半導体事業の分社化とNECエレクトロニクスの設立

過去最大級の赤字に直面したNECは、内製一体で抱えてきた祖業・半導体をどう切り離したか

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時期 2001
意思決定者 西垣浩司 社長
論点 半導体事業の切り離しと選択と集中
概要
2001年、過去最大級の赤字に直面した日本電気(NEC)が、西垣浩司社長の主導で祖業の一翼である半導体事業を本体から切り離す判断に踏み切り、2002年11月にシステムLSI・マイコンを担うNECエレクトロニクスを分社設立した経営判断。初代社長には半導体の外で育った戸坂馨氏を充てた。
背景
1990年代後半、米マイクロン・テクノロジーが引き起こした価格下落と韓国・台湾勢の追い上げでDRAMの採算が崩れ、内製一体で抱えてきた半導体がNECの赤字の主因となった。2002年3月期の連結最終損益は3079億円の赤字に転落し、事業構成の見直しは待ったなしとなった。
内容
DRAM事業は1999年に日立製作所との合弁(後のエルピーダメモリ)へ先に切り出しており、残るシステムLSI・マイコンを2002年11月にNECエレクトロニクスとして分社した。設備投資型という他事業との性格の違いと、意思決定の速さを独立の狙いに据えた。
含意
独立後のNECエレクトロニクスは独立採算とスピード経営で船出し、2003年7月に東証一部へ上場した。ただし内製一体だった祖業を切り出す判断は、2010年のルネサスエレクトロニクスへの統合による半導体からの離脱に向けた一歩でもあった。
筆者の見解

内製一体の祖業を切り出すということ

この判断の中心にあるのは、世界首位まで登りつめた祖業を、赤字を理由に本体から切り離せるかという問いであった。半導体はC&C路線の多角化を支えた技術の源であり、通信やコンピュータと一体で開発してきた自前の柱でもあった。値崩れが続くメモリを先に合弁へ移し、残る論理系までも独立会社へ切り出した一連の動きは、内製で何もかも抱える総合電機の型から降りていく過程であったとみることができる。好調なうちにではなく、過去最大級の赤字に追われながら祖業へ手を入れた点に、この構造改革の重さがうかがえる。

分社が独立採算とスピード経営で早い果実を見せた一方で、切り出した半導体はやがてNECの手を離れ、ルネサスへ統合されていった。切り離しは身軽さと引き換えに、長く育てた事業の主導権を手放すことを含んでいた。何を自前で持ち、何を外へ出すのか——選択と集中という今日なお問われ続ける論点を、NECは祖業そのものを対象にして先んじて突きつけられていた。効率の論理で描いた分社の先に、事業の実質的な退出が続いた点に、この決断の射程がにじんでいるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

赤字の主因となった祖業・半導体

NECにとって半導体は、通信機やコンピュータと並ぶ祖業の一翼であり、コンピュータと通信の融合を掲げたC&C路線の多角化を技術の面で支えてきた。とりわけメモリのDRAMは、1985年に世界シェア首位へ立った主力製品であり、その地位は1990年代の終わりまでほぼ保たれた。世界の量産競争の先頭を走った祖業が、そのまま全社の稼ぎ頭であり続けた時代であった[1]

潮目が変わったのは1990年代後半であった。1996年に米マイクロン・テクノロジーが引き起こした値下げでDRAMの市況が一気に崩れ、そこへ韓国・台湾の量産勢が追い上げをかけた。巨額の設備投資を要し市況の振れが激しいメモリを本体に抱えたまま、その損益を全社の決算に映し込む構造が、NECの重荷に変わっていった。祖業であるがゆえに切り離しにくい半導体が、赤字の主因として立ちはだかった[2]

過去最大級の赤字と、先に切り離したDRAM

半導体を含む事業構成の重さは、決算の数字にはっきりと表れた。NECの連結最終損益は2001年3月期の566億円の黒字から一転し、2002年3月期には3079億円の赤字へ転落した。売上高5兆842億円に対する規模の大きな赤字であり、多角化で広げた事業の一つひとつが同時に採算を落としたことを映していた。1999年に金子尚志社長の突然の退任を経て社長に就いた西垣浩司社長は、不採算事業からの撤退を軸にした構造改革を迫られていた[3]

半導体の再編そのものは、この分社より前に始まっていた。NECは1999年6月にDRAM分野で日立製作所との提携を発表し、規模の拡大でコスト競争力を取り戻すことを狙った。両社は出資を折半して同年12月にNEC日立メモリを発足させ、2000年9月にはこれをエルピーダメモリへと改めた。値崩れの震源であるメモリを先に本体の外へ移した経緯は、残る半導体をどう扱うかという次の判断へ地ならしをした[4][5]

決断

半導体を本体から切り出す

西垣浩司社長は、残る半導体を本体に置いたまま立て直すのではなく、独立した会社として切り出す道を選んだ。NECは2000年4月に半導体を担う社内カンパニーを設けて分社の助走とし、2002年11月、DRAMを除く半導体事業を分社してNECエレクトロニクスを設立した。設立の対象はシステムLSIとマイコンを軸とする論理系の半導体で、値崩れの続いたメモリを外へ移した後に、祖業の中核を丸ごと別会社へ移す判断であった[6][7]

切り離しの理由は、半導体という事業の性格そのものにあった。半導体は生産設備に絶えず巨額を投じる設備投資型の事業で、通信やコンピュータのシステム事業とは資金の使い方も時間の感覚も異なる。本体の一部にとどまる限り、経営トップが客先へ足を運んで案件を決めるような動き方も取りにくい。異質な事業を同じ器で回すことの無理が、独立という選択の背中を押していた[8]

半導体の外で育った社長の抜擢

新会社の初代社長には、半導体の生え抜きではなく、コンピュータ畑を歩んだ戸坂馨氏が充てられた。戸坂馨社長はNECでパーソナルコンピュータ事業などを率いた経歴を持ち、半導体の技術には門外漢に近い立場であった。技術に通じた者よりも、採算と組織に手を入れられる人物を分社の舵取りに据えた人事であり、独立を機に事業の運び方そのものを入れ替える意図がうかがえる。戸坂馨社長は後に、就任からの一年を「振り向くひまもなかった一年でしたね」と振り返っている[9]

門外漢を据えた狙いは、事業の中身を外から見える形に組み替えることにあった。戸坂馨社長は、本体の一部として損益の輪郭がぼやけていた半導体の経営を、透明にして「見える化」することを最重要の課題に挙げ、就任からの一年でその作業は「5合目あたり」に届いたと語った。技術の善し悪しよりも、採算と説明責任の通る会社へ半導体を作り替える——独立の意味は、そこにこそ置かれていた[10]

結果

独立採算とスピード経営、そして早期上場

分社後のNECエレクトロニクスは、本体から離れた独立採算の会社として速い経営を掲げた。設備投資でも身の丈を意識し、300ミリウエハーの新ラインは、業界で2000億円規模へ膨らみがちな投資を600億円に抑えて立ち上げると説明した。2004年3月期の見通しとして売上高7050億円、営業利益500億円で利益率7%台、最終利益は前年度の2.7倍の260億円を掲げ、本体の重い赤字とは対照的な数字を示した。異質な事業を切り出したことが、まずは意思決定と採算の面で実を結んだ格好であった[11]

独立の実効を対外的に示したのが、早い上場であった。NECエレクトロニクスは2003年7月に東京証券取引所第一部へ株式を上場した。設立からおよそ9カ月という速さで、会社分割による新設会社が直接一部へ上場するのは異例の運びであった。2003年3月期の連結売上高は7250億円、従業員はおよそ2万4000人にのぼり、本体に埋もれていた事業が独立した資本のもとで動き出したことを、市場に対して形で示した[12]

ルネサスへの統合という続き

もっとも、独立が半導体の安定を約束したわけではなかった。市況の振れと巨額投資の重さは独立後も残り、リーマンショック後の需要蒸発が単独での立ち行きを難しくした。NECエレクトロニクスは2010年4月、日立製作所と三菱電機の半導体を母体とするルネサステクノロジと統合し、ルネサスエレクトロニクスが発足した。NECは半導体の主導権を手放し、祖業の一翼から実質的に退いた。2002年の分社は、この統合へ向けた一歩でもあった[13]

出典・参考