能美防災の出発点は火災報知機ではなく貿易にあった。創業者の能美輝一氏は1916年12月に大阪市で能美商会を創立し[1]、鉄材・機械・雑穀の輸出入を扱ってのちに東京へ進出した[2]。輝一氏は早稲田大学を出たのち、30歳を過ぎた頃には極東通商の社長として財閥系の商社と張り合う取引をしていた[3]。防火機器とは縁のない経歴であり、そもそも当時の日本には自動火災報知装置を製造する会社が存在しなかった[4]。会社の記録が創立に1916年12月を、創業に1924年3月を別々に置くのは、この8年の断絶があったためである[5]。
転機は1923年9月の関東大震災だった。輝一氏は焼け野原になった東京で、貿易で国に貢献するよりも火災そのものを無くすほうが急務だと考えた[6]。翌1924年3月、能美商会は貿易業から防火機器の製作と装置請負業へ移り、日本で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売と取付工事請負業を始めた[7]。同時に、英国のG・L・スミス氏が考案した空気質式自動火災報知機の特許権を取得する[8]。1925年に試作を完成させ、スミス式の名で売り出した[9]。同年11月、能美商会を合資会社へ改組[10]。英国人の特許を譲り受けて始めた事業が、日本で最初の火災報知設備の製造販売となった[11]。
当時は火事で焼けても保険金で建て直せるという考えが一般的で、火災を早期に発見するという発想そのものが浸透していなかった[12]。輝一氏は後年、この時期の需要を馬鹿馬鹿しいほど乏しかったと振り返った[13]。法令の不備と技術の未熟も普及を妨げる要因だった[14]。潮目が変わったのは1927年で、宮中賢所と鉄道省の川崎汽力発電所に空気式分布型の報知機が採用される[15]。国が使う建物に入ったことで、防火設備への認識がようやく動き始めた[16]。研究と技術の向上を重ね、日本における火災報知設備の先駆者としての基礎を固めた時期にあたる[17]。
輝一氏は製品を売るより先に、制度をつくる側に回った。1931年から1932年にかけて大日本消防協会の嘱託として欧米各地を視察し、帰国後は消防関係法令の起草に加わる[18]。損害保険協会には、報知設備を備えた建物の保険料率を引き下げるよう申請した[19]。数十冊のパンフレットを作り、時の内務大臣・東京府知事・警視総監に防火思想を説いて回る[20]。設備が売れないのは客の問題ではなく火災を評価する仕組みが日本に無いからだという判断であり、能美商会は市場そのものを設計する側から需要を起こした[21]。アメリカでは出火件数が日本の30倍ある一方で損害率は日本の4分の1にとどまるという比較を持ち出し、防火教育と科学教育の問題だと説いた[22]。
制度づくりと並行して実績が積み上がった。1927年にアメリカ防火協会、翌1928年にイギリス全英消防長協会の会員となり、1934年には船舶用火災報知設備を完成させる[23]。1950年の時点で設置先は宮中をはじめ京都の三十三間堂や各国宝所在建物、官庁、大工場、船舶、GHQ関係など1,200から1,300か所に及んだ[24]。三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店からは、実際に火災を捉えた実績に対して感謝状が贈られた[25]。1950年度は5か月間で装置請負現場が73か所に達した[26]。
1944年5月、能美商会とは別に日本防災通信工業株式会社が東京都中央区に設立され、能美商会の防火・防盗に関する業務一切を引き継いだ[27]。同時に東京都北多摩郡三鷹町で三鷹工場の操業を始める[28]。合資会社を株式会社へ改組したのではなく、新設した会社へ事業を移す形をとったため、法人としての連続性はここで一度切れた[29]。戦時下で個人経営の商会が資材と資金を確保しにくくなったことが背景にあるが、企業整備との関係を示す資料は残っていない[30]。1946年8月には本店も三鷹町へ移し[31]、製造と本社機能を1か所へ集めた[32]。
1948年8月、商号を能美防災工業株式会社と改めた[33]。翌1949年12月には東京都知事の建設業者登録を受け、機器の製造だけでなく取付工事を請け負う体制を整える[34]。敗戦直後の日本では、焼けては建て、建てては焼けるたびに物資が失われる状況が続いた[35]。輝一氏は、物資の乏しい国にとって火災による損失こそ重いと語り、防火を復興の問題として置いた[36]。各種事業が不況に沈んでいた1950年、能美防災工業の施工網は北海道から四国・九州まで広がっていた[37]。輝一氏はこのとき62歳、防火事業に半生を投じてきた[38]。
1949年、能美防災工業は損害保険関係19社の資本参加を受け、資本金を500万円へ増やした[39]。同年6月に第三者割当で4万株を発行しており、これが損保各社の引受にあたる[40]。火災報知設備が普及すれば、保険会社が支払う保険金は減る。輝一氏が戦前から損害保険協会へ求めてきた保険料率の引き下げは、設備を入れた建物ほど保険料が安くなる仕組みであり、損保各社にとって出資は自社の損害率を下げる投資でもあった[41]。1962年の上場時点でも東京海上火災保険・安田火災海上・千代田火災海上・大東京火災海上・日本火災海上・大正火災海上が大株主に並んだ[42]。
火災を知らせる機器だけでは、火が出たあとに使う設備の需要は取れない。そこで能美防災工業は、損保の出資で得た資金を隣接分野の製品開発へ向けた。1951年には大阪に高圧瓦斯工業を設立して炭酸ガス消火装置の製造と工事請負を始め[43]、1955年には活線碍子洗浄装置の研究に成功して、送電線の碍子を通電したまま洗う装置を製品化する[44]。1957年には貨客船あるぜんちな丸へ、船舶用として国産第1号のスプリンクラー消火設備を納めた[45]。1962年3月期の売上構成は自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%となった[46]。
1962年12月1日、能美防災工業は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した[47]。公募80万株・公開価格200円で、上場時の資本金は1億6,000万円、発行済株式数は320万株[48]。従業員は493名だった[49]。社長は創業者の能美輝一氏が務め、大株主の筆頭も輝一氏の34万500株で、能美正氏と能美汎満氏の各5万5,500株が続く[50]。火災報知器関係の業界では1961年までの3か年累計平均で各製品とも約40%の占有率を持ち、全国第1位にあった[51]。受注先は官庁が60%を占め、国宝建造物と米駐留軍関係はほぼ100%を受注していた[52]。
1961年の消防関係法令の適用拡大で需要増が見込まれ、生産能力の増強が急務になった[53]。三鷹工場の設備を補強し、埼玉県大里郡妻沼町に3万平方メートルの敷地を買収して新工場の建設に着工する[54]。メヌマ工場は1964年9月に完成し、金型・治工具の生産から製品までをコンベアによる流れ作業で一貫生産する体制をとった[55]。三鷹工場は受信機関係だけを残し、感知器と電鈴を新工場へ移して専門化を同時に進めた[56]。技術面では1960年にスイスのサーベラス社とイオン式火災感知器の技術提携を結ぶ[57]。熱ではなく目に見えない燃焼生成物を捉える方式で、日本での取り扱いは能美防災工業1社に限られた[58]。
1968年、サーベラス社との提携は技術から資本へ進み、能美防災工業は資本金を3億5,500万円へ増資した[59]。イオン式煙感知器を国産化し、労働力不足に悩む同社の生産を肩代わりして、同社の販売ルートで各国へ輸出する国際分業の形をとる[60]。1971年の時点でサーベラス社は能美防災工業の筆頭株主だった[61]。創業家と損害保険会社が支えてきた資本構成に、技術を持つ外資が加わったことになる[62]。同じ1968年には36階建の三井霞ヶ関ビルの全館に感知器が採用され、超高層ビルという市場が開けた[63]。当時の社長は西原市郎氏、従業員は880名で、火災報知設備の市場占拠率は4割に達していた[64]。
1969年4月に施行された消防法改正が、需要の水準そのものを変えた[65]。ホテル・病院・映画館・劇場など不特定多数が集まる建築物には火災報知機の設置が、超高層ビルには煙感知器の設置が義務づけられた[66]。1969年3月期に45億6,700万円だった売上高は、1970年3月期に62億7,600万円、1971年3月期には101億5,800万円に達した[67]。2年で2.2倍である。純利益は1億5,000万円から6億7,900万円へ4.5倍に増え、配当は13%から20%へ引き上げられた[68]。業界全体でも近い将来に1,000億円産業へ飛躍することが見込まれていた[69]。
伸びを牽引したのはイオン式の煙感知器だった。火災報知器の売上高は42億3,700万円から72億1,600万円へ77.4%増えた[70]。建物が不燃・難燃になったぶん、燃えずにくすぶる火災が増え、地下街と超高層ビルでは熱が上がる前に燃焼生成物を捉える方式が求められた[71]。もっとも、市場が確実に伸びると分かれば新規参入を招く。1971年には日立製作所と松下電器産業が積極的に進出し、能美防災工業は翌期の見通しを売上高120億円・純利益7億5,000万円から8億円と控えめに置いた[72]。爆発的な急成長は終わり、安定成長の段階に入る兆しが見えていた[73]。
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|---|---|---|---|---|
| 1916〜1948年貿易商・能美輝一が関東大震災で選んだ防火機器の道 | 能美輝一が大阪市で能美商会を創立 | ★★★ | ||
| 自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売と取付工事請負業を創業 | ★★★ | |||
| 能美商会を合資会社に改組 | ★ | |||
| 三十三間堂に国宝建造物として初の自動火災報知機を設置 | ★ | |||
| 皇居に自動火災報知機を設置 | ★ | |||
| 日本防災通信工業を設立し能美商会の防火・防盗業務を継承 | ★★ | |||
| 本店を東京都北多摩郡三鷹町に移転 | ★ | |||
| 商号を能美防災工業に変更 | ★★ | |||
| 1949〜1971年損害保険19社の出資と消防法改正が生んだ売上100億円 | 損害保険関係19社の資本参加を受け資本金を500万円に増資 | ★★ | ||
| 大阪に高圧瓦斯工業(現コーアツ)を設立し炭酸ガス消火装置の製造・工事請負を開始 | ★ | |||
| 活線碍子洗浄装置の研究に成功 | ★ | |||
| 東京電力千葉火力発電所に活線碍子洗浄設備を設置 | ★ | |||
| 貨客船あるぜんちな丸に船舶用第1号のスプリンクラー消火設備を設置 | ★ | |||
| スイスのサーベラス社とイオン式火災感知器の技術提携を締結 | ★★ | |||
| 名神高速道路の梶原・天王山トンネルに高速道路トンネル第1号の防災設備を設置 | ★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 埼玉県大里郡妻沼町にメヌマ工場を新設 | ★ | |||
| 霞ヶ関ビルに超高層ビル第1号の防災設備を設置 | ★★ | |||
| サーベラス社と資本提携し資本金3億5,500万円へ増資、同社が筆頭株主に | ★★ | |||
| 消防法改正が施行され超高層ビル・地下街などに火災報知機・煙感知器の設置が義務化 | ★★ | |||
| 1972〜1995年公正取引委員会の勧告と青函トンネルが求めた技術 | 日本火災報知機工業会の役員会で全国10地区への懇話会設置を決定 | ★ | ||
| 防火防排煙システムを開発 | ★ | |||
| LNG基地防災システムを開発 | ★ | |||
| セコムと業務提携を締結 | ★★ | |||
| 住宅用火災警報器「まもるくん」を発売 | ★★ | |||
| 台湾能美防災工業股份有限公司を設立 | ★ | |||
| 公正取引委員会が自動火災報知設備工事の受注調整をめぐり6社へ周知徹底命令を勧告 | ★★ | |||
| 青函トンネルに防災設備を設置 | ★ | |||
| 商号を能美防災に変更 | ★★ | |||
| 日信防災を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| 木村敞一 | 中国に合弁会社「北京能美西科姆消防設備有限公司」を設立 | ★ | ||
| 1996〜2026年セコムの連結子会社となり災害全般へ広げた領域 | 木村敞一 | 上海能美西科姆消防設備有限公司に商号変更し上海工場を開設 | ★ | |
| 木村敞一 | 米国防火協会が消火システム「NN100」をハロン代替消火薬剤として承認 | ★ | ||
| 田上征 | セコムを引受先とする第三者割当増資で同社の連結子会社化 | ★★★ | ||
| 橋爪毅 | インドに合弁会社「Unitech Nohmi Fire Protection System Pvt. Ltd.」を設立 | ★ | ||
| 橋爪毅 | 埼玉県三郷市に研究開発センターを開設 | ★ | ||
| 藤井清隆 | インド合弁会社を解散し全額出資の「Nohmi Bosai (India) Pvt. Ltd.」を設立 | ★ | ||
| 藤井清隆 | 創立100周年 | ★ | ||
| 伊藤龍典 | 妻沼東事業所に展示施設「能美テクノリウム メヌマ」を開設 | ★ | ||
| 岡村武士 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 岡村武士 | 監査等委員会設置会社に移行 | ★ | ||
| 長谷川雅弘 | 北興通信の株式を取得し子会社化 | ★ | ||
| 長谷川雅弘 | IHIから明星電気の全株式を取得し子会社化、気象防災・宇宙防衛機器に事業領域を拡大 | ★★★ |
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事実根拠:出所(能美防災)