歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1972年、列島改造で首都圏の住宅需要が膨らんだ時期に、村石久二氏が東京都江戸川区一之江で千曲不動産を創業した。賃貸仲介から始め、店舗で受けた土地活用の相談を施工まで自社で引き受けるため、1975年に千曲建設、1985年に千曲管理サービスを設けた。仲介で得た顧客との接点を建設受注と入居後の管理委託で繰り返し収益に変える。創業から13年で仲介・建設・管理を内製で抱え、後年「不動産バリューチェーン」と呼ぶ垂直統合を組み上げた。
決断1987年、村石久二氏は仲介・建設・管理の関連会社をスターツへ統合し、同年ハワイと台北に拠点を置いて海外進出に着手した。1989年に店頭登録で資金を得ると、証券・REIT運用・ホテル・福祉と周辺事業を順に取り込み、2005年には会社分割で持株会社へ移行、同月プロシード投資法人を上場させて資産運用と上場での出口まで自前に収めた。仲介から隣り合う事業を一つずつ取り込む拡張を、四半世紀かけて重ねた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1969年〜1989年 大和銀行からの脱サラ創業 ── 仲介・建設・管理の三輪体制とシンクス事業の確立
夫婦2人の千曲不動産 ── 脱サラ同志とオイルショックの在庫ゼロ判断
1969年、大和銀行を退職した村石久二氏は、東京都江戸川区で千曲不動産を個人で創業した[1][2]。当初の2年間は建売業者向けに小規模な造成地を仕入れて販売する仕事で、村石氏と夫人の2人だけの経営だった。社名の「千曲」は、長野県の千曲川のほとりで育ち、出征した父を戦争で亡くし、母に女手一つで育てられた村石氏が、母と故郷への思いを込めて付けた名である[3]。1972年9月には業容拡大に対応して株式会社へ改組し、1973年7月に本店を一之江3丁目へ移した[4][5]。賃貸仲介・売買仲介・不動産管理を主目的に掲げた、江戸川区の小さな不動産会社の出発である。
創業から間もなく、銀行をはじめとする大手企業を辞めた仲間が次々と入社し、事業は造成地販売から自社の建売(分譲住宅販売)へ広がった。村石氏が引き抜いたのではなく、給料の減少を覚悟で職を辞して集まった「同志」であり、創業20年後の1989年時点でも全員が在籍していたという[7]。親戚縁者は入れず、好況期でも歩合制社員や業界経験者は採用せず、1980年からは新卒採用を続ける[6]──歩合制営業が珍しくない不動産業界に、銀行員の感覚を持ち込んだ人事方針である。後年まで残る「素人軍団」の組織原理は、この合流期に固まった。
1973年末のオイルショックが最初の経営判断を迫った[8]。金融引き締めで金利が上がれば土地は動かなくなると読んだ村石氏は、保有する土地をすべて売却して仕入在庫をゼロにし、建売を一時停止した。建売以外の仕事でしのぎながら、金融が緩み、地価が下がりきるのを待つ判断である。1975年、他社に先駆けて土地仕入れと建売を再開すると、土地有効活用事業が始まる1980年まで「建売住宅の全盛期」(『汗生』1994/9)が続いた[9]。この間も売上高の伸びは年2〜3割にとどめており、村石氏はこれを「継続は力なり」(証券アナリストジャーナル 1989/9)の信条で説明している[10]。
私は長野県で生まれ、千曲川のほとりで育った。父は私の顔を見ることもなく戦死。女手一つで苦労しながら私を育ててくれた母は、今も千曲川の流れる故郷にいる。 言葉にはできない母への思い、故郷への思いを込めて、創業した自分の会社に「千曲」の名を冠した。なんとしても泥はつけられない……、事業に賭ける「決意」と「魂」をそこに込めたのだ。
いまから20年前に、私はそれまで勤めていた大和銀行を脱サラして、千曲不動産を個人で創業した。そして昭和47年9月、業容拡大に対処して株式会社に改組したが、その時の仲間のほとんどが、銀行をはじめとする日本の一流企業を飛び出してきた者だった。 いずれも私が引き抜いてきたのではなく、給料ダウン覚悟で脱サラし、同志として一緒にやっていこうということで、しかも、その全員が現在まだ当社に残っている。これは不動産業界では非常に珍しいことであり、当社の堅実な仕事ぶりの大きな背景になっていると思う。
行徳店から東西線沿線の各駅へ ── 多店舗展開と管理の専業化
1975年8月、村石氏は株式会社千曲建設を設立し、建設事業へ進出した[11]。仲介店舗で受けた土地活用の相談に、施工まで自社で応える体制を作るためである。1977年には初の支店となる行徳店を開設し、1979年には習志野店・西葛西店を開いた[12]。本店も1979年12月に西葛西6丁目へ移し、店舗網は江戸川区から千葉方面へ広がり始めた[13]。この時期、土地所有者向けに雑誌『つち』も創刊している。「先祖からの土地を引き継ぎ、それを大切に守っている方々の気持ち」(『汗生』1994/9)に近づくための媒体で、この情報発信の内製は1983年3月の千曲出版株式会社の設立(1989年10月にスターツ出版へ商号変更)[14]、後の「OZmagazine」など独立した出版事業へつながっていく。
1980年に土地有効活用事業を開始すると、多店舗展開は東西線沿線を面で押さえる戦略に移った[15]。1981年に南行徳店、1985年に浦安店、1986年に葛西店を開設し、西葛西・葛西間は近距離で1店舗あれば足りるという声があっても、沿線を固めるため各駅に出店した。1982年には東船橋店と埼玉県のせんげん台店、1983年に松戸店・足立店、1984年に幕張本郷店、1985年にみずほ台店と続き、1986年には都営新宿線の開通で人口が増え始めた江戸川区船堀に船堀店を開設した[16]。入居者募集を見込んで駅周辺の立地を選ぶ基準は一貫しており、創業地周辺への集中は後年も「江戸川区・浦安市への注力」(決算説明会 FY10)として投資家に示される方針である[17]。
土地有効活用で建てたアパートが増えると、入居斡旋から家賃集金・クレーム対応までを営業担当が兼ねる体制では手が回らなくなった。1985年4月、賃貸アパート・マンション・駐車場の管理専門会社として千曲管理サービス株式会社(後のスターツアメニティー)を設立し、管理を専業化した[18]。工事の利益は完成時の一度きりだが、管理手数料は毎月積み上がる。このストック収入を重視する考えを、村石氏は「銀行員的な発想」(『汗生』1994/9)と呼んでいる。1986年には管理物件が約6,000件の段階でオンライン管理の導入に着手し、仲介で顧客接点を作り、建設で受注し、管理で長期収益化する三輪体制が創業から16年でそろった[19]。
「物件完成後も大家さんと二人三脚で末長くお付き合いし、建てたアパートのことは安心して任せて頂きたい」「入居者の方には、新しい街での暮らしができるだけ快適なものであってほしい」── この気持ちを満たしていくには、アパート・マンションの管理専門部署をつくらなければ、という思いが次第に大きくなってきた。
スターツへの商号統一とシンクス事業 ── 預かり資産1兆円超で店頭登録へ
1987年7月、千曲不動産株式会社はスターツ株式会社へ商号を変更し、株式会社千曲建設などの関連会社を吸収合併した[20]。仲介・建設・管理の3社を1社にまとめ、「スターツ」のブランドに統一する組織再編である。村石氏は著書で、「街の不動産屋から中堅不動産企業へ」と次の段階が見え始めた時期に、創業時に込めた個人の郷愁から離れ「メンバー皆の思いを会社の冠にしたい」と考えての改名だったと振り返っている(『汗生』1994/9)。創業から18年、多角化のピースを単一会社にいったん集約したこの体制は、後の事業別分社化の前提にもなる。
土地有効活用の仕組みを、村石氏は「シンクス事業」と呼ぶ。首都圏の地主と個別に交渉して財産管理を引き受け、駐車場・アパート・コンビニエンスストア・商業ビル・マンションの建設を提案し、完成後はスターツが預かって管理する。1989年時点の預かり資産は1兆5,000億〜1兆8,000億円にのぼり、相手は資産20億〜30億円から400億〜500億円規模の地主だと村石氏は説明している(証券アナリストジャーナル 1989/9)[21][22]。土地を買い取らず長期の信頼関係で収益を積み上げる方式は、社員が離職せず生涯付き合える組織を前提とし、新卒採用と「同志」の人事方針はこの事業モデルと表裏の関係にあった。
商号統一と並行して海外進出にも着手した。1987年3月に米国ハワイ州ホノルルへStarts International Inc.を、同年11月に台湾台北市へ星藝有限公司を設立し、1989年1月に豪州ゴールドコースト、同年7月に米国カリフォルニア州へと、2年で4カ国に拠点を構えた[23][24]。日本人の不動産購入需要と、現地へ進出する日本企業の駐在員社宅需要を狙う布陣である。1989年5月、スターツは日本証券業協会の店頭売買銘柄に登録され、同年11月にはウッディホーム株式会社(後のスターツホーム)を設立して個人住宅領域へも進出した[25][26]。創業から20年で、夫婦2人の造成地販売は、仲介・建設・管理と地主の資産管理を内製で抱え、「21世紀には5万人の企業になることを目指している」(証券アナリストジャーナル 1989/9)と語る公開企業に変わった[27]。
「いつまでも私個人の郷愁の思いだけではいけない。メンバーの思い入れや夢、そして様々な気持ちが重なってどんどん膨らんでいった時、『千曲』という名前に違和感をもつはずだ。そろそろメンバー皆の思いを会社の冠にしたい」と、漠然とだが、考えるようになっていた。
1990年〜2014年 ホールディング体制への移行と不動産バリューチェーンの垂直統合完成
出版・証券・REIT・ホテル ── 1990年代の周辺事業ライン拡張
1990年代のスターツは、1989年5月の店頭登録で得た資金を原資に、不動産仲介を起点とする事業ポートフォリオの周辺領域を順に拡張した。1995年5月にはスターツ商事株式会社を設立して建設資材卸の流通機能を内製化、1996年3月には株式会社ウィーブを設立してインターネット事業へ進出した[28][29]。1996年9月のスターツ総合研究所設立で不動産コンサルティング受託の機能を加え、1997年7月には神奈川県横浜市都筑区に仲町台店を開設して首都圏外縁への仲介店舗網拡張も実施した[30][31]。不動産仲介・建設・管理という三事業を起点に、周辺事業を順に取り込む拡張パターンが1990年代を通じて続いた。
管理専業化から9年、千曲管理サービスの管理戸数は1994年8月時点で約2万3,000戸、年間管理手数料は約12億円(1994年度見込)・年商20億円の規模に達していた(『汗生』1994/9)[32]。同社は1997年にスターツアメニティーへ商号を変更し、1998年4月には時間貸し駐車場「ナビパーク」事業を開始した[33]。賃貸住宅管理で集めた小規模な土地を駐車場として運営する事業である。1999年6月にはスターツ株式会社の法人営業部(後のスターツコーポレートサービス)が法人向け社宅管理代行事業を開始し、B2B領域での管理事業も立ち上がった[34]。賃貸物件の仲介・管理・施工で個人顧客との接点を持ち、社宅管理で法人顧客との接点を作り、ナビパークで土地オーナーとの接点を増やす設計である。
1999年11月のスターツ証券設立は、不動産証券化商品の販売・資産運用コンサルティングを担う組織として、後の不動産ファンド事業の前提を整えた[35]。2001年10月にはスターツアセットマネジメント投信株式会社(2010年スターツアセットマネジメントへ商号変更)を設立してREIT組成・運営機能を加え、2003年3月のスターツホテル開発でホテル事業(ホテルエミオン東京ベイ)、2003年7月のスターツケアサービスで高齢者支援・保育事業へも進出した[36][37][38]。仲介・建設・管理を基幹三事業として、出版・コンサル・証券・REIT・ホテル・福祉まで15年で6つの周辺領域に事業ラインを拡張した。各事業はいずれも単独で利益を出せる規模に育ち、後のセグメント分割の前提となる。
2005年HD体制への移行と事業別分社化
2005年10月、スターツは会社分割を実施してホールディングカンパニー制を導入した[39]。建設事業をスターツCAM、不動産仲介事業をスターツピタットハウス、分譲事業をスターツデベロップメント、法人事業をスターツコーポレートサービスに承継させ、本体は純粋持株会社のスターツコーポレーションへ商号を変更した[40]。1987年の商号統一で1社にまとめた事業を、18年後に再び事業別子会社へ分割した格好で、各事業の収益責任を子会社経営陣に明示し、グループ全体の経営判断を持株会社に集約する設計である。創業以来の三事業に加え、出版・証券・ホテル・福祉などの周辺事業も子会社単位で運営する体制が整った。
同月、スターツプロシード投資法人がジャスダック証券取引所に投資口を上場し、スターツアセットマネジメント投信が資産運用代理人を担う構造で自社運用REITが上場した[41]。1999年の証券子会社設立から6年、自社で組成した不動産投資信託を市場で取引する仕組みが整い、不動産バリューチェーンに「資産運用と上場EXIT」という金融機能が加わった。2006年8月にはブリッジポイント・ジャパン等を取得して総合ビル管理事業へ進出し、株式会社ビルコム(後のスターツファシリティーサービス)・千代田管財・アーバンコントロールズを傘下化した[42]。BtoBストック収益基盤の獲得を狙ったM&Aで、賃貸住宅管理に加えてオフィスビル管理が事業領域に加わった。
2009年9月にはスターツ信託株式会社を設立して不動産信託事業へ進出し、富裕層・地主向けの資産承継ビジネスにも参入した[43]。仲介・建設・管理を基幹三事業に、ビル管理・REIT運用・不動産信託という金融寄りの機能を加え、不動産バリューチェーンの垂直統合が一通り完成した。2010年4月には大阪証券取引所JASDAQへ上場市場を移し、2010年7月にはスターツプロシード投資法人が東証本則上場へ移行、2013年7月の大証・東証統合に伴い東証JASDAQへ移った[44][45]。FY11の連結売上高は1,178億円、経常利益101億円、当期純利益34億円で、ホールディング体制で事業別収益管理を進める仕組みが業績の安定拡大を支える体制が整った。
2014年東証一部指定替えとサブリース基幹化
2014年9月、スターツコーポレーションは東京証券取引所市場第一部に指定替えした[46]。新興市場から東証一部への昇格で信用力と調達力が一段上がり、土地オーナー向けの賃貸住宅施工と、その後のサブリース・管理受託で顧客と長期契約を結ぶ事業モデルにとって、上場区分の引き上げが営業上の信用補強として効いた効果も大きかった。FY13の連結売上高は1,510億円、経常利益162億円、当期純利益81億円で、前年比それぞれ18%増・34%増・88%増の伸びを記録し、東証一部指定替えの直前年度に業績拡大が加速した。
連結セグメントは2005年HD化以降、建設・仲介・賃貸管理・分譲・出版・金融コンサル・物販文化・ゆとり(高齢者支援保育・ホテル・飲食)の8セグメント体制で開示され、不動産管理事業が連結売上の約39%を占めるグループ最大事業、建設事業が約31%を占める第二の柱という構成だった[47]。FY14には不動産管理事業の売上601億円・営業利益63.9億円、建設事業の売上512億円・営業利益52億円と、両セグメントで売上・利益とも安定した規模に達した。土地オーナーから賃貸住宅の施工を受注し、完成後にサブリースで一括借上げして賃貸管理を担う事業モデルが、グループの収益基盤として根付いた。
土地オーナーの相続対策需要が高まる時期に、スターツの「土地活用提案→賃貸住宅施工→サブリース→賃貸仲介→入居後管理」という一気通貫サービスが、競合の大東建託・東建コーポレーション・レオパレス21等とは異なる強みを示した。とくに首都圏では、1980年の土地有効活用事業開始から30年余り個人地主との取引を積み重ねた相場感覚と、長期契約の信頼関係が他社との差を生んだ。1989年の店頭登録から25年での東証一部到達は、創業者の村石久二氏が長期思考で各事業を内製化してきた経営に対する、上場市場側からの評価でもあった[48]。
2015年〜2025年 磯﨑社長の体制でグループ86社・1万人へ ── PFI連続と海外自社運営
磯﨑一雄社長就任とセグメント再編 ── 10セグメント体制への移行
2016年4月、磯﨑一雄氏が代表取締役社長に就任した[49]。創業者の村石久二氏は取締役会長代表取締役グループCEOとして経営の最終責任を担いながら、執行の中心を磯﨑社長へ移す体制で、創業者が47年務めた社長職を初めて外部出身者に委ねた局面である。磯﨑社長就任後の2018年からはセグメント開示も変更され、それまでの「ゆとり事業」を「ホテル・レジャー事業」と「高齢者支援・保育事業」に分離、不動産管理・建設・分譲・賃貸仲介・売買仲介・金融コンサル・出版・物販文化と合わせて10セグメントの開示体制となった。事業の輪郭がより細かく示され、ホテル・レジャー、高齢者支援・保育という個別の成長領域の収益が独立して可視化された。
FY16の連結売上高は1,808億円、営業利益202億円で、前年比それぞれ13%増・13%増と二桁成長を記録した。磯﨑社長就任直後の決算で、不動産管理事業の売上は672億円(前年比6.5%増)、建設事業は500億円(前年比0.8%増)と基幹2事業が安定して伸び、ホテル・レジャー事業(旧ゆとり事業)も142億円の売上を計上した。創業以来の不動産バリューチェーンを軸にしながら、ホテル・レジャー、高齢者支援・保育という生活サービス領域を独立した報告セグメントとして育てる体制が整った。「総合生活文化企業」という旗印は2010年代後半から決算説明会で繰り返し示された方針で、不動産業を超えた生活インフラ事業者への自己定義の刷新を意味する。
2019年3月期には創業50周年を記念して年間配当69円(記念配当5円を含む)で9期連続増配を達成し、株主還元の安定性も示した[50]。FY18の連結売上高は1,952億円・営業利益228億円・当期純利益153億円で、FY13からの5年間で売上が29%・営業利益が39%・純利益が89%増加した[51]。長期増配と業績拡大の両立は、賃貸住宅管理・建設・仲介の基幹事業がストック収益で安定し、ホテルや海外事業など景気感応度の高い領域を組み合わせる事業構成の効果が、磯﨑社長就任後の3年で数字に現れたものといえる。
福祉貢献インフラファンドとPFI連続参入
2016年2月、スターツは「スターツ福祉貢献インフラファンド投資事業有限責任組合」を設立した[52]。東京都内の子育て支援・高齢者支援施設を含む福祉貢献型建物の整備を目的とする官民連携ファンドで、地方自治体や運営事業者と組んで施設を建設・保有・運営する事業モデルである。同年3月の安城民間収益サービス株式会社(愛知県安城市の中心市街地拠点整備)を皮切りに、2017年2月の習志野大久保未来プロジェクト(千葉県習志野市の公共施設再生)、2017年5月の弘前芸術創造(青森県弘前市のPFI)、2017年6月の東岡崎駅北東街区複合施設(愛知県岡崎市の駅前再開発)と、2016年から2017年の2年間で5件のPFI/PPP案件に連続で参入した[53][54]。
2018年1月には両国福祉貢献プロジェクト(墨田区)と株式会社フィルライフ(不動産テック)、2018年5月には千鳥福祉貢献プロジェクト(大田区の認可保育所・共同住宅複合施設)を設立し、福祉貢献ファンドの東京内案件も並行して進めた[55][56]。2019年2月には弘前PFI関連の運営管理会社と、スターツニューコースト(「NEW COAST SHIN-URAYASU」運営)を設立し、地方PFIと地元浦安の商業施設運営を同時に手がけた[57]。福祉施設・公共施設の建設だけでなく、完成後の運営管理まで請け負う設計で、賃貸住宅で培ったストック収益モデルを公共領域に拡張した格好である。
PFI案件への連続参入は、首都圏中心の賃貸住宅事業で安定した収益を上げる一方、自治体財政の制約下で増える公共施設の整備・運営需要を取り込む狙いがあった。福祉貢献インフラファンドはESG投資への関心の高まりとも合致し、機関投資家向けの資金調達手段としても機能した。2023年2月のスターツ環境不動産開発ファンド設立、2023年11月の西蒲田PPPプロジェクト(東京科学大学西蒲田職員宿舎)、2024年7月の豊橋ネクストパーク(公園PFI)、2024年11月の福岡千早フォレスト(公有地活用)と、2023年から2024年にかけても地方PFI・公有地活用案件への参入が続き、官民連携領域がスターツの成長事業の一角となった[58][59][60]。
村石豊隆社長への承継 ── 創業55年で売上2,330億円
2018年10月、スターツはカンボジア・プノンペンで「ホテル エミオン プノンペン」の運営を開始した[61]。スターツグループ初の海外自社施工・運営によるホテルで、2016年12月のフィリピンPEZA工業団地内「スターツレンタルファクトリー」(自社企画・賃貸・管理のレンタル工場)と並ぶ、海外で建設から運営までを内製で抱える事業モデルの実例である[62]。1987年のハワイ・台北を起点としたアジア展開は、2018年に至り東南アジア10カ国超の拠点網と、自社建設・運営のホテル・レンタル工場を持つ体制に拡張された。海外事業は日本企業向け仲介から始まり、現地での建設・運営事業まで広がった。
2022年4月、東京証券取引所の市場再編に伴いスターツコーポレーションはプライム市場へ移行した[63]。同年4月にはスターツ九州・東海・東北・関西・北海道へ地域子会社の商号を統一し、地域分社制とブランド統一を両立する組織再編も実施した。同月には長崎の賃貸仲介・売買仲介・不動産管理を手がける株式会社よしひろ企画を取得し(2024年4月にスターツ長崎へ商号変更)、九州地盤を強化した[64]。FY21の連結売上高は1,966億円、営業利益242億円、当期純利益168億円で、コロナ禍下でも基幹事業の安定収益と地方M&Aの両輪で業績を伸ばした。
2024年7月、創業者の村石久二氏の長男である村石豊隆氏が代表取締役社長に就任した[65]。磯﨑一雄氏は2024年7月から代表取締役副会長へ移り、村石久二氏は取締役会長に退いた[66]。創業以来初の創業家二代目への承継で、創業者・現任社長・前任社長の3代が並列する体制となった。FY24の連結売上高は2,330億円、営業利益326億円、経常利益334億円、当期純利益243億円を計上し、2025年3月にはピタットハウスがスターツグループ店113店舗・ネットワーク店518店舗の計約630店舗規模に到達した[67]。グループ会社は2024年9月時点で92社、連結従業員は4,683名(FY24末)で、決算説明会で示された「総合生活生活文化企業を目標とする」(第53期事業報告書)グループ体制が、創業55年を経て不動産・建設・管理・金融・福祉・海外を抱える事業集合体として形になった[68]。