そごう の歴史

更新:

1830年、大坂の古手商「大和屋」に始まり心斎橋の百貨店へ。水島廣雄氏の別会社方式、負債1兆8700億円の破綻、フォートレスへの売却までの沿革と経緯を執筆。

創業

1830年

創業者

十合伊兵衛

創業地

大阪府大阪市中央区

直近売上高(2000/2)

1,571億円

そごう:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1971年2月期2000年2月期
Q なぜ1830年に古着商として始まったそごうは、創業から約100年で創業家の手を離れたのか
A 古着から呉服、呉服から百貨店へと業態を広げる過程で拡張投資が膨らみ、自己資金では賄いきれなくなったためである。1830年に伊兵衛氏が大坂で古着商『大和屋』を開き、1877年に十合呉服店へ改称、1919年の株式会社化で百貨店へ転じた。だが1930年の心斎橋本店新築と1933年の神戸店開業が重なって建築費と土地取得の負担が財務を圧迫し、借入と増資に依存した調達が行き詰まった。1935年に十合家は保有株式を売却して経営権を手放し、創業家の意思決定の回路が早い段階で失われた
Q なぜ1962年に株主間の調停役として就いた水島廣雄氏は、各店舗を別会社にする出店モデルを敷いたのか
A 本体の貸借対照表を傷めずに出店速度を保つためである。創業家が早くに退場したそごうでは、大株主だった大和銀行や日本興業銀行の力学で経営者が選ばれ、1962年に興銀出身の水島廣雄氏が株主間の対立を収める調停役として社長に就いた。経営ビジョンへの期待ではなく株主調整の人事だったが、水島氏は30年以上トップに留まった。1967年の千葉そごうを皮切りに、各店を別会社として現地資本との共同出資と銀行借入で建設費を賄い、店舗の土地を担保に次の融資を引き出す循環で店舗網を広げた
Q なぜ1992年に売上首位へ立ったそごうが、2000年の破綻を経て2023年に投資ファンドへ売られたのか
A 別会社方式は地価上昇・銀行融資・百貨店の成長という三つの前提に依存しており、1990年代にすべてが反転したためである。バブル崩壊で地価が下がって担保価値が毀損し、郊外型店舗の台頭で来店動機も落ちて、固定費を支える売上成長が止まった。1992年にグループ売上1.4兆円で首位へ立ったそごうは、2000年7月に負債1兆8700億円で民事再生法を申請した。法人としての株式会社そごうは2009年の西武百貨店との合併で消滅し、2005年のセブン&アイ傘下入りを経て、2023年9月にそごう・西武がフォートレスへ売却された

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1830年〜 大坂・坐摩前の古手屋から心斎橋の呉服店へ

大和屋伊兵衛の古着商と、呉服商への転進

1830年(天保元年)、奈良県磯城郡耳成村の絹屋徳兵衛氏の次男である伊兵衛氏[1]が、大坂の坐摩神社前に『大和屋伊兵衛』の商号を掲げて衣類小売商を創業[2]した。扱ったのは主として絹布および木綿の古着で、その後は新品も取り扱う[3]ようになった。屋号と古手商という業態は、初代から三代目までの伊兵衛氏が受け継いでいる[4]。社章の『マルチキリ』は明治初期に制定したもので、チキリとは機織機の部品を指し[5]、呉服商を源とすることにちなむ。開業の地は大坂の坐摩神社の隣り[6]にあたる。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [1]初代十合=伊兵衛氏。奈良県磯城郡耳成村の絹屋徳兵衛氏の次男
    • [2]1830年(天保元年) 大坂・坐摩前で衣類小売商を創業
    • [3]主として絹布および木綿の古着を商い、のち新品も扱う
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [4]屋号「大和屋」と古手商の業態を初代から三代目までが継承
    • [5]社章「マルチキリ」は明治初期制定。チキリは機織機の部品
    • [6]開業地は大坂・坐摩神社の隣り

維新後は安堂寺橋通りへ進出して呉服商へ転進し、さらに心斎橋通りへ店を移した[7]。1877年(明治10年)、二代伊兵衛氏ら一族が心斎橋筋に店舗を新設[8]している。取扱品も高級品から実用品に至るまであらゆる呉服類を網羅[9]し、名実ともに呉服店としてのスタートを切った。心斎橋進出後は短年月の間に確固たる社礎が築かれ[10]、十合の名声が広まっている。1885年(明治18年)7月には京都支店を設置[11]し、大坂の外へ初めて店を伸ばした。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [7]維新後 安堂寺橋通りへ進出し呉服商へ転進、のち心斎橋通りへ
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [8]1877年(明治10年) 二代伊兵衛氏ら一族が心斎橋筋に店舗を新設
    • [9]高級品から実用品まで呉服類を網羅し呉服店として出発
    • [10]心斎橋進出後、短年月で社礎を築き十合の名声が広まる
    • [11]1885年(明治18年)7月 京都支店を設置
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [1]初代十合=伊兵衛氏。奈良県磯城郡耳成村の絹屋徳兵衛氏の次男
    • [2]1830年(天保元年) 大坂・坐摩前で衣類小売商を創業
    • [3]主として絹布および木綿の古着を商い、のち新品も扱う
    • [8]1877年(明治10年) 二代伊兵衛氏ら一族が心斎橋筋に店舗を新設
    • [9]高級品から実用品まで呉服類を網羅し呉服店として出発
    • [10]心斎橋進出後、短年月で社礎を築き十合の名声が広まる
    • [11]1885年(明治18年)7月 京都支店を設置
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [4]屋号「大和屋」と古手商の業態を初代から三代目までが継承
    • [5]社章「マルチキリ」は明治初期制定。チキリは機織機の部品
    • [6]開業地は大坂・坐摩神社の隣り
    • [7]維新後 安堂寺橋通りへ進出し呉服商へ転進、のち心斎橋通りへ

合名会社への改組と、百貨店としての形態を整えるまで

1897年(明治30年)5月、長年の個人企業から資本金15万円の合名会社十合呉服店として再出発[12]した。資本金はのちに50万円へ増資[13]している。1899年(明治32年)には神戸支店を設置[14]し、大坂・京都・神戸の三都に店を構える構成[15]となった。1885年に置いた京都店は現地仕入の拠点にあたり[16]、心斎橋筋の本店は1877年の新設以来[17]、大坂での商いの拠点であり続けた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [12]1897年(明治30年)5月 合名会社十合呉服店として再出発
    • [13]合名会社の資本金15万円、のち50万円へ増資
    • [14]1899年(明治32年) 神戸支店を設置
    • [15]大坂・京都・神戸の三都に店を構える構成
    • [17]心斎橋筋の本店は1877年の新設以来の拠点
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [16]京都店は現地仕入の拠点

このころより取扱商品は従来の呉服専門から脱し、雑貨および美術品の一部をも加えて、百貨店としての形態を整える[18]に至った。神戸店の開設や大阪店の増改築とあわせ、取扱い品目を増やしながら百貨店経営を指向[19]している。合名会社十合呉服店の資本金は50万円まで積み上がり[20]、個人経営で古着を商った創業時とは規模が変わった。この体制のまま、そごうは1919年の株式会社設立[21]を迎えている。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [18]呉服専門から雑貨・美術品の一部を加え百貨店の形態を整える
    • [20]合名会社の資本金は50万円まで増資
    • [21]1919年 株式会社を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [19]神戸店開設・大阪店増改築とあわせ品目を増やし百貨店経営を指向
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [12]1897年(明治30年)5月 合名会社十合呉服店として再出発
    • [13]合名会社の資本金15万円、のち50万円へ増資
    • [14]1899年(明治32年) 神戸支店を設置
    • [15]大坂・京都・神戸の三都に店を構える構成
    • [17]心斎橋筋の本店は1877年の新設以来の拠点
    • [18]呉服専門から雑貨・美術品の一部を加え百貨店の形態を整える
    • [20]合名会社の資本金は50万円まで増資
    • [21]1919年 株式会社を設立
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [16]京都店は現地仕入の拠点
    • [19]神戸店開設・大阪店増改築とあわせ品目を増やし百貨店経営を指向

1919年〜 株式会社化と心斎橋の大建築、創業家の退場と東京進出の失敗

そごうの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1919年 株式組織に改組
  2. 1933年 神戸支店を三宮の新店舗へ移転
  3. 1935年 創業家の十合家が保有株式を売却
  4. 1937年 心斎橋本店の新館が完成
  5. 1940年 そごうに商号変更
  6. 1946年 心斎橋本館が進駐軍に接収
  7. 1952年 心斎橋本店が営業を再開

株式会社十合呉服店の設立と、創業家の退場

1919年(大正8年)12月20日、資本金10万円をもって株式会社十合呉服店が設立[22]された。翌1920年3月には母体であった合名会社を吸収合併して資本金を300万円とし[23]、百貨店経営の第一歩を踏み出している。1921年には大阪本店に子供百貨部を新設[24]し、1923年には洋服部を併設し、呉服の売場に子供用品と洋服を継ぎ足している[25]。資本金は合名会社時代の50万円から、合併を経て6倍の300万円[26]となった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [22]1919年(大正8年)12月20日 株式会社十合呉服店を設立。資本金10万円
    • [23]1920年3月 合名会社を吸収合併し資本金300万円
    • [24]1921年 大阪本店に子供百貨部を新設
    • [25]1923年 洋服部を併設し、子供用品と洋服を売場に加える
    • [26]資本金は合名会社時代の50万円から合併後300万円へ

1933年(昭和8年)10月、新たに完成した阪神電車三宮駅の地上8階地下2階・延3000坪の店舗を賃借し、神戸支店を移転[27]した。1936年2月には資本金を400万円へ増資[28]している。神戸店の移転と大阪本店の増築が重なった時期の建築投資は重く、1935年に十合家は保有株式を売却し、創業から105年で経営権は板谷家へ移った。板谷宮吉氏はのちに社長へ[29]就いた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [27]1933年(昭和8年)10月 阪神電車三宮駅の店舗を賃借し神戸支店を移転
    • [28]1936年2月 資本金400万円へ増資
    • [29]板谷宮吉氏がのちに社長へ就任
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [22]1919年(大正8年)12月20日 株式会社十合呉服店を設立。資本金10万円
    • [23]1920年3月 合名会社を吸収合併し資本金300万円
    • [24]1921年 大阪本店に子供百貨部を新設
    • [25]1923年 洋服部を併設し、子供用品と洋服を売場に加える
    • [26]資本金は合名会社時代の50万円から合併後300万円へ
    • [27]1933年(昭和8年)10月 阪神電車三宮駅の店舗を賃借し神戸支店を移転
    • [28]1936年2月 資本金400万円へ増資
    • [29]板谷宮吉氏がのちに社長へ就任

心斎橋の大建築と、戦時下における売場の縮小

1937年(昭和12年)12月、心斎橋筋と御堂筋に跨る地上8階地下3階・延1万1000坪の大建築が完成[30]した。全館に大理石とガラスの装いを施し、外観はドイツのカールスタットを想わせるもので[31]、大百貨店の威容を誇った。設計は村野藤吾氏が手がけ[32]、完成から30年を経た1968年の時点でも高く評価されている。工事は1931年から6年3期[33]にわたった。完成と同時に取扱い品目もほぼ現在と同様となり、名実ともに大型百貨店となっている[34]。1939年4月には不慮の災厄に遭い、本店6階以上の食堂および売場の一部を焼失[35]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [30]1937年(昭和12年)12月 心斎橋筋と御堂筋に跨る地上8階地下3階・延1万1000坪の本館が完成
    • [31]全館大理石とガラス。外観はドイツのカールスタットを髣髴させる
    • [35]1939年4月 火災で本店6階以上の食堂・売場の一部を焼失
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [32]設計は村野藤吾氏。1968年時点でも高評価
    • [33]大阪店の改築工事は1931年(昭和6年)から6年3期
    • [34]完成と同時に取扱品目がほぼ現在と同様になり大型百貨店となる

日華事変の進展にともない販路を中国大陸に求め、1939年6月に北京、7月に漢口へそれぞれ本店商事部出張所を設置[36]した。統制の強化により販売商品は逐次減少し、1940年4月には京都支店を閉鎖して企業の合理化を図っている。同じ月に商号を株式会社そごうへ改めた[37]。1885年の設置から55年にわたって置いた京都の店[38]を畳んだ月に、社名を現在のものへ変えている。同年10月には神戸支店の新館が竣工し[39]、直ちに開店した。戦時統制経済の下では、ごく一部の売場だけで営業を続けるのが精一杯[40]であった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [36]1939年6月 北京、7月 漢口に本店商事部出張所を設置
    • [37]1940年4月 京都支店を閉鎖し、同月に商号を株式会社そごうへ改称
    • [38]京都支店は1885年の設置から55年で閉鎖
    • [39]1940年10月 神戸支店新館が竣工し開店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [40]戦時統制下ではごく一部の売場だけで営業
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [30]1937年(昭和12年)12月 心斎橋筋と御堂筋に跨る地上8階地下3階・延1万1000坪の本館が完成
    • [31]全館大理石とガラス。外観はドイツのカールスタットを髣髴させる
    • [35]1939年4月 火災で本店6階以上の食堂・売場の一部を焼失
    • [36]1939年6月 北京、7月 漢口に本店商事部出張所を設置
    • [37]1940年4月 京都支店を閉鎖し、同月に商号を株式会社そごうへ改称
    • [38]京都支店は1885年の設置から55年で閉鎖
    • [39]1940年10月 神戸支店新館が竣工し開店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [32]設計は村野藤吾氏。1968年時点でも高評価
    • [33]大阪店の改築工事は1931年(昭和6年)から6年3期
    • [34]完成と同時に取扱品目がほぼ現在と同様になり大型百貨店となる
    • [40]戦時統制下ではごく一部の売場だけで営業

進駐軍による接収と、東京進出がもたらした連続赤字

1946年(昭和21年)5月、心斎橋本館は進駐軍のPXとして使用するため全館を接収された[41]。本社を肥後橋交叉点角の大同ビルへ移し、分散経営[42]のやむなきに至っている。同年10月に地下鉄難波駅構内へ難波店を、大阪駅構内東口へ梅田店を、12月に大阪駅前へ更生デポーを、翌1947年6月に阿部野店をそれぞれ開設[43]した。大阪では市中数カ所に小さな営業所を開くにとどまり、百貨店としての体裁はかろうじて神戸店が支えている[44]。1948年3月に4400万円へ増資し、1949年10月には株式会社十合ビルディングを吸収合併[45]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [41]1946年(昭和21年)5月 心斎橋本館が進駐軍PXとして全館接収
    • [42]本社を肥後橋交叉点角の大同ビルへ移転し分散経営
    • [43]1946年10月 難波店・梅田店、12月 更生デポー、1947年6月 阿部野店を開設
    • [45]1948年3月 4400万円へ増資、1949年10月 株式会社十合ビルディングを吸収合併
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [44]接収中は大阪市中の小営業所で分散経営し、神戸店が百貨店の体裁を支えた

1950年8月には神戸支店内に在日外国人を対象とするO・S・Sを開設し、10月にE・Bを併設[46]した。接収は1952年1月に解除され[47]、同年6月に資本金を1億5000万円へ増額して店内外の改修費に充て、再開店している。再開店の時点で売場総面積は7900坪、当時は2月・8月の半期決算で、1955年2月期の半期売上高は31億3000万円[48]を示した。1954年3月に板谷宮吉氏が会長から社長となり[49]、1955年9月には2億4800万円へ増資[50]している。1956年に神戸店を増設して倍増させ、1957年には東京有楽町の読売会館へ東京支店を進出[51]させた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [46]1950年8月 神戸支店内にO・S・Sを開設、10月 E・Bを併設
    • [47]1952年1月 接収解除、同年6月 資本金1億5000万円へ増額し再開店
    • [48]再開店時の売場総面積7900坪、1955年2月期(半期)売上高31億3000万円
    • [49]1954年3月 板谷宮吉氏が会長から社長へ
    • [50]1955年9月 2億4800万円へ増資
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [51]1956年 神戸店を増設し倍増、1957年 東京有楽町へ東京支店を進出

東京店は土地取得を伴わない賃借方式による出店[52]であった。神戸店の増設と東京進出は接収中の遅れを取り戻すためであったが、一方では経営に大きなヒズミをもたらし、東京進出直後から企業体質が悪化しはじめた[53]。1958年2月期は売上高122億円に対し当期純損失1.92億円を計上し、1959年2月期は2.19億円、1960年2月期は0.58億円の純損失[54]が続いた。連続3期の赤字決算となり、無配に転落[55]して重大な危機におちいっている。当期損益が黒字へ戻ったのは1961年2月期[56]であった。東京店の赤字はその後も解消せず、1957年の開業から40年にわたって続いた[57]。接収の6年間[58]に生じた出遅れを一挙に埋めようとした投資が、そごうの財務を長く縛った。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [52]東京店は読売会館を賃借する方式で出店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [53]東京進出直後から企業体質が悪化
    • [55]連続3期の赤字決算・無配に転落
    • [58]心斎橋本館の接収は6年間に及んだ
  • そごう 会社年鑑(1958年2月期〜1961年2月期・単体)
    • [54]1958年2月期 売上高122億円・当期純損失1.92億円、1959年2月期 純損失2.19億円、1960年2月期 0.58億円
    • [56]1961年2月期に当期損益が黒字へ回復
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [57]東京店の赤字は開業から40年続いた(山田恭一社長の発言)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
    • [41]1946年(昭和21年)5月 心斎橋本館が進駐軍PXとして全館接収
    • [42]本社を肥後橋交叉点角の大同ビルへ移転し分散経営
    • [43]1946年10月 難波店・梅田店、12月 更生デポー、1947年6月 阿部野店を開設
    • [45]1948年3月 4400万円へ増資、1949年10月 株式会社十合ビルディングを吸収合併
    • [46]1950年8月 神戸支店内にO・S・Sを開設、10月 E・Bを併設
    • [47]1952年1月 接収解除、同年6月 資本金1億5000万円へ増額し再開店
    • [48]再開店時の売場総面積7900坪、1955年2月期(半期)売上高31億3000万円
    • [49]1954年3月 板谷宮吉氏が会長から社長へ
    • [50]1955年9月 2億4800万円へ増資
    • [52]東京店は読売会館を賃借する方式で出店
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [44]接収中は大阪市中の小営業所で分散経営し、神戸店が百貨店の体裁を支えた
    • [51]1956年 神戸店を増設し倍増、1957年 東京有楽町へ東京支店を進出
    • [53]東京進出直後から企業体質が悪化
    • [55]連続3期の赤字決算・無配に転落
    • [58]心斎橋本館の接収は6年間に及んだ
  • そごう 会社年鑑(1958年2月期〜1961年2月期・単体)
    • [54]1958年2月期 売上高122億円・当期純損失1.92億円、1959年2月期 純損失2.19億円、1960年2月期 0.58億円
    • [56]1961年2月期に当期損益が黒字へ回復
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [57]東京店の赤字は開業から40年続いた(山田恭一社長の発言)

1962年〜 水島廣雄の合理化と、別会社方式による全国展開

そごうの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1962年 水島廣雄氏が社長に就任
  2. 1962年 「グレーターそごう計画」を策定
  3. 1963年 企業合理化の方針を発表
  4. 1967年 千葉そごうを開業
  5. 1979年 黒崎そごうを開業
  6. 1981年 「ダブルそごう」計画を開始
  7. 1992年 借入依存の全国多店舗化と地域一番店戦略——別会社方式が築いた百貨店帝国 店をすべて別会社にして拡げるか、本体で慎重に構えるか——地価上昇を前提にした拡張モデルはどこで限界を迎えたか

合理化による危機の脱出と、千葉そごうの開店

1962年、日本興業銀行出身の水島廣雄氏がそごう社長に就いた。就任した当時のそごうは東京・大阪・神戸の3店しかなく[59]、東京進出後の連続赤字で無配に転落したままであった。1963年、水島氏は徹底的な企業合理化の方針を発表し、労使一体でこれに取り組んでいる[60]。その成果は1965年に表れ、そごうは危機を脱して新しい発展の段階に入った[61]

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [59]就任時のそごうは東京・大阪・神戸の3店のみ
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [60]1963年 徹底的な企業合理化の方針を発表、労使一体で取り組む
    • [61]1965年 危機を脱して新しい発展の段階へ

1966年、新たな長期計画にもとづいて神戸店を増築改造した。翌1967年には株式会社千葉そごうを設立し、千葉市に千葉そごうを開店[62]している。両店はいずれも業績が好調に伸長し、この間に八分配当から1割配当へ復した[63]。1968年時点のそごうは大阪・神戸・東京の3店舗を有し、売場面積はそれぞれ2万7963平方メートル、3万399平方メートル、1万6204平方メートル[64]であった。資本金は10億円、従業員は2760名[65]を数えている。1968年2月期の事業内容は衣料41%、雑貨27%、食料品16%、家庭用品13%[66]であった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [62]1966年 神戸店を増築改造、1967年 株式会社千葉そごうを設立し千葉市に開店
    • [63]八分配当から1割配当へ復配
    • [64]1968年時点で3店舗。売場面積 大阪2万7963㎡・神戸3万399㎡・東京1万6204㎡
    • [65]1968年時点の資本金10億円、従業員2760名
    • [66]1968年2月期の構成比 衣料41%・雑貨27%・食料品16%・家庭用品13%
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [59]就任時のそごうは東京・大阪・神戸の3店のみ
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
    • [60]1963年 徹底的な企業合理化の方針を発表、労使一体で取り組む
    • [61]1965年 危機を脱して新しい発展の段階へ
    • [62]1966年 神戸店を増築改造、1967年 株式会社千葉そごうを設立し千葉市に開店
    • [63]八分配当から1割配当へ復配
    • [64]1968年時点で3店舗。売場面積 大阪2万7963㎡・神戸3万399㎡・東京1万6204㎡
    • [65]1968年時点の資本金10億円、従業員2760名
    • [66]1968年2月期の構成比 衣料41%・雑貨27%・食料品16%・家庭用品13%

別会社方式による資本の外部化と、地域一番店の全国展開

水島体制で編み出したのは新店をすべて別会社とする出店手法で、上場するのは東京・大阪・神戸の3店を持つ株式会社そごうのみ[67]とし、他店は1店1社の別会社とし、水島氏が株式の50%を保有する千葉そごうを中心に株式を複雑に持ち合う[68]形でグループを構成した。各店にはその地域の信用金庫や地方銀行が融資し、取引金融機関は160に及んだ[69]。一店が潰れても他店で稼ぐ危険分散の思想[70]であり、銀行や株主の掣肘を避けて店を出し続けるための設計でもあった。株式会社そごうはグループ会社に対し、長短合わせて2550億円を貸し付けている[71]

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [67]新店をすべて別会社とし、上場は東京・大阪・神戸の3店を持つ株式会社そごうのみ
    • [68]水島氏が株式の50%を保有する千葉そごうを中心に株式を持ち合う
    • [69]取引金融機関160。各店に地域の信用金庫・地方銀行が融資
    • [71]株式会社そごうのグループ会社向け貸付は長短合わせて2550億円
  • 週刊東洋経済 2014年9月13日号
    • [70]一店が潰れても他店で稼ぐ危険分散の思想

水島氏は10店を目標とする『グレーターそごう』、30店が目標の『トリプルそごう』[72]といった出店構想を矢継ぎ早に打ち出した。『都心の狭い土地に小さい店を建てるより、少々不便でも大きな店を建てる方が客は集まる』[73]というのが持論であった。店舗周辺の土地を駐車場などの名目で安く取得しておき、そごうの出店で地価が高騰した時点で評価替えして店舗の累積損失を消す[74]循環を回している。1973年に柏、1974年に広島、1981年に船橋、1985年に横浜、1987年に大宮、1989年に多摩、1990年に西神、1992年に福山と、地域一番店になる巨艦店を全国に開いた。1981年には第五次5カ年計画を策定している。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [72]「グレーターそごう」10店・「トリプルそごう」30店の出店構想
    • [73]水島氏の持論=大型店のほうが客は集まる
    • [74]周辺の土地を安く取得し、出店後の地価高騰時に評価替えして累積損失を消す
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [67]新店をすべて別会社とし、上場は東京・大阪・神戸の3店を持つ株式会社そごうのみ
    • [68]水島氏が株式の50%を保有する千葉そごうを中心に株式を持ち合う
    • [69]取引金融機関160。各店に地域の信用金庫・地方銀行が融資
    • [71]株式会社そごうのグループ会社向け貸付は長短合わせて2550億円
    • [72]「グレーターそごう」10店・「トリプルそごう」30店の出店構想
    • [73]水島氏の持論=大型店のほうが客は集まる
    • [74]周辺の土地を安く取得し、出店後の地価高騰時に評価替えして累積損失を消す
  • 週刊東洋経済 2014年9月13日号
    • [70]一店が潰れても他店で稼ぐ危険分散の思想

売上高日本一の頂点と、前提が反転したあとの十年

1992年、そごうはグループ売上高1兆4000億円・国内外35店舗に達し、百貨店業界の売上高首位に立った[75]。同じ年、銀行はそごうに対して土地の売却を提案したが、水島氏は首を縦に振らなかった[76]。本誌インタビューで水島氏は『5年ぐらいすれば土地も銀行も息を吹き返すのではと信じています』[77]と述べ、いま売却すれば取得価格が安いだけに売却益のほとんどを税金で持っていかれる、と説明している。同じインタビューで水島氏は『これまで築き上げたそごうの経営方式が良いか悪いかは、やがて歴史が証明することでしょう』[78]とも述べている。地価は1992年以降も一段と下落[79]した。

  • 週刊東洋経済 2014年9月13日号
    • [75]1992年 グループ売上高1兆4000億円・国内外35店舗で百貨店業界売上高首位
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [76]1992年 銀行の土地売却提案を水島氏が拒否
    • [79]地価は1992年以降も一段と下落
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号(水島廣雄氏インタビュー。日経ビジネス 1999年11月15日号に引用)
    • [77]水島氏の発言(日経ビジネス1992年11月9日号)
    • [78]水島氏の発言(日経ビジネス1992年11月9日号)

1995年1月の阪神・淡路大震災では神戸店が倒壊し[80]、営業再開には多大な時間と費用を要した。同年2月期は売上高2326億円に対し当期純損失369億円を計上し[81]、水島氏は代表権を返上して社長を退いている。売上高は1995年度に比べて2000億円減り、1兆円の大台を割った[82]。1999年8月中間期末の金融機関からの借り入れは国内外を合わせて1兆7270億円に達し、国内29店舗のうち13店舗が経常赤字、グループ合計でも1999年2月期は6億円の経常赤字[83]に陥っている。融資残高は日本興業銀行が3700億円、日本長期信用銀行が2100億円[84]であった。同年10月、山田恭一社長のもとで2001年2月期までの新たな再建計画を立て[85]、450人の希望退職の実施などにより2年間で従業員2450人を削減する内容とした。

  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [80]1995年1月 阪神・淡路大震災で神戸店が倒壊
    • [82]売上高は1995年度比2000億円減で1兆円割れ
    • [83]1999年8月中間期末の借入金1兆7270億円。国内29店中13店が経常赤字、1999年2月期グループ経常赤字6億円
    • [84]融資残高 興銀3700億円・長銀2100億円
    • [85]1999年10月 山田恭一社長のもとで2001年2月期までの再建計画を立案
  • そごう 会社四季報(1995年2月期・単体)
    • [81]1995年2月期 売上高2326億円・当期純損失369億円
  • 週刊東洋経済 2014年9月13日号
    • [75]1992年 グループ売上高1兆4000億円・国内外35店舗で百貨店業界売上高首位
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
    • [76]1992年 銀行の土地売却提案を水島氏が拒否
    • [79]地価は1992年以降も一段と下落
    • [80]1995年1月 阪神・淡路大震災で神戸店が倒壊
    • [82]売上高は1995年度比2000億円減で1兆円割れ
    • [83]1999年8月中間期末の借入金1兆7270億円。国内29店中13店が経常赤字、1999年2月期グループ経常赤字6億円
    • [84]融資残高 興銀3700億円・長銀2100億円
    • [85]1999年10月 山田恭一社長のもとで2001年2月期までの再建計画を立案
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号(水島廣雄氏インタビュー。日経ビジネス 1999年11月15日号に引用)
    • [77]水島氏の発言(日経ビジネス1992年11月9日号)
    • [78]水島氏の発言(日経ビジネス1992年11月9日号)
  • そごう 会社四季報(1995年2月期・単体)
    • [81]1995年2月期 売上高2326億円・当期純損失369億円

2000年〜 負債1兆8700億円の破綻と、所有者の変転

そごうの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2000年 東京店を閉鎖
  2. 2000年 取引銀行へ6390億円の債務免除を要請
  3. 2000年 私的整理の頓挫から民事再生法申請へ——負債1兆8700億円の経営破綻 銀行団の債権放棄で救うか、法的整理で決着させるか——「国が救うのは銀行だけ」という線引きはどこで引かれたか
  4. 2000年 破綻処理から再建の設計図へ——興銀が招いた和田繁明氏と「西武・そごう合併」構想 金融支援で延命させるか、個店主義を捨ててメガ百貨店へ転換するか——破綻したそごうの再建を誰にどう託したか
  5. 2003年 旧敵・西武百貨店との経営統合——「西武化」再建とミレニアムリテイリング傘下入り 傷ついた「そごう」の名を残すか、西武の仕組みで作り替えるか——個店主義を捨てた破綻企業の再建
  6. 2006年 株式上場の断念と評価額2000億円でのセブン&アイ傘下入り 想定4000億円の上場益を捨てるか、投資ファンドに代わる安定株主を採るか——独立路線を手放した百貨店の選択
  7. 2023年 そごう・西武を米フォートレスへ売却——コンビニ集中のための百貨店切り離し 物言う株主の圧力下で駅前一等地を家電量販店へ明け渡すか——企業価値2200億円・株式譲渡価額8500万円の売却

そごうの沿革1830〜2023年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
そごう創業——大坂・坐摩神社前の古手屋「大和屋」から心斎橋の百貨店へ新品呉服を三井越後屋系の老舗が握る大坂で、近江から出た初代十合伊兵衛氏はなぜ参入障壁の低い古手(古着)から店を興したか 詳細を読む★★★
心斎橋筋に店舗を新設
十合呉服店に商号変更★★
京都支店を設置
合名会社に改組★★
神戸支店を設置
株式組織に改組★★
母体の合名会社十合呉服店を吸収合併
大阪本店に子供百貨部を新設
神戸支店を三宮の新店舗へ移転★★
創業家の十合家が保有株式を売却★★
心斎橋本店の新館が完成★★
本店6階以上の食堂・売場の一部を焼失
本店商事部出張所を設置
京都支店を閉鎖
そごうに商号変更★★
心斎橋本館が進駐軍に接収★★
難波店・梅田店を開設
資本金を4400万円に増資
大阪証券取引所に上場
十合ビルディングを吸収合併
心斎橋本店が営業を再開★★
板谷宮吉板谷宮吉氏が社長に就任
板谷宮吉読売会館への東京店出店を決定★★
板谷宮吉神戸店を増設
板谷宮吉東京店を開店★★
板谷宮吉水島廣雄氏が副社長に就任★★
板谷宮吉当期純損失を計上★★
水島廣雄水島廣雄氏が社長に就任★★
水島廣雄「グレーターそごう計画」を策定★★
水島廣雄企業合理化の方針を発表★★
水島廣雄神戸店を増築改造
水島廣雄千葉そごうを開業★★
水島廣雄柏そごうを開業
水島廣雄広島そごうを開業
水島廣雄黒崎そごうを開業★★
水島廣雄船橋そごうを開業
水島廣雄「ダブルそごう」計画を開始★★
水島廣雄有利子負債と債務保証の合計が約1200億円に到達★★
水島廣雄「トリプルそごう」構想へ拡大★★
水島廣雄横浜そごうを開業★★
水島廣雄大宮そごうを開業
水島廣雄借入依存の全国多店舗化と地域一番店戦略——別会社方式が築いた百貨店帝国店をすべて別会社にして拡げるか、本体で慎重に構えるか——地価上昇を前提にした拡張モデルはどこで限界を迎えたか 詳細を読む★★★
水島廣雄阪神・淡路大震災で神戸店が倒壊★★
水島廣雄水島廣雄氏が社長を引責退任★★
山田恭一金融機関からの借入金が1兆7270億円に到達★★
山田恭一2年間で従業員2450人を削減する再建計画を策定★★
山田恭一東京店を閉鎖★★
山田恭一取引銀行へ6390億円の債務免除を要請★★
山田恭一水島廣雄会長ら経営陣が総退陣★★
山田恭一私的整理の頓挫から民事再生法申請へ——負債1兆8700億円の経営破綻銀行団の債権放棄で救うか、法的整理で決着させるか——「国が救うのは銀行だけ」という線引きはどこで引かれたか 詳細を読む★★★
山田恭一破綻処理から再建の設計図へ——興銀が招いた和田繁明氏と「西武・そごう合併」構想金融支援で延命させるか、個店主義を捨ててメガ百貨店へ転換するか——破綻したそごうの再建を誰にどう託したか 詳細を読む★★
和田繁明和田繁明氏が社長に就任★★
和田繁明西武百貨店と業務提携
和田繁明横浜店を西武流に全面改装★★
和田繁明そごうグループ9法人が合併★★
和田繁明民事再生手続が終結★★
和田繁明旧敵・西武百貨店との経営統合——「西武化」再建とミレニアムリテイリング傘下入り傷ついた「そごう」の名を残すか、西武の仕組みで作り替えるか——個店主義を捨てた破綻企業の再建 詳細を読む★★★
和田繁明セブン&アイ・HDとの経営統合を発表★★
和田繁明セブン&アイ・HDが株式の65.45%を取得★★
和田繁明株式上場の断念と評価額2000億円でのセブン&アイ傘下入り想定4000億円の上場益を捨てるか、投資ファンドに代わる安定株主を採るか——独立路線を手放した百貨店の選択 詳細を読む★★★
和田繁明西武百貨店と合併しそごう・西武が発足★★
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和田繁明売却の無期限延期を決定★★
和田繁明西武池袋本店で終日ストライキ★★
和田繁明そごう・西武を米フォートレスへ売却——コンビニ集中のための百貨店切り離し物言う株主の圧力下で駅前一等地を家電量販店へ明け渡すか——企業価値2200億円・株式譲渡価額8500万円の売却 詳細を読む★★★
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「十合」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「十合」の項
  • そごう 会社年鑑(1958年2月期〜1961年2月期・単体)
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号
  • 週刊東洋経済 2014年9月13日号
  • 日経ビジネス 1992年11月9日号(水島廣雄氏インタビュー。日経ビジネス 1999年11月15日号に引用)
  • そごう 会社四季報(1995年2月期・単体)

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