創業地兵庫県神戸市
創業年1889
上場年1949
創業者兼松房治郎

独立系・個人創業出自で参入障壁を確立独占権・排他的仕入れの確保1889年、明治中期の貿易が横浜・神戸の外国商館に握られていた時期に、兼松房治郎は44歳で神戸に「豪州貿易兼松房治郎商店」を開いた。前々年に自らシドニーへ渡って現地の交易を確かめたうえでの開業で、外国商館を介さず豪州産の羊毛・牛脂・牛皮を日本へ積み出す日豪直貿易を事業の根幹に据えた。当時こうした直接仕入れを担う日本人商社は三井物産や森村組などごく少数で、翌1890年にはシドニーに支店を置き、神戸の本国とシドニーの拠点を一対で動かした。

再建・構造改革選択と集中・事業売却/撤退危機・外圧が引き金バブル期に積み増した不動産や有価証券の含み損が累積し、兼松は1999年3月期に最終赤字507億円を出して債務超過に陥った。同年、繊維出自で財務の余力が薄かった同社は「第二の創業」を掲げ、337億円の減資と銀行団による約1,500億円の債権放棄を受け、祖業の繊維を分社化し、紙パルプ・不動産から退き、人員を三分の一まで縮めた。総合商社の看板を自ら下ろし、食料・IT・鉄鋼に絞った専門商社へ移る道は、安宅産業のような破綻でも日商岩井型の合併でもなかった。

決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く

Q なぜ1889年に、外国商館を介さない日豪直貿易で創業したのか
A 明治中期の日本の貿易は9割近くを横浜・神戸の外国商館が握り、輸出入の利は外国人の手に落ちていた。仲介を外して日本人が直に仕入れれば、その利を自社に取り込める。兼松房治郎氏は世界一の羊毛産出国だった豪州に着目し、毛織物の需要が伸びる日本で羊毛を直輸入する日本人はまだいないと見て、1887年に自らシドニーを視察したうえで1889年に神戸で豪州貿易兼松房治郎商店を開いた。翌1890年にはシドニーに支店を置き、本国と現地を一対で動かす日豪直貿易を事業の根幹に据えた
Q なぜ1999年に、総合商社の看板を自ら下ろして専門商社へ縮めたのか
A 繊維出自の兼松はバブル期に積んだ不動産・有価証券の含み損を抱え、財務余力が三井物産・三菱商事・伊藤忠商事より薄く、損失処理を先送りする余地が事実上残されていなかった。1999年3月期に最終赤字507億円で債務超過に陥り、銀行団から約1,500億円の債権放棄を受ける以上、商社事業の半分を切る痛みは避けられなかった。同年5月の「構造改革計画」で337億円の減資と祖業の繊維分社化に踏み込み、紙パルプ・不動産から退いて人員を約3分の1へ縮め、食料・IT・鉄鋼に絞った専門商社へ移った。安宅産業の破綻でも日商岩井型の合併でもない、自力再建だった。
Q なぜ2023年に、36年続いた兼松エレクトロニクスとの親子上場を解消したのか
A 専門商社へ縮めた兼松にとって、上場を保つ子会社は資本と顧客が二重に分かれ、グループをまたいだ提案や投資が進めにくかった。商社本体が抱える約2万社の顧客に、兼松エレクトロニクスが持つITやサイバーセキュリティーを売り込む余地は大きいのに、外販という意味で両社の取引はほとんど無かった。2023年、兼松は上場2子会社をTOBで完全子会社化し、1987年の上場以来36年続いた親子上場を解消した。より強固な資本関係でデジタル人材と協創し、上場会社では進めにくかった施策に踏み込んでグループ一体経営へ寄せる狙いである

歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く

1889年〜1966年 神戸発・日豪直貿易から戦後の総合商社化

兼松房治郎氏が踏み開いた日豪羊毛直貿易の起点

1889年、兼松房治郎氏は44歳で神戸に「豪州貿易兼松房治郎商店」を開いた[1][2]。前々年の1887年に初めてシドニーを訪れ現地の交易構造を直接確認したうえでの開業で、外国商館を介さずに豪州産羊毛・牛脂・牛皮を日本に積み出す「日豪直貿易」を事業の根幹に据えた[3]。明治中期の日本貿易は横浜・神戸の外国商館が握り、日本人商社が直接海外仕入れを担う例は森村組と三井物産など2〜3社にとどまった。「貿易商権を日本人の手に」という創業者の理想は、当時の貿易構造に対する直接の挑戦でもあった。翌1890年にはシドニーに支店を開設し、創業時点から本国と海外拠点を一対で運営する形を取った[4]

兼松商店は十余年で羊毛輸入の4〜5割を占める実績を築き、繊維紡績の急拡大とともに地盤を広げた[5]。1913年に創業者の兼松房治郎氏が68歳で没した後も日豪貿易の主軸は維持され、1918年には資本金200万円で株式会社兼松商店へ改組し、近代企業としての体裁を整えた[6][7]。第一次大戦の好況で取扱規模を拡張する一方、戦後反動の損失を吸収しながら、戦間期には欧州・北米・中国の貿易ネットワークも整備した。1922年4月にはシドニー支店をF.Kanematsu (Australia) Ltd.として現地法人化し、戦前期において南半球の現地法人化に踏み込んだ商社は同社を含めて少数だった[8]。日豪直貿易を軸にする経営スタイルが、戦時統制と戦後復興を通じても同社の輪郭を規定する基層となった。

戦時統制と戦後再出発、「兼松」復号と海外網再建

太平洋戦争下では政府の貿易統制で民間商社の活動余地が縮小し、1943年2月に商号を「兼松株式会社」と改めた[9]。終戦後の財閥解体は商社業界にとくに厳しく、三井物産・三菱商事は1947年7月に過度経済力集中排除法により200余社に分割解体された。兼松は財閥系ではなく繊維商社として相対的に小規模だったため、解体・再分割は免れたが、敗戦直後の輸出入禁止と GHQ の貿易管理下で営業基盤は一旦失われた。1949年12月の貿易再開後、最初に挑んだのは断絶した海外網の再構築で、戦前の取引相手との関係修復から再出発した。

1951年4月、サンフランシスコ講和条約調印を待たずに Kanematsu New York Inc.(現 Kanematsu USA Inc.)を設立し、戦後の総合商社で初めてニューヨーク現地法人を立ち上げた[10]。1952年4月には本部機構を神戸から大阪へ移し、戦後の商業の重心が関西大都市へ移った時期に経営の重心を合わせた[11]。続いて1957年6月に F.Kanematsu & Co., GmbH(現 Kanematsu GmbH)を西独に設立し、欧州市場への足場を築いた[12]。1961年10月の大阪証券取引所第二部上場(1963年に第一部指定)で資本市場からの資金調達経路も整い、戦後復興期の経営基盤を一通り組み直した[13]。神戸・大阪の関西二都市を発祥地とし、戦前の海外網を戦後に独力で再建する経路は、後年の総合商社化を支える土台となった。

1967年江商合併、関西五綿「兼松江商」誕生

1960年代の日本商社業界は、繊維中心の関西五綿(伊藤忠・丸紅・東洋綿花・日綿実業・江商)が総合商社化を競う再編期に入った。合成繊維の急拡大で天然繊維の比重が下がるなか、繊維単一品種への依存はリスクと業界が共通認識し、商品多角化と規模拡大が業界共通の経営課題となった。同じ関西五綿の一角を占めた江商株式会社(1891年に北川与平氏が「北川商店」として大阪で創業)は、戦後に多角化と海外取引拡大を目指したが収益化に遅れ、1960年代半ばには経営危機が表面化した[14]。両社の主取引銀行であった東京銀行(後の東京三菱銀行)の仲介により、兼松が存続会社、江商が消滅会社となる合併(合併比率1:5)が成立した。

1967年4月、兼松と江商は合併し「兼松江商株式会社(Kanematsu-Gosho LTD.)」が発足した[15]。新資本金は28億円で、合併に伴って機械・鉄鋼・食料・化学品を含む江商の事業ポートフォリオを取り込み、繊維単一品種の構造から多角型商社へ性格を転換した。1967年6月にはファインクロダサービスを黒田精工から取得し、商号を兼松江商工作機械販売(現 兼松ケージーケイ)に改称して機械販売の足場を作り、1968年7月には兼松電子サービス(現 兼松エレクトロニクス)を設立して後の「電子・デバイス」事業の源流を生んだ[16][17]。1970年12月には鉄鋼販売子会社(現 兼松トレーディング)を設立、東京支社を本社化し、1973年4月には東京・名古屋両証券取引所第一部に上場して合併後の総合商社化が資本市場側にも認知された[18][19]

1967年:兼松と江商の合併で「兼松江商」誕生 神戸発・豪州直貿易の兼松系と大阪発・繊維商社の江商系が1967年に合流、1990年に「兼松」へ復号
1889/1891 1918 1967 1990 2026 江商 1891年北川商店として創業 兼松房治郎商店 1889年設立 兼松商店 1918年改称 兼松江商 1967年合併 兼松 1990年改称
1967年:兼松と江商の合併で「兼松江商」誕生 神戸発・豪州直貿易の兼松系と大阪発・繊維商社の江商系が1967年に合流、1990年に「兼松」へ復号
1889/1891 1918 1967 1990 2026 江商 1891年北川商店として創業 兼松房治郎商店 1889年設立 兼松商店 1918年改称 兼松江商 1967年合併 兼松 1990年改称

1967年〜2003年 バブル期の不動産投資と1999年「1,500億円債権放棄」の代償

売上高と利益率の推移:歴代経営トップの業績貢献
売上高(億円)
※経営トップ=有価証券報告書の提出書類における代表者(社長・CEO・会長など)

高度成長下の機械・電子事業拡張と1970年代の海外網拡大

1970年代を通じて、兼松江商は機械・電子・情報通信領域の子会社化と海外拠点拡張を並行して進めた。1974年4月には情報システム子会社の兼松コンピューターシステム(現 兼松コミュニケーションズ)を設立し、後のモバイル流通事業の前身を作った[20]。1975年10月には Kanematsu-Gosho (Hong Kong) Ltd.(現 Kanematsu (Hong Kong) Ltd.)を設立し、対中華圏ビジネスの拠点を整備した[21]。1973〜1979年のオイルショック2回を経て国内重化学工業の成長率は下方屈折したが、商社業界では原油・LNG・鉄鋼の取扱拡大による売上高拡張競争が並行して進み、繊維出身の同社も機械・電子・エネルギーの非繊維3本柱で売上を積み上げた。

1980年代半ば以降の円高基調下では、海外調達網と現地法人運営のノウハウを蓄積した。1987年12月には兼松エレクトロニクスが東京証券取引所第二部に上場(1991年に第一部指定)し、IT子会社の親子上場体制が成立した[22]。子会社上場により設立資本の回収と新規調達の自由度が同時に高まり、電子・IT分野への投資拡大に充てる資金を得た。1990年1月、合併後25年を経て商号を「兼松株式会社」へ復号し、「兼松江商」の暫定形を解消した[23]。江商合併から数えて23年で旧称復帰した形で、機械・電子・食料・繊維・エネルギーを束ねる総合商社としての性格は維持されたが、繊維出自の財務体質はすぐ続くバブル崩壊で重大な負荷を抱えた。

バブル期の不動産・周辺事業投資が招いた1990年代の業績悪化

1986〜1990年のバブル期、商社業界は不動産・株式・海外プロジェクトへの投資を一斉に拡大した。兼松も例外ではなく、国内不動産事業や海外関連投資を積み増し、商社本業の貿易仲介マージンを上回るキャピタルゲインを期待する投資ポジションを抱えた。1991年2月の東京本社の港区芝浦シーバンス移転は、不動産関連投資の象徴的な動きでもあった[24]。しかし1991年初頭の地価下落開始と1990〜1992年の株価急落で、バブル期に積み上げた不動産・有価証券・海外関連投資はみるみる含み損化した。商社の中で兼松は繊維出自で財務余力が三井物産・三菱商事・伊藤忠商事に比べ薄く、含み損の処理を翌年度以降に先送りする選択肢が事実上残されなかった。

1990年代を通じて損失処理の負担は重く、繊維・紙パルプ・不動産・その他周辺事業の不採算が業績を圧迫した。1998年3月期に1株当たり1.5円の配当を実施した後、復配までの15期にわたって無配が続いた[25]。1999年3月期には最終赤字507億円を計上して債務超過に陥り、繊維商社として戦後復興を担った兼松は、戦前から続く業歴のなかで初めて会社存続そのものが危ぶまれる事態に直面した。同年6月、東京銀行出身の倉地正氏が社長に就任し、銀行団との交渉と社内再建計画の策定を主導した[26]。倉地正氏は1934年生まれ、1960年に東京銀行入行、専務取締役を経て兼松へ転じた経歴を持ち、銀行員出身の経営トップとして社外との交渉力と社内コスト構造への切り込み力を兼ね備えた人選だった。

1999年「構造改革計画」── 第二の創業と総合商社からの撤退

1999年5月、兼松は「構造改革計画」を発表し、対外的に「第二の創業」と称した[27]。計画の柱は337億円の減資と取引銀行団による約1,500億円の債権放棄で、東京銀行を中心とする主取引行が1,500億円規模の金融支援に踏み切った[28]。これは1990年代後半の日本企業の銀行支援案件としては有数の金額で、銀行側が同社を清算ではなく再建で残す判断をした証左だった。1999年6月の倉地正社長就任は、この銀行団主導の再建計画を遂行するための経営トップ人事で、東京銀行出身者を据えることで銀行団との連携・指示系統を一本化する狙いがあった[29]

構造改革の中身は、商社事業ポートフォリオの50%を超える選別であった。祖業の繊維事業を分社化し、紙パルプ・不動産・その他周辺事業から撤退し、人員体制も従前の約3分の1まで縮小した[30]。同社自ら「総合商社」の看板を下ろし、食料・IT・鉄鋼に強みを持つ「専門商社」への業態転換に踏み切った[31]。総合商社「十大商社」の一角を占めた歴史を持つ会社が自発的に総合商社の地位を返上する判断は、1990年代後半の日本商社業界では他に例のない選択で、安宅産業破綻型の他社吸収による消滅でも、ニチメン・日商岩井合併型の対等再編でもない、第三の道だった。2003年3月には兼松石油販売に産業用LPガス事業を統合して兼松ペトロ(後の譲渡対象)に改称するなど、エネルギー子会社の事業整理も並行した[32]。倉地正社長の在任期間(1999年6月〜2004年)は、債権放棄1,500億円の代償として商社業務の半分を切り捨てた時期となった[33]

2004年〜現在年 専門商社復活からデジタル商社・ソリューションプロバイダーへの転換(2004〜現在)

三輪徳泰社長の事業選別と海外展開、リーマンショックの試練

2004年に三輪徳泰氏が社長に就任すると、構造改革計画で削ぎ落とした事業領域に代わる新たな成長軸の探索が続いた[34]。2005年12月には中堅商社の新東亜交易の株式の過半数を取得し、専門商社化路線における事業領域拡大のM&A第1弾を実行した[35]。畜水産・食料品の海外仕入網拡張、米国特殊鋼・天然ガス石油採掘用パイプの取扱拡大、ベトナム造船所向け機材・インドネシア地熱発電所建設など、構造改革で残した「食料」「IT」「鉄鋼・プラント」の3つの強み領域でグローバル拡張を進めた。FY05時点でセグメント構成は「IT・食料・鉄鋼/プラント・ライフサイエンス/エネルギー・繊維」の5本柱で、IT事業が連結売上の3割を占める最大事業に成長した[36]

2008年秋のリーマンショックは商社業界全体に売上収縮をもたらし、原油・資源価格の急落と海外プロジェクト案件の遅延が重なった。三輪徳泰社長体制最終期にあたるFY09(2010年3月期)の決算で同社はグループ全体の業績調整に踏み込み、構造改革で財務余力が薄くなっていた同社にとって、リーマンショックは「再縮小」の誘惑にも晒される試練となった[37]。それでも経営陣は専門商社路線を維持しつつ、後のEV事業など独自路線の探索を続ける選択を取った。2010年4月の社長交代までの三輪徳泰社長体制6年間は、構造改革後の事業基盤を専門商社として安定化させた段階に当たる[38]

下嶋政幸社長の「身の丈経営」とIFRS移行・15年ぶり復配

2010年4月、下嶋政幸氏が社長に就任した[39]。下嶋社長は身の丈を超えた投資を避け、自動車分野で蓄積した知識とノウハウを活かしてEV事業へ早期参入する独自路線を打ち出し、構造改革で痛みを伴った前期の延長線上に立つ慎重な経営方針を示した。同時にEV市場は既存自動車メーカーの独占ではなく、多様な企業の参入で業界地図が塗り替えられる余地が大きいと位置付け、商社の特性を活かした業界横断のEV事業(i-MiEV改良の光岡「雷駆」法人向け販売)に踏み込んだ。総合商社の規模を捨てた専門商社が、新興領域で先行参入の利を取りに行く戦略で、創業期の「日豪直貿易」と同じく既存業界の隙間を狙う発想に近かった。

2013年9月、兼松は15年ぶりに復配を発表した[40]。1998年4〜9月期の1株1.5円配当以降途絶えていた配当を、2014年3月期に年3円(中間1.5円・期末1.5円)で再開する計画で、構造改革から14年を経て「兼松モデル」と呼ばれる再生の象徴的マイルストーンとなった[41]。日経新聞は同年9月の記事で、事業規模・人員体制を約3分の1に縮小し総合商社の看板を下ろして食料・IT・鉄鋼に強い専門商社へ衣替えした経緯を整理したうえで、復配を攻めへの転換点として評価した。FY13の連結売上高は1兆1,145億円・親会社株主帰属当期純利益118億円で、IFRS適用後の最高水準を更新した。FY15にはIFRS適用基準の見直しで売上高が6,684億円へ40%圧縮されたが、取引金額ベースから粗利ベースへの認識変更による表示上の変化で、実質的な収益力は維持された。

「future 135」から「integration 1.0」への移行

2017年6月、谷川薫氏が社長に就任した[42]。2018年5月には創業135周年(2024年)に向けた6カ年中期経営ビジョン「future 135」(2018〜2024年度)を策定し、強み4分野(電子・デバイス、食料、鉄鋼・素材・プラント、車両・航空)への経営資源集中と、連結純利益250億円規模の達成を中期目標に掲げた[43]。在任期間中の同社は社内教育「兼松ユニバーシティ」を設置するなど人材戦略の体系化も進め、FY18(2019年3月期)に連結純利益166億円、FY19(2020年3月期)に144億円と、コロナ感染拡大下でも安定的な収益基盤を維持した。FY22(2023年3月期)には連結売上高9,114億円・純利益186億円と「future 135」の目標を視野に入れる業績推移となり、谷川薫社長の体制で「日経統合報告書アワード2023」優秀賞を受賞するなど対外発信も拡充した。

2023年10月、宮部佳也氏が社長に就任した[44]。同年5月には兼松エレクトロニクス・兼松サステックの2子会社にTOBを実施し、買付総額約748億円(兼松エレクトロニクス分)で完全子会社化を実現した[45]。子会社上場のメリット(社員のロイヤリティ確保・採用上の知名度)と上場維持コスト・経営判断速度を比較したうえでグループ一体経営の徹底を選択した形で、1987年の上場以来36年続いた親子上場体制を解消した[46]。同年6月には兼松サステックも完全子会社化し、上場2子会社のTOBを2件続けて実行した[47]。デジタル商材を扱う兼松エレクトロニクスをグループ内に取り込み、商社事業の顧客約2万社とIT子会社の顧客約4千社の重なりを利用したクロスセル戦略の前提を整える狙いだった[48]

2024年3月には3カ年中期経営計画「integration 1.0」(2024〜2026年度)を発表し、5年後のビジョンを「効率的かつサステナブルなサプライチェーンの変革をリードするソリューションプロバイダー」と定義した[49]。総額600億円規模の成長投資(DX関連約400億円・強み4分野約200億円)の配分方針を提示し、宮部佳也社長は130社超のグループ会社と約2万社の顧客基盤が持つ情報・ネットワークをグループ横断で最大化し新たな企業価値を生み出す方向を示し、商社業務とIT子会社の融合による「ソリューションプロバイダー」化を発信した[50][51]。1889年の日豪直貿易から数えて135年を経て、商社の役割を「商品流通」から「ソリューション提供」へ再定義する経営フェーズに入った。

出典

ダイヤモンド・オンライン ダイヤモンド社 2010年10月07日 https://diamond.jp/articles/-/9635
日本経済新聞(2013年9月17日) 日本経済新聞社
決算説明会 2024年度
決算説明会QA 2024年05月
Japan Innovation Review 2024年07月29日
財界オンライン(2024年12月11日) https://www.zaikai.jp/articles/detail/4607
兼松株式会社 公式沿革「兼松の歩み」
兼松 有価証券報告書
兼松株式会社 公式
兼松株式会社 決算説明会・integration 1.0 発表資料
東洋経済 「兼松 老舗商社、再建の内幕」 東洋経済新報社 https://shikiho.toyokeizai.net/news/0/30202