能美防災 の歴史

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創業 1916年
創業者 能美輝一
創業地 大阪市
創業
1916年12月、能美輝一氏が大阪市で能美商会を創立した。扱ったのは鉄材・機械・雑穀の輸出入で、防火とは縁のない貿易商である。転機は1923年9月の関東大震災で、輝一氏は焼け野原になった東京を見て、貿易で国に貢献するより火災そのものを無くすほうが急務だと考えた。翌1924年3月、能美商会は防火機器の製作と装置請負業へ移り、英国のG・L・スミス氏が考案した空気質式自動火災報知機の特許権を取得する。1925年に試作を終えてスミス式の名で売り出し、同年11月に合資会社へ改組した。1944年5月には日本防災通信工業を新設して防火・防盗の業務一切を移し、1948年8月に能美防災工業、1989年7月に能美防災へ商号を改めている。
決断
機器を売る前に、火災を評価する制度のほうを作った。当初は火事で焼けても保険金で建て直せるという考えが一般的で、輝一氏は当時の需要を馬鹿馬鹿しいほど乏しかったと述懐している。そこで1931年から翌年にかけて大日本消防協会の嘱託として欧米を視察し、帰国後は消防関係法令の起草に加わった。損害保険協会には、報知設備を備えた建物の保険料率を下げるよう申請している。1949年には損害保険19社の資本参加を受け、設備が普及するほど保険金の支払いが減る側から資金を調達した。1969年4月施行の消防法改正でホテル・病院・劇場への設置が義務づけられると、1969年3月期に45億6,700万円だった売上高は1971年3月期の101億5,800万円へ2年で2.2倍に伸びた。
現況
親会社に過半を握られたまま、上場と生え抜きの社長を残している。1974年に業務提携を結んだセコムは、2006年12月に140億6,000万円の第三者割当増資を引き受けて持株比率を50.30%とし、連結子会社にした。上場は東京証券取引所に残り、社長は2002年の田上征氏から2025年の長谷川雅弘氏まで6代続けて社内から出ている。2026年3月期の連結売上高は1,396億5,700万円、営業利益183億4,900万円、純利益136億4,800万円で、いずれも過去最高だった。同年2月にはIHIから明星電気の全株式を取得し、屋内の防火防災へ屋外の気象観測と宇宙防衛が加わった。関東大震災を見た貿易商が防火へ移った1924年から100年余りを経て、気象を測る技術が事業として戻った。
競合
総合電機が参入した市場に残れたのは、火災そのものを燃やして測ったからである。1971年に日立製作所松下電器産業が火災報知設備へ参入すると、能美防災工業は翌期の見通しを控えめに置いた。4割の占有率を守る側では価格の維持へ傾き、受注予定価格を協議した東京懇話会の一角として1981年6月に公正取引委員会の勧告を受けている。同じ時期に広げたのがトンネル防災で、国鉄から移った卯之木十三氏は工場の敷地へ実物大のプラットホームと模擬客車を造り、全長54kmの青函トンネルを想定した避難と消火の実験を重ねた。海底駅では水田にアルコールを満たして点火し、実物の客車の床下を燃やして煙の流れを測っている。火災を作り出してから設備を設計する手順が、消防法を最低基準とみなす位置を能美防災へ残した。
長期業績の推移 1962〜2026年
能美防災:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 貿易商・能美輝一が関東大震災で選んだ防火機器の道 (1916年〜)

創業ストーリー(1)

貿易商・能美商会と関東大震災の衝撃

能美防災の出発点は火災報知機ではなく貿易にあった。創業者の能美輝一氏は1916年12月に大阪市で能美商会を創立し[1]、鉄材・機械・雑穀の輸出入を扱ってのちに東京へ進出した[2]。輝一氏は早稲田大学を出たのち、30歳を過ぎた頃には極東通商の社長として財閥系の商社と張り合う取引をしていた[3]。防火機器とは縁のない経歴であり、そもそも当時の日本には自動火災報知装置を製造する会社が存在しなかった[4]。会社の記録が創立に1916年12月を、創業に1924年3月を別々に置くのは、この8年の断絶があったためである[5]

  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1916年12月、能美輝一が大阪市において能美商会を創立
    • [4]1924年3月にわが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
    • [5]有価証券報告書【沿革】は1916年12月の能美商会創立と1924年3月の創業を別項に置いている
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [2]大正5年、能美輝一が能美商会を創設し鉄材機械および雑穀の輸出入を開業、その後東京に進出
  • 産業と経済 1950年
    • [3]能美輝一は早稲田を出て三十余歳で極東通商株式会社の社長を務め、財閥業者と伍していた

転機は1923年9月の関東大震災だった。輝一氏は焼け野原になった東京で、貿易で国に貢献するよりも火災そのものを無くすほうが急務だと考えた[6]。翌1924年3月、能美商会は貿易業から防火機器の製作と装置請負業へ移り、日本で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売と取付工事請負業を始めた[7]。同時に、英国のG・L・スミス氏が考案した空気質式自動火災報知機の特許権を取得する[8]。1925年に試作を完成させ、スミス式の名で売り出した[9]。同年11月、能美商会を合資会社へ改組[10]。英国人の特許を譲り受けて始めた事業が、日本で最初の火災報知設備の製造販売となった[11]

  • 産業と経済 1950年
    • [6]能美輝一は関東大震災の大火災を見て、貿易業より火災を無くすことが緊要だと考えた
    • [8]英国のG.L.スミス氏考案の空気質式自動火災報知機の特許権を獲得した
    • [9]1925年に完成し「スミス式」と命名して売り出したのが能美防災工業の前身、合資会社能美商会である
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1924年3月、わが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
    • [10]1925年11月、能美商会を合資会社に改組
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [11]当時英国のスミス氏が所有する火災報知機の特許権を譲り受け、わが国で最初の火災報知設備の製造販売を開始した
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1916年12月、能美輝一が大阪市において能美商会を創立
    • [4]1924年3月にわが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
    • [5]有価証券報告書【沿革】は1916年12月の能美商会創立と1924年3月の創業を別項に置いている
    • [7]1924年3月、わが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
    • [10]1925年11月、能美商会を合資会社に改組
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [2]大正5年、能美輝一が能美商会を創設し鉄材機械および雑穀の輸出入を開業、その後東京に進出
    • [11]当時英国のスミス氏が所有する火災報知機の特許権を譲り受け、わが国で最初の火災報知設備の製造販売を開始した
  • 産業と経済 1950年
    • [3]能美輝一は早稲田を出て三十余歳で極東通商株式会社の社長を務め、財閥業者と伍していた
    • [6]能美輝一は関東大震災の大火災を見て、貿易業より火災を無くすことが緊要だと考えた
    • [8]英国のG.L.スミス氏考案の空気質式自動火災報知機の特許権を獲得した
    • [9]1925年に完成し「スミス式」と命名して売り出したのが能美防災工業の前身、合資会社能美商会である
創業ストーリー(2)

英国スミス式特許の取得と国産第1号の完成

当時は火事で焼けても保険金で建て直せるという考えが一般的で、火災を早期に発見するという発想そのものが浸透していなかった[12]。輝一氏は後年、この時期の需要を馬鹿馬鹿しいほど乏しかったと振り返った[13]。法令の不備と技術の未熟も普及を妨げる要因だった[14]。潮目が変わったのは1927年で、宮中賢所と鉄道省の川崎汽力発電所に空気式分布型の報知機が採用される[15]。国が使う建物に入ったことで、防火設備への認識がようやく動き始めた[16]。研究と技術の向上を重ね、日本における火災報知設備の先駆者としての基礎を固めた時期にあたる[17]

  • 産業と経済 1950年
    • [12]創業当時は防火思想が低く設備の需要は微々たるもので、火事で焼ければ保険金で建てられると考えられていた
    • [13]能美輝一は当時の需要の乏しさを「馬鹿馬鹿しい位です」と語った
    • [14]普及が進まない理由として法令の不備と技術の未熟があった
    • [15]昭和2年に宮中賢所や鉄道省の川崎汽力発電所へ空気式分布型を装備した
    • [16]宮中賢所などへの装備を機に一般の認識が高まった
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [17]創業当時は防火思想が低く本設備の需要は微々たるもので、鋭意研究と技術の向上に努めてわが国における本設備の先駆者たる基礎を固めた

輝一氏は製品を売るより先に、制度をつくる側に回った。1931年から1932年にかけて大日本消防協会の嘱託として欧米各地を視察し、帰国後は消防関係法令の起草に加わる[18]。損害保険協会には、報知設備を備えた建物の保険料率を引き下げるよう申請した[19]。数十冊のパンフレットを作り、時の内務大臣・東京府知事・警視総監に防火思想を説いて回る[20]。設備が売れないのは客の問題ではなく火災を評価する仕組みが日本に無いからだという判断であり、能美商会は市場そのものを設計する側から需要を起こした[21]。アメリカでは出火件数が日本の30倍ある一方で損害率は日本の4分の1にとどまるという比較を持ち出し、防火教育と科学教育の問題だと説いた[22]

  • 産業と経済 1950年
    • [18]昭和6〜7年に大日本消防協会の嘱託として欧米各地を視察し、帰国後に法令起草へ参画した
    • [19]保険協会へ装備者の保険料率引下げを申請した
    • [20]数十冊のパンフレットを作り、時の内務大臣・東京府知事・警視総監へ防火思想を説いた
    • [21]能美輝一は根本的な防災教育と法令改正・技術の面に力を注いだ
    • [22]アメリカでは出火数は日本の三十倍もあるが損害率は逆に日本の四分の一であり、防火教育殊に科学教育の問題であると能美輝一は語った

制度づくりと並行して実績が積み上がった。1927年にアメリカ防火協会、翌1928年にイギリス全英消防長協会の会員となり、1934年には船舶用火災報知設備を完成させる[23]。1950年の時点で設置先は宮中をはじめ京都の三十三間堂や各国宝所在建物、官庁、大工場、船舶、GHQ関係など1,200から1,300か所に及んだ[24]。三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店からは、実際に火災を捉えた実績に対して感謝状が贈られた[25]。1950年度は5か月間で装置請負現場が73か所に達した[26]

  • 実業往来 1968年
    • [23]昭和2年にNFPA(米国防火協会)、同3年にNFCA(英国全英消防長協会)の会員となり、同9年に船舶用火災報知設備を完成
  • 産業と経済 1950年
    • [24]能美空気質式自動火災報知機の装置先は宮中・三十三間堂・各国宝所在建物・官庁・大工場・船舶・GHQ関係など1,200〜1,300か所に及んだ
    • [25]奏功実績により三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店から感謝状を受けた
    • [26]1950年度は5か月間で装置請負現場が73か所に達した
  • 産業と経済 1950年
    • [12]創業当時は防火思想が低く設備の需要は微々たるもので、火事で焼ければ保険金で建てられると考えられていた
    • [13]能美輝一は当時の需要の乏しさを「馬鹿馬鹿しい位です」と語った
    • [14]普及が進まない理由として法令の不備と技術の未熟があった
    • [15]昭和2年に宮中賢所や鉄道省の川崎汽力発電所へ空気式分布型を装備した
    • [16]宮中賢所などへの装備を機に一般の認識が高まった
    • [18]昭和6〜7年に大日本消防協会の嘱託として欧米各地を視察し、帰国後に法令起草へ参画した
    • [19]保険協会へ装備者の保険料率引下げを申請した
    • [20]数十冊のパンフレットを作り、時の内務大臣・東京府知事・警視総監へ防火思想を説いた
    • [21]能美輝一は根本的な防災教育と法令改正・技術の面に力を注いだ
    • [22]アメリカでは出火数は日本の三十倍もあるが損害率は逆に日本の四分の一であり、防火教育殊に科学教育の問題であると能美輝一は語った
    • [24]能美空気質式自動火災報知機の装置先は宮中・三十三間堂・各国宝所在建物・官庁・大工場・船舶・GHQ関係など1,200〜1,300か所に及んだ
    • [25]奏功実績により三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店から感謝状を受けた
    • [26]1950年度は5か月間で装置請負現場が73か所に達した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [17]創業当時は防火思想が低く本設備の需要は微々たるもので、鋭意研究と技術の向上に努めてわが国における本設備の先駆者たる基礎を固めた
  • 実業往来 1968年
    • [23]昭和2年にNFPA(米国防火協会)、同3年にNFCA(英国全英消防長協会)の会員となり、同9年に船舶用火災報知設備を完成
創業ストーリー(3)

日本防災通信工業の設立と能美防災工業への改称

1944年5月、能美商会とは別に日本防災通信工業株式会社が東京都中央区に設立され、能美商会の防火・防盗に関する業務一切を引き継いだ[27]。同時に東京都北多摩郡三鷹町で三鷹工場の操業を始める[28]。合資会社を株式会社へ改組したのではなく、新設した会社へ事業を移す形をとったため、法人としての連続性はここで一度切れた[29]。戦時下で個人経営の商会が資材と資金を確保しにくくなったことが背景にあるが、企業整備との関係を示す資料は残っていない[30]。1946年8月には本店も三鷹町へ移し[31]、製造と本社機能を1か所へ集めた[32]

  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1944年5月、日本防災通信工業株式会社を東京都中央区に設立し、能美商会から防火・防盗に関する一切の業務を継承
    • [28]1944年5月、東京都北多摩郡三鷹町に三鷹工場を操業
    • [30]能美商会の業務は新設した日本防災通信工業へ継承され、能美商会そのものは存続していない
    • [31]1946年8月、本店を東京都北多摩郡三鷹町に移転
    • [32]1944年5月に東京都北多摩郡三鷹町へ三鷹工場を操業し、1946年8月に本店を同町へ移転した
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [29]昭和19年に日本防災通信工業を設立し、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した

1948年8月、商号を能美防災工業株式会社と改めた[33]。翌1949年12月には東京都知事の建設業者登録を受け、機器の製造だけでなく取付工事を請け負う体制を整える[34]。敗戦直後の日本では、焼けては建て、建てては焼けるたびに物資が失われる状況が続いた[35]。輝一氏は、物資の乏しい国にとって火災による損失こそ重いと語り、防火を復興の問題として置いた[36]。各種事業が不況に沈んでいた1950年、能美防災工業の施工網は北海道から四国・九州まで広がっていた[37]。輝一氏はこのとき62歳、防火事業に半生を投じてきた[38]

  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1948年8月、商号を能美防災工業株式会社と改称
    • [34]1949年12月、建設業者登録番号 東京都知事(イ)864号として登録
  • 産業と経済 1950年
    • [35]敗戦により物資の少ない日本では、焼けては建て建てては焼けるたびに多大の物資が失われていた
    • [36]能美輝一は火災による損失が国民にとって大きく響くと述べた
    • [37]1950年、各種事業が不況にあるなかで同社は北海道から四国九州まで手中に収めていた
    • [38]1950年時点の能美輝一は62歳で、幾多の艱難を排除して半生を自己の信念に捧げた
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1944年5月、日本防災通信工業株式会社を東京都中央区に設立し、能美商会から防火・防盗に関する一切の業務を継承
    • [28]1944年5月、東京都北多摩郡三鷹町に三鷹工場を操業
    • [30]能美商会の業務は新設した日本防災通信工業へ継承され、能美商会そのものは存続していない
    • [31]1946年8月、本店を東京都北多摩郡三鷹町に移転
    • [32]1944年5月に東京都北多摩郡三鷹町へ三鷹工場を操業し、1946年8月に本店を同町へ移転した
    • [33]1948年8月、商号を能美防災工業株式会社と改称
    • [34]1949年12月、建設業者登録番号 東京都知事(イ)864号として登録
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [29]昭和19年に日本防災通信工業を設立し、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した
  • 産業と経済 1950年
    • [35]敗戦により物資の少ない日本では、焼けては建て建てては焼けるたびに多大の物資が失われていた
    • [36]能美輝一は火災による損失が国民にとって大きく響くと述べた
    • [37]1950年、各種事業が不況にあるなかで同社は北海道から四国九州まで手中に収めていた
    • [38]1950年時点の能美輝一は62歳で、幾多の艱難を排除して半生を自己の信念に捧げた
創業ストーリー(4)

損保19社の資本参加と炭酸ガス消火への拡張

1949年、能美防災工業は損害保険関係19社の資本参加を受け、資本金を500万円へ増やした[39]。同年6月に第三者割当で4万株を発行しており、これが損保各社の引受にあたる[40]。火災報知設備が普及すれば、保険会社が支払う保険金は減る。輝一氏が戦前から損害保険協会へ求めてきた保険料率の引き下げは、設備を入れた建物ほど保険料が安くなる仕組みであり、損保各社にとって出資は自社の損害率を下げる投資でもあった[41]。1962年の上場時点でも東京海上火災保険・安田火災海上・千代田火災海上・大東京火災海上・日本火災海上・大正火災海上が大株主に並んだ[42]

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [39]昭和24年、損保関係19社の資本参加を得て資本金を500万円に増資した
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
    • [40]資本金の変遷は昭和24年2月に300万円、同24年6月に第三者割当4万株で500万円
    • [42]1962年9月30日現在の大株主に東京海上火災保険54,000株、安田火災海上54,000株、千代田火災海上36,000株、大東京火災海上36,000株、日本火災海上36,000株、大正火災海上30,000株が並ぶ
  • 産業と経済 1950年
    • [41]能美輝一は保険協会へ装備者の保険料率引下げを申請していた

火災を知らせる機器だけでは、火が出たあとに使う設備の需要は取れない。そこで能美防災工業は、損保の出資で得た資金を隣接分野の製品開発へ向けた。1951年には大阪に高圧瓦斯工業を設立して炭酸ガス消火装置の製造と工事請負を始め[43]、1955年には活線碍子洗浄装置の研究に成功して、送電線の碍子を通電したまま洗う装置を製品化する[44]。1957年には貨客船あるぜんちな丸へ、船舶用として国産第1号のスプリンクラー消火設備を納めた[45]。1962年3月期の売上構成は自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%となった[46]

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [43]昭和26年、大阪に高圧瓦斯工業を設立し炭酸瓦斯消火装置の製造および工事請負を開始した
    • [44]昭和30年に活線碍子洗浄装置の研究に成功し、総合防災メーカーとして各部門に進出した
  • 実業往来 1968年
    • [45]船舶用スプリンクラーの国産第一号をあるぜんちな丸に設置した
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
    • [46]1962年3月期の売上比率は自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%、サーベラスその他12.0%、船舶用火災探知機0.8%
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [39]昭和24年、損保関係19社の資本参加を得て資本金を500万円に増資した
    • [43]昭和26年、大阪に高圧瓦斯工業を設立し炭酸瓦斯消火装置の製造および工事請負を開始した
    • [44]昭和30年に活線碍子洗浄装置の研究に成功し、総合防災メーカーとして各部門に進出した
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
    • [40]資本金の変遷は昭和24年2月に300万円、同24年6月に第三者割当4万株で500万円
    • [42]1962年9月30日現在の大株主に東京海上火災保険54,000株、安田火災海上54,000株、千代田火災海上36,000株、大東京火災海上36,000株、日本火災海上36,000株、大正火災海上30,000株が並ぶ
    • [46]1962年3月期の売上比率は自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%、サーベラスその他12.0%、船舶用火災探知機0.8%
  • 産業と経済 1950年
    • [41]能美輝一は保険協会へ装備者の保険料率引下げを申請していた
  • 実業往来 1968年
    • [45]船舶用スプリンクラーの国産第一号をあるぜんちな丸に設置した
創業ストーリー(5)

サーベラス社との提携と東証二部への上場

1962年12月1日、能美防災工業は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した[47]。公募80万株・公開価格200円で、上場時の資本金は1億6,000万円、発行済株式数は320万株[48]。従業員は493名だった[49]。社長は創業者の能美輝一氏が務め、大株主の筆頭も輝一氏の34万500株で、能美正氏と能美汎満氏の各5万5,500株が続く[50]。火災報知器関係の業界では1961年までの3か年累計平均で各製品とも約40%の占有率を持ち、全国第1位にあった[51]。受注先は官庁が60%を占め、国宝建造物と米駐留軍関係はほぼ100%を受注していた[52]

  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
    • [47]上場年月日は昭和37年12月1日、東京証券取引所市場第二部、銘柄コード6744
    • [48]昭和37年12月に公募80万株で資本金160,000千円、発行済株式数3,200千株、公開価格200円
    • [49]従業員数493名(昭和37年8月31日現在)
    • [50]社長は能美輝一、大株主は能美輝一340,500株・能美正55,500株・能美汎満55,500株
    • [51]火災報知器関係業界における地位は昭和36年までの過去3カ年累計平均で各製品とも約40%の占有率で全国第1位
    • [52]受注先別では官庁60%、民需40%で、国宝建造物および米駐留軍関係はほとんど100%受注施行している

1961年の消防関係法令の適用拡大で需要増が見込まれ、生産能力の増強が急務になった[53]。三鷹工場の設備を補強し、埼玉県大里郡妻沼町に3万平方メートルの敷地を買収して新工場の建設に着工する[54]。メヌマ工場は1964年9月に完成し、金型・治工具の生産から製品までをコンベアによる流れ作業で一貫生産する体制をとった[55]。三鷹工場は受信機関係だけを残し、感知器と電鈴を新工場へ移して専門化を同時に進めた[56]。技術面では1960年にスイスのサーベラス社とイオン式火災感知器の技術提携を結ぶ[57]。熱ではなく目に見えない燃焼生成物を捉える方式で、日本での取り扱いは能美防災工業1社に限られた[58]

  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
    • [53]昭和36年の消防関係法令の適用拡大により需要の上昇が予想された
    • [54]既存三鷹工場の設備補強と研究施設の拡充に加え、埼玉県妻沼町に敷地3万m2を買収して新工場の建設に着工した
  • 経済展望 1965年
    • [55]1964年9月、埼玉県大里郡妻沼町にメヌマ工場を新設。金型・冶工具生産から製品までの一貫生産体制をとりコンベアによる流れ作業方式を採用した
    • [56]新工場の本格稼働により三鷹工場は受信機関係だけを残し、感知器・電鈴などを移設した
  • 実業往来 1968年
    • [57]昭和35年、CERBERUS A.G(スイス)とイオン式火災感知器について技術提携
    • [58]イオン式火災感知器は熱以前に燃焼生成物をとらえる方式で、日本では同社一社だけが取り扱っていた

1968年、サーベラス社との提携は技術から資本へ進み、能美防災工業は資本金を3億5,500万円へ増資した[59]。イオン式煙感知器を国産化し、労働力不足に悩む同社の生産を肩代わりして、同社の販売ルートで各国へ輸出する国際分業の形をとる[60]。1971年の時点でサーベラス社は能美防災工業の筆頭株主だった[61]。創業家と損害保険会社が支えてきた資本構成に、技術を持つ外資が加わったことになる[62]。同じ1968年には36階建の三井霞ヶ関ビルの全館に感知器が採用され、超高層ビルという市場が開けた[63]。当時の社長は西原市郎氏、従業員は880名で、火災報知設備の市場占拠率は4割に達していた[64]

  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [59]昭和43年、スイスのサーベラス社と技術および資本提携を行ない資本金3億5,500万円に増資した
    • [60]サーベラス社との提携強化によりイオン式煙感知装置を国産化し、労働力不足に悩む同社の生産力増強の一助として国際分業体制をとり、同社の販売ルートを通じ世界各国に輸出する方針
    • [64]1968年時点の社長は西原市郎、従業員880名、市場占拠率4割を誇る火災報知設備を主力とする
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [61]スイス・サーベラス社は当社の筆頭株主である
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
    • [62]1962年9月末の大株主は能美輝一ら創業家と損害保険各社で構成されていた
  • 実業往来 1968年
    • [63]三井霞ケ関ビルには全館にわたって同社の感知器が採用された
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
    • [47]上場年月日は昭和37年12月1日、東京証券取引所市場第二部、銘柄コード6744
    • [48]昭和37年12月に公募80万株で資本金160,000千円、発行済株式数3,200千株、公開価格200円
    • [49]従業員数493名(昭和37年8月31日現在)
    • [50]社長は能美輝一、大株主は能美輝一340,500株・能美正55,500株・能美汎満55,500株
    • [51]火災報知器関係業界における地位は昭和36年までの過去3カ年累計平均で各製品とも約40%の占有率で全国第1位
    • [52]受注先別では官庁60%、民需40%で、国宝建造物および米駐留軍関係はほとんど100%受注施行している
    • [53]昭和36年の消防関係法令の適用拡大により需要の上昇が予想された
    • [54]既存三鷹工場の設備補強と研究施設の拡充に加え、埼玉県妻沼町に敷地3万m2を買収して新工場の建設に着工した
    • [62]1962年9月末の大株主は能美輝一ら創業家と損害保険各社で構成されていた
  • 経済展望 1965年
    • [55]1964年9月、埼玉県大里郡妻沼町にメヌマ工場を新設。金型・冶工具生産から製品までの一貫生産体制をとりコンベアによる流れ作業方式を採用した
    • [56]新工場の本格稼働により三鷹工場は受信機関係だけを残し、感知器・電鈴などを移設した
  • 実業往来 1968年
    • [57]昭和35年、CERBERUS A.G(スイス)とイオン式火災感知器について技術提携
    • [58]イオン式火災感知器は熱以前に燃焼生成物をとらえる方式で、日本では同社一社だけが取り扱っていた
    • [63]三井霞ケ関ビルには全館にわたって同社の感知器が採用された
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [59]昭和43年、スイスのサーベラス社と技術および資本提携を行ない資本金3億5,500万円に増資した
    • [60]サーベラス社との提携強化によりイオン式煙感知装置を国産化し、労働力不足に悩む同社の生産力増強の一助として国際分業体制をとり、同社の販売ルートを通じ世界各国に輸出する方針
    • [64]1968年時点の社長は西原市郎、従業員880名、市場占拠率4割を誇る火災報知設備を主力とする
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [61]スイス・サーベラス社は当社の筆頭株主である
創業ストーリー(6)

1969年消防法改正と2年で2.2倍になった売上高

1969年4月に施行された消防法改正が、需要の水準そのものを変えた[65]。ホテル・病院・映画館・劇場など不特定多数が集まる建築物には火災報知機の設置が、超高層ビルには煙感知器の設置が義務づけられた[66]。1969年3月期に45億6,700万円だった売上高は、1970年3月期に62億7,600万円、1971年3月期には101億5,800万円に達した[67]。2年で2.2倍である。純利益は1億5,000万円から6億7,900万円へ4.5倍に増え、配当は13%から20%へ引き上げられた[68]。業界全体でも近い将来に1,000億円産業へ飛躍することが見込まれていた[69]

  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」
    • [65]昭和44年4月に消防法改正が施行された
    • [66]ホテル・病院・映画館をはじめ超高層ビル・地下街に火災報知器もしくは煙探知器の設置が義務づけられた
    • [69]火災報知設備産業は需要が急増し、近い将来には「一千億円産業」への飛躍が見込まれている
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [67]昭和44年3月期の売上高45億6,700万円、45年3月期62億7,600万円、46年3月期101億5,800万円
    • [68]利益は昭和44年3月期1億5,000万円、46年3月期6億7,900万円。配当は1割3分から2割へ

伸びを牽引したのはイオン式の煙感知器だった。火災報知器の売上高は42億3,700万円から72億1,600万円へ77.4%増えた[70]。建物が不燃・難燃になったぶん、燃えずにくすぶる火災が増え、地下街と超高層ビルでは熱が上がる前に燃焼生成物を捉える方式が求められた[71]。もっとも、市場が確実に伸びると分かれば新規参入を招く。1971年には日立製作所松下電器産業が積極的に進出し、能美防災工業は翌期の見通しを売上高120億円・純利益7億5,000万円から8億円と控えめに置いた[72]。爆発的な急成長は終わり、安定成長の段階に入る兆しが見えていた[73]

  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」
    • [70]火災報知器の売上げは前々期の42億3,700万円に比べ77.4%増の72億1,600万円に達した
    • [72]日立製作所・松下電器産業などの進出も積極的で、売上高は前期比20%増の120億円、純利益は7億5,000万円から8億円と控えめに見込んだ
  • 実業往来 1968年
    • [71]建物が不燃・難燃になり熱以前に煙が出る、燃えずにくすぶる火災が多くなったため煙に対する感知器への関心が高まった
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [73]この2〜3年にみせたような急成長は今後むずかしく、業態は安定成長の段階に入る兆しをみせている
  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」
    • [65]昭和44年4月に消防法改正が施行された
    • [66]ホテル・病院・映画館をはじめ超高層ビル・地下街に火災報知器もしくは煙探知器の設置が義務づけられた
    • [69]火災報知設備産業は需要が急増し、近い将来には「一千億円産業」への飛躍が見込まれている
    • [70]火災報知器の売上げは前々期の42億3,700万円に比べ77.4%増の72億1,600万円に達した
    • [72]日立製作所・松下電器産業などの進出も積極的で、売上高は前期比20%増の120億円、純利益は7億5,000万円から8億円と控えめに見込んだ
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
    • [67]昭和44年3月期の売上高45億6,700万円、45年3月期62億7,600万円、46年3月期101億5,800万円
    • [68]利益は昭和44年3月期1億5,000万円、46年3月期6億7,900万円。配当は1割3分から2割へ
    • [73]この2〜3年にみせたような急成長は今後むずかしく、業態は安定成長の段階に入る兆しをみせている
  • 実業往来 1968年
    • [71]建物が不燃・難燃になり熱以前に煙が出る、燃えずにくすぶる火災が多くなったため煙に対する感知器への関心が高まった

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沿革年表 1916〜2026年

能美防災の沿革1916〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1916〜1948年貿易商・能美輝一が関東大震災で選んだ防火機器の道能美輝一が大阪市で能美商会を創立★★★
自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売と取付工事請負業を創業★★★
能美商会を合資会社に改組
三十三間堂に国宝建造物として初の自動火災報知機を設置
皇居に自動火災報知機を設置
日本防災通信工業を設立し能美商会の防火・防盗業務を継承★★
本店を東京都北多摩郡三鷹町に移転
商号を能美防災工業に変更★★
1949〜1971年損害保険19社の出資と消防法改正が生んだ売上100億円損害保険関係19社の資本参加を受け資本金を500万円に増資★★
大阪に高圧瓦斯工業(現コーアツ)を設立し炭酸ガス消火装置の製造・工事請負を開始
活線碍子洗浄装置の研究に成功
東京電力千葉火力発電所に活線碍子洗浄設備を設置
貨客船あるぜんちな丸に船舶用第1号のスプリンクラー消火設備を設置
スイスのサーベラス社とイオン式火災感知器の技術提携を締結★★
名神高速道路の梶原・天王山トンネルに高速道路トンネル第1号の防災設備を設置★★
東京証券取引所市場第二部に上場
埼玉県大里郡妻沼町にメヌマ工場を新設
霞ヶ関ビルに超高層ビル第1号の防災設備を設置★★
サーベラス社と資本提携し資本金3億5,500万円へ増資、同社が筆頭株主に★★
消防法改正が施行され超高層ビル・地下街などに火災報知機・煙感知器の設置が義務化★★
1972〜1995年公正取引委員会の勧告と青函トンネルが求めた技術日本火災報知機工業会の役員会で全国10地区への懇話会設置を決定
防火防排煙システムを開発
LNG基地防災システムを開発
セコムと業務提携を締結★★
住宅用火災警報器「まもるくん」を発売★★
台湾能美防災工業股份有限公司を設立
公正取引委員会が自動火災報知設備工事の受注調整をめぐり6社へ周知徹底命令を勧告★★
青函トンネルに防災設備を設置
商号を能美防災に変更★★
日信防災を設立
東京証券取引所市場第一部に指定替え
木村敞一中国に合弁会社「北京能美西科姆消防設備有限公司」を設立
1996〜2026年セコムの連結子会社となり災害全般へ広げた領域木村敞一上海能美西科姆消防設備有限公司に商号変更し上海工場を開設
木村敞一米国防火協会が消火システム「NN100」をハロン代替消火薬剤として承認
田上征セコムを引受先とする第三者割当増資で同社の連結子会社化★★★
橋爪毅インドに合弁会社「Unitech Nohmi Fire Protection System Pvt. Ltd.」を設立
橋爪毅埼玉県三郷市に研究開発センターを開設
藤井清隆インド合弁会社を解散し全額出資の「Nohmi Bosai (India) Pvt. Ltd.」を設立
藤井清隆創立100周年
伊藤龍典妻沼東事業所に展示施設「能美テクノリウム メヌマ」を開設
岡村武士東京証券取引所プライム市場に移行
岡村武士監査等委員会設置会社に移行
長谷川雅弘北興通信の株式を取得し子会社化
長谷川雅弘IHIから明星電気の全株式を取得し子会社化、気象防災・宇宙防衛機器に事業領域を拡大★★★
出典・参考 8件
出典・参考
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
  • 証券 1963年15巻1号(新規上場会社紹介)
  • 産業と経済 1950年
  • 経済展望 1965年
  • 実業往来 1968年
  • 東邦経済 1971年「爆発的な急成長から安定成長へ 能美防災工業」
  • 東邦経済 1971年「消防法の改正で飛躍的に成長 能美防災工業」

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