経営近代化のために伊藤忠合名会社を設立
2代目伊藤忠兵衛による組織改編と海外拠点の整備
1914年に2代目伊藤忠兵衛(当時28歳)が伊藤忠の代表者に就任した。経営近代化を推進するため、同年に伊藤家の事業を集約する形で「伊藤忠合名会社」を設立し、1918年には株式会社に改組することで近代的な会社組織へと転換した。組織改編と並行して海外拠点の整備も進め、4支店(東京・神戸・上海・マニラ)と6出張所(横浜・漢口・天津・青島・カルカッタ・ニューヨーク)からなる貿易ネットワークを構築するに至った。
業績面では、1914年から1919年にかけての第一次世界大戦が追い風となった。欧州諸国では船舶が軍事目的で徴収されたことで海外貿易における日本企業の参入余地が生まれ、伊藤忠もこの需給ギャップを活かして莫大な利益を確保したとされる。太平洋沿岸地域を中心に貿易拠点を展開していた伊藤忠にとって、戦時における欧州勢の不在は商圏拡大の好機となった。
第一次大戦後の不況で丸紅を分離し綿商社への集中を選択
1919年の第一次世界大戦終結とともに、戦時好景気は終焉を迎えた。1920年に伊藤忠は赤字に転落し、財務体質が急速に悪化したため、大規模な人員削減と事業再編を決定した。この過程で丸紅商店を分離し、兄弟関係にあった伊藤忠と丸紅は袂を分かつこととなった。
経営再建の骨子は、綿糸の取扱に経営資源を集中させ、不採算であった貿易部門を切り離すことにあった。貿易部門は大同貿易として分離し、伊藤忠は「綿商社」として生き残りを図った。もっとも、大正時代を通じて経営環境は厳しく、負債の圧縮に時間を費やす形が続いた。戦時の利益は長期的な成長基盤にはならなかった。
戦時利益への依存がもたらした拡張と縮小のサイクル
第一次世界大戦中の好況で拡大した事業規模は、終戦後の需要縮小に対して過大なものとなった。組織と拠点を急速に拡張した一方で、戦時の特需に依存した収益構造は平時への転換に耐えうるものではなかった。丸紅の分離と貿易部門の切り離しは、事業縮小による延命策としての性格が強かった。
結果として、伊藤忠は綿商社として事業を絞り込むことで生存を果たしたが、総合商社としての多角化は後退した。戦時の好況で拡張し、終戦後の不況で縮小を余儀なくされるというサイクルは、日本の商社史において繰り返し現れる構造である。この経験が、のちの伊藤忠が非繊維分野の拡大を志向する際の原点ともなった。