創業者・正垣泰彦氏と本八幡の1号店
1967年7月、創業者の正垣泰彦氏が個人店舗「レストラン・サイゼリヤ」を開店した。東京理科大学物理学科の4年に在学中で、店を構えたのは市川市の本八幡、開店日は7月7日の仏滅だったと正垣氏はふり返った。初めは大学の研究室に残るつもりでいたが、卒業論文のため国の研究所へ通ううち、これを一生やる仕事ではないと考えを変えた。かといって別の就職先を探すには時期が遅すぎていた。そこで正垣氏が目をつけたのが食べ物屋で、小さくてもやり方しだいで大資本と競える店にできると考えた。ゼロから出発して大きくなれることが、業種を選ぶ際の基準だった。
1968年4月8日の夜、開業1年目の店で起きたヤクザ同士のけんかの最中に石油ストーブが投げ合われ、そこから出た火で店は全焼した。その店とは、周囲の反対を押し切って千葉県市川市に開いた10坪ほどの小さなレストランである。本八幡の同じ場所で再建しても客は入らず、駅前に立ってプラカードで客を呼ぶところまで正垣氏は追い込まれた。1973年5月の株式会社マリアーヌ商会の設立で事業は法人となり、イタリアンレストラン「サイゼリヤ」の経営もこの年に始まったが、客足の乏しさという問題は法人化で解けたわけではなかった。
東京理科大学物理学科の4年生だった1968年に店を始め、1973年に法人へ改めたのが正垣氏の経歴である。本人は、味の世界に物理の法則を当てはめることを自らの使命に挙げた。仮説を置いて検証するという手順を、商売にそのまま持ち込んだわけである。調査にかける執着も強く、米国やイタリアを含む各地で毎年同じ時期に同じ場所を見て回り、自身をこれほど調べることを好む者は珍しいと評していた。1994年、関東を中心に84店を構えていた段階でも、正垣氏はサイゼリヤを仮説に基づく実験の場だと語っている。店の不振を気構えの問題とせず変数として扱うこの姿勢が、のちに値付けを決めるやり方の土台となった。
開業から5年を経た1973年、正垣氏は本当にうまい料理とは何かという問いを立て、アメリカ・フランス・ギリシャ・イタリアなどを訪ね歩いた。イタリアの「マリアーノ」という店で出された料理には驚いた。ところが食後に出された酒をひどくまずいと感じ、なぜこんな酒を最後に出すのかと主人に抗議した。主人は、日本人は食べる順序がまったく分かっていないと応じ、毎日来るようにと言った。何日か通ううち、正垣氏はその食後酒をうまいと感じるようになった。食後酒は一種の胃薬であり、食前酒から食後酒まで順に運べば全体として満足できるよう工夫されているという理解に、正垣氏はここで行き着いた。イタリア料理は前菜に始まり、パスタやスープ、魚か肉の料理、デザート、コーヒーと、食べる順番とその組み合わせが決まっている。
1993年に正垣氏が示した味の内訳は、素材が80〜90%、温度と湿度の管理が5〜10%、コックの作業が5〜10%というものだった。1998年の講演ではこれが素材90%、保管管理5%、調理5%へと組み直されている。どちらの配分も、味の良し悪しを左右するのは素材だという正垣氏の見方に立つ。昔からの食べ方を世界で今も保っている料理はイタリア料理のほかにないとし、その訳を、調理に手間をかけずに済むことと、素材をそのまま口にするので飽きられないことに求めた。味が素材で決まる以上、店から調理の腕を抜いても品質は下がらない、という理屈になる。店の作業を削って工場に寄せる後年の設計は、この配分の見立てを根拠にしていた。
イタリア料理へ向かうもう一つの手がかりは、市場の伸びの観察だった。130%という伸びを示すトマト・スパゲティと溶けるチーズに目を留めたことが、正垣氏をイタリア料理へ導いた。正垣氏の回想では、それ以前、戦後の食材で最大の伸びを見せたのはにんにく、テレビ広告の量で首位だったのは味噌で、唐辛子を効かせれば売れるとも考えたが、辛さを売り物にする道では札幌ラーメンが先に走っていた。中華料理は素材の弱さを甘辛い味付けで補っているとみていたことも、この選択の裏付けになった。一方で、イタリア料理のチェーンは世界のどこにも見当たらず、米国のオリーブ・ガーデンでさえ一皿で完結する形で、素材ごとに量を分けるポーションにはなっていないと正垣氏は見ていた。
値段を下げると客が来る、という経験則を正垣氏は人類の法則と呼んだ。正垣氏は1992年の時点で、今後も値段は上げず、逆に下げる努力を続けると打ち出していた。値下げをしない限り商圏人口は縮まない、というのがその理由である。客の来店頻度も価格で動くとみており、1年に1回訪れる客は安くすれば1年に2回に増え、高くすれば2年に1回へ減ると述べ、品質が同じでもう一段安くすれば客は必ず足を運ぶとも言った。店の商圏を地理の広がりではなく値段で決まるものとして捉える見方であり、1975年ごろに全品を大幅に値下げして低価格のイタリア料理店へ業態を切り替えた判断も、この前提の上にあった。
では、いくら下げれば安いと感じられるのか。正垣氏はこれを売り手と買い手の折り合いとして説明した。1000円で売りたい売り手と200円で買いたい買い手が議論しても水掛け論になる。足して2で割れば600円となり、互いに400円ずつ譲ったことになる。片方が601円でも人は感情的にむきになるのであって、ちょうど半分にすることが要点だと正垣氏は述べた。ここから、人が見て安いと感じるのは仕組みとして5割引以下であり、5割以下のメニューを作れることがサイゼリヤの条件になった。1000円のものなら500円以下、前の店より5割安く売ればよいという単純な指針で、メニューは全品5割引に置かれた。
下げ幅の次に決めたのは、1品の絶対額だった。数字には必ず尺度があり、その倍の所で物事の値段が決まっていると正垣氏は考えた。人が考えずに払える食べ物の値段は、どの国へ行ってもほぼ同じ水準にあるタバコと雑誌の値段の倍である。1993年の時点で最も売れている週刊誌が190円、タバコが220円だった。1品単価を380円から440円の間に置けば客は自然に来る、という計算である。値引き幅を相場の半値に、絶対額を雑誌とタバコの倍に置く。二つの尺度で値付けを決める型が、業態転換の時点で固まった。基準となる相場はイタリアの値段ではなく、日本のリーズナブルな値段だった。
1977年12月、千葉県市川市に第3号店となる市川北口店を開店し、多店舗化に着手した。同じ時期に仕入の強化にも手をつけている。正垣氏が出店先として挙げたのは、売上の見通しが立てられ、しかも他社が避けがちな条件の悪い立地だった。開業から10年が過ぎて店を増やそうという時期、どこに出すべきかを尋ねられての答えで、まず投資額の20%以上の経常利益を見込めることを条件に置いていた。場所の良し悪しを基準にしなかったのは、悪い立地ならそれだけ投じる資金が少なくて済むという単純な理由による。
正垣氏が商売の条件に据えたのは総資本利益率20%以上で、これを回転率2以上と売上高経常利益率10%以上の掛け合わせで達成するという組み立てだった。回転率とは総資本に対する売上の比率を指し、1億円を投じて2億円を売り上げられない場所には出店しない。好立地を避ける理由も同じ分解で説明がつき、立地が良ければ固定費が膨らんで損益分岐点もその分上に押し上げられる。投下資本に見合う利益を出店の目安とする考えは、1993年の取材でも同じ表現で語られた。条件の悪い場所でも客が集まるのは値段を相場の半分に抑えているからであり、出店の方針は価格の方針と組になって機能していた。
1981年4月、千葉県船橋市にショッピングセンター第1号店となる船橋ららぽーとららぐるめ店を開店した。もっとも正垣氏は、生鮮三品を買いに来る客が主のショッピングセンターでは本来レストランは成り立たないと見ていた。買い物客以外を独自に呼ぶには、7割引きにするなど思い切って値打ちを出す必要がある。そこまでやればサイゼリヤはショッピングセンター同士の争奪の対象になる、という読みだった。経営不振で撤退した店を引き継ぐ出店も多く、頼まれるから引き継ぐのだと正垣氏は述べている。客がすでに付いている分だけ物理的に楽な面もあるという説明で、他社が投じた店舗投資を安く拾う形になった。
1987年3月、創業の地である千葉県市川市本八幡に駅ビル第1号店となるシャポー本八幡店を開店した。同年4月には商号を株式会社マリアーノに変更し、10月には市川北口店で手書きのオーダーをオーダーエントリーシステムへ切り替えた。1989年9月には千葉県柏市にロードサイド店の第1号となる柏水戸街道店を開店している。ショッピングセンター、駅ビル、ロードサイドと店を収める器を替えるたび、サイゼリヤが相手にする商圏の形も変わった。1992年6月に札幌市厚別区の新札幌駅ビル店で50店舗、1994年7月に神奈川県藤沢市の江ノ島店で100店舗に達した。
正垣氏が管理の物差しにしたのは、1人1時間当たりの粗利益高を示す人時生産性だった。働く時間が何百時間にも及ぶ者がいるため、1人当たりの数字では管理が利かない。1時間当たりにすれば、労働時間の長短にかかわらず正確に測れる。粗利益率では他社を上回らないのに経常利益率で大きく差をつけている点について問われると、正垣氏は、従業員が無駄を省いて効率よく動いていることを挙げた。仕事の原点を動作、その集まりを作業と定義し、初歩・基礎・熟練の別に分けて200ほどの項目に落とし、時間を計りながら習得させた。人時生産性が5000円あれば、年間労働時間2000時間として1人当たり年1000万円になるという計算である。
昇給は年1〜2回の定期ではなく随時行い、給与は各人が何を実行し、指示どおりの成果を上げたかに応じて払った。必ず守るべきことと決してしてはならないことを細部まで書き出した文書を、サイゼリヤはマニュアルでなく昇給教科書と名づけた。社員の給与は誰が見ても分かるようにしてあり、本人に何が欠けているかがはっきりするので教育もしやすいと正垣氏は語り、店長には稼働計画コントロールという職務を与えて、売上高経常利益率と売上高人件費率の目標を達成できたかどうかを給与に反映させた。同じ勤続年数で同業他社の1.8倍の給与を払いながら利益率は業界で最も高いという状態が、この成果給で成り立っていた。1992年9月に商号を株式会社サイゼリヤへ変更し、1993年8月期の売上高は98億円に達した。
正垣氏は、店の生産性を高めるにはチェーンを広げ、カミッサリーと呼ぶ工場と配送を兼ねた拠点を設けて、店でしていた作業の半分をそちらへ移すほかにないと、業界の構造から判断していた。その前提には、外食の生産性は1人当たりで見て極端に低いという認識があった。米国を除けば業者はどこも零細企業にとどまり、社員が40歳を迎えるころには人件費を払いきれなくなる。工場で作れば味が落ちるという考えは、正垣氏の採るところではなかった。素材が良ければ検品と加工をまとめて行うほうがかえって品質を保ちやすく、味とコスト削減の両立もかなうとの判断である。味の9割は素材で決まるという見方が、ここで工場の設計の考え方に置き換わった。
1997年10月、埼玉県吉川市旭2番地5に吉川工場を建設し、同時に本社を同地へ移した。工場では生野菜を調理して賞味期限の短いソースなどを作り、委託倉庫から運び込む輸入パスタやオリーブ油とあわせて店舗へ一括配送した。生野菜の8〜9割は生産者から直接仕入れた。本部から収穫量を指示された契約農家が気温の低い早朝に収穫し、2時間後には冷蔵車へ積み込む。午前9時ごろ工場に着いた野菜は、その日の夜に各店へ配送された。収穫の翌日に食卓へ上るまで、温度は常に5℃前後に保たれた。生産管理の技術を持つ堀田康紀氏を食品メーカーから招き、製造業の工程管理を店舗作業へ持ち込んだ。
工場用地として4万坪はすでに手当てしてあり、最後の資金繰りは株式の上場で賄うというのが1993年時点の正垣氏の構想だった。1998年4月、サイゼリヤは日本証券業協会に株式を店頭登録した。食生活の改善を、正垣氏は60年計画と位置づけていた。投資リターン20%、自己資本比率30%以上の維持を経営の考え方に据え、総資本経常利益率を20.7%で管理しているとも同社は説明した。創業から30年目のこの時期には、大卒者を毎年採るようになり株式も公開し、工場と配送拠点を兼ねた施設づくりを進めていた。その工場が動き出すと、宣伝らしい宣伝もないままサラダの売上高は40%増え、値段で集めた客を素材の質で離さない仕組みがひとまず整った。
1999年7月に東京証券取引所市場第2部へ上場し、2000年8月には市場第1部の指定を受けた。上場した期には新株発行費8億87百万円を計上し、同じ期に当時の過去最高となる80店を出して期末の店舗数を254店とした。翌2000年8月期は95店、2001年8月期は130店と出店数を積み増し、期末の店舗数は474店に達した。正垣泰彦社長は2000年の英文年次報告で、2005年ごろまでに1000店舗を運営する計画を示した。2000年8月期と2001年8月期の対処すべき課題でも、筆頭に置かれたのは新規出店数の確保だった。株式市場で得た資金を出店の速度に換える段階へ、経営の重心が移ったとみられる。
1998年11月のグランドメニュー改定では、カミッサリーの本格稼働で新鮮な野菜を打ち出した。100円台のスープなどを増やし、料理を組み合わせやすい構成に改めた。それでも1999年8月期の既存店売上高は前期比97.1%にとどまり、次の課題には商品価格の値下げと新鮮野菜の品目増強が並んだ。1999年11月の改定では主力のミラノ風ドリアを480円から290円へ下げ、肉料理の一部も値下げした。2000年8月期の経常利益は64億25百万円と前期比57.6%増えた。要因として、新規出店、規模によるコスト削減、店舗作業の標準化による生産性向上が挙げられた。既存店の弱さを値下げで客数に換え、その原価を出店と規模の利益で吸収する組み立てだった。
店舗網の広がりに合わせて加工の拠点を増やし、2001年3月に神奈川県大和市へ神奈川工場を建設して、同年5月に稼働させた。福島工場は同年6月に、リゾット、ドリア、ピラフといった米飯製品の生産を始めた。正垣社長は2000年の時点で、豪州の工場を加えた3件の投資について『When these three investment projects go onstream and we begin processing foods, which we previously had to outsource, we expect to offer even lower prices than at present.』(訳:これら3つの投資が稼働し、これまで外部に委ねるほかなかった食品の加工を始めれば、今よりさらに低い価格を出せると見込んでいる)と語っていた。稼働後の事業報告書は、品質の安定化、店舗作業の改善、配送できる範囲の拡大を効果として挙げた。外注してきた加工を内に取り込むことが、値下げの原資を生む手段と位置づけられていた。
2000年7月、オーストラリアに製造子会社SAIZERIYA AUSTRALIA PTY.LTD.を設立した。メルトンに置く工場ではハンバーグの肉やソースを加工し、2002年1月までに生産を始める予定だった。2002年の英文年次報告で正垣社長は、この工場を国内1000店舗分の生産能力を持つ供給基地と位置づけた。ハンバーグ、ミートソース、ベシャメルソース、スープ類を製造・冷凍して日本へ送る構想である。本格稼働で売上原価を3%下げられると見込み、海外で店を開く際の拠点にも使えるとした。ところが2001年3月に始めた建設は、豪州政府と建設労働組合の対立で大きく遅れた。1000店舗分の供給を1つの海外工場に託す設計は、全社の商品計画をその稼働日程に縛りつけることにもなった。
2003年2月中間期の決算説明会資料は、売上高が計画に届かなかった主因を商品力の改善の遅れに求めた。2002年秋の豪州工場の立ち上げを前提にした新商品開発や季節メニューが、工場の遅れで進まなかったためである。食材買付けのために結んでいた豪ドル建ての為替予約は、立ち上げの遅れでヘッジ会計を適用できなくなり、取引を終えて約5.6億円の為替差益が出た。2003年8月期の連結営業利益は38億85百万円と前期比56.5%減った。減益の第2の要因として、正垣社長は『we reduced the number of new restaurant openings from the initial plan of 150, to 110, after strictly reassessing return on investment, and eventually set up only 107 restaurants.』(訳:投資の収益性を厳しく見直し、新規出店を当初計画の150店から110店へ減らし、最終的に107店の出店にとどめた)と記した。
2003年4月には、兵庫県小野市に西日本の配送拠点となる兵庫工場を建設した。豪州工場は2004年8月期に現地調達の食材と生産管理の技術者を増やし、国内全店への供給を担えるまでになった。利益率も当初見込みの水準に近づいている。同じ期はドリンクバーの値下げと新メニューで来店客数が年間で初めて1億人を超え、既存店の客数は前期比109.3%に伸びた。出店は51店に抑え、期末の店舗数は717店となった。2005年8月期の決算説明会資料は、売上総利益率が1.1ポイント上がった主因をオーストラリア工場の安定稼働に置いた。出店の速度を落として工場と既存店へ経営資源を戻したことが、利益の回復につながったと考えられる。
海外の店舗展開は中国から始めることにし、2002年10月に中国事業の専任者を置いた。2003年6月に上海薩莉亜餐飲有限公司を設立し、同年の英文年次報告は、12月中旬に上海で1号店を開いて店舗網を着実に広げると記した。2004年3月には北京にも北京薩莉亜餐飲管理有限公司を設けた。2008年8月期の報告書では上海の店舗が20店に達し、広州、北京、台湾にも出店したことが報告された。2010年8月期の時点で海外は上海34店、広州12店を数え、店舗は全店が直営、現地法人は100%独資だった。国内の低価格のテーブルレストランを作り替えず、そのまま中国の都市へ持ち込んだことになる。
2008年秋の金融危機に伴う急な円高で、デリバティブ契約に多額の評価損が見込まれ、11月21日に約140億円という見込み額を開示した。対象はBNPパリバ証券と結んだFX参照型豪ドルクーポンスワップで、12月10日に解約して153億10百万円の解約費用を払った。解約の理由について、会社側は『解約した理由は、未曾有の金融危機に起因する為替相場の変動の影響が、当社の経営にとって今後の大きな不安定要因であり、それをいち早く解消することが必要であると判断するに至ったからであります。』と説明した。代表取締役社長には70%の減俸が12か月科された。支払いの原資として長期借入金160億円を調達し、前期まで借入金を持たなかった財務はここで姿を変えた。2009年8月期は営業利益が7年ぶりに過去最高となる一方で、創業以来初めての経常赤字となった。豪州工場から食材を買う仕組みが、豪ドルの為替を扱う取引を抱え込む下地になったとみられる。
2009年4月1日、正垣泰彦氏が代表取締役会長に、堀埜一成氏が代表取締役社長に就いた。会長は長期のビジョンに沿ってM&A、人材教育、設備投資、採用を担い、社長は中期の経営戦略と毎期の決算に責任を持つという分担だった。創業以来初めての社長交代を、2人は連名で『創業以来、初めての社長交代となります。当社の経営をスポーツにたとえれば、これまで長距離を一人で走り続けてきたマラソンから、一定の区間を走り、次のランナーに襷(たすき)という当社のミッションを渡す駅伝に切り替えるイメージです。』と説明した。2010年8月期の連結営業利益は143億65百万円と前期比56.7%増え、売上高は38期連続の増収となった。堀埜社長は3年後に国内1000店舗体制を実現する目標を示し、2011年6月、大阪市に1000店舗目のフォレオ大阪ドームシティ店を開いた。2000年に2005年ごろと見込んでいた1000店舗は、6年ほど遅れて届いたことになる。
2013年1月、千葉県千葉市に千葉工場を建設した。2015年4月の業績予想の修正では、出店戦略を見直して販売費及び一般管理費が減ったことを、利益が予想を上回った理由に挙げている。上海の子会社は同年6月に100店舗へ届き、グループの店舗数は2019年6月に国内外で1500店舗となった。その2019年8月期、日本セグメントの営業利益51億16百万円に対し、アジアは43億79百万円を計上した。一方で同じ期の上期には、不採算店舗の収益性が落ちたとして、個別で8億97百万円の減損損失を特別損失に計上した。店舗数の節目を迎えた時点で、国内の店舗網の収益にはすでに濃淡が出ていたとみられる。
サイゼリヤとは別の看板を掲げる新業態は、2013年12月に東京・神田で開いたサンドイッチカウンターから始まった。翌年8月には同じ神田にPASTASを、2016年には日本橋茅場町にスパゲティ・マリアーノとズッパディパスタを出している。2018年から2020年にかけても、川口のスパットミート、横浜のリカリカ、浅草の伊麺処などが続いた。2021年の年次報告書で堀埜一成社長は、マリアーノの進化型「ミラノ食堂mariano」で軽い夕食の市場を開くと説明した。テイクアウトやデリバリー、店舗での食材販売の試験も、同じ国内新事業の枠に入れていた。郊外の大型店で固めた型の外側で、時間帯と立地の違う需要を探る試みが8年近く続いたことになる。
2016年10月12日の取締役会で監査等委員会設置会社への移行を決め、11月29日の第44期定時株主総会で定款を改めた。開示した理由は、監査等委員である取締役に取締役会での議決権を持たせ、監査と監督の働きを強めることにあった。あわせて、透明性の高い経営と意思決定の速さを両立させることも目的に挙げた。移行前の取締役会に社外取締役は1人もおらず、移行後は社外取締役が監査等委員として議決に加わった。2021年11月時点の取締役7名のうち、3名が社外取締役だった。創業者が代表権を持つ会長として残る取締役会に、外部の目を議決権ごと組み込む手当てだったと推察される。
2020年4月6日から、レストランサイゼリヤの全店で酒類の販売を1人2杯までに制限した。会社側は『食事に不便を感じる方への場を提供する外食のインフラとしての使命を果たすため』、細心の注意を払って営業を続けると表明した。そのうえで、飲酒が大声や客同士の接近を招きうることを制限の理由とした。5月18日には一部を除く全店を休業し、3密を避ける客席の配置替えや、テイクアウトの増加への備えに充てた。2020年8月期の連結業績は、営業損失38億15百万円、親会社株主に帰属する当期純損失34億50百万円となった。前の期の営業利益は95億99百万円で、1年で130億円余り振れた計算になる。
2021年8月期も緊急事態宣言の再発出や時短営業の要請が続き、連結の営業損失は22億64百万円となった。堀埜社長は年次報告書で、深夜営業をやめて従業員の安全を確保し、開店と閉店の作業時間を縮めたと振り返った。次の期の国内事業については、『損益分岐点を下げるために引き続き徹底的なムダの削減、固定的費用の削減を行ってまいります』と記した。この間、日本セグメントは2020年8月期に56億23百万円、翌期に72億10百万円の営業損失を出した。同じ2期にアジアは17億55百万円と44億25百万円の営業利益を上げ、国内の欠損を埋めた。堀埜社長は『海外事業は全体的には好調ですが、カントリーリスクや為替等、地域ごとに状況が異なる』として、ガバナンスの強化を課題に挙げた。
年次報告書で国内新事業の柱に据えた「ミラノ食堂mariano」は、2020年10月に東京都中央区で開いたばかりの店だった。しかし2022年8月、立地環境の変化を理由に、既存の新業態8店舗をすべて閉じた。出店の余地を広げる役は、2021年4月に練馬区で開いたコンビニ跡地の小型店と、未出店県への進出に移った。2021年12月から2022年6月にかけ、旭川市、秋田県、鳥取県、岩手県に新しい商圏の店を出している。2022年8月期の決算説明会資料は、全店閉店を記す一方で、新業態の開発そのものは続けるとした。都心の別ブランドより、本業の型を小さな区画や新しい県へ運ぶほうが投資を回収しやすいと判じたのだろう。
2022年7月13日、取締役会は、一身上の都合により8月31日付で代表取締役社長と取締役を退くという堀埜社長の申し出を受理した。後任には、店舗が10店ほどだった1984年に入社し、資材部長や店舗運営本部長を務めた松谷秀治氏が選ばれた。9月1日に社長執行役員となり、11月29日の株主総会を経て代表取締役社長に就いた。松谷社長は最初の年次報告書で真のチェーンストアへ向かうと掲げ、1000を超える店舗の実行状況を点検するトップ直属のラインスタッフを置くとした。その狙いを『問題点を集中させることで、問題解決のスピードを上げていく組織に変えてまいります。』と説明している。2022年10月には、このラインスタッフにあたるスーパーバイザーを設けた。
2023年4月12日、通期の業績予想を修正し、連結営業利益の見通しを75億円から61億円へ下げた。資源高と円安で食材価格が上がり、上期の個別の粗利益率が予想の61.0%に対し57.7%にとどまったためである。期末の売上高は1832億44百万円と前期比27.0%増えたが、日本セグメントはなお14億91百万円の営業損失だった。松谷社長は就任時から『生産性を高めていくためには作業そのものを変えていく必要があります。』と説いていた。2023年9月に店舗運営部をゾーンに分けてゾーンマネジャーを置き、2024年8月にはセルフレジを全店へ入れ終えた。2024年8月期、日本セグメントは27億37百万円の営業利益へ戻った。
2025年6月下旬、東京都江東区の大島ピーコックストア前店で、朝7時から10時に限った朝食メニュー「朝サイゼ」の販売を始めた。8月28日には墨田区の錦糸町楽天地店が2店舗目となり、焼きたてのフォッカチオやパニーニをイタリア式のコーヒーとともに出した。松谷社長は2025年8月期の年次報告書で、生活様式の変化に合わせて朝食を出す店を広げる方針を示した。同じ期には徳島・愛媛・大分の未出店県へ出て、2025年5月にはベトナムで1号店を開いた。2025年8月期の連結売上高は2567億14百万円、親会社株主に帰属する当期純利益は111億64百万円となった。昼と夜に偏っていた客席の稼働を、朝の時間帯へ広げる試みといえる。
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|---|---|---|---|---|
| 1967〜1976年物理学出身者の実験と6〜7割引という賭け | 正垣泰彦氏が飲食店を個人開業 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | イタリアンレストラン「サイゼリヤ」の経営を開始 | ★★ | ||
| 正垣泰彦 | 思い切った値下げを起点にした低価格チェーンへの業態転換 1967年に千葉県市川市本八幡で開いた洋食店が数年の不振に沈んだのち、創業者の正垣泰彦氏が1975年ごろに全メニューを前の相場より6〜7割安い水準まで下げ、低価格のイタリア料理店へ業態を変えた判断。驚くほどの安さに客が集まり、看板のミラノ風ドリアを304円で売る後年の原型が固まった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 1977〜1997年誰も出たがらない立地へ出店し、素材を自前で運ぶ | 正垣泰彦 | 多店舗展開と同時に仕入を強化 | ★ | |
| 正垣泰彦 | ショッピングセンター業態に参入 | ★★ | ||
| 正垣泰彦 | 駅ビル業態に参入 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | 商号をマリアーノに変更 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | ハンディ端末によるオーダーエントリーシステム導入 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | ロードサイド業態に参入 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | 全国で多店舗展開を本格化 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | サイゼリヤに商号変更 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | 広告宣伝に注力しない体制へ | ★★ | ||
| 正垣泰彦 | 吉川工場を新設、本社を併設 | ★ | ||
| 1998〜2012年店頭登録と豪州の製造子会社、神奈川・兵庫工場と上海進出、国内1000店舗 | 正垣泰彦 | 日本証券業協会に株式を店頭登録 | ★ | |
| 正垣泰彦 | 製造子会社SAIZERIYA AUSTRALIA PTY.LTD.を設立 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | 神奈川工場を新設 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | 兵庫工場を新設 | ★ | ||
| 正垣泰彦 | 低価格モデルの海外移植とアジア利益柱への反転 2003年、サイゼリヤが中国・上海に独資の子会社を設立し、国内で磨いた低価格と製造直販の型を華人圏へ移した経営判断。当初は赤字が続いたが、赤字を織り込んで出店の密度を積み上げ、20年を経てアジア(中国中核)がグループの収益源へ育った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 堀埜一成 | 含み損の先送りを避けた解約損の一括計上と、無借金経営の放棄 2009年8月期、サイゼリヤが保有していた為替デリバティブ契約を解約し、解約損153億10百万円を一括で計上した経営判断。売上高883億23百万円は37期連続の増収で、営業利益も91億68百万円まで伸びていた。 それでも営業外費用が162億86百万円へ膨らみ、経常損失69億29百万円・当期純損失48億96百万円に沈んだ。解約金の支払いは長期借入金160億円で賄い、第36期まで0だった連結の有利子負債は123億72百万円となった。 詳細を読む | |||
| 堀埜一成 | 国内1000店舗を達成 | ★ | ||
| 2013〜2026年千葉工場と新業態の撤退、コロナ禍の赤字と朝サイゼ | 堀埜一成 | 千葉工場を新設 | ★ | |
| 堀埜一成 | 新業態で店舗開発(のちに撤退決定) | ★★ | ||
| 堀埜一成 | 社外取締役のいない取締役会を改め、過半数を社外とする監査等委員会を設置した機関設計の切り替え 2016年11月29日の第44期定時株主総会で、監査等委員会設置会社への移行を内容とする定款の変更が決議され、同日付で移行した。構成員の過半数を社外取締役とする監査等委員会の設置を通じて取締役会の監督機能を強化することで、コーポレート・ガバナンスの向上と意思決定の迅速化を図る。 移行前の取締役会は6名で社外取締役はいなかった。移行後は取締役10名のうち3名が社外となる。 詳細を読む | |||
| 堀埜一成 | 監査等委員会設置会社へ移行 | ★ | ||
| 堀埜一成 | 国内外店舗数1500店舗を達成 | ★ | ||
| 堀埜一成 | 最終赤字に転落 | ★ | ||
| 松谷秀治 | 都市部で試してきた別ブランドの全廃と、小型店・未出店地域への出店の振り替え 2022年8月、サイゼリヤが既存の新業態8店舗を全店閉店した経営判断。立地環境の変化を理由に、2012年9月のマリアーノ日本橋兜町店を皮切りに11件の開店を重ねてきた別ブランドの店を、10年目にすべて畳んだ。 同じ第50期には、コンビニ跡地を使った小型店、出店の難易度が高かった大型ショッピングセンター内への出店、未出店県への1号店を進めており、都市部で器を試す形から立地を広げる形へ資源を振り替えている。新たなフォーマット作りそのものは、対処すべき課題として残した。 詳細を読む | |||
| 松谷秀治 | 売上高は過去最高・利益は下方修正へ | ★ | ||
| 松谷秀治 | 朝食業態「朝サイゼ」を開始 | ★ |
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事実根拠:出所(サイゼリヤ)