初代十合伊兵衛が大阪本町にて大和屋を開業した

初代十合伊兵衛が大阪本町にて大和屋を開業した
大阪の繁華街である心斎橋に移転して「十合呉服店」として開業。以後、そごうは心斎橋という繁華街の発展とともに、業容を拡大する。
1930年代を通じてそごうは百貨店の店舗新設を試みるが、新設にあたって資金繰りが悪化。創業家である十合家は株式を売却する形で経営を失い、地方財閥の板谷家がそごうの経営権を握る。
そごうは大阪心斎橋を中心に、神戸などの関西に百貨店を新設してきたが、首都圏の東京での進出で遅れていた。そこで、読売新聞から賃貸する形で有楽町駅前にそごうの店舗を新設。賃貸という形で東京進出を果たす。
心斎橋にはそごうと大丸の2つの百貨店がしのぎを削ったが、大丸が優勢となり、そごうは劣勢に立たされた。加えて新設したばかりの東京店(有楽町)は読売新聞への賃貸の支払いによって収益性が悪化していた。この結果、そごうの収益力が悪化して経営危機に陥る。
そごうを再建するために、日本興業銀行出身で、板谷家と縁のあった水島廣雄が社長に就任した。水島社長の就任に際しては、社長の座をめぐるいざこざがあったと言われている。
そごうは競争の激しい都心部ではなく、地方都市や郊外市街地に百貨店を新設する道を選択した。1967年の千葉そごうの開業を契機に、1990年代までそごうは地方郊外に百貨店を新設することで業容を拡大した。
愛媛県松山市に地元私鉄である伊予鉄道とともにそごうを開業。以後、地方都市への百貨店新設も推し進める。
常磐線柏駅前に開業。2016年閉店
広島市の紙屋町交差点角地に開業。当初は広島随一の繁華街であった八丁堀から1km離れた立地であり苦戦が予想されたが、バスターミナル「広島バスセンター」を併設することで立地条件の不利を克服し、広島随一の百貨店に成長する。紙屋町はそごうの開業によって街が発展し、周辺は「そごうタウン」と呼ばれた。
船橋駅前の船橋ヘルスセンターの跡地に新設。2000年閉店
八王子駅直結のそごうを開業。2012年閉店
そごうは横浜駅西口付近に「横浜そごう」を開業した。横浜そごうは日本一の売り場面積の百貨店として大きな話題となり、開業直後の日曜日には18万人を集客する。横浜駅前には、そごうに加えて高島屋が既に存在しており「横浜戦争」とも形容された。
大宮駅前に開店。埼玉県を代表するターミナル駅であるが、競合百貨店が少ないことから生き残りに成功。2020年時点で現存。
名鉄豊田市駅前に新設。2021年閉店
多摩ニュータウンの主要駅である多摩センター駅前に新設。2000年閉店
神戸における新興住宅地に百貨店を新設。2020年閉店
バブル期の「横浜そごう」の開業をはじめとする大量出店によって、1992年時点でそごうは国内外で35店舗を展開する日本最大の百貨店へと変貌した。そごうのグループ売上高は1.4兆円(1991年度)を記録し、百貨店業界では日本一となった。
1990年代を通じて郊外ではショッピングセンター、都心部ではユニクロなどの専門店が台頭したため、百貨店という業態が時代にそぐわなくなった。このため、そごうの業績が悪化し、店舗新設のために借り入れた有利子負債が大きな負担となった。この結果、水島社長は経営責任をとって退任する。
業績の悪化に伴い、東京進出のシンボルであった東京店(有楽町駅前)を閉鎖。そごうが入居したビル「読売会館」にはビックカメラが入居し、百貨店から専門店への時代の流れを象徴した。
百貨店の経営不振によって巨額の負債を返済できる見通しが立たなくなったことから、そごうは負債総額1.8兆円を抱えて破綻。大手百貨店の経営破綻として、日本経済界のバブル崩壊を象徴する事件として話題となった。