12月26日)
  • 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】