能美防災 の歴史

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創業 1916年
創業者 能美輝一
創業地 大阪市
創業 1916年12月、能美輝一氏が大阪市で能美商会を創立した。扱ったのは鉄材・機械・
1916年12月、能美輝一氏が大阪市で能美商会を創立した。扱ったのは鉄材・機械・雑穀の輸出入で、防火とは縁のない貿易商である。転機は1923年9月の関東大震災で、輝一氏は焼け野原になった東京を見て、貿易で国に貢献するより火災そのものを無くすほうが急務だと考えた。翌1924年3月、能美商会は防火機器の製作と装置請負業へ移り、英国のG・L・スミス氏が考案した空気質式自動火災報知機の特許権を取得する。1925年に試作を終えてスミス式の名で売り出し、同年11月に合資会社へ改組した。1944年5月には日本防災通信工業を新設して防火・防盗の業務一切を移し、1948年8月に能美防災工業、1989年7月に能美防災へ商号を変更している。
決断 機器を売る前に、火災を評価する制度のほうを作った。そこで1931年から翌年にかけ
機器を売る前に、火災を評価する制度のほうを作った。そこで1931年から翌年にかけて大日本消防協会の嘱託として欧米を視察し、帰国後は消防関係法令の起草に加わった。損害保険協会には、報知設備を備えた建物の保険料率を下げるよう申請している。1949年には損害保険19社の資本参加を受け、設備が普及するほど保険金の支払いが減る側から資金を調達した。1969年4月施行の消防法改正でホテル・病院・劇場への設置が義務づけられると、1969年3月期に45億6,700万円だった売上高は1971年3月期の101億5,800万円へ2年で2.2倍に伸びた。
現況 親会社に過半を握られたまま、上場と生え抜きの社長を残している。1974年に業務提
親会社に過半を握られたまま、上場と生え抜きの社長を残している。1974年に業務提携を締結したセコムは、2006年12月に140億6,000万円の第三者割当増資を引き受けて持株比率を50.30%とし、連結子会社にした。上場は東京証券取引所に残り、社長は2002年の田上征氏から2025年の長谷川雅弘氏まで6代続けて社内から出ている。2026年3月期の連結売上高は1,396億5,700万円、営業利益183億4,900万円、純利益136億4,800万円で、いずれも過去最高だった。同年2月にはIHIから明星電気の全株式を取得し、屋内の防火防災へ屋外の気象観測と宇宙防衛が加わった。関東大震災を見た貿易商が防火へ移った1924年から100年余りを経て、気象を測る技術が事業として戻った。
競合 総合電機が参入した市場に残れたのは、火災そのものを燃やして測ったからである。19
総合電機が参入した市場に残れたのは、火災そのものを燃やして測ったからである。1971年に日立製作所と松下電器産業が火災報知設備へ参入すると、能美防災工業は翌期の見通しを控えめに置いた。4割のシェアを抱える能美防災は価格を下げない方向へ動き、受注予定価格を話し合う東京懇話会に加わっていたことで、1981年6月に公正取引委員会から勧告を受けた。並行して力を入れたのがトンネルの防災である。国鉄から移ってきた卯之木十三氏が、工場の敷地内に実物大のホームと模擬の客車を建て、全長54kmに及ぶ青函トンネルを想定して避難と消火の実験を繰り返した。海底駅については、アルコールを張った水田に火を付け、客車の実物も床下から燃やして、煙がどう流れるかを計測した。まず火災を起こし、そのうえで設備を設計するというやり方によって、能美防災は消防法の定めを最低限の基準として扱う立場に立つことになった。
長期業績の推移 1962〜2026年
能美防災:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2026年3月期

第1章 1916年〜 貿易商・能美輝一が関東大震災で選んだ防火機器の道

1916年〜貿易商・能美商会と関東大震災の衝撃

能美防災の出発点は火災報知機ではなく貿易にあった。創業者の能美輝一氏は1887年7月に山口県小郡町で生まれ、下関商業を経て早稲田大学商学部を1910年に卒業し、大阪の貿易商である堀田商会に入った。主人以下6名という小さな店で、注文取りから銀行や運送屋との交渉、通関手続、集金、カタログの編集までを4年で一通り手がけた。1914年に第一次世界大戦が始まって貿易業界が活況を呈すると、輝一氏は同商会を退き、ロシア人のG・K・カーン氏と組んでカーン商会を興して対露貿易に乗りだした。開店から約1年で社員20名を抱えるまでに伸びたが、ロシア革命によるルーブルの暴落が商売の前提を崩した。1916年12月、輝一氏は大阪市北区中之島に資金1万円で能美商会を開いた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [1]能美輝一は明治20年7月5日に山口県小郡町に生まれ、下関商業を経て早稲田大学に学び、明治43年に商学部を卒業して大阪市の貿易商堀田商会に入社した
    • [2]堀田商会は主人以下総員6名で、能美は4年間に注文取り・銀行関係・運送屋との交渉・通関手続・集金・カタログの編集まであらゆる仕事を手がけた
    • [3]大正3年の第一次世界大戦勃発で貿易業界が活況となり、能美は堀田商会を退職して露人G.K.カーンと共同でカーン商会を設立し対露貿易を開始した
    • [4]カーン商会は開店後約1年で社員20名を擁するまで発展したが、ロシア革命による帝制ロシア崩壊でルーブル貨幣が大暴落し致命的な打撃を受けた
    • [5]大正5年12月、能美は大阪市北区中之島2丁目に1万円の資金で能美商会を開店した
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1916年12月、能美輝一が大阪市において能美商会を創立

独立した輝一氏が次に選んだのは、規模で一流商社に対抗する道だった。開店3か月目に成立した砂糖の商談を足がかりに取引高を伸ばし、1年後には資本金を10万円へ引き上げた。1919年には、大資本を武器に弱小業者を圧迫する一流商社への対抗策として米国資本を導入し、能美商会とは別に資本金100万円の極東通商株式会社を設立した。輝一氏は30歳あまりで極東通商の社長として財閥系の業者と張り合う立場にあった。だが翌1920年の夏、上海の銀相場の暴騰に始まる北満特産物市場の混乱が対米鉄材市場へ、さらに造船界へ波及し、鈴木商店など有力商社が相次いで倒れた。能美商会と極東通商も例外ではなく、1922年に両社は債権債務の整理を余儀なくされた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [7]能美商会は開店3か月目に砂糖の商談が成立し、1年後には資本金を10万円に引き上げた
    • [8]大正8年、能美は大資本で弱小業者を圧迫する一流商社への対抗策として米国資本を導入し、資本金100万円の極東通商株式会社を設立した
    • [10]大正9年夏、上海銀相場の暴騰から起こった北満特産物市場の混乱を皮切りに対米鉄材市場と造船界に大恐慌が起こり、鈴木商店などの大商社が枕を並べて倒産した
    • [11]大正11年、能美商会と極東通商は両社の債権債務整理を受けた
  • 産業と経済 1950年
    • [9]能美輝一は早稲田を出て三十余歳で極東通商株式会社の社長を務め、財閥業者と伍していた

転機は1923年9月の関東大震災だった。極東通商を解散し、能美商会を縮小して時機を待っていた輝一氏は、震災の報を受けて神戸から横浜へ渡り、歩いて東京に入った。本所被服廠跡に積まれた遺骨の山を前に、4万人の命を奪ったのが地震ではなく火災だったことを知り、火災から人命と財産を守ることに残る生涯を充てると決めた。まず内務省警保局と火災保険協会を訪ねて日本の消防の実情を把握し、あわせて欧米先進諸国の状況を調べると、両者の隔たりの大きさに驚いた。当時の日本の消防は消火も予防も精神に重きを置いて科学性を欠き、一方で都市の人口過密と生活様式の近代化による火災の頻発が損害を増やすばかりだった。翌1924年3月、能美商会は貿易業から防火機器の製作と装置請負業へ移った。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [12]能美は極東通商を解散し能美商会を縮小して時節待機の方針をとっていたが、関東大震災の報を受け神戸から横浜に上陸し歩いて東京に入った
    • [13]本所被服廠跡で一挙に4万人が亡くなったのが地震ではなく火災のためと知り、能美は火災から人命・財産を守ることに今後の生涯を賭けると心に誓った
    • [14]能美は内務省警保局・火災保険協会等を訪ねて日本の消防の現況を把握し、同時に欧米先進諸国の状況を調査して両者の間の大きな隔たりに驚いた
    • [15]当時の日本消防は消火でも予防でも精神に重きを置いて科学性に欠け、急速な都市化による人口過密と生活様式の近代化による火災の頻発が損害を急増させていた
  • 産業と経済 1950年
    • [16]能美輝一は震災の翌大正13年に貿易業から防火機器製作と装置の請負業に転じた
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1924年3月、わが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
参考文献[1]-[17]
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [1]能美輝一は明治20年7月5日に山口県小郡町に生まれ、下関商業を経て早稲田大学に学び、明治43年に商学部を卒業して大阪市の貿易商堀田商会に入社した
    • [2]堀田商会は主人以下総員6名で、能美は4年間に注文取り・銀行関係・運送屋との交渉・通関手続・集金・カタログの編集まであらゆる仕事を手がけた
    • [3]大正3年の第一次世界大戦勃発で貿易業界が活況となり、能美は堀田商会を退職して露人G.K.カーンと共同でカーン商会を設立し対露貿易を開始した
    • [4]カーン商会は開店後約1年で社員20名を擁するまで発展したが、ロシア革命による帝制ロシア崩壊でルーブル貨幣が大暴落し致命的な打撃を受けた
    • [5]大正5年12月、能美は大阪市北区中之島2丁目に1万円の資金で能美商会を開店した
    • [7]能美商会は開店3か月目に砂糖の商談が成立し、1年後には資本金を10万円に引き上げた
    • [8]大正8年、能美は大資本で弱小業者を圧迫する一流商社への対抗策として米国資本を導入し、資本金100万円の極東通商株式会社を設立した
    • [10]大正9年夏、上海銀相場の暴騰から起こった北満特産物市場の混乱を皮切りに対米鉄材市場と造船界に大恐慌が起こり、鈴木商店などの大商社が枕を並べて倒産した
    • [11]大正11年、能美商会と極東通商は両社の債権債務整理を受けた
    • [12]能美は極東通商を解散し能美商会を縮小して時節待機の方針をとっていたが、関東大震災の報を受け神戸から横浜に上陸し歩いて東京に入った
    • [13]本所被服廠跡で一挙に4万人が亡くなったのが地震ではなく火災のためと知り、能美は火災から人命・財産を守ることに今後の生涯を賭けると心に誓った
    • [14]能美は内務省警保局・火災保険協会等を訪ねて日本の消防の現況を把握し、同時に欧米先進諸国の状況を調査して両者の間の大きな隔たりに驚いた
    • [15]当時の日本消防は消火でも予防でも精神に重きを置いて科学性に欠け、急速な都市化による人口過密と生活様式の近代化による火災の頻発が損害を急増させていた
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1916年12月、能美輝一が大阪市において能美商会を創立
    • [17]1924年3月、わが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
  • 産業と経済 1950年
    • [9]能美輝一は早稲田を出て三十余歳で極東通商株式会社の社長を務め、財閥業者と伍していた
    • [16]能美輝一は震災の翌大正13年に貿易業から防火機器製作と装置の請負業に転じた

1924年〜買い直したスミス特許と報知機第1号

火災予防を志した輝一氏のもとには、さまざまな事業や物件が持ち込まれるようになった。1924年3月、輝一氏は京橋区鍋町に能美商会を開き、宣伝をしながら販売を始めた。売り物は、5千円を払って一手販売の権利を得た自動火災予知器という特許品である。感応部に水銀を使い、手を当てるだけで温度を感じ取って警報ベルが鳴る仕組みが、輝一氏の目を引いていた。しかし月日がたっても特許番号がわからず、調べてみると、出願は英国人がそれより先に出していた特許に抵触し、とっくに退けられていた。震災で書類を焼失した特許事務所へ毎日通い詰めた結果、ロンドン郊外に住むG・L・スミス氏の特許第35945号「火災及び温度警報器」にたどり着いた。1925年、スミス氏の遺産管理人と特許権を譲り受ける契約を結び終えた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [18]火災予防の事業を志した能美のもとへは色々な人が様々な事業や物件を持ちこむようになった
    • [19]大正13年3月、能美は5千円を支払って一手販売契約を結び、京橋区鍋町2の4に能美商会の看板を掲げて宣伝販売を始めた
    • [20]自動火災予知器と称する特許品は感応部に水銀を用い、手を触れるだけでその温度に感応して警報ベルが鳴った
    • [21]特許品との触れ込みだったが番号さえ不明のまま月日がたち、調べたところ出願は英国人の先願特許に触れてとうに拒絶・却下されていた
    • [22]調査の結果、英国人はロンドン郊外に住むG・L・スミスで、特許は「火災及び温度警報器」に関する特許第35945号であることをつきとめた
    • [23]大正14年、スミス氏の遺産管理人と能美との間で特許権譲渡契約が完了した
  • 産業と経済 1950年
    • [24]英国のG.L.スミス氏考案の空気質式自動火災報知機の特許権を獲得した

買い直した特許は、明細書以上のものを与えなかった。大まかな特許明細書を頼りに作り上げた製品は、数個の椀型空気室とダイアフラム・接点・リークバルブを備えた検出器を内径3ミリの鉛管で接続した空気管式で、発明者の名を冠してスミス式自動出火速報機と名づけた。1925年に完成させて売り出したが、一向に売れなかった。その苦境で改良に没頭したのが脇坂三津雄氏であり、のちに技師長・技術部長として長く会社の発展に尽力した。鉛管に代わる銅管の製造に苦心した末、米国製の銅管を使うことで性能は一段と向上した。そして片倉製糸紡績の岡谷工場から採用と設置の報が届き、これが能美の報知機が世に出た第1号となった。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [25]大まかな特許明細書をたよりに製作したものは数個の椀型空気室とダイアフラム・接点・リークバルブを備えた検出器を内径3mmの鉛管で接続したもので、発明者の名を冠して《スミス式自動出火速報機》と命名した
    • [26]南鍋町の新事務所から《スミス式自動出火速報機》を発売し全員で宣伝拡販に努めたが一向に売れず、営業として容易ならぬ立場に追い込まれた
    • [28]苦境の中で報知機の改良に寝食を忘れて没頭したのが脇坂三津雄で、その後も技師長・技術部長として長く会社の発展に尽力した
    • [29]鉛管に替わる銅管の製造に苦心した結果、米国製の銅管を使用することで性能を一段と向上させた
    • [30]片倉製糸紡績株式会社岡谷工場から採用・設置の報を受け、これが能美の報知機が世に出た記念すべき第1号となった
  • 産業と経済 1950年
    • [27]大正14年に完成し「スミス式」と命名して売り出したのが能美防災工業の前身、合資会社能美商会である

1925年11月、輝一氏は能美商会を合資会社に改組した。同じ年に自ら米国防火協会と英国消防長協会の会員となり、米国火災保険協会や英国火災保険協会とも関係を保って先進諸国の消防事情の知識を吸収した。特許権の調査で知ったロンドンの報知機メーカー各社とも技術上・業務上の接触を続け、昭和の初めには英国ピアソン社からバイメタル式の自動火災報知機を輸入している。1927年には単式自動出火警報機と名づけた型式を開発した。スミス式が1個の検知部に複数の感応部を持つのに対し、検知部と感応部を一体としたもので、原理と機構は現在多用される差動式スポット型と変わらない。翌1928年、この警報機は宮中の賢所御釜場などに設置された。

  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1925年11月、能美商会を合資会社に改組
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [32]大正14年、能美は自ら米国防火協会(NFPA)・英国消防長協会の会員となり、米国火災保険協会(NBFU)・英国火災保険協会(FOC)とも密接な関係を保って先進諸国の消防事情の知識を吸収した
    • [33]スミス特許の調査で知ったロンドンの報知機メーカー各社と技術上・業務上の接触を保ち、昭和の始めには英国ピアソン社からバイメタル式の自動火災報知機を輸入した
    • [34]昭和2年、《単式自動出火警報機》と名付けた型式を開発発売した(後にAS型検出器と改称)
    • [35]単式自動出火警報機はスミス式が1個の検知部に複数の感応部を持つのに対し検知部と感応部を一体としたもので、原理的・機構的には現在多用される差動式スポット型と異なるところはない
    • [36]昭和3年、《単式自動出火警報機》は宮中の賢所御釜場・待医療・御写真場および御自動車場に設置された
参考文献[18]-[36]
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [18]火災予防の事業を志した能美のもとへは色々な人が様々な事業や物件を持ちこむようになった
    • [19]大正13年3月、能美は5千円を支払って一手販売契約を結び、京橋区鍋町2の4に能美商会の看板を掲げて宣伝販売を始めた
    • [20]自動火災予知器と称する特許品は感応部に水銀を用い、手を触れるだけでその温度に感応して警報ベルが鳴った
    • [21]特許品との触れ込みだったが番号さえ不明のまま月日がたち、調べたところ出願は英国人の先願特許に触れてとうに拒絶・却下されていた
    • [22]調査の結果、英国人はロンドン郊外に住むG・L・スミスで、特許は「火災及び温度警報器」に関する特許第35945号であることをつきとめた
    • [23]大正14年、スミス氏の遺産管理人と能美との間で特許権譲渡契約が完了した
    • [25]大まかな特許明細書をたよりに製作したものは数個の椀型空気室とダイアフラム・接点・リークバルブを備えた検出器を内径3mmの鉛管で接続したもので、発明者の名を冠して《スミス式自動出火速報機》と命名した
    • [26]南鍋町の新事務所から《スミス式自動出火速報機》を発売し全員で宣伝拡販に努めたが一向に売れず、営業として容易ならぬ立場に追い込まれた
    • [28]苦境の中で報知機の改良に寝食を忘れて没頭したのが脇坂三津雄で、その後も技師長・技術部長として長く会社の発展に尽力した
    • [29]鉛管に替わる銅管の製造に苦心した結果、米国製の銅管を使用することで性能を一段と向上させた
    • [30]片倉製糸紡績株式会社岡谷工場から採用・設置の報を受け、これが能美の報知機が世に出た記念すべき第1号となった
    • [32]大正14年、能美は自ら米国防火協会(NFPA)・英国消防長協会の会員となり、米国火災保険協会(NBFU)・英国火災保険協会(FOC)とも密接な関係を保って先進諸国の消防事情の知識を吸収した
    • [33]スミス特許の調査で知ったロンドンの報知機メーカー各社と技術上・業務上の接触を保ち、昭和の始めには英国ピアソン社からバイメタル式の自動火災報知機を輸入した
    • [34]昭和2年、《単式自動出火警報機》と名付けた型式を開発発売した(後にAS型検出器と改称)
    • [35]単式自動出火警報機はスミス式が1個の検知部に複数の感応部を持つのに対し検知部と感応部を一体としたもので、原理的・機構的には現在多用される差動式スポット型と異なるところはない
    • [36]昭和3年、《単式自動出火警報機》は宮中の賢所御釜場・待医療・御写真場および御自動車場に設置された
  • 産業と経済 1950年
    • [24]英国のG.L.スミス氏考案の空気質式自動火災報知機の特許権を獲得した
    • [27]大正14年に完成し「スミス式」と命名して売り出したのが能美防災工業の前身、合資会社能美商会である
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1925年11月、能美商会を合資会社に改組

1928年〜啓蒙と実証が需要をつくるまでの20年

報知機の販売を阻んだのは技術ではなく、防火に対する世人の無関心だった。輝一氏は営業方針を根本から立て直し、大蔵省・鉄道省・逓信省などの現業官庁で大臣から局課長までを説き、警視庁消防部や東京都市計画課、京都府と大阪府の建築課に協力を求めて歩いた。その熱心さから各界で「火事の能美」という異名がついた。1928年に小冊子「出火通信について」を、1929年に「消防政策更新の義」を発表し、後者は天覧に供された。1931年から翌年にかけては大日本消防協会の嘱託として欧米各地を視察し、帰国後は防災教育と法令の改正に力を注いだ。それでも事業の実績は悪く、私財も貿易関係その他の事業収入も投じたうえ、高利貸からの借金と友人の援助で急場をしのぐ有様だった。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [37]自動火災報知機の普及の出足を挫いたのは、防火に対する世人の無関心という大きな障壁であった
    • [38]能美は営業方針を根本的に立て直し、大蔵省・鉄道省・逓信省などの現業官庁で大臣・次官・局課長を説き、警視庁消防部・東京都市計画課・京都府・大阪府市建築課に協力を懇請して歩いた
    • [39]その熱心さについては各界から「火事の能美」という異名を与えられたことが証明している
    • [40]能美は昭和3年に「出火通信について」を発表し、昭和4年に発刊した「消防政策更新の義」が賜天覧の光栄に浴した
    • [42]事業の実績は非常に悪く、私財はもちろん貿易関係その他の事業収入を投じても経営状態は悪化の一途をたどり、高利貸からの借金や友人の援助で急場をしのぐ有様だった
  • 産業と経済 1950年
    • [41]能美は昭和6〜7年に大日本消防協会の嘱託となって欧米各地を視察し、帰国後は防災教育と法令改正・技術の面に力を注いだ

認識を変えたのは説得ではなく、実際に働いた設備だった。1930年、東京・滝野川の内閣印刷局工場から、空気管式A-2型を主体としAS型およびピアソン式を補助とする設置施工を受けた。鉄骨鉄筋コンクリート造で延べ3万数千平方メートルという規模は初めての大工事で、技術部長以下が現場近くに家を借りて泊まり込み、1931年3月に引き渡した。その工事中の1月12日午前5時、近くの印刷局王子抄紙部に設置した報知機が医務局の出火を報じ、出動した警備員はピストル型消火器2本とバケツ1杯の水で鎮火した。旧式の木造建築で、発見が遅れれば抄紙部全工場への類焼の危険が高かった。抄紙部の火災報知設備が竣工したのは、わずか3週間前の年末だった。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [43]昭和5年、東京・滝野川の内閣印刷局工場から空気管式A-2型を主体とし、AS型およびピアソン式を補助とする設置施工を拝命した
    • [44]滝野川工場は鉄骨・鉄筋コンクリート造り延べ3万数千m2の大工場で、当社にとって初めての大工事となり、技術部長以下数名が現場近くに家を借りて泊まり込み昭和6年3月に引渡しを完了した
    • [45]昭和6年1月12日午前5時、印刷局王子抄紙部に設置した報知機が医務局出火の報を発し、即時出動した警備員はピストル型消火器2本とバケツ1杯の水で完全に鎮火した
    • [46]王子抄紙部医務局の建物は旧式な木造建築で、発見がもう少し遅れていれば抄紙部全工場への類焼危険率もきわめて高かった
    • [47]全抄紙部の火災報知設備は、王子抄紙部の出火のわずか3週間前の年末に竣工したばかりであった

1933年、蓮華王院、通称三十三間堂に、日本で初めて国宝建造物への自動火災報知機が備えられた。文部省宗教局の監督下で昭和5年から8年にかけて進んだ大修築に合わせ、3期にわたる3年計画で完工した。1936年5月4日午前3時48分、本堂の床下から出た火をこの報知機が捉え、被害は須弥壇を中心とする床下柱の焼損にとどまった。火元の床下は外から出入りできない構造のため設計に入っておらず、廻縁の連絡用として設けた1本の空気管が早期発見の役を果たした。三十三間堂は内閣印刷局や文部省とともに、奏功への感謝状を寄せた先として並ぶ。1934年には船舶用火災報知設備も完成させた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [48]昭和8年、わが国で初めて国宝建造物に自動火災報知機が設けられることになり、三十三間堂への施工を当社が命ぜられて完工した
    • [49]三十三間堂は昭和5年から8年にかけて文部省宗教局の監督下で昭和の大修築が施され、当社は修築計画に合わせ1期・2期・3期にわたる3年計画によって昭和8年に完工した
    • [50]昭和11年5月4日午前3時48分に三十三間堂の自動火災報知機が警報を発し、堂内床下の火元を発見して消火、被害は御本尊須弥壇を中心とする床下柱の焼損にとどまった
    • [51]出火場所の床下は外から出入りできない構造で設備の必要はないとして設計に入っていなかったが、廻縁の連絡用として設けた一本の空気管が早期発見という大役を果たした
  • 産業と経済 1950年
    • [52]奏功実績のうち感謝状を受けたものに三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店などがある
  • 実業往来 1968年
    • [53]昭和9年、船舶用火災報知設備を完成

1944年5月、資本金100万円で日本防災通信工業株式会社が設立され、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した。創業から20年を経て、輝一氏個人の商会が法人の形を得た。終戦後の1948年9月、商号を能美防災工業へ改めた。1950年の時点で能美式の空気質式自動火災報知機の装置先は、宮中をはじめ京都の三十三間堂と各国宝所在建物、各官庁、大工場、船舶、GHQ関係など1,200〜1,300か所に及び、その年は5か月間に73か所の装置請負現場を数えた。創業から20年余りを経ても防火思想は低いままで、設備の需要は微々たるものにとどまった。報知機が売れる市場は、まだ法令の側から与えられていなかった。

  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [54]昭和19年5月、資本金100万円をもって日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会からの業務を継承した
    • [56]大正13年3月、現社長能美輝一氏個人経営の能美商会を創立
    • [57]昭和23年9月、現商号に変更
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [55]昭和19年、日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した
    • [58]昭和23年、社名を能美防災工業と改称した
    • [60]創業当時は防火思想が低く本設備の需要は微々たるもので、鋭意研究と技術の向上に努めてわが国における本設備の先駆者たる基礎を固めた
  • 産業と経済 1950年
    • [59]能美空気質式自動火災報知機の装置先は宮中をはじめ京都の三十三間堂および各国宝所在建物・各官庁・大工場・船舶・GHQ関係など1,200〜1,300か所に及び、1950年は5か月間に装置請負現場が73か所に達した
参考文献[37]-[60]
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [37]自動火災報知機の普及の出足を挫いたのは、防火に対する世人の無関心という大きな障壁であった
    • [38]能美は営業方針を根本的に立て直し、大蔵省・鉄道省・逓信省などの現業官庁で大臣・次官・局課長を説き、警視庁消防部・東京都市計画課・京都府・大阪府市建築課に協力を懇請して歩いた
    • [39]その熱心さについては各界から「火事の能美」という異名を与えられたことが証明している
    • [40]能美は昭和3年に「出火通信について」を発表し、昭和4年に発刊した「消防政策更新の義」が賜天覧の光栄に浴した
    • [42]事業の実績は非常に悪く、私財はもちろん貿易関係その他の事業収入を投じても経営状態は悪化の一途をたどり、高利貸からの借金や友人の援助で急場をしのぐ有様だった
    • [43]昭和5年、東京・滝野川の内閣印刷局工場から空気管式A-2型を主体とし、AS型およびピアソン式を補助とする設置施工を拝命した
    • [44]滝野川工場は鉄骨・鉄筋コンクリート造り延べ3万数千m2の大工場で、当社にとって初めての大工事となり、技術部長以下数名が現場近くに家を借りて泊まり込み昭和6年3月に引渡しを完了した
    • [45]昭和6年1月12日午前5時、印刷局王子抄紙部に設置した報知機が医務局出火の報を発し、即時出動した警備員はピストル型消火器2本とバケツ1杯の水で完全に鎮火した
    • [46]王子抄紙部医務局の建物は旧式な木造建築で、発見がもう少し遅れていれば抄紙部全工場への類焼危険率もきわめて高かった
    • [47]全抄紙部の火災報知設備は、王子抄紙部の出火のわずか3週間前の年末に竣工したばかりであった
    • [48]昭和8年、わが国で初めて国宝建造物に自動火災報知機が設けられることになり、三十三間堂への施工を当社が命ぜられて完工した
    • [49]三十三間堂は昭和5年から8年にかけて文部省宗教局の監督下で昭和の大修築が施され、当社は修築計画に合わせ1期・2期・3期にわたる3年計画によって昭和8年に完工した
    • [50]昭和11年5月4日午前3時48分に三十三間堂の自動火災報知機が警報を発し、堂内床下の火元を発見して消火、被害は御本尊須弥壇を中心とする床下柱の焼損にとどまった
    • [51]出火場所の床下は外から出入りできない構造で設備の必要はないとして設計に入っていなかったが、廻縁の連絡用として設けた一本の空気管が早期発見という大役を果たした
  • 産業と経済 1950年
    • [41]能美は昭和6〜7年に大日本消防協会の嘱託となって欧米各地を視察し、帰国後は防災教育と法令改正・技術の面に力を注いだ
    • [52]奏功実績のうち感謝状を受けたものに三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店などがある
    • [59]能美空気質式自動火災報知機の装置先は宮中をはじめ京都の三十三間堂および各国宝所在建物・各官庁・大工場・船舶・GHQ関係など1,200〜1,300か所に及び、1950年は5か月間に装置請負現場が73か所に達した
  • 実業往来 1968年
    • [53]昭和9年、船舶用火災報知設備を完成
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [54]昭和19年5月、資本金100万円をもって日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会からの業務を継承した
    • [56]大正13年3月、現社長能美輝一氏個人経営の能美商会を創立
    • [57]昭和23年9月、現商号に変更
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [55]昭和19年、日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した
    • [58]昭和23年、社名を能美防災工業と改称した
    • [60]創業当時は防火思想が低く本設備の需要は微々たるもので、鋭意研究と技術の向上に努めてわが国における本設備の先駆者たる基礎を固めた

第2章 1949年〜 損害保険19社の出資と消防法改正が生んだ売上100億円

1949年〜損害保険19社の資本参加と総合防災への拡張

輝一氏はかねて、国の防火に直接かかわるのは消防と建築、そして推進役としての火災保険であるべきだと書いていた。資本金は1944年5月の発足時に100万円で、1949年2月に300万円、同年6月には4万株の第三者割当で500万円となり、このうち1949年の増資は損害保険関係19社の資本参加によるものだった。報知機の代金を負担する建物側ではなく、火災で払う保険金を抑えたい側を株主として迎えた格好である。1962年12月に上場した際の大株主にも、東京海上火災保険と安田火災海上が各5万4千株、千代田火災海上・大東京火災海上・日本火災海上が各3万6千株で名を連ねていた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [61]能美輝一は「元来、一国の防火と直接の関係をもつものは、消防であり、建築であり、また、プロモーターとしての火災保険でなければならない」と述べていた
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [62]資本金は昭和19年5月の設立時100万円、昭和24年2月に300万円、昭和24年6月に第三者割当4万株で500万円となった
    • [64]昭和37年9月30日現在の大株主は能美輝一340,500株、能美正55,500株、能美汎満55,500株、東京海上火災保険54,000株、安田火災海上54,000株、千代田火災海上36,000株、大東京火災海上36,000株、日本火災海上36,000株、大正火災海上30,000株、日本電気30,000株
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [63]昭和24年、損保関係19社の資本参加を得て資本金を500万円に増資した

報知の次に手がけたのは、火を消す側の設備だった。1962年3月期の売上構成は、自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%、サーベラスその他12.0%、船舶用火災探知機0.8%で、報知機以外の製品が過半を占めていた。炭酸瓦斯消火装置の製造と工事請負は、1951年に大阪で設立した高圧瓦斯工業で始めたものである。1955年には活線碍子洗浄装置の研究を成功させ、送電を止めないまま碍子を洗える、火災報知とは系統の異なる製品を手に入れた。国産第1号となる船舶用スプリンクラーはあるぜんちな丸に取り付けられ、水噴霧消火設備の草分けとなった。トンネル防災という分野を開いたのも同社である。

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [65]昭和26年に大阪で高圧瓦斯工業を設立して炭酸瓦斯消火装置の製造・工事請負を開始し、昭和30年には活線碍子洗浄装置の研究に成功して総合防災メーカーとして各部門に進出した
    • [67]昭和26年、大阪に高圧瓦斯工業を設立し炭酸瓦斯消火装置の製造および工事請負を開始した
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [66]昭和37年3月期の売上比率は自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%、サーベラスその他12.0%、船舶用火災探知機0.8%
  • 実業往来 1968年
    • [68]昭和30年、活線碍子洗浄装置を完成した
    • [69]船舶用スプリンクラーの国産第一号を「あるぜんちな丸」に設置して水噴霧消火設備のパイオニアとなり、トンネル防災の分野を切り開いた

多角化した製品を買ったのは、主に官公庁だった。1962年3月期の受注先別の比率は官庁60%・民需40%で、国宝建造物および米駐留軍関係はほとんど100%を受注施工していた。戦前に宮中や三十三間堂、内閣印刷局へ納めた実績が、そのまま戦後の官需につながった。製品ごとの主な販売先は、碍子洗滌装置が東京電力、炭酸瓦斯消火装置が日立製作所、自動火災報知装置が関東電気工事だった。火災報知器関係の業界における地位は、1961年までの過去3カ年累計平均で各製品とも約40%の占有率を持ち、全国第1位にあった。従業員は1962年8月末で493名、1963年7月末で580人だった。

  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [70]昭和37年3月期の受注先別比率は官庁60%・民需40%
    • [71]国宝建造物および米駐留軍関係はほとんど100%を受注施行している
    • [73]火災報知器関係業界における同社の地位は昭和36年までの過去3カ年累計平均で各製品とも約40%の占有率で全国第1位
    • [74]従業員数493名(昭和37年8月31日現在)
  • 株式会社年鑑 1964年版「能美防災工業」
    • [72]主なる取引先は販売が碍子洗滌装置=東京電力、炭酸瓦斯消火装置=日立製作所、自動火災報知装置=関東電気工事
    • [75]従業員580人
参考文献[61]-[75]
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [61]能美輝一は「元来、一国の防火と直接の関係をもつものは、消防であり、建築であり、また、プロモーターとしての火災保険でなければならない」と述べていた
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [62]資本金は昭和19年5月の設立時100万円、昭和24年2月に300万円、昭和24年6月に第三者割当4万株で500万円となった
    • [64]昭和37年9月30日現在の大株主は能美輝一340,500株、能美正55,500株、能美汎満55,500株、東京海上火災保険54,000株、安田火災海上54,000株、千代田火災海上36,000株、大東京火災海上36,000株、日本火災海上36,000株、大正火災海上30,000株、日本電気30,000株
    • [66]昭和37年3月期の売上比率は自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%、サーベラスその他12.0%、船舶用火災探知機0.8%
    • [70]昭和37年3月期の受注先別比率は官庁60%・民需40%
    • [71]国宝建造物および米駐留軍関係はほとんど100%を受注施行している
    • [73]火災報知器関係業界における同社の地位は昭和36年までの過去3カ年累計平均で各製品とも約40%の占有率で全国第1位
    • [74]従業員数493名(昭和37年8月31日現在)
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [63]昭和24年、損保関係19社の資本参加を得て資本金を500万円に増資した
    • [65]昭和26年に大阪で高圧瓦斯工業を設立して炭酸瓦斯消火装置の製造・工事請負を開始し、昭和30年には活線碍子洗浄装置の研究に成功して総合防災メーカーとして各部門に進出した
    • [67]昭和26年、大阪に高圧瓦斯工業を設立し炭酸瓦斯消火装置の製造および工事請負を開始した
  • 実業往来 1968年
    • [68]昭和30年、活線碍子洗浄装置を完成した
    • [69]船舶用スプリンクラーの国産第一号を「あるぜんちな丸」に設置して水噴霧消火設備のパイオニアとなり、トンネル防災の分野を切り開いた
  • 株式会社年鑑 1964年版「能美防災工業」
    • [72]主なる取引先は販売が碍子洗滌装置=東京電力、炭酸瓦斯消火装置=日立製作所、自動火災報知装置=関東電気工事
    • [75]従業員580人

1960年〜サーベラス社との提携と上場による生産能力の先行投資

1960年6月、スイスのサーベラス社とイオン式感知器および受信機に関する技術援助契約を締結した。イオン式は熱が上がってから動く方式と異なり、目に見えない0.1ミクロンから1ミクロンの粒子を捉え、燃焼生成物を熱より先に検知した。日本でこれを扱えたのは、極東の総代理となった能美防災工業1社だけだった。価格は他方式より高かったが、1個あたりの警戒面積が広く、設備一式で割り出せば必ずしも割高ではなかった。難燃化したビルや地下街では、燃えずにくすぶって煙が出る火災が増えており、熱をとらえる方式では間に合わない領域が広がっていた。

  • 株式会社年鑑 1964年版「能美防災工業」
    • [76]昭和35年6月、スイス国サーベラス社とサーベラス式感知器および受信機に関し技術援助契約を締結した
  • 実業往来 1968年
    • [77]イオン式火災感知器は他の方式が熱が上がった時に感知するのに対し、熱以前に燃焼生成物をとらえ、人間の目に見えない0.1ミクロンから1ミクロンの粒子を検知する
    • [78]イオン式火災感知器はスイスのサーベラス社と技術提携した能美防災が極東の総代理となっており、日本では同社一社だけが取り扱っている
    • [79]イオン式は価格が他のものと比較して若干高いが警戒面積が非常に広く、設備一式で割り出せば必ずしも割高ではない
    • [80]超高層の建物が増え地下街が開発されて建物が難燃化したことにより、熱以前に煙が出る・燃えずにくすぶる火災が多くなり、煙に対する感知器への関心が高まっている

1961年の消防関係法令の適用拡大により、需要の上昇が見込まれた。1962年12月1日、東京証券取引所市場第二部へ株式を上場し、公募80万株によって資本金を1億6千万円とした。調達した資金は既存の三鷹工場の設備補強と研究施設の拡充に加え、埼玉県妻沼町に3万平方メートルの敷地を買収しての新工場建設に向けられた。この第一次計画の所要資金は1億6300万円で、1963年末の完成を予定していた。生産能力は三鷹工場の補強完成後に約30%、新工場の第一次計画分の完成後にさらに約60%の向上を見込んだ。法令が需要を押し上げる前に、生産能力を先に積む判断だった。

  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [81]需要の見通しは昭和36年の消防関係法令の適用拡大により上昇が予想される
    • [83]上場年月日は昭和37年12月1日、東京証券取引所第二部・電気機器、銘柄コード番号6744
    • [84]昭和37年12月、資本金1億6千万円(2:1・公募80万株)
    • [85]既存三鷹工場の設備補強・研究施設の拡充に加え、埼玉県妻沼町に敷地3万m2を買収して新工場の建設に着工している
    • [86]諸施設の第一次計画は所要資金163百万円、昭和38年末完成の予定
    • [87]生産能力は三鷹工場の補強完成後に現在より30%増加、新工場第1次計画分完成後はさらに約60%向上の見込み
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [82]昭和36年の消防法改正をさかいに需要が急増した

三鷹工場には受信機関係だけを残し、感知器と電鈴は新設の妻沼工場へ移して、工場ごとの専門化による合理化も並行して進めた。妻沼工場の新設は1964年で、3万3千平方メートルの敷地に4億5千万円をかけ、金型と冶工具の製作から完成品までを一か所で通して手がけ、工程はすべてコンベアで流す方式とした。材料の試験から製品の試験までを担う品質管理室も置いた。だが日本電気や沖電気といった大手が参入して競争が厳しくなり、1965年3月期は売上高28億5500万円・税引利益1億1700万円で、増収ながら減益に終わった。減益の理由は償却費と諸経費の増加に加え、競争激化による製品の値下がりだった。

  • 経済展望 1965年
    • [88]妻沼新工場の本格稼動によって三鷹工場は受信機関係だけを残して感知器・電鈴などを移設し、工場の専門化による合理化を同時に行なった
    • [90]妻沼工場は敷地3万3千平方メートル・資金4億5千万円で建設され、金型・冶工具生産から製品までの一貫生産体制をとり、すべてコンベアによる流れ作業方式を採用している
    • [91]妻沼工場は材料試験から製品試験まで行なう品質管理室を設けるなど品質管理に重点を置いている
    • [92]日本電気・沖電気など大手の進出でこの業界も競争が激化しており、前3月期は売上28億5500万円・税引利益1億1700万円で増収減益となった
    • [93]減益の理由は償却費増・諸経費増に加えて競争激化による製品の値下がりなどがあったため
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [89]昭和39年、埼玉県妻沼町に新鋭妻沼工場を新設した
参考文献[76]-[93]
  • 株式会社年鑑 1964年版「能美防災工業」
    • [76]昭和35年6月、スイス国サーベラス社とサーベラス式感知器および受信機に関し技術援助契約を締結した
  • 実業往来 1968年
    • [77]イオン式火災感知器は他の方式が熱が上がった時に感知するのに対し、熱以前に燃焼生成物をとらえ、人間の目に見えない0.1ミクロンから1ミクロンの粒子を検知する
    • [78]イオン式火災感知器はスイスのサーベラス社と技術提携した能美防災が極東の総代理となっており、日本では同社一社だけが取り扱っている
    • [79]イオン式は価格が他のものと比較して若干高いが警戒面積が非常に広く、設備一式で割り出せば必ずしも割高ではない
    • [80]超高層の建物が増え地下街が開発されて建物が難燃化したことにより、熱以前に煙が出る・燃えずにくすぶる火災が多くなり、煙に対する感知器への関心が高まっている
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [81]需要の見通しは昭和36年の消防関係法令の適用拡大により上昇が予想される
    • [83]上場年月日は昭和37年12月1日、東京証券取引所第二部・電気機器、銘柄コード番号6744
    • [84]昭和37年12月、資本金1億6千万円(2:1・公募80万株)
    • [85]既存三鷹工場の設備補強・研究施設の拡充に加え、埼玉県妻沼町に敷地3万m2を買収して新工場の建設に着工している
    • [86]諸施設の第一次計画は所要資金163百万円、昭和38年末完成の予定
    • [87]生産能力は三鷹工場の補強完成後に現在より30%増加、新工場第1次計画分完成後はさらに約60%向上の見込み
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [82]昭和36年の消防法改正をさかいに需要が急増した
    • [89]昭和39年、埼玉県妻沼町に新鋭妻沼工場を新設した
  • 経済展望 1965年
    • [88]妻沼新工場の本格稼動によって三鷹工場は受信機関係だけを残して感知器・電鈴などを移設し、工場の専門化による合理化を同時に行なった
    • [90]妻沼工場は敷地3万3千平方メートル・資金4億5千万円で建設され、金型・冶工具生産から製品までの一貫生産体制をとり、すべてコンベアによる流れ作業方式を採用している
    • [91]妻沼工場は材料試験から製品試験まで行なう品質管理室を設けるなど品質管理に重点を置いている
    • [92]日本電気・沖電気など大手の進出でこの業界も競争が激化しており、前3月期は売上28億5500万円・税引利益1億1700万円で増収減益となった
    • [93]減益の理由は償却費増・諸経費増に加えて競争激化による製品の値下がりなどがあったため

1968年〜消防法改正が生んだ売上100億円と、その次

1968年、イオン式感知器を手がけるスイスのサーベラス社と技術および資本の提携を行い、資本金を3億5500万円に増資した。1971年の時点で、筆頭株主の座にはサーベラス社がついていた。方針の一つは、イオン式煙感知器を国産化し、都市構造と建築様式の近代化につれて膨らむ需要に応えることだった。あわせて、労働力不足に悩む同社の生産力を国際分業で補い、その販売ルートを通じて各国へ輸出するとした。同じ1968年に完成した36階建ての三井霞ケ関ビルでは、能美防災工業の感知器が館内すべてに使われた。

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [94]昭和43年、世界的に最も進歩したといわれるイオン式感知器メーカー、スイスのサーベラス社と技術および資本提携を行ない、資本金3億5500万円に増資した
    • [96]サーベラス社との提携強化によりイオン式煙感知装置を国産化し、都市構造・建築様式の近代化に伴う需要増大に対処するとともに、労働力不足に悩むサ社の生産力増強の一助としての国際分業体制をとり、サ社の販売ルートを通じ世界各国に輸出する方針である
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [95]スイス・サーベラス社は当社の筆頭株主である
  • 実業往来 1968年
    • [97]三井霞ケ関ビルには全館にわたって能美防災の技術の粋を結集した感知器が採用されている
    • [98]霞ケ関の三十六階建のビルを始め超高層の建物が増え、また同時に地下街が開発されてきた

1971年3月期の売上高は101億5800万円に達し、1969年3月期の45億6700万円から1970年3月期の62億7600万円を経て急増した。純利益も1億5000万円、2億7500万円、6億7900万円と推移し、2期で4.5倍になっている。1969年4月には改正消防法が施行され、ホテル・病院・映画館など一般大衆が集まる建物では火災報知器を、超高層ビルや地下街では煙感知器を備えることが義務になった。とくに火災報知器は前々期の42億3700万円から77.4%増の72億1600万円に達した。配当は1割3分から1割5分、さらに普通1割5分に特別5分を加えた2割へ引き上げられた。

  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [99]売上高は昭和44年3月期45億6700万円、昭和45年3月期62億7600万円、昭和46年3月期101億5800万円
    • [100]利益は昭和44年3月期1億5000万円、昭和45年3月期2億7500万円、昭和46年3月期6億7900万円
    • [102]消防法改正により公共施設・ホテル・旅館・病院・映画館・劇場など一般大衆が集まる建築物には火災報知機の設置が、超高層ビルには煙感知器の設置が義務づけられた
    • [104]配当は昭和44年3月期が1割3分、昭和45年3月期が1割5分(普通1割3分・記念2分)、昭和46年3月期が2割(普通1割5分・特別5分)
  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」
    • [101]昭和44年4月に消防法改正が施行された
    • [103]火災報知器の売上げは前々期の42億3700万円に比べ77.4%増の72億1600万円に達した

1971年の時点では、日立製作所や松下電器産業も火災報知設備へ積極的に進出していた。競争がよりきびしさを加えるとみた会社側は、1972年3月期の予想を売上高120億円・純利益7億5000万円から8億円と、前期比2割増に控えめに置いた。すでに1968年には、需要急増と半独占の強みによる高収益の時期が過ぎ、高成長から安定成長期に入っていた。内需が中心で消防法改正の裏づけがあるため先行きの懸念は小さかったが、この2〜3年のような急成長は見込みにくくなっていた。火災報知機の義務範囲がマンションや住宅公団まで広がる消防法の再改正が実現すれば、需要は再び大きく伸びる余地があった。需要の大きさを決めるのは技術ではなく法令であり、能美防災工業はその外側に成長の源を置く会社になっていた。

  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」
    • [105]日立製作所・松下電器産業などの火災報知設備への進出も積極的である
    • [106]競争はよりきびしさを加えるとみて、売上高は前期比20%増の120億円、純利益は7億5000万円から8億円と控えめに見込んでいる
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [107]かつては需要急増と半独占の強みで高収益を満喫していたが、近年は高成長から安定成長期にはいった
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [108]当社の場合は内需中心であり消防法改正のウラづけもあるので先行きの不安は全くないが、この2〜3年にみせたような急成長は今後むずかしい
    • [109]火災報知機の義務範囲の拡大、マンション・住宅公団までの義務づけをふくむ消防法再改正という気運が現実化すれば、ふたたび大きく飛躍することも考えられる
参考文献[94]-[109]
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [94]昭和43年、世界的に最も進歩したといわれるイオン式感知器メーカー、スイスのサーベラス社と技術および資本提携を行ない、資本金3億5500万円に増資した
    • [96]サーベラス社との提携強化によりイオン式煙感知装置を国産化し、都市構造・建築様式の近代化に伴う需要増大に対処するとともに、労働力不足に悩むサ社の生産力増強の一助としての国際分業体制をとり、サ社の販売ルートを通じ世界各国に輸出する方針である
    • [107]かつては需要急増と半独占の強みで高収益を満喫していたが、近年は高成長から安定成長期にはいった
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [95]スイス・サーベラス社は当社の筆頭株主である
    • [99]売上高は昭和44年3月期45億6700万円、昭和45年3月期62億7600万円、昭和46年3月期101億5800万円
    • [100]利益は昭和44年3月期1億5000万円、昭和45年3月期2億7500万円、昭和46年3月期6億7900万円
    • [102]消防法改正により公共施設・ホテル・旅館・病院・映画館・劇場など一般大衆が集まる建築物には火災報知機の設置が、超高層ビルには煙感知器の設置が義務づけられた
    • [104]配当は昭和44年3月期が1割3分、昭和45年3月期が1割5分(普通1割3分・記念2分)、昭和46年3月期が2割(普通1割5分・特別5分)
    • [108]当社の場合は内需中心であり消防法改正のウラづけもあるので先行きの不安は全くないが、この2〜3年にみせたような急成長は今後むずかしい
    • [109]火災報知機の義務範囲の拡大、マンション・住宅公団までの義務づけをふくむ消防法再改正という気運が現実化すれば、ふたたび大きく飛躍することも考えられる
  • 実業往来 1968年
    • [97]三井霞ケ関ビルには全館にわたって能美防災の技術の粋を結集した感知器が採用されている
    • [98]霞ケ関の三十六階建のビルを始め超高層の建物が増え、また同時に地下街が開発されてきた
  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」
    • [101]昭和44年4月に消防法改正が施行された
    • [103]火災報知器の売上げは前々期の42億3700万円に比べ77.4%増の72億1600万円に達した
    • [105]日立製作所・松下電器産業などの火災報知設備への進出も積極的である
    • [106]競争はよりきびしさを加えるとみて、売上高は前期比20%増の120億円、純利益は7億5000万円から8億円と控えめに見込んでいる

第3章 1972-1995 (気が向いたら執筆します!) 公正取引委員会の勧告と青函トンネルが求めた技術

第4章 1996-2026 (気が向いたら執筆します!) セコムの連結子会社となり災害全般へ広げた領域

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歴史年表 1916〜2026年

能美防災の沿革1916〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1916〜1948年貿易商・能美輝一が関東大震災で選んだ防火機器の道能美輝一が大阪市で能美商会を創立★★★
自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売と取付工事請負業を創業★★★
能美商会を合資会社に改組★
三十三間堂に国宝建造物として初の自動火災報知機を設置★
皇居に自動火災報知機を設置★
日本防災通信工業を設立し能美商会の防火・防盗業務を継承★★
本店を東京都北多摩郡三鷹町に移転★
商号を能美防災工業に変更★★
1949〜1971年損害保険19社の出資と消防法改正が生んだ売上100億円損害保険関係19社の資本参加を受け資本金を500万円に増資★★
大阪に高圧瓦斯工業(現コーアツ)を設立し炭酸ガス消火装置の製造・工事請負を開始★
活線碍子洗浄装置の研究に成功★
東京電力千葉火力発電所に活線碍子洗浄設備を設置★
貨客船あるぜんちな丸に船舶用第1号のスプリンクラー消火設備を設置★
スイスのサーベラス社とイオン式火災感知器の技術提携を締結★★
名神高速道路の梶原・天王山トンネルに高速道路トンネル第1号の防災設備を設置★★
東京証券取引所市場第二部に上場★
埼玉県大里郡妻沼町にメヌマ工場を新設★
霞ヶ関ビルに超高層ビル第1号の防災設備を設置★★
サーベラス社と資本提携し資本金3億5,500万円へ増資、同社が筆頭株主に★★
消防法改正が施行され超高層ビル・地下街などに火災報知機・煙感知器の設置が義務化★★
1972〜1995年公正取引委員会の勧告と青函トンネルが求めた技術日本火災報知機工業会の役員会で全国10地区への懇話会設置を決定★
防火防排煙システムを開発★
LNG基地防災システムを開発★
セコムと業務提携を締結★★
住宅用火災警報器「まもるくん」を発売★★
台湾能美防災工業股份有限公司を設立★
公正取引委員会が自動火災報知設備工事の受注調整をめぐり6社へ周知徹底命令を勧告★★
青函トンネルに防災設備を設置★
商号を能美防災に変更★★
日信防災を設立★
東京証券取引所市場第一部に指定替え★
木村敞一中国に合弁会社「北京能美西科姆消防設備有限公司」を設立★
1996〜2026年セコムの連結子会社となり災害全般へ広げた領域木村敞一上海能美西科姆消防設備有限公司に商号変更し上海工場を開設★
木村敞一米国防火協会が消火システム「NN100」をハロン代替消火薬剤として承認★
田上征セコムを引受先とする第三者割当増資で同社の連結子会社化★★★
橋爪毅インドに合弁会社「Unitech Nohmi Fire Protection System Pvt. Ltd.」を設立★
橋爪毅埼玉県三郷市に研究開発センターを開設★
藤井清隆インド合弁会社を解散し全額出資の「Nohmi Bosai (India) Pvt. Ltd.」を設立★
藤井清隆創立100周年★
伊藤龍典妻沼東事業所に展示施設「能美テクノリウム メヌマ」を開設★
岡村武士東京証券取引所プライム市場に移行★
岡村武士監査等委員会設置会社に移行★
長谷川雅弘北興通信の株式を取得し子会社化★
長谷川雅弘IHIから明星電気の全株式を取得し子会社化、気象防災・宇宙防衛機器に事業領域を拡大★★★
出典・参考 10件
出典・参考
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
  • 株式会社年鑑 1964年版「能美防災工業」
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
  • 産業と経済 1950年
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
  • 経済展望 1965年
  • 実業往来 1968年
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」

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