伊藤忠商事 の歴史

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創業 1858年
創業者 伊藤忠兵衛
創業地 滋賀県犬上郡豊郷村
創業
1858年、15歳の初代伊藤忠兵衛が近江国犬上郡豊郷村から麻布を担ぐ持下り行商を始めた。明治維新後に蒸気船と鉄道が普及して仲介の余地が縮むと、1872年に大阪本町で紅忠を創業して店舗商売へ移り、対米貿易、上海での綿糸輸入へと商いを替えている。1918年に伊藤忠商事と丸紅商店へ分かれたのち、1920年の反動恐慌で資産を失って破綻状態に陥り、紡績各社の協力で債務を整理して重役を総入替して平均35歳へ若返らせた。1929年7月には呉羽紡績を創立し、商品を仲立ちする側から自ら工場を持つ側へ移った。戦時統合で大建産業に集約され、1949年の分割で再独立した際は綿ののれんを引き継ぎ、絹・毛・麻・化繊は丸紅の側に残された。
決断
自ら決めた重い投資の失敗を、次の代へ持ち越さずに一括で清算してきた。1960年5月に非繊維部門の拡充を最重点へ掲げ、1966年には越後正一社長が主力行の反対を押し切って東亜石油の系列化とイアプコ油田の権益取得で和製メジャーを志向した。だが原油と為替の変動を受けきれず損失が常態化し、累計約1,300億円を出して1985年に撤退している。1977年10月には倒産状態の安宅産業を救済合併し、鉄鋼・化学の商権と社員の約3分の1だけを選んで取り込んだ。1998年に就任した丹羽宇一郎社長はバブル期の不動産中心の不良資産を先送りせず2000年3月期に単独約3,950億円の特別損失を一括計上し、CTCの上場益を充てて翌期に過去最高益へ転じさせた。
現況
五大商社で最も国内へ売上が寄っている。2026年3月期の売上高14兆8,230億円のうち日本が11兆3,534億円で77%を占め、有形固定資産も日本の2兆6,426億円が全体の7割にあたる。最大のセグメントは売上5兆1,341億円の食料で、2020年にファミリーマートを約5,809億円で完全子会社化したことがこの構成をつくった。セグメント利益では機械1,556億円、金属1,435億円、情報・金融930億円、食料920億円が並び、親会社株主に帰属する当期純利益は9,003億円。祖業の繊維も売上6,863億円・利益433億円の独立したセグメントとして残っている。
競合
資源権益を持たない側から、純利益で五社の首位に立った。2010年に岡藤正広社長が「か・け・ふ」の経営改革で非資源No.1を掲げ、2021年5月には純利益・株価・時価総額の三つで総合商社の首位を取っている。2026年3月期の当期純利益は伊藤忠9,003億円に対し、豪州へ有形固定資産1兆8,091億円を置く三井物産が8,340億円、2020年3月期にチリ銅などの一括減損で18年ぶりの最終赤字を出した丸紅が5,439億円。ただし時価総額は三菱商事の21兆4,230億円が伊藤忠の15兆6,511億円を上回り、三冠のうち現在も保っているのは利益の首位だけである。権益の規模ではなく、コンビニ・繊維・住生活が国内の消費に触れる面の広さが、この利益差を生んでいる。

創業ストーリー 持下り行商から綿糸貿易へ——四度の業態転換と法人化 (1858年〜)

麻布の持下り行商から始まった近江商人の商い

1858年、初代伊藤忠兵衛氏は15歳で江州から西日本各地へ麻布類の持下り卸販売[1]を始めた。開国により外国貿易が始まった年[2]にあたる。持下りは商品を担いで他国を渡り歩く近江商人の商法で、忠兵衛氏はこの商いにより幕末動乱期のうちに中国地方と九州へ地盤を広げた[3]。琵琶湖東岸の湖東一帯は近江商人の発祥の地[4]とされ、年少で他国へ商いに出る慣行が地域に根づいていた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が江州より西日本各地へ麻布類の持下り卸販売を開始
    • [2]創業年は開国により外国貿易が始まった年
    • [3]幕末動乱期に中国・九州へ確固たる地盤
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人16(日本経済新聞社、1981年)「越後正一」
    • [4]琵琶湖東岸の湖東地区が近江商人の発祥の地

1872年1月、忠兵衛氏は大阪東区本町三丁目に『紅忠』の商号で呉服太物卸商[5]を開いた。維新後の商都大阪の将来性に着目[6]した店舗化で、文明開化の波に乗って店は発展した[7]。呉服太物の国内卸売にとどまらず、1886年にラシャの直輸入を、1888年には繊維雑貨類の対米直輸出[8]を手がけた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [5]1872年1月 大阪東区本町三丁目に呉服太物商「紅忠」を開業
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]明治維新後 商都大阪の将来性に着目
    • [7]文明開化の波にのって店は大いに発展
    • [8]1886年 ラシャの直輸入/1888年 繊維雑貨類の対米直輸出
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [1]1858年 初代伊藤忠兵衛が江州より西日本各地へ麻布類の持下り卸販売を開始
    • [2]創業年は開国により外国貿易が始まった年
    • [3]幕末動乱期に中国・九州へ確固たる地盤
    • [6]明治維新後 商都大阪の将来性に着目
    • [7]文明開化の波にのって店は大いに発展
    • [8]1886年 ラシャの直輸入/1888年 繊維雑貨類の対米直輸出
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人16(日本経済新聞社、1981年)「越後正一」
    • [4]琵琶湖東岸の湖東地区が近江商人の発祥の地
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [5]1872年1月 大阪東区本町三丁目に呉服太物商「紅忠」を開業

綿糸への転換と、日清・日露が広げた大陸市場

1893年、忠兵衛氏は大阪東区安土町二丁目に伊藤糸店を開き[9]、綿糸の取扱いへ移った。近代綿紡績糸の有望性に着目した転換で、この店が後の伊藤忠商事発足の礎石[10]となった。同店が始めた綿糸布の貿易は、わが国最初のもの[11]とされる。日清・日露の両戦役による大陸市場の拡大[12]につれ、輸出業務は本格的に伸びた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [9]1893年 大阪東区安土町二丁目に伊藤糸店を開店
    • [10]近代綿紡績糸の有望性に着眼/後の伊藤忠商事発足の礎石
    • [12]日清・日露の両戦役による大陸市場の拡大で輸出業務が本格的に伸長
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [11]わが国最初の綿糸布貿易

麻布の行商から呉服太物、直輸出入、綿糸へと、業態は約40年のあいだに四度移った[13]。交通網の整備で持下り行商の中間利幅が縮んだ[14]ことが、最初の転換を促している。綿糸への移行後は大阪周辺の紡績会社群への販売が基盤[15]となり、繊維を主力とする商社の形が定まった。

  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [13]麻布行商→呉服太物→直輸出入→綿糸卸の四度の業態転換
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [14]交通網の整備による持下り行商の中間利幅の縮小
    • [15]大阪周辺の紡績会社群への販売が繊維商社の基盤
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [9]1893年 大阪東区安土町二丁目に伊藤糸店を開店
    • [10]近代綿紡績糸の有望性に着眼/後の伊藤忠商事発足の礎石
    • [12]日清・日露の両戦役による大陸市場の拡大で輸出業務が本格的に伸長
    • [14]交通網の整備による持下り行商の中間利幅の縮小
    • [15]大阪周辺の紡績会社群への販売が繊維商社の基盤
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [11]わが国最初の綿糸布貿易
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [13]麻布行商→呉服太物→直輸出入→綿糸卸の四度の業態転換

合名会社への法人化と、大戦景気のなかの備え

1914年12月、伊藤家各事業を統轄するため資本金200万円の伊藤忠合名会社[16]が設けられ、二代目伊藤忠兵衛氏が社長に就いた。第一次世界大戦の好況[17]により、貿易と国内の双方で事業は大きく伸びた。1918年12月、伊藤忠合名会社は営業部門を二分し、資本金1000万円の伊藤忠商事株式会社[18]と株式会社伊藤忠商店を設立している。後者が後の丸紅商店[19]で、伊藤忠と丸紅はこの分割から別々の道を歩んだ。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [16]1914年12月 資本金200万円の伊藤忠合名に組織変更・二代目伊藤忠兵衛が社長
    • [18]1918年12月 営業部門を二分し資本金1000万円の伊藤忠商事を創立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [17]第一次欧州大戦の好況で事業が飛躍的に発展
    • [19]株式会社伊藤忠商店が後の丸紅商店

1919年は『神武以来』と呼ばれた好況の年で、銀行預金は見るまに数千万円へ膨らんだ[20]。二代目忠兵衛氏は洋行から帰った伊藤竹之助氏と年末に相談し、『こう金がもうかっては必ず反動が来るから、一切見込みはせぬことにして、金は貯めることにしよう』[引用元](日本経済新聞『私の履歴書』)と方針を定めた。以後は見込み商いを断ち、資金を蓄える堅実一方の方針[21]を保っている。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [20]1919年は「神武以来」の好況・銀行預金が数千万円に
    • [21]見込みを断ち資金を蓄える方針の決定
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [16]1914年12月 資本金200万円の伊藤忠合名に組織変更・二代目伊藤忠兵衛が社長
    • [18]1918年12月 営業部門を二分し資本金1000万円の伊藤忠商事を創立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [17]第一次欧州大戦の好況で事業が飛躍的に発展
    • [19]株式会社伊藤忠商店が後の丸紅商店
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [20]1919年は「神武以来」の好況・銀行預金が数千万円に
    • [21]見込みを断ち資金を蓄える方針の決定

1920年恐慌による破綻と、平均35歳への若返り

1920年春、市況は桜の咲かぬころから崩れ[22]、やがて大暴落となった。取組みは全部が破約となり、解約された数量は1921年末までの約20カ月分[23]に達している。紡績各社は約2割の割引に応じたが、客と仲間へは6割の割引[24]を要した。翌年正月には預金と株券の一切が消滅し、巨額の借金だけが残った[25]

  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [22]1920年春からの市況悪化と大暴落
    • [23]取組みが全部破約・1921年末まで約20カ月分が解約
    • [24]紡績は約2割引・客と仲間へは6割引
    • [25]預金・株券の一切が消滅し巨額の借金が残存

再建を助けたのは紡績各社で、不動産と担保の不良株券を銀行から時価で買い取り[26]、数倍に評価して債務に充てた。このとき伊藤忠は忠実な社員の約半数と別れて[27]いる。二代目忠兵衛氏は重役を全員入れ替え、自らの34歳と専務の伊藤竹之助氏の37歳を軸に、筆頭常務中村信太郎氏の38歳を最高とする平均35歳[28]の陣容へ若返らせた。好況の絶頂で退いて備え[29]、恐慌の底で若返りと堅実主義へ転じる型が、ここで定まった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [26]紡績各社が担保株を時価で買い取り数倍に評価して債務に充当
    • [27]忠実な社員の約半数と別れる
    • [28]重役全入替 二代目忠兵衛34歳・伊藤竹之助37歳・中村信太郎38歳・平均35歳
    • [29]好況期の備えと恐慌後の若返り・堅実主義への転換
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [22]1920年春からの市況悪化と大暴落
    • [23]取組みが全部破約・1921年末まで約20カ月分が解約
    • [24]紡績は約2割引・客と仲間へは6割引
    • [25]預金・株券の一切が消滅し巨額の借金が残存
    • [26]紡績各社が担保株を時価で買い取り数倍に評価して債務に充当
    • [27]忠実な社員の約半数と別れる
    • [28]重役全入替 二代目忠兵衛34歳・伊藤竹之助37歳・中村信太郎38歳・平均35歳
    • [29]好況期の備えと恐慌後の若返り・堅実主義への転換

富山紡績の引受けから呉羽紡績の創立へ

呉羽紡績の母体となる富山紡績[30]の創立は1920年、恐慌の年にあたる。紡機を売り込んだ得意先の経営が行き詰まったため[31]、二代目忠兵衛氏がやむを得ず代表者を引き受けたものである。経営は苦しく、先輩紡績に頼んで技術者の世話を受けて[32]どうにか継続した。両社は1934年に合併[33]している。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [30]呉羽紡績の母体が富山紡績・創立は大正9年
    • [31]紡機売込先の経営難でやむを得ず代表者を引受け
    • [32]先輩紡績から技術家の世話を受けて経営を継続
    • [33]1934年 富山紡績と呉羽紡績が合併

1929年7月、二代目忠兵衛氏は呉羽紡績を創立した[34]。浜口内閣が成立し金解禁の不安が広がった年で、いくたの先輩から延期の忠告[35]を受けている。それでも踏み切ったのは、富山紡績で経験を得たことと、まだ日本で着手されていない革新的なハイ・ドラフト操作[36]に自信があったからである。綿花代金はナショナル・シティ・バンクによる手形の切り替え[37]で低利の米国資金をあて、借金を抱えたまま操業を回した。日華事変の進展にともなう政府の強制合併を経て、紡機162万錘と織機1万1000台[38]、人絹スフ50トン、染晒3工場を擁し、東洋紡につぐ工場実勢となった。

  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [34]1929年7月 呉羽紡績を創立
    • [35]浜口内閣成立・金解禁の不安のなかで先輩から延期の忠告
    • [36]日本未着手のハイ・ドラフト操作への自信
    • [37]綿花代金をナショナル・シティ・バンクの手形切替で低利の米国資金にて調達
    • [38]紡機162万錘・織機1万1000台・人絹スフ50トン・染晒3工場で東洋紡につぐ工場実勢
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [30]呉羽紡績の母体が富山紡績・創立は大正9年
    • [31]紡機売込先の経営難でやむを得ず代表者を引受け
    • [32]先輩紡績から技術家の世話を受けて経営を継続
    • [33]1934年 富山紡績と呉羽紡績が合併
    • [34]1929年7月 呉羽紡績を創立
    • [35]浜口内閣成立・金解禁の不安のなかで先輩から延期の忠告
    • [36]日本未着手のハイ・ドラフト操作への自信
    • [37]綿花代金をナショナル・シティ・バンクの手形切替で低利の米国資金にて調達
    • [38]紡機162万錘・織機1万1000台・人絹スフ50トン・染晒3工場で東洋紡につぐ工場実勢

戦時統合による三興・大建産業と、四社への分割

1941年9月、旧伊藤忠商事は丸紅商店および鉄鋼商の岸本商店と合併し、資本金3600万円の三興株式会社[39]となった。会長に伊藤竹之助氏、社長に二代目伊藤忠兵衛氏、副社長に岸本彦衛氏[40]が就いている。1944年9月、戦局の緊迫にともない同系の呉羽紡績・大同貿易と合併して大建産業が設立され、資本金は8800余万円[41]となった。同年11月には1億1900余万円へ増資[42]している。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [39]1941年9月 丸紅・岸本商店と合併し資本金3600万円の三興を創立
    • [40]三興の会長 伊藤竹之助・社長 伊藤忠兵衛・副社長 岸本彦衛
    • [41]1944年9月 呉羽紡績・大同貿易と合併し資本金8800余万円の大建産業を設立
    • [42]1944年11月 1億1900余万円へ増資

大建産業は増資を重ね、1948年12月に1億6900余万円、1949年4月に3億6900余万円、同年6月には4億円[43]へ達した。傘下には三興製紙・三興線材・大建木材・大建被服・不二製油・呉羽ゴム・呉羽化学[44]を擁する総合経営体となっている。航空本部の要請で富山県に興した呉羽航空では、立川飛行機と中島飛行機の指導により陸軍の戦闘機を製造[45]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [43]1948年12月 1億6900余万円/1949年4月 3億6900余万円/同年6月 4億円へ増資
    • [44]傘下に三興製紙・三興線材・大建木材・大建被服・不二製油・呉羽ゴム・呉羽化学
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [45]航空本部の要請で呉羽航空を富山県に設立し陸軍戦闘機を製造

1949年4月、大建産業は過度経済力集中排除法の適用を受けた[46]。企業再建整備計画が同年10月に認可され、12月に伊藤忠商事・丸紅・尼崎製釘所の三社が、翌1950年3月に呉羽紡績[47]が第二会社として設立され、大建産業は解散した。再発足した伊藤忠商事の資本金は1億5000万円で、社長には小菅宇一郎[48]が就いている。1950年7月には大阪・東京両証券取引所へ株式を上場[49]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [46]1949年4月 過度経済力集中排除法の適用
    • [47]1949年10月 再建整備計画認可・12月に伊藤忠商事など三社、1950年3月に呉羽紡績を設立し大建産業は解散
    • [48]再発足時の資本金1億5000万円・社長 小菅宇一郎
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1950年7月 大阪・東京両証券取引所に株式を上場
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
    • [39]1941年9月 丸紅・岸本商店と合併し資本金3600万円の三興を創立
    • [40]三興の会長 伊藤竹之助・社長 伊藤忠兵衛・副社長 岸本彦衛
    • [41]1944年9月 呉羽紡績・大同貿易と合併し資本金8800余万円の大建産業を設立
    • [42]1944年11月 1億1900余万円へ増資
    • [43]1948年12月 1億6900余万円/1949年4月 3億6900余万円/同年6月 4億円へ増資
    • [44]傘下に三興製紙・三興線材・大建木材・大建被服・不二製油・呉羽ゴム・呉羽化学
    • [46]1949年4月 過度経済力集中排除法の適用
    • [47]1949年10月 再建整備計画認可・12月に伊藤忠商事など三社、1950年3月に呉羽紡績を設立し大建産業は解散
    • [48]再発足時の資本金1億5000万円・社長 小菅宇一郎
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
    • [45]航空本部の要請で呉羽航空を富山県に設立し陸軍戦闘機を製造
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1950年7月 大阪・東京両証券取引所に株式を上場

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伊藤忠商事の沿革1858〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1858〜1919年持下り行商から綿糸貿易へ——四度の業態転換と法人化伊藤忠商事創業——15歳の近江商人が始めた麻布の持下り行商から戦後商社の再独立まで

1858年(安政5年)、近江国犬上郡豊郷村出身の15歳・初代伊藤忠兵衛氏が、兄の6代目伊藤長兵衛氏とともに麻布類の持下り行商を始めた。売り手よし・買い手よし・世間よしという三方よしを商売の出発点に置き、1872年に大阪本町で呉服太物商『紅忠』を開いて店舗化、1893年には『伊藤糸店』で綿糸卸へ転じた。1918年の株式会社化を経て、戦時統合と1949年12月の再独立を挟みながら、近江商人の家業が戦後の総合商社へ育っていった。

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★★★
呉服太物商「紅忠」を開店
「伊藤糸店」を開店し綿糸卸売業を開始
経営近代化のために伊藤忠合名会社を設立
合名会社を分割し「旧伊藤忠商事」と「伊藤忠商店」を設立
1920〜1949年1920年恐慌の破綻と若返り、戦時統合を経た四社分割大正9年恐慌からの再建と堅実経営への転換——重役総入替と若返り

1920年(大正9年)の反動恐慌で、伊藤忠は預金も株券も失い巨額の借金を負う破綻状態に陥った。二代伊藤忠兵衛氏は、前年の『神武以来』の好況の絶頂であえて見込み商いを断って備え、恐慌後は紡績各社の協力で債務を整理したうえ、重役を総入替して平均35歳の若い経営陣へ刷新し、徹底した堅実経営へと転じた。

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★★★
呉羽紡績の創立——繊維商社から工業(紡績)経営への進出

1929年(昭和4年)7月、二代伊藤忠兵衛氏が、金解禁を控えた不況下で紡績会社・呉羽紡績を創立し、繊維貿易商社であった伊藤忠が自ら工業(紡績)経営へ本格進出した経営判断。売った紡機の代金回収から関わった富山紡績の経験を土台に、のちの三興・大建産業へと連なる工業展開のはじまりとなった。

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★★★
旧伊藤忠商事・丸紅商店・岸本商店が合併し三興に★★
呉羽紡績・大同貿易と合併し「大建産業」に
小菅宇一郎過度経済力集中排除法により伊藤忠商事が再発足★★
1950〜1979年繊維からの脱皮と、和製メジャー構想という賭け小菅宇一郎大阪・東京両証券取引所に株式を上場
小菅宇一郎伊藤忠アメリカ会社を設立
越後正一非繊維部門の拡充——繊維専業商社から総合商社への転換

1960年に伊藤忠商事の第5代社長に就任した越後正一氏が、以後14年の在任を通じて非繊維部門の拡充を最重要目標に掲げ、繊維専業に近かった事業構成を重化学・資源・海外へと広げて総合商社へ転換させた面的な経営戦略。1962年3月期には非繊維部門の取扱いが売上の過半を超えた。

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★★★
越後正一非繊維部門の拡充による総合商社化を最重点に★★
越後正一繊維重視の経営方針
越後正一石油の開発から精製・販売までを一貫化する「和製メジャー」構想と東亜石油の系列化

1966年、越後正一社長のもとで伊藤忠商事が精製・販売会社の東亜石油をアラビア石油からの株式取得で系列化し、続いて1970年にジャワ海のイアプコ油田権益を取得して、石油の開発から精製・販売までを一貫して手がける『和製メジャー』を志向した経営判断。繊維商社からの脱皮を進める資源確保戦略の中核であった。

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★★★
戸崎誠喜伊藤忠香港会社を設立
戸崎誠喜安宅産業の救済合併と「39年の恩」

1977年10月、伊藤忠商事はカナダの石油精製事業で巨額損失を出して倒産状態に陥った大手総合商社・安宅産業を救済合併した。鉄鋼(新日本製鐵との取引)・化学など有力な商権を選別して取得する一方、機械・繊維・パルプ・木材など商権が散逸した事業は引き受けず、安宅産業の社員3661名のうち伊藤忠へ転籍したのは1058名にとどまった。

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★★★
戸崎誠喜東京本社新社屋を北青山に竣工
米倉功東亜石油の株式売却・石油精製から撤退★★
室伏稔伊藤忠集団有限公司を設立
丹羽宇一郎ファミリーマートに出資
丹羽宇一郎伊藤忠テクノサイエンス(CTC)を東京証券取引所一部に上場
丹羽宇一郎特別損失約3,950億円の一括計上によるバブル期不良資産の清算

2000年3月期、伊藤忠商事は特別損失を一括計上し、バブル期に膨らんだ不良資産を清算した。金額は単独で約3,950億円、連結で3,039億円にのぼる。1998年4月に就任した丹羽宇一郎氏が、含み損を先送りせず一度に処理する財務リストラを断行したもので、1999年12月に上場した子会社CTCの株式売却益を処理の原資に充てた。

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丹羽宇一郎伊藤忠食品を東京証券取引所一部に上場
丹羽宇一郎伊藤忠丸紅鉄鋼を会社分割で設立
丹羽宇一郎豪州資源開発3社を統合しITOCHU Minerals & Energy of Australiaを発足
小林栄三日本アクセスをTOBで取得
岡藤正広「か・け・ふ」による経営改革と非資源No.1・商社三冠戦略

2010年4月、繊維畑を歩んできた岡藤正広氏が伊藤忠商事の社長に就任し、『稼ぐ・削る・防ぐ』の頭文字をつないだ『か・け・ふ』を合言葉に経営改革へ着手した。粗利益は2位でも経費が重く純利益は4位という『万年4位』の体質を、非資源の強みで作り替え、2012年3月期に4位を脱し、2020年には純利益・株価・時価総額の『商社三冠』に立った。

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岡藤正広米ドール(Dole)の加工食品事業とアジア青果事業の買収

2012年9月、伊藤忠商事は米ドール・フード・カンパニーから、世界で売る加工食品事業とアジアの青果事業を総額16億8,500万ドル(当時の為替で約1,340億円)で取得することに合意した。2013年4月に手続きを終え、伊藤忠にとって当時最大の買収案件となった。

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岡藤正広中国中信集団(CITIC)への6890億円出資と戦略的資本提携

2015年1月、伊藤忠商事はタイの財閥C.P.グループと組み、中国最大級の国営コングロマリット・中国中信集団(CITIC)へ出資した。伊藤忠とC.P.が折半出資した合弁CTBを通じてCITIC株式20%を取得し、伊藤忠の出資額は6890億円と、日本企業による対中投資として過去最大規模になった。

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岡藤正広ヤナセをTOBで取得
鈴木善久ユニー・ファミリーマートHDをTOBで取得し子会社化★★
鈴木善久デサントへの同意なきTOB——国内で異例の敵対的買収の断行

2019年1月31日、伊藤忠商事は筆頭株主として出資するスポーツウェア大手デサント(東証1部)へ、対象会社の同意なきTOB(株式公開買付け)を発表した。出資比率を約30.44%から最大40%へ引き上げ、あわせて経営体制の刷新が必要との考えを明らかにした。日本の大企業間では珍しい敵対的TOBであった。

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鈴木善久伊藤忠商事によるファミリーマートの完全子会社化(2020年成立)

2020年、総合商社の伊藤忠商事が連結子会社で東証1部上場のファミリーマートにTOBを実施し、約5,800億円を投じて完全子会社化・非上場化した案件。買付価格は1株2,300円であった。

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鈴木善久ファミリーマートの完全子会社化TOBと、少数株主による公正価格の争い

2020年7月、伊藤忠商事はすでに50.1%を握る子会社ファミリーマートの残る株式を株式公開買付け(TOB)で買い取り、完全子会社化すると発表した。買付価格は1株2,300円、買付総額は最大約5,809億円。8月にTOBが成立し、11月にファミリーマートは上場廃止となった。

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石井敬太日立建機の株式取得
石井敬太伊藤忠テクノソリューションズを完全子会社化
石井敬太大建工業をTOBで取得し上場廃止
石井敬太デサントをTOBで取得し2025年1月上場廃止
出典・参考
  • 伊藤忠商事 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「伊藤忠商事」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 私の商社昭和史(東洋経済新報社、1987年)「6章 高度成長期の商社活動」
  • 私の住友昭和史(東洋経済新報社、1988年)「10章 業界再編成と銀行の役割」
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人1(日本経済新聞社、1980年)「伊藤忠兵衛」
  • 日本経済新聞「私の履歴書」経済人16(日本経済新聞社、1981年)「越後正一」
  • 日本経済新聞(1985年1月3日)

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