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兼松の歴史

1889
*1
豪州貿易兼松房治郎商店を創業
創業

大阪経済界の著名人で、すでに様々な事業を成功させていた兼松房治郎(44歳)は、貿易の権益を日本人の手に戻すために兼松を創業し、羊毛の主要産地であるオーストラリアに焦点を絞った。だが、当時はあまりにも無謀な挑戦とされ、周囲は「兼松は狂った」と揶揄したという。

1890
*2
シドニーに支店を設置

兼松はオーストラリア貿易の先駆者になるために、シドニーに支店を設立。羊毛の輸入を開始し、毛織物の原材料を確保する。

1919
*3
第一次世界大戦により業績好調へ
業績好調

第一次世界大戦の勃発によって、日本経済が後継に突入すると、兼松や伊藤忠などの繊維商社が相次いで好決算を計上した

1919
*4
神戸大学(神戸高商)に建物と研究費用を寄贈

優秀な商社人材を獲得するため、兼松は神戸大学(神戸高商)に建物と研究費を寄贈した

1967
*5
江商と合併

1960年代を通じて合成繊維市場が急拡大し、毛織物などの天然繊維の市場は劣勢となった。そこで、兼松は総合商社化を志向して規模を拡大するために、同業の江商と合併した。

1968
*6
兼松電子サービスを設立(現:兼松エレクトロニクス)
会社設立

兼松は成長著しいエレクトロニクスへの参入を決め、東京にて兼松電子サービスを設立した。

1970
*7
本社を神戸から東京に移転

繊維事業の取り扱い比率低下により、戦前に最盛期だった貿易港・神戸に本社を置く必要が薄れた。そこで、1970年に兼松は本社を東京芝浦に移転した。

1976
*8
640名の減員

兼松江商は脱繊維によって、1970年代には前者売上高に占める繊維比率を28%まで押し下げた。だが、代わりに同社の取扱品目となった木材・燃料・金属分野は、資源開発によって収益を獲得するのではなく「物を右から左に流す」商売をしていたため、慢性的な低収益に陥った。加えて不動産投資の失敗により業績が悪化。このため、1976年から2年間で兼松は人員640名を減員した。

1982
*9
宝作戦による構造改革に着手

総合商社業界で劣勢となった兼松は現状を改善するために「宝作戦」を発表し、構造改革を実施した。

1987
*10
兼松電子サービスが株式を上場(兼松エレクトロニクス)
株式上場

兼松のエレクトロニクス部門はパソコンの普及に歩調をあわせて順調に発展し、子会社である兼松電子サービスが株式上場を果たす。以後、兼松の電子部門は同社の貴重な収益源となった。

1999
*11
債務超過。最終赤字507億円
業績低迷

バブル崩壊によって兼松は業績が悪化して1999年に最終赤字507億円を計上して債務超過に陥る。幸いにして兼松は1700億円の債務超過の免除申請を行い、倒産を免れたものの、東京三菱銀行の管理下で再建に入り、130社の子会社のうち一部を売却・統合した。

2020
*12
兼松エレクトロニクスが兼松(親会社)の時価総額を凌駕

兼松エレクトロニクス(筆頭株主:兼松57.89%)はシステム構築に強みがある会社として業容を拡大し、2020年3期に売上高719億円、経常利益109億円、純利益73億円を計上。同社の株価は2012年から2020年にかけて6倍に高騰し、親会社との時価総額が逆転した。ただし、親上場という資本政策上の問題が顕在化する結果となった。