1969年〜 大和銀行からの脱サラ創業 ── 仲介・建設・管理の三輪体制とシンクス事業の確立
- 1972年 千曲不動産を設立
- 1975年 オイルショックでの土地在庫ゼロ化と、地価が下がりきるまでの建売停止 値下がりのさなかに回すか、止めて待つか——創業4年目の建売業者が選んだ在庫の落とし方
- 1975年 千曲建設を設立
- 1975年 飲食業としてセブンを設立
- 1977年 行徳店を開設
- 1985年 千曲管理サービスを設立
- 1987年 千曲不動産からスターツへの商号変更と、千曲建設等の吸収合併 創業者の郷里の名を外し、四つに分かれた法人を1社へ——「街の不動産屋」が中堅企業の看板を選ぶまで
夫婦2人の千曲不動産 ── 脱サラ同志とオイルショックの在庫ゼロ判断
1969年、大和銀行を退職した村石久二氏は[1]、東京都江戸川区で千曲不動産を個人で創業した[2]。当初の2年間は建売業者向けに小規模な造成地を仕入れて販売する仕事で、村石氏と夫人の2人だけの経営だった。社名の「千曲」は、長野県の千曲川のほとりで育ち[3]、出征した父を戦争で亡くし、母に女手一つで育てられた村石氏が、母と故郷への思いを込めて付けた名である。1972年9月には業容拡大に対応して株式会社へ改組し[4]、1973年7月に本店を一之江3丁目へ移した[5]。賃貸仲介・売買仲介・不動産管理を主目的に掲げた、江戸川区の小さな不動産会社の出発である。
- 『汗生 汗とともに生きる』(村石久二・久田和子著、スターツ出版、1994年刊)
- [1]1969年 村石久二氏が大和銀行を退職し千曲不動産を個人創業
- [3]社名「千曲」は村石氏の郷里・長野県の千曲川にちなむ
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【役員の状況】
- [2]創業者は村石久二氏(大和銀行を退職して創業)
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [4]1972年9月 千曲不動産株式会社へ改組(東京都江戸川区一之江に設立)
- [5]1973年7月 本店を一之江3丁目へ移転
創業から間もなく、銀行をはじめとする大手企業を辞めた仲間が次々と入社し、事業は造成地販売から自社の建売(分譲住宅販売)へ広がった。村石氏が引き抜いたのではなく、給料の減少を覚悟で職を辞して集まった「同志」であり、創業20年後の1989年時点でも全員が在籍していたという。[6]親戚縁者は入れず、好況期でも歩合制社員や業界経験者は採用せず、1980年からは新卒採用を続ける[7]──歩合制営業が珍しくない不動産業界に、銀行員の感覚を持ち込んだ人事方針である。後年まで残る「素人軍団」の組織原理は、この合流期に固まった。
- 『証券アナリストジャーナル』1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [6]創業20年後の1989年時点でも創業期の同志が全員在籍
- [7]1980年から新卒採用を継続(歩合制社員・業界経験者は不採用)
1973年末のオイルショックが最初の[8]経営判断を迫った。金融引き締めで金利が上がれば土地は動かなくなると読んだ村石氏は、保有する土地をすべて売却して仕入在庫をゼロにし、建売を一時停止した。建売以外の仕事でしのぎながら、金融が緩み、地価が下がりきるのを待つ判断である。1975年、他社に先駆けて土地仕入れと建売を再開すると[9]、土地有効活用事業が始まる1980年まで「建売住宅の全盛期」(『汗生』1994/9)が続いた。この間も売上高の伸びは年2〜3割にとどめており[10]、村石氏はこれを「継続は力なり」(証券アナリストジャーナル 1989/9)の信条で説明している。
- 『汗生 汗とともに生きる』(村石久二・久田和子著、スターツ出版、1994年刊)
- [8]1973年末のオイルショックで保有土地を全売却し建売を一時停止
- [9]1975年 他社に先駆けて土地仕入れと建売を再開
- 『証券アナリストジャーナル』1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [10]好況期も売上高の伸びは年2〜3割に抑制
- 『汗生 汗とともに生きる』(村石久二・久田和子著、スターツ出版、1994年刊)
- [1]1969年 村石久二氏が大和銀行を退職し千曲不動産を個人創業
- [3]社名「千曲」は村石氏の郷里・長野県の千曲川にちなむ
- [8]1973年末のオイルショックで保有土地を全売却し建売を一時停止
- [9]1975年 他社に先駆けて土地仕入れと建売を再開
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【役員の状況】
- [2]創業者は村石久二氏(大和銀行を退職して創業)
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [4]1972年9月 千曲不動産株式会社へ改組(東京都江戸川区一之江に設立)
- [5]1973年7月 本店を一之江3丁目へ移転
- 『証券アナリストジャーナル』1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [6]創業20年後の1989年時点でも創業期の同志が全員在籍
- [7]1980年から新卒採用を継続(歩合制社員・業界経験者は不採用)
- [10]好況期も売上高の伸びは年2〜3割に抑制
行徳店から東西線沿線の各駅へ ── 多店舗展開と管理の専業化
1975年8月、村石氏は株式会社千曲建設を設立し、建設事業へ進出[11]した。仲介店舗で受けた土地活用の相談に、施工まで自社で応える体制を作るためである。1977年には初の支店となる行徳店を開設し[12]、1979年には習志野店・西葛西店を開いた。本店も1979年12月に西葛西6丁目へ移し[13]、店舗網は江戸川区から千葉方面へ広がり始めた。この時期、土地所有者向けに雑誌『つち』も創刊している。「先祖からの土地を引き継ぎ、それを大切に守っている方々の気持ち」(『汗生』1994/9)に近づくための媒体で、この情報発信の内製は1983年3月の千曲出版株式会社の設立(1989年10月にスターツ出版へ商号変更)[14]、後の「OZmagazine」など独立した出版事業へつながった。
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [11]1975年8月 株式会社千曲建設を設立(建設事業へ進出)
- [12]1977年 初の支店・行徳店を開設
- [13]1979年12月 本店を西葛西6丁目へ移転
- [14]1983年3月 千曲出版株式会社を設立(1989年10月スターツ出版へ商号変更)
1980年に土地有効活用事業を開始すると[15]、多店舗展開は東西線沿線を面で押さえる戦略に移った。1981年に南行徳店、1985年に浦安店、1986年に葛西店を開設し、西葛西・葛西間は近距離で1店舗あれば足りるという声があっても、沿線を固めるため各駅に出店した。1982年には東船橋店と埼玉県のせんげん台店[16]、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年にみずほ台店と続き、1986年には都営新宿線の開通で人口が増え始めた江戸川区船堀に船堀店を開設した。入居者募集を見込んで駅周辺の立地を選ぶ基準は一貫しており、創業地周辺への集中は後年も「江戸川区・浦安市への注力」(決算説明会 FY10)として投資家に示される方針である。[17]
- 『汗生 汗とともに生きる』(村石久二・久田和子著、スターツ出版、1994年刊)
- [15]1980年に土地有効活用事業を開始
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [16]1982年 埼玉県せんげん台店を開設
- スターツコーポレーション 決算説明会(2011年3月期)
- [17]創業地周辺集中は「江戸川区・浦安市への注力」として投資家に示された方針
土地有効活用で建てたアパートが増えると、入居斡旋から家賃集金・クレーム対応までを営業担当が兼ねる体制では手が回らなくなった。1985年4月、賃貸アパート・マンション・駐車場の管理専門会社として千曲管理サービス株式会社(後のスターツアメニティー)を設立し[18]、管理を専業化した。工事の利益は完成時の一度きりだが、管理手数料は毎月積み上がる。このストック収入を重視する考えを、村石氏は「銀行員的な発想」(『汗生』1994/9)と呼んでいる。1986年には管理物件が約6,000件の段階でオンライン管理の導入に着手し[19]、仲介で顧客接点を作り、建設で受注し、管理で長期収益化する三輪体制が創業から16年でそろった。
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [18]1985年4月 千曲管理サービス株式会社を設立(後のスターツアメニティー)
- 『汗生 汗とともに生きる』(村石久二・久田和子著、スターツ出版、1994年刊)
- [19]1986年に管理物件約6,000件の段階でオンライン管理導入に着手
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [11]1975年8月 株式会社千曲建設を設立(建設事業へ進出)
- [12]1977年 初の支店・行徳店を開設
- [13]1979年12月 本店を西葛西6丁目へ移転
- [14]1983年3月 千曲出版株式会社を設立(1989年10月スターツ出版へ商号変更)
- [16]1982年 埼玉県せんげん台店を開設
- [18]1985年4月 千曲管理サービス株式会社を設立(後のスターツアメニティー)
- 『汗生 汗とともに生きる』(村石久二・久田和子著、スターツ出版、1994年刊)
- [15]1980年に土地有効活用事業を開始
- [19]1986年に管理物件約6,000件の段階でオンライン管理導入に着手
- スターツコーポレーション 決算説明会(2011年3月期)
- [17]創業地周辺集中は「江戸川区・浦安市への注力」として投資家に示された方針
スターツへの商号統一とシンクス事業 ── 預かり資産1兆円超で店頭登録へ
1987年7月、千曲不動産株式会社はスターツ[20]株式会社へ商号を変更し、株式会社千曲建設などの関連会社を吸収合併した。仲介・建設・管理の3社を1社にまとめ、「スターツ」のブランドに統一する組織再編である。村石氏は著書で、「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」と次の段階が見え始めた時期に、創業時に込めた個人の郷愁から離れ「メンバー皆の思いを会社の冠にしたい」と考えての改名だったと振り返っている(『汗生』1994/9)。創業から18年、多角化のピースを単一会社にいったん集約したこの体制は、後の事業別分社化の前提にもなる。
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [20]1987年7月 千曲不動産株式会社がスターツ株式会社へ商号変更し関連会社を吸収合併
土地有効活用の仕組みを、村石氏は「シンクス事業」と呼ぶ。首都圏の地主と個別に交渉して財産管理を引き受け、駐車場・アパート・コンビニエンスストア・商業ビル・マンションの建設を提案し、完成後はスターツが預かって管理する。1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円[21]にのぼり、相手は資産20億〜30億円から400億〜500億円規模[22]の地主だと村石氏は説明している(証券アナリストジャーナル 1989/9)。土地を買い取らず長期の信頼関係で収益を積み上げる方式は、社員が離職せず生涯付き合える組織を前提とし、新卒採用と「同志」の人事方針はこの事業モデルと表裏の関係にあった。
- 『証券アナリストジャーナル』1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [21]1989年時点のシンクス事業の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円
- [22]対象地主の資産規模は20億〜30億円から400億〜500億円規模
商号統一と並行して海外進出にも着手した。1987年3月に米国ハワイ州ホノルルへStarts[23] International Inc.を、同年11月に台湾台北市へ星藝有限公司を設立し[24]、1989年1月に豪州ゴールドコースト、同年7月に米国カリフォルニア州へと、2年で4カ国に拠点を構えた。日本人の不動産購入需要と、現地へ進出する日本企業の駐在員社宅需要を狙う布陣である。1989年5月、スターツは日本証券業協会の店頭売買銘柄に登録され[25]、同年11月にはウッディホーム株式会社(後のスターツホーム)を設立[26]して個人住宅領域へも進出した。創業から20年で、夫婦2人の造成地販売は、仲介・建設・管理と地主の資産管理を内製で抱え、「21世紀には5万人の企業になることを目指している」(証券アナリストジャーナル 1989/9)と語る公開企業に変わった。[27]
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [23]1987年3月 米国ハワイ州ホノルルにStarts International Inc.を設立
- [24]1987年11月 台湾台北市に星藝有限公司を設立
- [25]1989年5月 日本証券業協会の店頭売買銘柄に登録
- [26]1989年11月 ウッディホーム株式会社(後のスターツホーム)を設立
- 『証券アナリストジャーナル』1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [27]「21世紀には5万人の企業」を目指すと村石氏が説明
- スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- [20]1987年7月 千曲不動産株式会社がスターツ株式会社へ商号変更し関連会社を吸収合併
- [23]1987年3月 米国ハワイ州ホノルルにStarts International Inc.を設立
- [24]1987年11月 台湾台北市に星藝有限公司を設立
- [25]1989年5月 日本証券業協会の店頭売買銘柄に登録
- [26]1989年11月 ウッディホーム株式会社(後のスターツホーム)を設立
- 『証券アナリストジャーナル』1989年9月号(日本証券アナリスト協会)
- [21]1989年時点のシンクス事業の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円
- [22]対象地主の資産規模は20億〜30億円から400億〜500億円規模
- [27]「21世紀には5万人の企業」を目指すと村石氏が説明