創業1873年、明治政府が官営富岡製糸場で生糸の量産を国策化した直後の信州で、初代片倉兼太郎氏が長野県諏訪川岸村に座繰製糸の片倉組を起こした。養蚕の盛んな地で農家から繭を集め、生糸を米国の婦人靴下メーカーへ輸出する商いとして立ち上がった。国内消費の薄い高級品をドル建ての輸出需要に乗せたことで稼ぎが立ち、明治から大正にかけて全国に製糸所を広げ、業界でグンゼと並ぶ大手として「世界のシルク王」と呼ばれた。
決断1950年代にナイロンが婦人靴下の原料を置き換え、祖業の生糸需要が崩れて1969年に無配へ転落した。本業での再起の道が細るなか、1972年に香港系の投資家が「資産株」として株を買い占め、工場用地33万坪に潜む評価益を突き付けた。片倉はここで製糸の立て直しではなく、都市部の好立地に変わっていた工場跡地を商業施設へ組み替える道を選ぶ。大宮の跡地はのちのコクーンシティ、京橋の旧本社跡は東京スクエアガーデンとなり、不動産が主な収益源になった。
- 歴史詳細 3章・4,852字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 36件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1953〜2025年(73カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2004〜2025年(22カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2019〜2025年(7カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1954〜2025年(72カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2001〜2025年(25カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1873年創業の片倉組は国内ではなく米国向けの生糸輸出で成長したのか
- A 生糸は高級品で国内の消費量が限られ、収益を立てるには海外需要に頼るほかなかったためである。1873年に初代片倉兼太郎氏が長野県諏訪川岸村で座繰製糸の片倉組を起こすと、養蚕の盛んな信州で農家から繭を集め、製糸を米国の婦人靴下メーカーへ輸出する商いを据えた。米国市場では婦人用靴下の原料として生糸が大量に消費され、ドル建ての輸出売上が収益基盤を支えた。明治から大正にかけて全国へ製糸所を広げ、グンゼと並ぶ大手として「世界のシルク王」と呼ばれた。
- Q なぜ1972年の香港系投資家による株式買い占めが製糸の立て直しではなく不動産への転換を促したのか
- A 1950年代にナイロンが婦人靴下の原料を置き換えて祖業の生糸需要が崩れ、1969年の無配転落で本業再起の道が細っていたためである。1972年に香港系の投資家が「資産株」として株を買い占め、都市部の好立地に変わっていた工場用地33万坪に潜む評価益を突き付けた。片倉は製糸の再建ではなく、跡地を商業施設へ組み替える道を選んだ。大宮の跡地はのちのコクーンシティ、京橋の旧本社跡は東京スクエアガーデンとなり、不動産が主な収益源になった。
- Q なぜ2019年就任の上甲社長は土地が生んだ利益を内部に積まず株主へ戻したのか
- A 製糸跡地を組み替えて積み上げた含み益を抱え込むより、株主へ配って資本効率を高める方が保有資産に見合うと判断したためである。2019年にみずほ銀行出身の上甲亮祐氏が社長に就くと、長く抱えた政策保有株式の売却を進めて持ち合いを解いた。2024年12月期には自己株式取得を14億円規模で実施し、2025年12月期も機動的な自社株買いの継続を表明したうえ、期末配当を会社予想から10円増の60円へ引き上げた。含み益を内部へ積み増すのではなく株主へ戻す配分へ切り替えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1873年〜1969年 「世界のシルク王」の到達点から戦後の無配転落まで
諏訪の座繰製糸から始まった片倉組と全国展開
1873年(明治6年)、初代片倉兼太郎氏(当時24歳)が長野県諏訪川岸村において「10人繰りの座繰製糸」の事業を始めた[1]。前年に明治政府が群馬県に官営富岡製糸場を新設し、洋式機械で生糸の量産を国策化した直後の時期にあたり、片倉兼太郎氏は民間として生糸の産業化に参入する形を採った[2]。信州地区は桑の葉の生産に適した気候で養蚕が盛んだったため、農家から繭を集荷して製糸を行う事業環境が整っていた。創業から十数年で松本市内に製糸所を新設し、明治期を通じて大宮・郡山・高畠・一宮・姫路・上井・鳥栖・大分など全国各地に製糸所を構えた。大正期には全国に製糸所29カ所を運営し、輸出向け生糸の量産メーカーとして地位を確立した。
販売は輸出が中心だった。生糸は高級品で国内消費量は限られ、主に米国へ輸出された。米国市場では婦人用靴下の原料として大量に消費され、輸出ドル建て売上が片倉組の収益基盤を支えた。1920年3月、企業規模の拡大に合わせ組織を株式会社化し、片倉製糸紡績株式会社を資本金5,000万円で設立、本社を東京の京橋に置いた[3][4][5]。同社は発足時点で製糸業界の有力企業として位置付けられ、当時の日本国内ではグンゼ(郡是製糸)と並ぶ大手2社として認知された。法人化後は中小規模の製糸メーカー買収を続けて生産量を拡大し、1939年9月には1872年創設の旧官営富岡製糸場(株式会社富岡製糸所)を合併した[6]。明治政府が国策で立ち上げた製糸産業の象徴を民間企業の片倉が引き受けた格好で、輸出産業としての生糸の最終的な集約者という位置を占めた。
「片倉王国」の到達点と1954年の連続赤字、1969年の無配転落
1932年時点で片倉製糸紡績は従業員数3.8万名、製糸所62カ所を擁し、創業家の片倉家は「製糸王」「世界のシルク王」と形容された。同社は当時の日本における大企業の一角で、「片倉王国」と呼ばれる広域経営圏を保有した。1943年10月には東亜栄養化学工業株式会社(現トーアエイヨー、連結子会社)を設立し、戦時下の食糧・栄養確保政策に対応する事業として設立し、後の医薬品事業の母体とした[7]。同年11月には商号を「片倉工業株式会社」(現社名)に変更し、製糸専業の社名から事業多角化を含意する商号へと改めた[8]。1946年11月には大宮製作所を新設、1949年5月に東京証券取引所に株式を上場し、戦後復興期の繊維需要を捉える資本基盤を整えた[9][10]。
戦後復興期の生糸需要は1950年代前半に転機を迎えた。1950年代に合成繊維のナイロンが普及し、高価な天然繊維である生糸の需要が急減した。婦人用靴下というそれまでの主用途で安価なナイロンへの代替が進み、東レがナイロンの量産を本格化させて急成長を遂げる傍らで、片倉工業は祖業の需要を直撃された。1954年度・1955年度の2期連続で赤字(無配)に転落し、戦前まで「製糸王」と称された名門企業の業績悪化として業界で注目された[11]。1954年5月には片倉ハドソン靴下株式会社を設立し婦人靴下事業を開始、1960年7月にはメリヤス肌着事業に進出するなど川下の衣料品へ業容を広げたが、いずれも合成繊維時代の量販競争のなかで本業の不振を補えるほどの規模には到達しなかった[12][13]。
国内工場の合理化は1958年から始まり、全国に点在する不採算製糸工場の閉鎖・集約を本格化させた。1961年12月に日本ビニロン株式会社(現ニチビ、連結子会社)を設立して合成繊維ビニロンへの参入を試みたが、東レ・帝人など合繊大手の量産投資に追随できず事業化に失敗した[14]。生糸部門の合理化遅れと合繊新規事業の不振が重なり、1969年12月に無配転落した。1873年の創業から96年、1920年の法人化から49年で、祖業の蚕糸業が競争力を失った時点だった。
1969年〜2008年 香港系投資家の買い占めを契機にした不動産事業化と4本柱の形成
株式買い占めが浮き彫りにした「資産株」の側面
1969年の無配転落後、片倉工業は本業の繊維業で収益力を取り戻す道を絶たれた一方、創業以来全国各地に保有してきた工場用地という資産を抱える状況にあった。1972年、香港系の投資家が片倉工業の株式を10%前後まで買い占め、保有資産(工場用地を中心に33万坪)に対して株価が割安と判断した投資家による「資産株」狙いの動きとして話題を呼んだ。製糸工場跡地の都市部立地、特に埼玉県大宮などの一等地に評価益が潜むという外部資本からの指摘が、片倉工業に資産活用の方針転換を迫る圧力となった。
不動産事業の本格化は1973年3月の取手ショッピングプラザ新設から始まった。製糸工場跡地を商業施設として再開発するモデルで、立地優位を商業需要に転換する手法を採った。1981年3月には松本カタクラモールを新設、1983年4月には大宮カタクラパーク(現コクーンシティ)を新設し、1980年代には信州・関東を中心に工場跡地のショッピングセンター化が業容拡大の主軸となった[15][16]。蚕糸事業からの撤退は1988年3月の事業集約効率化決定で本格化し、1製糸工場(熊谷工場)・1蚕種製造所(沼津蚕種製造所)体制まで縮小したのち、1992年に熊谷工場の生糸製造を中止、1994年には熊谷工場・沼津蚕種製造所も休止し、蚕糸関係製造業務から完全撤退した[17][18][19]。創業1873年から121年で祖業の生糸製造を畳んだ判断である。
医薬品・機械関連を加えた4本柱体制への移行
戦時中の1943年に設立された東亜栄養化学(現トーアエイヨー)と、1955年10月設立の片倉機器工業株式会社(連結子会社、2019年事業撤退)、1961年12月設立の日本ビニロン(現ニチビ)は、戦後を通じて片倉工業の本業外事業として育成された[20]。蚕糸事業の縮小と並行して、これら子会社群を残存事業として束ねる構造へ移った。とりわけトーアエイヨーは循環器系医療用医薬品の専業メーカーとして1960年代から1980年代にかけて事業を確立し、片倉工業グループの医薬品事業の中核として位置付けられた[21]。1987年10月には株式会社片倉キャロン(現片倉キャロンサービス、連結子会社)を設立、1996年11月の熊本ショッピングセンター新設、2004年10月の白石片倉ショッピングセンター新設と、商業施設網も継続的に拡張した[22][23][24]。
2004年9月のカタクラ新都心モール(現コクーンシティ コクーン1)新設は不動産事業の中核を成す事業判断だった[25]。立地はJRさいたま新都心駅から徒歩圏で、2000年開業の同駅は高崎線・宇都宮線・京浜東北線が停車する集客優位を持っていた。「コクーン」の名称は生糸の原料である「繭」に由来し、製糸事業の遺伝子を商業施設の屋号として継承する命名だった。2005年9月には旧官営富岡製糸場(富岡工場)の建物等を群馬県富岡市へ寄付、2006年に同工場の土地を同市へ売却した[26][27]。1939年の合併以来66年保有した日本近代産業の象徴的施設を、地元自治体へ譲渡する判断で、富岡製糸場は2014年に世界遺産登録された[28]。2008年8月にはオグランジャパン株式会社を設立し、同年11月にオグラン株式会社の繊維事業を譲り受けて連結子会社化した[29]。蚕糸時代から続く繊維事業を独立子会社へ集約する形で、本体事業ポートフォリオの整理を進めた。
不動産・医薬品・機械関連・繊維の4本柱体制が確立する過程で、有報の事業セグメント表記も変遷した。FY04(2004年12月期)からセグメント開示が始まり、繊維事業・サービス事業(不動産)・医薬品事業・機械関連事業・その他事業の構成が定着、FY15(2015年12月期)には不動産・医薬品・機械関連・繊維の4セグメント体制となった[30][31]。FY07(2007年12月期)の連結売上高497億円のうち、医薬品事業185億円、サービス事業131億円、機械関連事業97億円、繊維事業80億円、その他事業4億円という構成で、医薬品が祖業の繊維を売上で上回る構造に既に転じていた。
2008年〜2025年 コクーンシティ拡張と祖業切り離しの完遂
東京スクエアガーデンとコクーンシティで不動産事業の中核を構築
2013年3月、東京スクエアガーデンが竣工した[32]。中央区京橋にあった旧本社跡地を活用した複合施設で、東京メトロ銀座線「京橋」駅直結という都心一等地の優位を高層オフィスビルとして開発した事業である[33]。1920年に片倉製糸紡績が本社を置いた京橋という立地は、創業期から続く所有不動産が、戦後の蚕糸縮小・1980年代の商業施設化・2010年代の都心オフィス化と、3段階で活用形態を更新してきた経緯を象徴する場所となった。2015年4月にはコクーン2の新設に合わせて大宮カタクラパークとカタクラ新都心モールを統合してコクーンシティを新設、同年7月にコクーン3を新設し、さいたま新都心の商業集積を大宮工場跡地で完成させた[34]。2021年10月の福島ショッピングセンター新設で、商業施設網は東日本を中心に広がった[35]。
2019年3月、上甲亮祐氏が代表取締役社長に就任した[36]。1985年一橋大学経済学部卒業後、富士銀行(現みずほ銀行)入行、2012年みずほフィナンシャルグループ執行役員、2014年常務執行役員、2018年片倉工業専務を経ての社長昇格で、前社長の佐野公哉氏は代表権のある会長へ移った。みずほFG出身の上甲社長就任は、金融機関出身者を経営トップに迎える「外部頭脳」の活用判断でもあった。同社長は「シルクのカタクラ」として培われた経営資源を活用し、不動産・医薬品・機械関連・繊維の4本柱を推進する方針を示した(片倉工業 社長ごあいさつ)。
衣料品事業譲渡と機械電子事業撤退で構造改革を完遂
2020年1月、希望退職者100名の募集を決定した。介護事業など不採算事業の整理を判断したものとなり、コロナ禍前夜の固定費削減策として実施された。2021年12月期(FY21)に株主報告書で報告された通り、衣料品事業の縮小と機械電子事業からの撤退決定がこの時期に重なった。2017年に策定した中期経営計画「カタクラ2021」は2022年12月期決算発表時点(2023年FY23報告)に取り下げ、構造改革(衣料品事業のオグランジャパン㈱への譲渡、機械電子事業撤退、医薬品事業のビジネスモデル見直し)を断行する方針へ切り替えた(FY23 決算説明会)。2022年4月には医薬品の自社販売体制を全製品で開始し、子会社トーアエイヨーが担っていた循環器系医薬品事業をグループ内で完結する販売モデルへ移行した。
2023年4月には株式会社FPGテクノロジー(現カタクラ・クロステクノロジー)の全株式を取得して連結子会社化、機械関連事業の領域を拡張した[37]。同年1月には東近紙工株式会社を連結子会社化、2024年7月には株式会社三全を連結子会社化と、外部企業のM&Aで非繊維事業の事業領域を継続的に広げた[38][39]。2023年6月には子会社オグランジャパン株式会社へ繊維事業のメリヤス肌着事業を譲渡し(1960年7月開始のメリヤス肌着事業から63年で本体から切り離し)、繊維事業の本体保有比重をさらに縮小した[40]。2024年12月期(FY24)の連結売上高394億円、営業利益41億円・営業利益率10.4%、純利益35億円、有利子負債は78億円まで縮小、自己資本860億円という財務構造に整った。
2025年12月期(FY25)のセグメント別売上では、不動産117億円(営業利益44億円)、医薬品117億円(営業利益10億円)、機械関連78億円(営業利益8億円)、繊維68億円(営業利益7億円)の4セグメント構成となった。1873年の創業から152年、製糸単一事業の収益で1932年に「片倉王国」を築いた会社は、不動産(コクーンシティと東京スクエアガーデン)・医薬品(トーアエイヨー)・機械関連(日本機械工業)・繊維(ニチビとオグランジャパン)の4本柱体制を整え、各セグメントの売上規模が68〜117億円の幅に収まる「祖業切り離し」型の中堅複合企業として再構成した[41]。2025年5月には日機マギルス事業部を設置し高所作業車両等の販売活動を開始するなど、機械関連の領域追加も進めた[42]。2022年4月の市場区分見直しでは東証一部からスタンダード市場へ移行し、東証プライムへの再昇格よりも事業ポートフォリオ再構成の完遂を優先する経営姿勢を示した[43]。