1889年〜 神戸発・日豪直貿易から戦後の総合商社化
- 1922年 シドニー支店をF.Kanematsu (Australia) Ltd.に改組
- 1922年 大阪支店を開設
- 1943年 商号を「兼松」に商号変更
- 1951年 Kanematsu New York Inc.を設立
- 1952年 本部機構を神戸から大阪に移管
- 1957年 F.Kanematsu & Co.,GmbHを設立
- 1961年 大阪証券取引所市場第二部に上場
兼松房治郎氏が踏み開いた日豪羊毛直貿易の起点
1889年、兼松房治郎氏は44歳で神戸[1]に「豪州貿易兼松房治郎商店」を開いた[2]。前々年の1887年に初めてシドニーを[3]訪れ現地の交易構造を直接確認したうえでの開業で、外国商館を介さずに豪州産羊毛・牛脂・牛皮を日本に積み出す「日豪直貿易」を事業の根幹に据えた。明治中期の日本貿易は横浜・神戸の外国商館が握り、日本人商社が直接海外仕入れを担う例は森村組と三井物産など2〜3社にとどまった。「貿易商権を日本人の手に」という創業者の理想は、当時の貿易構造に対する直接の挑戦でもあった。翌1890年にはシドニーに支店を開設し[4]、創業時点から本国と海外拠点を一対で運営する形を取った。
- 兼松株式会社 公式沿革「兼松の歩み」
- [1]1889年 兼松房治郎氏(44歳)が神戸に「豪州貿易兼松房治郎商店」を開いた
- [2]創業者の氏名は兼松房治郎
- [3]1887年に初めてシドニーを訪問
- [4]1890年にシドニー支店を開設
兼松商店は十余年で羊毛輸入の4〜5割を占める実績を築き[5]、繊維紡績の急拡大とともに地盤を広げた。1913年に創業者の兼松房治郎氏が68[6]歳で没した後も日豪貿易の主軸は維持され、1918年には資本金200万円で株式会社兼松商店へ改組し[7]、近代企業としての体裁を整えた。第一次大戦の好況で取扱規模を拡張する一方、戦後反動の損失を吸収しながら、戦間期には欧州・北米・中国の貿易ネットワークも整備した。1922年4月にはシドニー支店をF.Kanematsu[8] (Australia) Ltd.として現地法人化し、戦前期において南半球の現地法人化に踏み込んだ商社は同社を含めて少数だった。日豪直貿易を軸にする経営スタイルが、戦時統制と戦後復興を通じても同社の輪郭を規定する基層となった。
- 兼松株式会社 公式沿革「兼松の歩み」
- [5]創業期に羊毛輸入の4〜5割を占める実績を築いた
- [6]1913年に創業者 兼松房治郎氏が68歳で没した
- [7]1918年に資本金200万円で株式会社兼松商店へ改組
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [8]1922年4月にシドニー支店をF.Kanematsu (Australia) Ltd.として現地法人化
- 兼松株式会社 公式沿革「兼松の歩み」
- [1]1889年 兼松房治郎氏(44歳)が神戸に「豪州貿易兼松房治郎商店」を開いた
- [2]創業者の氏名は兼松房治郎
- [3]1887年に初めてシドニーを訪問
- [4]1890年にシドニー支店を開設
- [5]創業期に羊毛輸入の4〜5割を占める実績を築いた
- [6]1913年に創業者 兼松房治郎氏が68歳で没した
- [7]1918年に資本金200万円で株式会社兼松商店へ改組
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [8]1922年4月にシドニー支店をF.Kanematsu (Australia) Ltd.として現地法人化
戦時統制と戦後再出発、「兼松」復号と海外網再建
太平洋戦争下では政府の貿易統制で民間商社の活動余地が縮小し、1943年2月に商号を「兼松株式会社」と改めた[9]。終戦後の財閥解体は商社業界にとくに厳しく、三井物産・三菱商事は1947年7月に過度経済力集中排除法により200余社に分割解体された。兼松は財閥系ではなく繊維商社として相対的に小規模だったため、解体・再分割は免れたが、敗戦直後の輸出入禁止と GHQ の貿易管理下で営業基盤は一旦失われた。1949年12月の貿易再開後、最初に挑んだのは断絶した海外網の再構築で、戦前の取引相手との関係修復から再出発した。
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [9]1943年2月に商号を「兼松株式会社」と改めた
1951年4月、サンフランシスコ講和条約調印を待たずに Kanematsu New York Inc.(現 Kanematsu USA Inc.)を設立し[10]、戦後の総合商社で初めてニューヨーク現地法人を立ち上げた。1952年4月には本部機構を神戸から大阪へ移し[11]、戦後の商業の重心が関西大都市へ移った時期に経営の重心を合わせた。続いて1957年6月に F.Kanematsu & Co., GmbH(現 Kanematsu GmbH)を西独に設立し[12]、欧州市場への足場を築いた。1961年10月の大阪証券取引所第二部上場(1963[13]年に第一部指定)で資本市場からの資金調達経路も整い、戦後復興期の経営基盤を一通り組み直した。神戸・大阪の関西二都市を発祥地とし、戦前の海外網を戦後に独力で再建する経路は、後年の総合商社化を支える土台となった。
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [10]1951年4月にKanematsu New York Inc.(現 Kanematsu USA Inc.)を設立
- [11]1952年4月に本部機構を神戸から大阪へ移した
- [12]1957年6月にF.Kanematsu & Co., GmbH(現 Kanematsu GmbH)を西独に設立
- [13]1961年10月に大阪証券取引所第二部に上場(1963年に第一部指定)
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [9]1943年2月に商号を「兼松株式会社」と改めた
- [10]1951年4月にKanematsu New York Inc.(現 Kanematsu USA Inc.)を設立
- [11]1952年4月に本部機構を神戸から大阪へ移した
- [12]1957年6月にF.Kanematsu & Co., GmbH(現 Kanematsu GmbH)を西独に設立
- [13]1961年10月に大阪証券取引所第二部に上場(1963年に第一部指定)
1967年江商合併、関西五綿「兼松江商」誕生
1960年代の日本商社業界は、繊維中心の関西五綿(伊藤忠・丸紅・東洋綿花・日綿実業・江商)が総合商社化を競う再編期に入った。合成繊維の急拡大で天然繊維の比重が下がるなか、繊維単一品種への依存はリスクと業界が共通認識し、商品多角化と規模拡大が業界共通の経営課題となった。同じ関西五綿の一角を占めた江商株式会社(1891年に北川与平氏が「北川商店」として大阪で創業)は[14]、戦後に多角化と海外取引拡大を目指したが収益化に遅れ、1960年代半ばには経営危機が表面化した。両社の主取引銀行であった東京銀行(後の東京三菱銀行)の仲介により、兼松が存続会社、江商が消滅会社となる合併(合併比率1:5)が成立した。
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [14]江商株式会社は北川与平氏が1891年に「北川商店」として大阪で創業
1967年4月、兼松と江商は合併し「兼松江商株式会社[15](Kanematsu-Gosho LTD.)」が発足した。新資本金は28億円で、合併に伴って機械・鉄鋼・食料・化学品を含む江商の事業ポートフォリオを取り込み、繊維単一品種の構造から多角型商社へ性格を転換した。1967年6月にはファインクロダサービスを黒田精工から取得し、商号を兼松江商工作機械販売[16](現 兼松ケージーケイ)に改称して機械販売の足場を作り、1968年7月には兼松電子サービス[17](現 兼松エレクトロニクス)を設立して後の「電子・デバイス」事業の源流を生んだ。1970年12月には鉄鋼販売子会社(現 兼松トレーディング)を設立[18]、東京支社を本社化し、1973年4月には東京・名古屋両証券取引所第一部に上場[19]して合併後の総合商社化が資本市場側にも認知された。
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [15]1967年4月に兼松と江商が合併し「兼松江商株式会社」が発足
- [16]1967年6月にファインクロダサービスを黒田精工から取得し商号を兼松江商工作機械販売(現 兼松ケージーケイ)に改称
- [17]1968年7月に兼松電子サービス(現 兼松エレクトロニクス)を設立
- [18]1970年12月に鉄鋼販売子会社(現 兼松トレーディング)を設立し東京支社を本社化
- [19]1973年4月に東京・名古屋両証券取引所第一部に上場
- 兼松 有価証券報告書【沿革】
- [14]江商株式会社は北川与平氏が1891年に「北川商店」として大阪で創業
- [15]1967年4月に兼松と江商が合併し「兼松江商株式会社」が発足
- [16]1967年6月にファインクロダサービスを黒田精工から取得し商号を兼松江商工作機械販売(現 兼松ケージーケイ)に改称
- [17]1968年7月に兼松電子サービス(現 兼松エレクトロニクス)を設立
- [18]1970年12月に鉄鋼販売子会社(現 兼松トレーディング)を設立し東京支社を本社化
- [19]1973年4月に東京・名古屋両証券取引所第一部に上場