日商岩井金融子会社エヌ・アイ・ファイナンスの整理と、特別損失1610億円の計上
収益力の回復を優先した4年と、金融子会社へ移されていた736億円の包括信託
- 概要
- 1998年9月25日、日商岩井は金融子会社エヌ・アイ・ファイナンス(NIF)への債権放棄・支援損1120億円を含む特別損失1610億円を計上し、今期無配へ転落すると発表した。1995年3月期・1996年3月期に処理完了と公表していた財テク含み損の、実質的な最終処理にあたる。
- 背景
- 速水優氏の時代に積み上がった財テク資産は、次の西尾哲氏の時代に900億円が先送りされた。処理の対象となった資産は本体からNIFへ移され、NIFは元本736億円の包括信託と217億円の投資有価証券を抱え、含み損は395億円に達していた。
- 内容
- NIFは1994年から株価指数先渡取引で株価上昇に賭けたが、平均株価1万4000円の前提で損失は445億円となった。日商岩井はこれらを一括処理し、無配へ転落する。格付けはムーディーズがBaa2からB1へ、R&IはAマイナスからBBへ落ちた。
- 含意
- 収益力の向上そのものは1996年度221億円・1997年度315億円の実質経常利益として結果が出ていた。誤算は、含み損を開示しないまま1200億円のエクイティファイナンスを実行し、格付けと資金調達が直結する市場でその前提を失った点にある。
先に立て直す順序が、開示と引き換えだったこと
1994年まで3桁の実質経常利益がなかった会社が、1996年度に221億円、1997年度に315億円を稼いだ。草道社長が掲げた収益力の向上は、数字のうえで達成されている。狂ったのは調達の側であった。1996年8月に1200億円を集めた時点で、NIFの包括信託736億円と含み損395億円は伏せられたままである。一度伏せれば、株価が戻るまで伏せ続けるほかない。収益力を先に立て直すという順序は、含み損を開示しないことと引き換えでしか成り立たなかったとみられる。
もっとも、これを草道社長個人の資質へ帰すのは無理がある。含み損900億円を先送りして5円配当を据え置いたのは前任の西尾社長であり、財テク資産を積み上げたのはその前の速水社長であった。休眠会社という説明が通ったのは、連結の外に置いた資産を市場が検証できなかったためである。そこに、格付けが調達条件へ直結する仕組みが重なった。8月に7年物3%で社債を出せた会社が、1か月後にはCPの引き受け手を失う。連結で1.2兆円を圧縮できる資産を、3000億円に届かない自己資本で回していた商社にとって、格付けは事業そのものの前提であったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
船舶からの撤退と、積み上がった財テク資産
日商岩井の2代前の社長は、のちに日本銀行総裁となる速水優氏である。速水氏は赤字の船舶部門から撤退する荒療治をやってのけた一方で、財テク資産を積み上げた。バブル最中の1987年3月期から1990年3月期にかけて、伊藤忠商事と丸紅が経常利益を50%伸ばしたのに対し、日商岩井の伸びは10%にとどまっている。本業の収益力が上位商社に追いつかないまま、運用資産だけが膨らんだ[1]。
次の西尾哲氏の時代は、もともと低い収益力がバブル崩壊でさらに細り、財テクの処理に回す余力がなかった。社長交代の間際にようやく処理へ動いたものの、全額ではない。含み損のうち900億円を再び先送りしている。全額を処理すれば剰余金を使い果たし、その時点で無配へ落ちるためであった。西尾氏は1株5円の配当を据え置いたまま退任した[2]。
運用部隊が持っていた成功体験
日商岩井の運用部隊には、成功体験があった。1990年にドレクセル・バーナム証券が倒産し、同社の子会社に対して持っていた債権270億円が全額焦げついたとき、日本のほかの債権者は捨て値で債権を売り払っている。運用責任者の吉岡克己専務は早期償却を勧める助言を退け、2年がかりで債権の一部を株式へ変えるスキームをまとめた。配当まで含めた回収率は120%に達した[3]。
1996年4月、日商岩井は金融商品部を新設した。財務・経理部門から運用部隊を切り離して純粋な営業部として独立させたのは、商社では初めてである。33人の陣容で年間30億円の利益目標を余裕をもって超え、1998年4月には資本金5億〜10億円・社員20〜30人の日商岩井証券を設立した。もっとも、モルガンスタンレー証券の副島智一氏は「ハイ・リスク、ハイ・リターンで勝負しているのなら、いずれ負けるときが来る」(週刊東洋経済 1997/11/1)と述べていた[4]。
決断
収益力の向上と、1200億円のエクイティファイナンス
1996年6月に社長へ就いた草道昌武氏の方針は、収益力の向上に全力を挙げることであった。草道氏は社内に染みついた「負け犬根性」(週刊東洋経済 1998/11/14)を変えなければ処理もできないと語り、自ら営業の最前線を走って社内で「ハッパ草道」と呼ばれた。営業利益に金融収支を加えた実質経常利益は1996年度221億円、1997年度315億円と最高記録を連続して更新する。1994年まで3桁の実質経常利益がなかった会社としては、急な改善であった[5]。
収益力の増強と同時に、草道社長は資本の増強にも踏み切る。1996年8月、増資と転換社債で1200億円のエクイティファイナンスを実行した。転換社債がすべて転換されれば自己資本は3000億円台に乗る計算である。直前の1996年3月期は財テクの部分処理で200億円の赤字であったため、他の商社の首脳からは「株主を愚弄している」(週刊東洋経済 1998/11/14)という声が上がった。かつての経営幹部は「株主資本を三〇〇〇億円台に乗せるのが、われわれの悲願だった」(週刊東洋経済 2002/3/9)と振り返っている[6][7]。
子会社へ移した含み損と、株価指数先渡取引
日商岩井は、エヌ・アイ・ファイナンス(NIF)の特別金銭信託とファンドトラストを1995年3月期に、本体の分を1996年3月期に処理完了と公表していた。実際には、株式や借地権などの財テク資産の相当部分が、本体からNIFへ移されている。NIFが抱えていたのは元本736億円の包括信託と、外国債券など217億円の投資有価証券であった。含み損は395億円に上っていた[8]。
NIFはこの含み損を消すために、1994年から株価指数先渡取引に踏み込む。上場された株価指数先物と違い、先渡は相対の店頭取引で、レバレッジが効き、決済期日も自由に設定できる。NIFは複数の投資銀行を相手に株価の上昇へ賭けた。平均株価1万4000円を前提とすると、1998年中に期日を迎える契約の損失は445億円、包括信託の損失は320億円である。武田悦則専務は「期中に解約のチャンスがなかったわけではない」(週刊東洋経済 1998/10/10)と述べている[9]。
結果
1610億円の特別損失と、格付けの連鎖降格
1998年8月時点の格付けは、日本格付投資情報センター(R&I)で「Aマイナス」であった。同月に発行した無担保社債の金利は7年物で3%と、4年物のニチメン(BBBプラス)と同水準である。9月10日、ムーディーズが格付けをBaa2から投機的水準のBa1へ引き下げた。9月25日、日商岩井は特別損失1610億円の計上と今期無配を発表する。うち1120億円がNIFへの債権放棄・支援損であった。草道社長は「清算するには今が最後のチャンス」(週刊東洋経済 1998/10/10)と述べている[10][11]。
発表は格付け機関にもアナリストにも寝耳に水であった。NIFについて会社側は、政策保有株を持つだけの事実上の休眠会社だと答えてきていた。同じ25日、ムーディーズはBa2へ再降格する。1か月に2度の格下げであった。R&Iは3段階の引き下げののちジャンク格付けの「BB」へ落とし、「多額の損失を隠してきたことにより金融・資本市場における信認が大きく揺らいでいる」(週刊東洋経済 1998/11/14)とのコメントを出した。10月16日にはムーディーズが「B1」へ再々降格し、株価は69円へ下がった[12]。
資金繰りと、銀行団の支援
1996年のエクイティファイナンスを機に、日商岩井は間接金融から直接金融へ調達を切り替えていた。直接金融の比率を28%から35%へ高め、60行あった取引銀行を30行へ絞っている。この切り替えが信用収縮のなかで裏目に出た。CPの発行残高は1998年3月末の4700億円から9月に5300億円へ膨らみ、外銀からの借入残は1800億円ある。ジャンク格付けでは社債を発行できず、メイン・準メイン以外の銀行はCPの引き受けに尻込みした[13]。
1998年11月、三和銀行と第一勧業銀行が支援を表明した。三和銀行の望月高世常務は「三和一行でも、大口規制の限度まで三〇〇〇億円支援できる」(週刊東洋経済 1998/11/14)と述べる。社債の1年以内償還分1400億円に、CPが半減する想定を加えた当座の必要資金4000億〜5000億円は、シンジケートを組んで供給する枠組みとなった。日商岩井は中期的に連結ベースで1.2兆円の資産圧縮を打ち出す。金融資産だけで9000億円あった。1995年から1996年の2年間で管理職657人を削減しており、さらに450人を絞り込む[14]。
1998年度の処理で3000億円のキャッシュフローが浮いた。特別損失を埋めるため、日商岩井は海外現地法人の剰余金を特別配当として徴収し、受取配当は前期の136億円から430億円へ拡大している。草道社長は「子会社のディスクロージャーが足りなかった」(週刊東洋経済 1998/11/14)と認めたうえで、収益力の向上を優先した「私の経営判断は間違いではなかった」(週刊東洋経済 1998/11/14)とも述べた[15][16]。
- 週刊東洋経済 1997年11月1日号「『日商岩井証券』の誕生」
- 週刊東洋経済 1998年10月10日号「日商岩井 デリバティブで第2次損失」
- 週刊東洋経済 1998年11月14日号「日商岩井『嘘』とジャンクと間一髪」
- 週刊東洋経済 1999年10月16日号「再建託された静かなサムライ 日商岩井社長 安武史郎」
- 週刊東洋経済 2002年3月9日号「日商岩井再生計画のパズルは未完成」