1862年〜 舶来雑貨の直輸入から興した製造業と、広げすぎた神戸の砂糖商(1862〜1927)
- 1862年 1862年の岩井文助商店の創業と、鈴木商店系・日商との合併による日商岩井の発足 大阪の舶来雑貨商と、破綻した鈴木商店の再起組が106年をへて一つの商社へ合流するまで
- 1896年 岩井勝次郎氏が独立し岩井商店を興す
- 1912年 岩井商店を株式会社へ改組し資本金200万円で発足
- 1918年 資本金500万円へ増資し政府指定の米穀輸入商に選定
- 1927年 台湾銀行の融資打切りで鈴木商店が破綻
外国商館の手を経ずに輸入する道を探した大阪の雑貨商
日商岩井の系譜でもっとも古い店は、1862年に岩井文助氏が大阪で開いた雑貨商[1]であり、舶来雑貨と石油の取扱[2]から商いを始めた。ただし創業年には資料の食い違いがあり、1955年刊の会社銀行八十年史は初代岩井文助氏が明治3年に大阪市東区南久太郎町で雑貨商を起こした[3]と記し、証券アナリストジャーナル1983年6月号は1860年の創業とする。1885年ごろからは、のちに暖簾を継ぐ岩井勝次郎氏——当時は蔭山姓[4]——が、神戸の外国商館との間で居留地貿易を始めた[5]。開港場の外国商館が輸出入の実務を握っていた時代[6]に、内地の商人が外商の手を経ずに品を仕入れる道を探る動きであった。
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [1]岩井文助氏による雑貨商の創業は1862年(文久2年)と記録される
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [2]創業時の取扱品は舶来雑貨と石油であった
- [3]会社銀行八十年史は創業を明治3年・大阪市東区南久太郎町とする
- [4]岩井勝次郎氏は当時蔭山姓を名乗っていた
- [5]1885年ごろから岩井勝次郎氏(当時は蔭山姓)が神戸の外国商館との居留地貿易を始めた
- [6]当時の輸出入実務は開港場の外国商館が握っていた
1896年、岩井勝次郎氏はロンドンのウイリアム・ダッフ商会を代理店に立て[7]、ハンブルク・ウィーン・ニューヨークにも代理店を置いて[8]直輸入貿易を始めた。1904年2月に大阪市東区北浜へ新事務所を建てて移り[9]、翌1905年3月には中国貿易に着手した。同じ年にビルマのラングーンへ絹織物を輸出[10]し、同地からパラフィン蝋と雑穀を輸入した。1907年には東京で白金莫大小工場を経営[11]し、国産のメリヤス製品・マッチ・樟脳・薄荷を南方諸地域へ送る端緒を開いた。1908年にはフィリピンのスミス・ベルと太田興業からマニラ麻の輸入を始め[12]、同地向けに日本雑貨を輸出した。
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [7]1896年にロンドンのウイリアム・ダッフ商会を代理店として直輸入貿易を開始した
- [8]ハンブルク・ウィーン・ニューヨークにも代理店を設けた
- [9]1904年2月に大阪市東区北浜へ新事務所を建設し移転した
- [10]1905年3月に中国貿易へ着手し、ビルマのラングーンへ絹織物を輸出した
- [11]1907年に東京で白金莫大小工場を経営し南方向け輸出の端緒とした
- [12]1908年にフィリピンのスミス・ベルと太田興業からマニラ麻の輸入を始めた
1912年10月2日、岩井商店は株式会社へ改組し、資本金200万円[13]で新たに発足し、初代社長には岩井勝次郎[14]氏が就いた。岩井勝次郎氏は岩井文助氏の養子で、1896年に独立して岩井商店を起こしていた[15]。1915年12月にニューヨーク出張所を開き[16]、翌1916年10月には岩井家の事業を統べる機関として資本金300万円の合資会社岩井本店[17]を設けた。第一次世界大戦の戦時需要のもとで商いは膨らみ、1918年1月に岩井商店は資本金を500万円へ増やした[18]。同じ年、三井・鈴木商店・湯浅とならんで政府指定の米穀輸入商に選ばれ[19]た。
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [13]1912年10月2日に株式会社岩井商店へ改組し資本金200万円で発足した
- [14]初代社長に岩井勝次郎氏が就任した
- [16]1915年12月にニューヨーク出張所を開設した
- [17]1916年10月に資本金300万円の合資会社岩井本店を岩井家事業の統轄機関として設立した
- [18]1918年1月に岩井商店は資本金を500万円へ増資した
- [19]三井・鈴木商店・湯浅とともに政府指定の米穀輸入商に選ばれた
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [15]岩井勝次郎氏は岩井文助氏の養子で1896年に独立し岩井商店を起こした
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [1]岩井文助氏による雑貨商の創業は1862年(文久2年)と記録される
- [15]岩井勝次郎氏は岩井文助氏の養子で1896年に独立し岩井商店を起こした
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [2]創業時の取扱品は舶来雑貨と石油であった
- [3]会社銀行八十年史は創業を明治3年・大阪市東区南久太郎町とする
- [4]岩井勝次郎氏は当時蔭山姓を名乗っていた
- [5]1885年ごろから岩井勝次郎氏(当時は蔭山姓)が神戸の外国商館との居留地貿易を始めた
- [6]当時の輸出入実務は開港場の外国商館が握っていた
- [7]1896年にロンドンのウイリアム・ダッフ商会を代理店として直輸入貿易を開始した
- [8]ハンブルク・ウィーン・ニューヨークにも代理店を設けた
- [9]1904年2月に大阪市東区北浜へ新事務所を建設し移転した
- [10]1905年3月に中国貿易へ着手し、ビルマのラングーンへ絹織物を輸出した
- [11]1907年に東京で白金莫大小工場を経営し南方向け輸出の端緒とした
- [12]1908年にフィリピンのスミス・ベルと太田興業からマニラ麻の輸入を始めた
- [13]1912年10月2日に株式会社岩井商店へ改組し資本金200万円で発足した
- [14]初代社長に岩井勝次郎氏が就任した
- [16]1915年12月にニューヨーク出張所を開設した
- [17]1916年10月に資本金300万円の合資会社岩井本店を岩井家事業の統轄機関として設立した
- [18]1918年1月に岩井商店は資本金を500万円へ増資した
- [19]三井・鈴木商店・湯浅とともに政府指定の米穀輸入商に選ばれた
輸入していた品を自分で作るために興した製造会社
岩井商店は、輸入で扱っていた品目を国内で作る会社[20]を次々に設立した。1912年の株式会社化から10年ほどの間に興した会社は6社にのぼる[21]。1913年、兵庫県網干に日本セルロイド人造絹絲を興し[22]、それまで輸入に頼っていた製品の国産化[23]を図り、翌1914年3月には大阪鉄板製造を創立[24]した。1918年2月には、当時日本へ入っていた英国ブラナモンド社のソーダ灰と苛性ソーダに対抗するため、同種製品の製造を目的として資本金200万円の日本曹達工業[25]を起こした。大阪鉄板製造は、のちの日本鉄板[26]にあたる。
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [20]岩井商店は輸入品を国内で製造する会社を相次いで設立した
- [21]1913年から1922年にかけて6社を設立した
- [22]1913年に兵庫県網干で日本セルロイド人造絹絲を設立し輸入品の国産化を図った
- [23]設立の目的は輸入に頼っていた製品の国産化であった
- [24]1914年3月に大阪鉄板製造を創立した
- [25]1918年2月に英国ブラナモンド社のソーダ灰・苛性ソーダに対抗して資本金200万円の日本曹達工業を設立した
- [26]大阪鉄板製造は現在の日本鉄板にあたる
1918年5月に資本金50万円の関西ペイント[27]、1919年7月に橋梁の建造を目的とする資本金100万円の日本橋梁[28]、1922年2月に毛糸の製造を目的とする資本金400万円の中央毛糸紡績[29]を興した。1928年2月には大阪鉄板製造の徳山工場を分離し、資本金500万円の徳山鉄板[30]を設けた。日本セルロイド人造絹絲はのちのダイセル、日本曹達工業は徳山曹達、中央毛糸紡績は東亜紡織[31]へとつながり、大阪鉄板製造の系統は日新製鋼となった。1968年の合併時点でも、関係会社としてダイセル・日新製鋼・徳山曹達・関西ペイント・日本橋梁の名が並んでいる[32]。
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [27]1918年5月に資本金50万円の関西ペイントを創立した
- [28]1919年7月に橋梁建造を目的として資本金100万円の日本橋梁を設立した
- [29]1922年2月に毛糸製造を目的として資本金400万円の中央毛糸紡績を設立した
- [30]1928年2月に大阪鉄板製造の徳山工場を分離して資本金500万円の徳山鉄板を設立した
- [31]各社はダイセル・徳山曹達・東亜紡織・日新製鋼へつながった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [32]1968年の合併時点で関係会社にダイセル・日新製鋼・徳山曹達・関西ペイント・日本橋梁が並んでいた
- 会社銀行八十年史(1955年)「岩井産業」
- [20]岩井商店は輸入品を国内で製造する会社を相次いで設立した
- [21]1913年から1922年にかけて6社を設立した
- [22]1913年に兵庫県網干で日本セルロイド人造絹絲を設立し輸入品の国産化を図った
- [23]設立の目的は輸入に頼っていた製品の国産化であった
- [24]1914年3月に大阪鉄板製造を創立した
- [25]1918年2月に英国ブラナモンド社のソーダ灰・苛性ソーダに対抗して資本金200万円の日本曹達工業を設立した
- [26]大阪鉄板製造は現在の日本鉄板にあたる
- [27]1918年5月に資本金50万円の関西ペイントを創立した
- [28]1919年7月に橋梁建造を目的として資本金100万円の日本橋梁を設立した
- [29]1922年2月に毛糸製造を目的として資本金400万円の中央毛糸紡績を設立した
- [30]1928年2月に大阪鉄板製造の徳山工場を分離して資本金500万円の徳山鉄板を設立した
- [31]各社はダイセル・徳山曹達・東亜紡織・日新製鋼へつながった
- 企業の歴史 明治百年(1968年)「日商岩井」
- [32]1968年の合併時点で関係会社にダイセル・日新製鋼・徳山曹達・関西ペイント・日本橋梁が並んでいた
神戸の砂糖商が広げすぎた手と、台湾銀行が止めた融資
日商岩井のもう一つの系譜は、1874年に鈴木岩治郎氏が神戸で開いた洋糖引取商の鈴木商店にある。大番頭の金子直吉氏のもとで[33]、鈴木商店は人造繊維・化学工業・窒素肥料・製粉・機械・鉄鋼・造船といった近代的な重化学工業を相次いで手がけた[34]。当時の日本で作れるものは穀物・茶・繊維製品・雑貨くらい[35]で、鈴木商店はそこへ製造業を興した。帝人・神戸製鋼所・日本製粉といった、のちに日本経済の資産となる企業がここから育った[36]。傘下の直系・傍系の子会社は、最盛時に内外で50社を超えた[37]。破綻の時点での資本金は8000万円[38]であった。
- 私の商社昭和史(1987年)1章「鈴木商店倒産の悲劇」
- [33]大番頭の金子直吉氏が経営を主導した
- [34]鈴木商店は人造繊維・化学工業・窒素肥料・製粉・機械・鉄鋼・造船を相次いで手がけた
- [35]当時の国内生産品は穀物・茶・繊維製品・雑貨に限られていた
- [36]帝人・神戸製鋼所・日本製粉が鈴木商店の事業から育った
- 証券アナリストジャーナル 1983年6月号「日商岩井 三国間取引と先端技術分野を軸に躍進」
- [37]鈴木商店の直系・傍系子会社は最盛時に内外で50社を超えた
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [38]鈴木商店の破綻時の資本金は8000万円であった
同じ時期の三井物産は、好況期に膨らむことへ財務から歯止め[39]をかけていた。1915年、渡辺専次郎筆頭常務は大戦の終結とその反動を予想し[40]、取扱商品の選択に注意せよ、固定債権の回収に努めよ[41]という訓令を出して本店の統制を強めた。1918年11月には藤瀬政次郎筆頭常務が手持ち品の売り抜けを各支店に指示[42]し、翌1919年にブームが再来したときも慎重な構えを崩さなかった。鈴木商店には、この種の歯止めをかける人材が金子直吉氏を補佐する位置に育っていなかった[43]と、私の商社昭和史(1987年)は記す。のちに日商を興す高畑誠一氏は、1909年に神戸高等商業学校を出て鈴木商店に入った最初の学校出の社員[44]であった。
- 私の商社昭和史(1987年)1章「鈴木商店倒産の悲劇」
- [39]三井物産は好況期の膨張に財務から歯止めをかけていた
- [40]1915年に三井物産の渡辺専次郎筆頭常務が大戦終結と反動を予想して訓令を出した
- [41]訓令の内容は取扱商品の選択への注意と固定債権の回収であった
- [42]1918年11月に藤瀬政次郎筆頭常務が手持ち品の売り抜けを各支店へ指示した
- [43]鈴木商店には金子直吉氏を補佐して歯止めをかける人材が育っていなかったと回想されている
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [44]高畑誠一氏は1909年に神戸高等商業学校を卒業し鈴木商店で初の学校出社員として入社した
1920年の反動恐慌、1923年の関東大震災、1927年の金融恐慌[45]と続くなかで、鈴木商店は売上の中心であった貿易部門の輸入業務でつまずき、台湾銀行からの巨額の救済融資でかろうじて立っていた[46]。1927年3月26日[47]、高畑誠一氏は台湾銀行東京支店で森広蔵頭取から取引断絶を直接に告げられた。翌4月、金融恐慌のあおりで台湾銀行からの融資が止まり[48]、鈴木商店は倒れた。同じ恐慌で高田商会・茂木合名・増田貿易といった有力商社も相次いで倒れた[49]。一時は三井物産をしのぐ勢いを見せた商社[50]が、昭和初期の商社整理淘汰のなかで倒れた。鈴木商店の海外取引網と人材は、翌年の日商へ引き継がれた[51]。
- 私の商社昭和史(1987年)1章「鈴木商店倒産の悲劇」
- [45]1920年の反動恐慌・1923年の関東大震災・1927年の金融恐慌が続いた
- [46]鈴木商店は貿易部門の輸入業務でつまずき台湾銀行の救済融資で存立していた
- [48]1927年4月に台湾銀行の融資が止まり鈴木商店が倒産した
- [49]同時期に高田商会・茂木合名・増田貿易も倒産した
- [50]鈴木商店は一時三井物産をしのぐ勢いを見せた商社であった
- [51]鈴木商店の海外取引網と人材が翌1928年の日商設立に引き継がれた
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [47]1927年3月26日に高畑誠一氏が台湾銀行東京支店で森広蔵頭取から取引断絶を通告された
- 私の商社昭和史(1987年)1章「鈴木商店倒産の悲劇」
- [33]大番頭の金子直吉氏が経営を主導した
- [34]鈴木商店は人造繊維・化学工業・窒素肥料・製粉・機械・鉄鋼・造船を相次いで手がけた
- [35]当時の国内生産品は穀物・茶・繊維製品・雑貨に限られていた
- [36]帝人・神戸製鋼所・日本製粉が鈴木商店の事業から育った
- [39]三井物産は好況期の膨張に財務から歯止めをかけていた
- [40]1915年に三井物産の渡辺専次郎筆頭常務が大戦終結と反動を予想して訓令を出した
- [41]訓令の内容は取扱商品の選択への注意と固定債権の回収であった
- [42]1918年11月に藤瀬政次郎筆頭常務が手持ち品の売り抜けを各支店へ指示した
- [43]鈴木商店には金子直吉氏を補佐して歯止めをかける人材が育っていなかったと回想されている
- [45]1920年の反動恐慌・1923年の関東大震災・1927年の金融恐慌が続いた
- [46]鈴木商店は貿易部門の輸入業務でつまずき台湾銀行の救済融資で存立していた
- [48]1927年4月に台湾銀行の融資が止まり鈴木商店が倒産した
- [49]同時期に高田商会・茂木合名・増田貿易も倒産した
- [50]鈴木商店は一時三井物産をしのぐ勢いを見せた商社であった
- [51]鈴木商店の海外取引網と人材が翌1928年の日商設立に引き継がれた
- 証券アナリストジャーナル 1983年6月号「日商岩井 三国間取引と先端技術分野を軸に躍進」
- [37]鈴木商店の直系・傍系子会社は最盛時に内外で50社を超えた
- 私の履歴書 経済人15「高畑誠一」(日本経済新聞社、1981年)
- [38]鈴木商店の破綻時の資本金は8000万円であった
- [44]高畑誠一氏は1909年に神戸高等商業学校を卒業し鈴木商店で初の学校出社員として入社した
- [47]1927年3月26日に高畑誠一氏が台湾銀行東京支店で森広蔵頭取から取引断絶を通告された