第1章 年〜年

能美防災:能美輝一の能美商会創立と自動火災報知装置の事業化

1916年〜貿易商・能美商会と関東大震災の衝撃

能美防災の出発点は火災報知機ではなく貿易にあった。創業者の能美輝一氏は1887年7月に山口県小郡町で生まれ、下関商業を経て早稲田大学商学部を1910年に卒業し、大阪の貿易商である堀田商会に入った。主人以下6名という小さな店で、注文取りから銀行や運送屋との交渉、通関手続、集金、カタログの編集までを4年で一通り手がけた。1914年に第一次世界大戦が始まって貿易業界が活況を呈すると、輝一氏は同商会を退き、ロシア人のG・K・カーン氏と組んでカーン商会を興して対露貿易に乗りだした。開店から約1年で社員20名を抱えるまでに伸びたが、ロシア革命によるルーブルの暴落が商売の前提を崩した。1916年12月、輝一氏は大阪市北区中之島に資金1万円で能美商会を開いた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [1]能美輝一は明治20年7月5日に山口県小郡町に生まれ、下関商業を経て早稲田大学に学び、明治43年に商学部を卒業して大阪市の貿易商堀田商会に入社した
    • [2]堀田商会は主人以下総員6名で、能美は4年間に注文取り・銀行関係・運送屋との交渉・通関手続・集金・カタログの編集まであらゆる仕事を手がけた
    • [3]大正3年の第一次世界大戦勃発で貿易業界が活況となり、能美は堀田商会を退職して露人G.K.カーンと共同でカーン商会を設立し対露貿易を開始した
    • [4]カーン商会は開店後約1年で社員20名を擁するまで発展したが、ロシア革命による帝制ロシア崩壊でルーブル貨幣が大暴落し致命的な打撃を受けた
    • [5]大正5年12月、能美は大阪市北区中之島2丁目に1万円の資金で能美商会を開店した
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1916年12月、能美輝一が大阪市において能美商会を創立

独立した輝一氏が次に選んだのは、規模で一流商社に対抗する道だった。開店3か月目に成立した砂糖の商談を足がかりに取引高を伸ばし、1年後には資本金を10万円へ引き上げた。1919年には、大資本を武器に弱小業者を圧迫する一流商社への対抗策として米国資本を導入し、能美商会とは別に資本金100万円の極東通商株式会社を設立した。輝一氏は30歳あまりで極東通商の社長として財閥系の業者と張り合う立場にあった。だが翌1920年の夏、上海の銀相場の暴騰に始まる北満特産物市場の混乱が対米鉄材市場へ、さらに造船界へ波及し、鈴木商店など有力商社が相次いで倒れた。能美商会と極東通商も例外ではなく、1922年に両社は債権債務の整理を余儀なくされた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [7]能美商会は開店3か月目に砂糖の商談が成立し、1年後には資本金を10万円に引き上げた
    • [8]大正8年、能美は大資本で弱小業者を圧迫する一流商社への対抗策として米国資本を導入し、資本金100万円の極東通商株式会社を設立した
    • [10]大正9年夏、上海銀相場の暴騰から起こった北満特産物市場の混乱を皮切りに対米鉄材市場と造船界に大恐慌が起こり、鈴木商店などの大商社が枕を並べて倒産した
    • [11]大正11年、能美商会と極東通商は両社の債権債務整理を受けた
  • 産業と経済 1950年
    • [9]能美輝一は早稲田を出て三十余歳で極東通商株式会社の社長を務め、財閥業者と伍していた

転機は1923年9月の関東大震災だった。極東通商を解散し、能美商会を縮小して時機を待っていた輝一氏は、震災の報を受けて神戸から横浜へ渡り、歩いて東京に入った。本所被服廠跡に積まれた遺骨の山を前に、4万人の命を奪ったのが地震ではなく火災だったことを知り、火災から人命と財産を守ることに残る生涯を充てると決めた。まず内務省警保局と火災保険協会を訪ねて日本の消防の実情を把握し、あわせて欧米先進諸国の状況を調べると、両者の隔たりの大きさに驚いた。当時の日本の消防は消火も予防も精神に重きを置いて科学性を欠き、一方で都市の人口過密と生活様式の近代化による火災の頻発が損害を増やすばかりだった。翌1924年3月、能美商会は貿易業から防火機器の製作と装置請負業へ移った。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [12]能美は極東通商を解散し能美商会を縮小して時節待機の方針をとっていたが、関東大震災の報を受け神戸から横浜に上陸し歩いて東京に入った
    • [13]本所被服廠跡で一挙に4万人が亡くなったのが地震ではなく火災のためと知り、能美は火災から人命・財産を守ることに今後の生涯を賭けると心に誓った
    • [14]能美は内務省警保局・火災保険協会等を訪ねて日本の消防の現況を把握し、同時に欧米先進諸国の状況を調査して両者の間の大きな隔たりに驚いた
    • [15]当時の日本消防は消火でも予防でも精神に重きを置いて科学性に欠け、急速な都市化による人口過密と生活様式の近代化による火災の頻発が損害を急増させていた
  • 産業と経済 1950年
    • [16]能美輝一は震災の翌大正13年に貿易業から防火機器製作と装置の請負業に転じた
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1924年3月、わが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
参考文献[1]-[17]
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [1]能美輝一は明治20年7月5日に山口県小郡町に生まれ、下関商業を経て早稲田大学に学び、明治43年に商学部を卒業して大阪市の貿易商堀田商会に入社した
    • [2]堀田商会は主人以下総員6名で、能美は4年間に注文取り・銀行関係・運送屋との交渉・通関手続・集金・カタログの編集まであらゆる仕事を手がけた
    • [3]大正3年の第一次世界大戦勃発で貿易業界が活況となり、能美は堀田商会を退職して露人G.K.カーンと共同でカーン商会を設立し対露貿易を開始した
    • [4]カーン商会は開店後約1年で社員20名を擁するまで発展したが、ロシア革命による帝制ロシア崩壊でルーブル貨幣が大暴落し致命的な打撃を受けた
    • [5]大正5年12月、能美は大阪市北区中之島2丁目に1万円の資金で能美商会を開店した
    • [7]能美商会は開店3か月目に砂糖の商談が成立し、1年後には資本金を10万円に引き上げた
    • [8]大正8年、能美は大資本で弱小業者を圧迫する一流商社への対抗策として米国資本を導入し、資本金100万円の極東通商株式会社を設立した
    • [10]大正9年夏、上海銀相場の暴騰から起こった北満特産物市場の混乱を皮切りに対米鉄材市場と造船界に大恐慌が起こり、鈴木商店などの大商社が枕を並べて倒産した
    • [11]大正11年、能美商会と極東通商は両社の債権債務整理を受けた
    • [12]能美は極東通商を解散し能美商会を縮小して時節待機の方針をとっていたが、関東大震災の報を受け神戸から横浜に上陸し歩いて東京に入った
    • [13]本所被服廠跡で一挙に4万人が亡くなったのが地震ではなく火災のためと知り、能美は火災から人命・財産を守ることに今後の生涯を賭けると心に誓った
    • [14]能美は内務省警保局・火災保険協会等を訪ねて日本の消防の現況を把握し、同時に欧米先進諸国の状況を調査して両者の間の大きな隔たりに驚いた
    • [15]当時の日本消防は消火でも予防でも精神に重きを置いて科学性に欠け、急速な都市化による人口過密と生活様式の近代化による火災の頻発が損害を急増させていた
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1916年12月、能美輝一が大阪市において能美商会を創立
    • [17]1924年3月、わが国で初めて自動火災報知装置・防盗装置・防火機器の製造販売並びに取付工事請負業を創業
  • 産業と経済 1950年
    • [9]能美輝一は早稲田を出て三十余歳で極東通商株式会社の社長を務め、財閥業者と伍していた
    • [16]能美輝一は震災の翌大正13年に貿易業から防火機器製作と装置の請負業に転じた

1924年〜改めて取得したスミス特許と報知機第1号

火災予防を志した輝一氏のもとには、さまざまな事業や物件が持ち込まれるようになった。1924年3月、輝一氏は京橋区鍋町に能美商会を開き、宣伝をしながら販売を始めた。売り物は、5千円を払って一手販売の権利を得た自動火災予知器という特許品である。感応部に水銀を使い、手を当てるだけで温度を感じ取って警報ベルが鳴る仕組みが、輝一氏の目を引いていた。しかし月日がたっても特許番号がわからず、調べてみると、出願は英国人がそれより先に出していた特許に抵触し、とっくに退けられていた。震災で書類を焼失した特許事務所へ毎日通い詰めた結果、ロンドン郊外に住むG・L・スミス氏の特許第35945号「火災及び温度警報器」にたどり着いた。1925年、スミス氏の遺産管理人と特許権を譲り受ける契約を結び終えた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [18]火災予防の事業を志した能美のもとへは色々な人が様々な事業や物件を持ちこむようになった
    • [19]大正13年3月、能美は5千円を支払って一手販売契約を結び、京橋区鍋町2の4に能美商会の看板を掲げて宣伝販売を始めた
    • [20]自動火災予知器と称する特許品は感応部に水銀を用い、手を触れるだけでその温度に感応して警報ベルが鳴った
    • [21]特許品との触れ込みだったが番号さえ不明のまま月日がたち、調べたところ出願は英国人の先願特許に触れてとうに拒絶・却下されていた
    • [22]調査の結果、英国人はロンドン郊外に住むG・L・スミスで、特許は「火災及び温度警報器」に関する特許第35945号であることをつきとめた
    • [23]大正14年、スミス氏の遺産管理人と能美との間で特許権譲渡契約が完了した
  • 産業と経済 1950年
    • [24]英国のG.L.スミス氏考案の空気質式自動火災報知機の特許権を獲得した

買い直した特許は、明細書以上のものを与えなかった。大まかな特許明細書を頼りに作り上げた製品は、数個の椀型空気室とダイアフラム・接点・リークバルブを備えた検出器を内径3ミリの鉛管で接続した空気管式で、発明者の名を冠してスミス式自動出火速報機と名づけた。1925年に完成させて売り出したが、一向に売れなかった。その苦境で改良に没頭したのが脇坂三津雄氏であり、のちに技師長・技術部長として長く会社の発展に尽力した。鉛管に代わる銅管の製造に苦心した末、米国製の銅管を使うことで性能は一段と向上した。そして片倉製糸紡績の岡谷工場から採用と設置の報が届き、これが能美の報知機が世に出た第1号となった。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [25]大まかな特許明細書をたよりに製作したものは数個の椀型空気室とダイアフラム・接点・リークバルブを備えた検出器を内径3mmの鉛管で接続したもので、発明者の名を冠して《スミス式自動出火速報機》と命名した
    • [26]南鍋町の新事務所から《スミス式自動出火速報機》を発売し全員で宣伝拡販に努めたが一向に売れず、営業として容易ならぬ立場に追い込まれた
    • [28]苦境の中で報知機の改良に寝食を忘れて没頭したのが脇坂三津雄で、その後も技師長・技術部長として長く会社の発展に尽力した
    • [29]鉛管に替わる銅管の製造に苦心した結果、米国製の銅管を使用することで性能を一段と向上させた
    • [30]片倉製糸紡績株式会社岡谷工場から採用・設置の報を受け、これが能美の報知機が世に出た記念すべき第1号となった
  • 産業と経済 1950年
    • [27]大正14年に完成し「スミス式」と命名して売り出したのが能美防災工業の前身、合資会社能美商会である

1925年11月、輝一氏は能美商会を合資会社に改組した。同じ年に自ら米国防火協会と英国消防長協会の会員となり、米国火災保険協会や英国火災保険協会とも関係を保って先進諸国の消防事情の知識を吸収した。特許権の調査で知ったロンドンの報知機メーカー各社とも技術上・業務上の接触を続け、昭和の初めには英国ピアソン社からバイメタル式の自動火災報知機を輸入している。1927年には単式自動出火警報機と名づけた型式を開発した。スミス式が1個の検知部に複数の感応部を持つのに対し、検知部と感応部を一体としたもので、原理と機構は現在多用される差動式スポット型と変わらない。翌1928年、この警報機は宮中の賢所御釜場などに設置された。

  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1925年11月、能美商会を合資会社に改組
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [32]大正14年、能美は自ら米国防火協会(NFPA)・英国消防長協会の会員となり、米国火災保険協会(NBFU)・英国火災保険協会(FOC)とも密接な関係を保って先進諸国の消防事情の知識を吸収した
    • [33]スミス特許の調査で知ったロンドンの報知機メーカー各社と技術上・業務上の接触を保ち、昭和の始めには英国ピアソン社からバイメタル式の自動火災報知機を輸入した
    • [34]昭和2年、《単式自動出火警報機》と名付けた型式を開発発売した(後にAS型検出器と改称)
    • [35]単式自動出火警報機はスミス式が1個の検知部に複数の感応部を持つのに対し検知部と感応部を一体としたもので、原理的・機構的には現在多用される差動式スポット型と異なるところはない
    • [36]昭和3年、《単式自動出火警報機》は宮中の賢所御釜場・待医療・御写真場および御自動車場に設置された
参考文献[18]-[36]
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [18]火災予防の事業を志した能美のもとへは色々な人が様々な事業や物件を持ちこむようになった
    • [19]大正13年3月、能美は5千円を支払って一手販売契約を結び、京橋区鍋町2の4に能美商会の看板を掲げて宣伝販売を始めた
    • [20]自動火災予知器と称する特許品は感応部に水銀を用い、手を触れるだけでその温度に感応して警報ベルが鳴った
    • [21]特許品との触れ込みだったが番号さえ不明のまま月日がたち、調べたところ出願は英国人の先願特許に触れてとうに拒絶・却下されていた
    • [22]調査の結果、英国人はロンドン郊外に住むG・L・スミスで、特許は「火災及び温度警報器」に関する特許第35945号であることをつきとめた
    • [23]大正14年、スミス氏の遺産管理人と能美との間で特許権譲渡契約が完了した
    • [25]大まかな特許明細書をたよりに製作したものは数個の椀型空気室とダイアフラム・接点・リークバルブを備えた検出器を内径3mmの鉛管で接続したもので、発明者の名を冠して《スミス式自動出火速報機》と命名した
    • [26]南鍋町の新事務所から《スミス式自動出火速報機》を発売し全員で宣伝拡販に努めたが一向に売れず、営業として容易ならぬ立場に追い込まれた
    • [28]苦境の中で報知機の改良に寝食を忘れて没頭したのが脇坂三津雄で、その後も技師長・技術部長として長く会社の発展に尽力した
    • [29]鉛管に替わる銅管の製造に苦心した結果、米国製の銅管を使用することで性能を一段と向上させた
    • [30]片倉製糸紡績株式会社岡谷工場から採用・設置の報を受け、これが能美の報知機が世に出た記念すべき第1号となった
    • [32]大正14年、能美は自ら米国防火協会(NFPA)・英国消防長協会の会員となり、米国火災保険協会(NBFU)・英国火災保険協会(FOC)とも密接な関係を保って先進諸国の消防事情の知識を吸収した
    • [33]スミス特許の調査で知ったロンドンの報知機メーカー各社と技術上・業務上の接触を保ち、昭和の始めには英国ピアソン社からバイメタル式の自動火災報知機を輸入した
    • [34]昭和2年、《単式自動出火警報機》と名付けた型式を開発発売した(後にAS型検出器と改称)
    • [35]単式自動出火警報機はスミス式が1個の検知部に複数の感応部を持つのに対し検知部と感応部を一体としたもので、原理的・機構的には現在多用される差動式スポット型と異なるところはない
    • [36]昭和3年、《単式自動出火警報機》は宮中の賢所御釜場・待医療・御写真場および御自動車場に設置された
  • 産業と経済 1950年
    • [24]英国のG.L.スミス氏考案の空気質式自動火災報知機の特許権を獲得した
    • [27]大正14年に完成し「スミス式」と命名して売り出したのが能美防災工業の前身、合資会社能美商会である
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1925年11月、能美商会を合資会社に改組

1928年〜啓蒙と実証が需要をつくるまでの20年

報知機の販売を阻んだのは技術ではなく、防火に対する世人の無関心だった。輝一氏は営業方針を根本から立て直し、大蔵省・鉄道省・逓信省などの現業官庁で大臣から局課長までを説き、警視庁消防部や東京都市計画課、京都府と大阪府の建築課に協力を求めて歩いた。その熱心さから各界で「火事の能美」という異名がついた。1928年に小冊子「出火通信について」を、1929年に「消防政策更新の義」を発表し、後者は天覧に供された。1931年から翌年にかけては大日本消防協会の嘱託として欧米各地を視察し、帰国後は防災教育と法令の改正に力を注いだ。それでも事業の実績は悪く、私財も貿易関係その他の事業収入も投じたうえ、高利貸からの借金と友人の援助で急場をしのぐ有様だった。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [37]自動火災報知機の普及の出足を挫いたのは、防火に対する世人の無関心という大きな障壁であった
    • [38]能美は営業方針を根本的に立て直し、大蔵省・鉄道省・逓信省などの現業官庁で大臣・次官・局課長を説き、警視庁消防部・東京都市計画課・京都府・大阪府市建築課に協力を懇請して歩いた
    • [39]その熱心さについては各界から「火事の能美」という異名を与えられたことが証明している
    • [40]能美は昭和3年に「出火通信について」を発表し、昭和4年に発刊した「消防政策更新の義」が賜天覧の光栄に浴した
    • [42]事業の実績は非常に悪く、私財はもちろん貿易関係その他の事業収入を投じても経営状態は悪化の一途をたどり、高利貸からの借金や友人の援助で急場をしのぐ有様だった
  • 産業と経済 1950年
    • [41]能美は昭和6〜7年に大日本消防協会の嘱託となって欧米各地を視察し、帰国後は防災教育と法令改正・技術の面に力を注いだ

認識を変えたのは説得ではなく、実際に働いた設備だった。1930年、東京・滝野川の内閣印刷局工場から、空気管式A-2型を主体としAS型およびピアソン式を補助とする設置施工を受けた。鉄骨鉄筋コンクリート造で延べ3万数千平方メートルという規模は初めての大工事で、技術部長以下が現場近くに家を借りて泊まり込み、1931年3月に引き渡した。その工事中の1月12日午前5時、近くの印刷局王子抄紙部に設置した報知機が医務局の出火を報じ、出動した警備員はピストル型消火器2本とバケツ1杯の水で鎮火した。旧式の木造建築で、発見が遅れれば抄紙部全工場への類焼の危険が高かった。抄紙部の火災報知設備が竣工したのは、わずか3週間前の年末だった。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [43]昭和5年、東京・滝野川の内閣印刷局工場から空気管式A-2型を主体とし、AS型およびピアソン式を補助とする設置施工を拝命した
    • [44]滝野川工場は鉄骨・鉄筋コンクリート造り延べ3万数千m2の大工場で、当社にとって初めての大工事となり、技術部長以下数名が現場近くに家を借りて泊まり込み昭和6年3月に引渡しを完了した
    • [45]昭和6年1月12日午前5時、印刷局王子抄紙部に設置した報知機が医務局出火の報を発し、即時出動した警備員はピストル型消火器2本とバケツ1杯の水で完全に鎮火した
    • [46]王子抄紙部医務局の建物は旧式な木造建築で、発見がもう少し遅れていれば抄紙部全工場への類焼危険率もきわめて高かった
    • [47]全抄紙部の火災報知設備は、王子抄紙部の出火のわずか3週間前の年末に竣工したばかりであった

1933年、蓮華王院、通称三十三間堂に、日本で初めて国宝建造物への自動火災報知機が備えられた。文部省宗教局の監督下で昭和5年から8年にかけて進んだ大修築に合わせ、3期にわたる3年計画で完工した。1936年5月4日午前3時48分、本堂の床下から出た火をこの報知機が捉え、被害は須弥壇を中心とする床下柱の焼損にとどまった。火元の床下は外から出入りできない構造のため設計に入っておらず、廻縁の連絡用として設けた1本の空気管が早期発見の役を果たした。三十三間堂は内閣印刷局や文部省とともに、奏功への感謝状を寄せた先として並ぶ。1934年には船舶用火災報知設備も完成させた。

  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [48]昭和8年、わが国で初めて国宝建造物に自動火災報知機が設けられることになり、三十三間堂への施工を当社が命ぜられて完工した
    • [49]三十三間堂は昭和5年から8年にかけて文部省宗教局の監督下で昭和の大修築が施され、当社は修築計画に合わせ1期・2期・3期にわたる3年計画によって昭和8年に完工した
    • [50]昭和11年5月4日午前3時48分に三十三間堂の自動火災報知機が警報を発し、堂内床下の火元を発見して消火、被害は御本尊須弥壇を中心とする床下柱の焼損にとどまった
    • [51]出火場所の床下は外から出入りできない構造で設備の必要はないとして設計に入っていなかったが、廻縁の連絡用として設けた一本の空気管が早期発見という大役を果たした
  • 産業と経済 1950年
    • [52]奏功実績のうち感謝状を受けたものに三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店などがある
  • 実業往来 1968年
    • [53]昭和9年、船舶用火災報知設備を完成

1944年5月、資本金100万円で日本防災通信工業株式会社が設立され、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した。創業から20年を経て、輝一氏個人の商会が法人の形を得た。終戦後の1948年9月、商号を能美防災工業へ改めた。1950年の時点で能美式の空気質式自動火災報知機の装置先は、宮中をはじめ京都の三十三間堂と各国宝所在建物、各官庁、大工場、船舶、GHQ関係など1,200〜1,300か所に及び、その年は5か月間に73か所の装置請負現場を数えた。創業から20年余りを経ても防火思想は低いままで、設備の需要は微々たるものにとどまった。報知機が売れる市場は、まだ法令の側から与えられていなかった。

  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [54]昭和19年5月、資本金100万円をもって日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会からの業務を継承した
    • [56]大正13年3月、現社長能美輝一氏個人経営の能美商会を創立
    • [57]昭和23年9月、現商号に変更
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [55]昭和19年、日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した
    • [58]昭和23年、社名を能美防災工業と改称した
    • [60]創業当時は防火思想が低く本設備の需要は微々たるもので、鋭意研究と技術の向上に努めてわが国における本設備の先駆者たる基礎を固めた
  • 産業と経済 1950年
    • [59]能美空気質式自動火災報知機の装置先は宮中をはじめ京都の三十三間堂および各国宝所在建物・各官庁・大工場・船舶・GHQ関係など1,200〜1,300か所に及び、1950年は5か月間に装置請負現場が73か所に達した
参考文献[37]-[60]
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
    • [37]自動火災報知機の普及の出足を挫いたのは、防火に対する世人の無関心という大きな障壁であった
    • [38]能美は営業方針を根本的に立て直し、大蔵省・鉄道省・逓信省などの現業官庁で大臣・次官・局課長を説き、警視庁消防部・東京都市計画課・京都府・大阪府市建築課に協力を懇請して歩いた
    • [39]その熱心さについては各界から「火事の能美」という異名を与えられたことが証明している
    • [40]能美は昭和3年に「出火通信について」を発表し、昭和4年に発刊した「消防政策更新の義」が賜天覧の光栄に浴した
    • [42]事業の実績は非常に悪く、私財はもちろん貿易関係その他の事業収入を投じても経営状態は悪化の一途をたどり、高利貸からの借金や友人の援助で急場をしのぐ有様だった
    • [43]昭和5年、東京・滝野川の内閣印刷局工場から空気管式A-2型を主体とし、AS型およびピアソン式を補助とする設置施工を拝命した
    • [44]滝野川工場は鉄骨・鉄筋コンクリート造り延べ3万数千m2の大工場で、当社にとって初めての大工事となり、技術部長以下数名が現場近くに家を借りて泊まり込み昭和6年3月に引渡しを完了した
    • [45]昭和6年1月12日午前5時、印刷局王子抄紙部に設置した報知機が医務局出火の報を発し、即時出動した警備員はピストル型消火器2本とバケツ1杯の水で完全に鎮火した
    • [46]王子抄紙部医務局の建物は旧式な木造建築で、発見がもう少し遅れていれば抄紙部全工場への類焼危険率もきわめて高かった
    • [47]全抄紙部の火災報知設備は、王子抄紙部の出火のわずか3週間前の年末に竣工したばかりであった
    • [48]昭和8年、わが国で初めて国宝建造物に自動火災報知機が設けられることになり、三十三間堂への施工を当社が命ぜられて完工した
    • [49]三十三間堂は昭和5年から8年にかけて文部省宗教局の監督下で昭和の大修築が施され、当社は修築計画に合わせ1期・2期・3期にわたる3年計画によって昭和8年に完工した
    • [50]昭和11年5月4日午前3時48分に三十三間堂の自動火災報知機が警報を発し、堂内床下の火元を発見して消火、被害は御本尊須弥壇を中心とする床下柱の焼損にとどまった
    • [51]出火場所の床下は外から出入りできない構造で設備の必要はないとして設計に入っていなかったが、廻縁の連絡用として設けた一本の空気管が早期発見という大役を果たした
  • 産業と経済 1950年
    • [41]能美は昭和6〜7年に大日本消防協会の嘱託となって欧米各地を視察し、帰国後は防災教育と法令改正・技術の面に力を注いだ
    • [52]奏功実績のうち感謝状を受けたものに三十三間堂・文部省・追浜海軍航空廠・内閣印刷局・菊屋百貨店などがある
    • [59]能美空気質式自動火災報知機の装置先は宮中をはじめ京都の三十三間堂および各国宝所在建物・各官庁・大工場・船舶・GHQ関係など1,200〜1,300か所に及び、1950年は5か月間に装置請負現場が73か所に達した
  • 実業往来 1968年
    • [53]昭和9年、船舶用火災報知設備を完成
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
    • [54]昭和19年5月、資本金100万円をもって日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会からの業務を継承した
    • [56]大正13年3月、現社長能美輝一氏個人経営の能美商会を創立
    • [57]昭和23年9月、現商号に変更
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
    • [55]昭和19年、日本防災通信工業株式会社を設立し、能美商会の防火防盗に関する業務一切を継承した
    • [58]昭和23年、社名を能美防災工業と改称した
    • [60]創業当時は防火思想が低く本設備の需要は微々たるもので、鋭意研究と技術の向上に努めてわが国における本設備の先駆者たる基礎を固めた

出典・参考

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出典・参考
  • 能美防災 有価証券報告書【沿革】
  • 能美防災工業株式会社50年史(1974年)
  • 企業の歴史:明治百年(1968年)3編 企業の歴史「能美防災工業」
  • 産業と経済 1950年
  • 証券(新規上場会社紹介)1963年
  • 実業往来 1968年

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