1873年〜 「世界のシルク王」の到達点から戦後の無配転落まで
片倉工業の業績推移:単体
- 1920年 片倉組を改組し片倉製糸紡績を設立
- 1928年 ジョイント商会を設立
- 1939年 1872年創設の旧官営富岡製糸場(富岡製糸所)を合併
- 1943年 東亜栄養化学工業を設立
- 1943年 社名を片倉工業に変更
- 1954年 片倉ハドソン靴下を設立、婦人靴下事業開始
- 1967年 大宮ゴルフセンターを新設、旧製糸工場跡地等の開発事業に参入
諏訪の座繰製糸から始まった片倉組と全国展開
1873年、初代片倉兼太郎氏(当時24歳)が長野県諏訪川岸村において「10人繰りの座繰製糸」の事業を始めた。[1]前年に明治政府が群馬県に官営富岡製糸場を新設し[2]、洋式機械で生糸の量産を国策化した直後の時期にあたり、片倉兼太郎氏は民間として生糸の産業化に参入する形を採った。信州地区は桑の葉の生産に適した気候で養蚕が盛んだったため、農家から繭を集荷して製糸を行う事業環境が整っていた。創業から十数年で松本市内に製糸所を新設し、明治期を通じて大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分など全国各地に製糸所を構えた。大正期には全国に製糸所29カ所を運営し、輸出向け生糸の量産メーカーとして地位を確立した。
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1873年(明治6年)に片倉組(片倉工業の事業起源)が創業した
- [2]1872年に明治政府が群馬県に官営富岡製糸場を新設した
販売は輸出が中心だった。生糸は高級品で国内消費量は限られ、主に米国へ輸出された。米国市場では婦人用靴下の原料として大量に消費され、輸出ドル建て売上が片倉組の収益基盤を支えた。1920年3月、企業規模の拡大に合わせ組織を株式会社化し[3]、片倉製糸紡績株式会社を資本金5,000万円で設立[4]、本社を東京の京橋に置いた[5]。同社は発足時点で製糸業界の有力企業として位置付けられ、当時の日本国内ではグンゼ(郡是製糸)と並ぶ大手2社として認知された。法人化後は中小規模の製糸メーカー買収を続けて生産量を拡大し、1939年9月には1872年創設の旧官営富岡製糸場[6](株式会社富岡製糸所)を合併した。明治政府が国策で立ち上げた製糸産業の象徴を民間企業の片倉が引き受けた格好で、輸出産業としての生糸の最終的な集約者という位置を占めた。
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
- [3]1920年3月に片倉組を株式会社化し片倉製糸紡績株式会社を設立した
- [4]片倉製糸紡績は資本金5,000万円で設立された
- [5]設立時の本社は東京の京橋に置かれた
- [6]1939年9月に1872年創設の旧官営富岡製糸場(株式会社富岡製糸所)を合併した
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
- [1]1873年(明治6年)に片倉組(片倉工業の事業起源)が創業した
- [2]1872年に明治政府が群馬県に官営富岡製糸場を新設した
- [3]1920年3月に片倉組を株式会社化し片倉製糸紡績株式会社を設立した
- [4]片倉製糸紡績は資本金5,000万円で設立された
- [5]設立時の本社は東京の京橋に置かれた
- [6]1939年9月に1872年創設の旧官営富岡製糸場(株式会社富岡製糸所)を合併した
「片倉王国」の到達点と1954年の連続赤字、1969年の無配転落
1932年時点で片倉製糸紡績は従業員数3.8万名、製糸所62カ所を擁し、創業家の片倉家は「製糸王」「世界のシルク王」と形容された。同社は当時の日本における大企業の一角で、「片倉王国」と呼ばれる広域経営圏を保有した。1943年10月には東亜栄養化学工業株式会社(現トーアエイヨー[7]、連結子会社)を設立し、戦時下の食糧・栄養確保政策に対応する事業として設立し、後の医薬品事業の母体とした。同年11月には商号を「片倉工業株式会社」(現社名)に変更し[8]、製糸専業の社名から事業多角化を含意する商号へと改めた。1946年11月には大宮製作所を新設[9]、1949年5月に東京証券取引所に株式を上場し[10]、戦後復興期の繊維需要を捉える資本基盤を整えた。
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
- [7]1943年10月に東亜栄養化学工業株式会社(現トーアエイヨー)を設立した
- [8]1943年11月に商号を「片倉工業株式会社」(現社名)に変更した
- [9]1946年11月に大宮製作所を新設した
- [10]1949年5月に東京証券取引所に株式を上場した
戦後復興期の生糸需要は1950年代前半に転機を迎えた。1950年代に合成繊維のナイロンが普及し、高価な天然繊維である生糸の需要が急減した。婦人用靴下というそれまでの主用途で安価なナイロンへの代替が進み、東レがナイロンの量産を本格化させて急成長を遂げる傍らで、片倉工業は祖業の需要を直撃された。1954年度・1955年度の2期連続で赤字(無配)に転落[11]し、戦前まで「製糸王」と称された名門企業の業績悪化として業界で注目された。1954年5月には片倉ハドソン靴下株式会社を設立し婦人靴下事業を開始[12]、1960年7月にはメリヤス肌着事業に進出[13]するなど川下の衣料品へ業容を広げたが、いずれも合成繊維時代の量販競争のなかで本業の不振を補えるほどの規模には到達しなかった。
- 証券調査(7)(1971年4月)
- [11]1954年度に赤字(無配)へ転落した
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
- [12]1954年5月に片倉ハドソン靴下株式会社を設立し婦人靴下事業を開始した
- [13]1960年7月にメリヤス肌着事業へ進出した
国内工場の合理化は1958年から始まり、全国に点在する不採算製糸工場の閉鎖・集約を本格化させた。1961年12月に日本ビニロン株式会社(現ニチビ[14]、連結子会社)を設立して合成繊維ビニロンへの参入を試みたが、東レ・帝人など合繊大手の量産投資に追随できず事業化に失敗した。生糸部門の合理化遅れと合繊新規事業の不振が重なり、1969年12月に無配転落した。1873年の創業から96年、1920年の法人化から49年で、祖業の蚕糸業が競争力を失った時点だった。
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
- [14]1961年12月に日本ビニロン株式会社(現ニチビ)を設立した
- 片倉工業 有価証券報告書 第117期(2025年12月期)【沿革】
- [7]1943年10月に東亜栄養化学工業株式会社(現トーアエイヨー)を設立した
- [8]1943年11月に商号を「片倉工業株式会社」(現社名)に変更した
- [9]1946年11月に大宮製作所を新設した
- [10]1949年5月に東京証券取引所に株式を上場した
- [12]1954年5月に片倉ハドソン靴下株式会社を設立し婦人靴下事業を開始した
- [13]1960年7月にメリヤス肌着事業へ進出した
- [14]1961年12月に日本ビニロン株式会社(現ニチビ)を設立した
- 証券調査(7)(1971年4月)
- [11]1954年度に赤字(無配)へ転落した