能美防災の出発点は火災報知機ではなく貿易にあった。創業者の能美輝一氏は1887年7月に山口県小郡町で生まれ、下関商業を経て早稲田大学商学部を1910年に卒業し、大阪の貿易商である堀田商会に入った。主人以下6名という小さな店で、注文取りから銀行や運送屋との交渉、通関手続、集金、カタログの編集までを4年で一通り手がけた。1914年に第一次世界大戦が始まって貿易業界が活況を呈すると、輝一氏は同商会を退き、ロシア人のG・K・カーン氏と組んでカーン商会を興して対露貿易に乗りだした。開店から約1年で社員20名を抱えるまでに伸びたが、ロシア革命によるルーブルの暴落が商売の前提を崩した。1916年12月、輝一氏は大阪市北区中之島に資金1万円で能美商会を開いた。
独立した輝一氏が次に選んだのは、規模で一流商社に対抗する道だった。開店3か月目に成立した砂糖の商談を足がかりに取引高を伸ばし、1年後には資本金を10万円へ引き上げた。1919年には、大資本を武器に弱小業者を圧迫する一流商社への対抗策として米国資本を導入し、能美商会とは別に資本金100万円の極東通商株式会社を設立した。輝一氏は30歳あまりで極東通商の社長として財閥系の業者と張り合う立場にあった。だが翌1920年の夏、上海の銀相場の暴騰に始まる北満特産物市場の混乱が対米鉄材市場へ、さらに造船界へ波及し、鈴木商店など有力商社が相次いで倒れた。能美商会と極東通商も例外ではなく、1922年に両社は債権債務の整理を余儀なくされた。
転機は1923年9月の関東大震災だった。極東通商を解散し、能美商会を縮小して時機を待っていた輝一氏は、震災の報を受けて神戸から横浜へ渡り、歩いて東京に入った。本所被服廠跡に積まれた遺骨の山を前に、4万人の命を奪ったのが地震ではなく火災だったことを知り、火災から人命と財産を守ることに残る生涯を充てると決めた。まず内務省警保局と火災保険協会を訪ねて日本の消防の実情を把握し、あわせて欧米先進諸国の状況を調べると、両者の隔たりの大きさに驚いた。当時の日本の消防は消火も予防も精神に重きを置いて科学性を欠き、一方で都市の人口過密と生活様式の近代化による火災の頻発が損害を増やすばかりだった。翌1924年3月、能美商会は貿易業から防火機器の製作と装置請負業へ移った。
火災予防を志した輝一氏のもとには、さまざまな事業や物件が持ち込まれるようになった。1924年3月、輝一氏は京橋区鍋町に能美商会を開き、宣伝をしながら販売を始めた。売り物は、5千円を払って一手販売の権利を得た自動火災予知器という特許品である。感応部に水銀を使い、手を当てるだけで温度を感じ取って警報ベルが鳴る仕組みが、輝一氏の目を引いていた。しかし月日がたっても特許番号がわからず、調べてみると、出願は英国人がそれより先に出していた特許に抵触し、とっくに退けられていた。震災で書類を焼失した特許事務所へ毎日通い詰めた結果、ロンドン郊外に住むG・L・スミス氏の特許第35945号「火災及び温度警報器」にたどり着いた。1925年、スミス氏の遺産管理人と特許権を譲り受ける契約を結び終えた。
買い直した特許は、明細書以上のものを与えなかった。大まかな特許明細書を頼りに作り上げた製品は、数個の椀型空気室とダイアフラム・接点・リークバルブを備えた検出器を内径3ミリの鉛管で接続した空気管式で、発明者の名を冠してスミス式自動出火速報機と名づけた。1925年に完成させて売り出したが、一向に売れなかった。その苦境で改良に没頭したのが脇坂三津雄氏であり、のちに技師長・技術部長として長く会社の発展に尽力した。鉛管に代わる銅管の製造に苦心した末、米国製の銅管を使うことで性能は一段と向上した。そして片倉製糸紡績の岡谷工場から採用と設置の報が届き、これが能美の報知機が世に出た第1号となった。
1925年11月、輝一氏は能美商会を合資会社に改組した。同じ年に自ら米国防火協会と英国消防長協会の会員となり、米国火災保険協会や英国火災保険協会とも関係を保って先進諸国の消防事情の知識を吸収した。特許権の調査で知ったロンドンの報知機メーカー各社とも技術上・業務上の接触を続け、昭和の初めには英国ピアソン社からバイメタル式の自動火災報知機を輸入している。1927年には単式自動出火警報機と名づけた型式を開発した。スミス式が1個の検知部に複数の感応部を持つのに対し、検知部と感応部を一体としたもので、原理と機構は現在多用される差動式スポット型と変わらない。翌1928年、この警報機は宮中の賢所御釜場などに設置された。
報知機の販売を阻んだのは技術ではなく、防火に対する世人の無関心だった。輝一氏は営業方針を根本から立て直し、大蔵省・鉄道省・逓信省などの現業官庁で大臣から局課長までを説き、警視庁消防部や東京都市計画課、京都府と大阪府の建築課に協力を求めて歩いた。その熱心さから各界で「火事の能美」という異名がついた。1928年に小冊子「出火通信について」を、1929年に「消防政策更新の義」を発表し、後者は天覧に供された。1931年から翌年にかけては大日本消防協会の嘱託として欧米各地を視察し、帰国後は防災教育と法令の改正に力を注いだ。それでも事業の実績は悪く、私財も貿易関係その他の事業収入も投じたうえ、高利貸からの借金と友人の援助で急場をしのぐ有様だった。
認識を変えたのは説得ではなく、実際に働いた設備だった。1930年、東京・滝野川の内閣印刷局工場から、空気管式A-2型を主体としAS型およびピアソン式を補助とする設置施工を受けた。鉄骨鉄筋コンクリート造で延べ3万数千平方メートルという規模は初めての大工事で、技術部長以下が現場近くに家を借りて泊まり込み、1931年3月に引き渡した。その工事中の1月12日午前5時、近くの印刷局王子抄紙部に設置した報知機が医務局の出火を報じ、出動した警備員はピストル型消火器2本とバケツ1杯の水で鎮火した。旧式の木造建築で、発見が遅れれば抄紙部全工場への類焼の危険が高かった。抄紙部の火災報知設備が竣工したのは、わずか3週間前の年末だった。
1933年、蓮華王院、通称三十三間堂に、日本で初めて国宝建造物への自動火災報知機が備えられた。文部省宗教局の監督下で昭和5年から8年にかけて進んだ大修築に合わせ、3期にわたる3年計画で完工した。1936年5月4日午前3時48分、本堂の床下から出た火をこの報知機が捉え、被害は須弥壇を中心とする床下柱の焼損にとどまった。火元の床下は外から出入りできない構造のため設計に入っておらず、廻縁の連絡用として設けた1本の空気管が早期発見の役を果たした。三十三間堂は内閣印刷局や文部省とともに、奏功への感謝状を寄せた先として並ぶ。1934年には船舶用火災報知設備も完成させた。
1944年5月、資本金100万円で日本防災通信工業株式会社が設立され、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した。創業から20年を経て、輝一氏個人の商会が法人の形を得た。終戦後の1948年9月、商号を能美防災工業へ改めた。1950年の時点で能美式の空気質式自動火災報知機の装置先は、宮中をはじめ京都の三十三間堂と各国宝所在建物、各官庁、大工場、船舶、GHQ関係など1,200〜1,300か所に及び、その年は5か月間に73か所の装置請負現場を数えた。創業から20年余りを経ても防火思想は低いままで、設備の需要は微々たるものにとどまった。報知機が売れる市場は、まだ法令の側から与えられていなかった。
輝一氏はかねて、国の防火に直接かかわるのは消防と建築、そして推進役としての火災保険であるべきだと書いていた。資本金は1944年5月の発足時に100万円で、1949年2月に300万円、同年6月には4万株の第三者割当で500万円となり、このうち1949年の増資は損害保険関係19社の資本参加によるものだった。報知機の代金を負担する建物側ではなく、火災で払う保険金を抑えたい側を株主として迎えた格好である。1962年12月に上場した際の大株主にも、東京海上火災保険と安田火災海上が各5万4千株、千代田火災海上・大東京火災海上・日本火災海上が各3万6千株で名を連ねていた。
報知の次に手がけたのは、火を消す側の設備だった。1962年3月期の売上構成は、自動火災報知装置46.7%、活線碍子洗滌装置25.4%、炭酸瓦斯消火装置15.1%、サーベラスその他12.0%、船舶用火災探知機0.8%で、報知機以外の製品が過半を占めていた。炭酸瓦斯消火装置の製造と工事請負は、1951年に大阪で設立した高圧瓦斯工業で始めたものである。1955年には活線碍子洗浄装置の研究を成功させ、送電を止めないまま碍子を洗える、火災報知とは系統の異なる製品を手に入れた。国産第1号となる船舶用スプリンクラーはあるぜんちな丸に取り付けられ、水噴霧消火設備の草分けとなった。トンネル防災という分野を開いたのも同社である。
多角化した製品を買ったのは、主に官公庁だった。1962年3月期の受注先別の比率は官庁60%・民需40%で、国宝建造物および米駐留軍関係はほとんど100%を受注施工していた。戦前に宮中や三十三間堂、内閣印刷局へ納めた実績が、そのまま戦後の官需につながった。製品ごとの主な販売先は、碍子洗滌装置が東京電力、炭酸瓦斯消火装置が日立製作所、自動火災報知装置が関東電気工事だった。火災報知器関係の業界における地位は、1961年までの過去3カ年累計平均で各製品とも約40%の占有率を持ち、全国第1位にあった。従業員は1962年8月末で493名、1963年7月末で580人だった。
1960年6月、スイスのサーベラス社とイオン式感知器および受信機に関する技術援助契約を締結した。イオン式は熱が上がってから動く方式と異なり、目に見えない0.1ミクロンから1ミクロンの粒子を捉え、燃焼生成物を熱より先に検知した。日本でこれを扱えたのは、極東の総代理となった能美防災工業1社だけだった。価格は他方式より高かったが、1個あたりの警戒面積が広く、設備一式で割り出せば必ずしも割高ではなかった。難燃化したビルや地下街では、燃えずにくすぶって煙が出る火災が増えており、熱をとらえる方式では間に合わない領域が広がっていた。
1961年の消防関係法令の適用拡大により、需要の上昇が見込まれた。1962年12月1日、東京証券取引所市場第二部へ株式を上場し、公募80万株によって資本金を1億6千万円とした。調達した資金は既存の三鷹工場の設備補強と研究施設の拡充に加え、埼玉県妻沼町に3万平方メートルの敷地を買収しての新工場建設に向けられた。この第一次計画の所要資金は1億6300万円で、1963年末の完成を予定していた。生産能力は三鷹工場の補強完成後に約30%、新工場の第一次計画分の完成後にさらに約60%の向上を見込んだ。法令が需要を押し上げる前に、生産能力を先に積む判断だった。
三鷹工場には受信機関係だけを残し、感知器と電鈴は新設の妻沼工場へ移して、工場ごとの専門化による合理化も並行して進めた。妻沼工場の新設は1964年で、3万3千平方メートルの敷地に4億5千万円をかけ、金型と冶工具の製作から完成品までを一か所で通して手がけ、工程はすべてコンベアで流す方式とした。材料の試験から製品の試験までを担う品質管理室も置いた。だが日本電気や沖電気といった大手が参入して競争が厳しくなり、1965年3月期は売上高28億5500万円・税引利益1億1700万円で、増収ながら減益に終わった。減益の理由は償却費と諸経費の増加に加え、競争激化による製品の値下がりだった。
1968年、イオン式感知器を手がけるスイスのサーベラス社と技術および資本の提携を行い、資本金を3億5500万円に増資した。1971年の時点で、筆頭株主の座にはサーベラス社がついていた。方針の一つは、イオン式煙感知器を国産化し、都市構造と建築様式の近代化につれて膨らむ需要に応えることだった。あわせて、労働力不足に悩む同社の生産力を国際分業で補い、その販売ルートを通じて各国へ輸出するとした。同じ1968年に完成した36階建ての三井霞ケ関ビルでは、能美防災工業の感知器が館内すべてに使われた。
1971年3月期の売上高は101億5800万円に達し、1969年3月期の45億6700万円から1970年3月期の62億7600万円を経て急増した。純利益も1億5000万円、2億7500万円、6億7900万円と推移し、2期で4.5倍になっている。1969年4月には改正消防法が施行され、ホテル・病院・映画館など一般大衆が集まる建物では火災報知器を、超高層ビルや地下街では煙感知器を備えることが義務になった。とくに火災報知器は前々期の42億3700万円から77.4%増の72億1600万円に達した。配当は1割3分から1割5分、さらに普通1割5分に特別5分を加えた2割へ引き上げられた。
1971年の時点では、日立製作所や松下電器産業も火災報知設備へ積極的に進出していた。競争がよりきびしさを加えるとみた会社側は、1972年3月期の予想を売上高120億円・純利益7億5000万円から8億円と、前期比2割増に控えめに置いた。すでに1968年には、需要急増と半独占の強みによる高収益の時期が過ぎ、高成長から安定成長期に入っていた。内需が中心で消防法改正の裏づけがあるため先行きの懸念は小さかったが、この2〜3年のような急成長は見込みにくくなっていた。火災報知機の義務範囲がマンションや住宅公団まで広がる消防法の再改正が実現すれば、需要は再び大きく伸びる余地があった。需要の大きさを決めるのは技術ではなく法令であり、能美防災工業はその外側に成長の源を置く会社になっていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1916〜1948年貿易商・能美輝一が関東大震災で選んだ防火機器の道 | 能美輝一が大阪市で能美商会を創立 | ★★★ | ||
| 自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売と取付工事請負業を創業 | ★★★ | |||
| 能美商会を合資会社に改組 | ★ | |||
| 三十三間堂に国宝建造物として初の自動火災報知機を設置 | ★ | |||
| 皇居に自動火災報知機を設置 | ★ | |||
| 日本防災通信工業を設立し能美商会の防火・防盗業務を継承 | ★★ | |||
| 本店を東京都北多摩郡三鷹町に移転 | ★ | |||
| 商号を能美防災工業に変更 | ★★ | |||
| 1949〜1971年損害保険19社の出資と消防法改正が生んだ売上100億円 | 損害保険関係19社の資本参加を受け資本金を500万円に増資 | ★★ | ||
| 大阪に高圧瓦斯工業(現コーアツ)を設立し炭酸ガス消火装置の製造・工事請負を開始 | ★ | |||
| 活線碍子洗浄装置の研究に成功 | ★ | |||
| 東京電力千葉火力発電所に活線碍子洗浄設備を設置 | ★ | |||
| 貨客船あるぜんちな丸に船舶用第1号のスプリンクラー消火設備を設置 | ★ | |||
| スイスのサーベラス社とイオン式火災感知器の技術提携を締結 | ★★ | |||
| 名神高速道路の梶原・天王山トンネルに高速道路トンネル第1号の防災設備を設置 | ★★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 埼玉県大里郡妻沼町にメヌマ工場を新設 | ★ | |||
| 霞ヶ関ビルに超高層ビル第1号の防災設備を設置 | ★★ | |||
| サーベラス社と資本提携し資本金3億5,500万円へ増資、同社が筆頭株主に | ★★ | |||
| 消防法改正が施行され超高層ビル・地下街などに火災報知機・煙感知器の設置が義務化 | ★★ | |||
| 1972〜1995年公正取引委員会の勧告と青函トンネルが求めた技術 | 日本火災報知機工業会の役員会で全国10地区への懇話会設置を決定 | ★ | ||
| 防火防排煙システムを開発 | ★ | |||
| LNG基地防災システムを開発 | ★ | |||
| セコムと業務提携を締結 | ★★ | |||
| 住宅用火災警報器「まもるくん」を発売 | ★★ | |||
| 台湾能美防災工業股份有限公司を設立 | ★ | |||
| 公正取引委員会が自動火災報知設備工事の受注調整をめぐり6社へ周知徹底命令を勧告 | ★★ | |||
| 青函トンネルに防災設備を設置 | ★ | |||
| 商号を能美防災に変更 | ★★ | |||
| 日信防災を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| 木村敞一 | 中国に合弁会社「北京能美西科姆消防設備有限公司」を設立 | ★ | ||
| 1996〜2026年セコムの連結子会社となり災害全般へ広げた領域 | 木村敞一 | 上海能美西科姆消防設備有限公司に商号変更し上海工場を開設 | ★ | |
| 木村敞一 | 米国防火協会が消火システム「NN100」をハロン代替消火薬剤として承認 | ★ | ||
| 田上征 | セコムを引受先とする第三者割当増資で同社の連結子会社化 | ★★★ | ||
| 橋爪毅 | インドに合弁会社「Unitech Nohmi Fire Protection System Pvt. Ltd.」を設立 | ★ | ||
| 橋爪毅 | 埼玉県三郷市に研究開発センターを開設 | ★ | ||
| 藤井清隆 | インド合弁会社を解散し全額出資の「Nohmi Bosai (India) Pvt. Ltd.」を設立 | ★ | ||
| 藤井清隆 | 創立100周年 | ★ | ||
| 伊藤龍典 | 妻沼東事業所に展示施設「能美テクノリウム メヌマ」を開設 | ★ | ||
| 岡村武士 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 岡村武士 | 監査等委員会設置会社に移行 | ★ | ||
| 長谷川雅弘 | 北興通信の株式を取得し子会社化 | ★ | ||
| 長谷川雅弘 | IHIから明星電気の全株式を取得し子会社化、気象防災・宇宙防衛機器に事業領域を拡大 | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(能美防災)