歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1946年5月、風戸健二氏を中心とするグループが千葉県茂原市で電子顕微鏡の研究開発に着手した。約1年半の試作を経て、1949年5月、その実績を母体に総員13名・資本金50万円で東京都三鷹市に株式会社日本電子光学研究所を設立した。電子顕微鏡は欧米の数社しか作れない先端計測機器で、占領下の日本では入手が難しかった。光学顕微鏡では届かないナノ領域を観察するこの装置を、戦後の物資不足と外貨制約のもとで国産化する。顧客は大学や国立研究所に限られ、最先端の研究設備づくりに技術者が賭けた出発であった。
決断国産化した電子顕微鏡を売る相手は、世界の大学や研究機関に広がっていた。数千万円から数億円の研究設備は、据付・校正・保守の質が購入の決め手になる。そこで1962年の米国法人を皮切りに、欧州やアジアの主要国へ販社網を張り巡らせた。並行して1952年に産業機器、1956年に分析機器、1972年に医用機器へ進出し、創業23年で計測機器を軸とする4つの事業を持つメーカーへ広げた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1949年に、風戸健二氏らは戦後の物資不足のなかで電子顕微鏡の国産化に挑んだのか
- A 電子顕微鏡は光学顕微鏡では届かないナノ領域を観察できる先端計測機器でありながら、当時はドイツのジーメンスや米国のRCAなど欧米数社しか作れず、占領下の日本では輸入を含め入手が難しかった。科学振興と工業立国に日本再建の道を見た風戸健二氏を中心とするグループは、ないなら自ら作るほかないと考えた。1946年5月に千葉県茂原市で研究開発へ着手し、約1年半の試作を経て、1949年5月に総員13名・資本金50万円で東京都三鷹市に株式会社日本電子光学研究所を設立した。顧客は大学や国立研究所に限られる、技術志向の集団としての船出であった。
- Q なぜ1962年以降、欧米やアジアの主要国へ自前の販売・サービス拠点を張り巡らせたのか
- A 数千万円から数億円する電子顕微鏡は、買って終わりではなく、据付・校正・保守の質が購入の決め手になる高額研究設備である。主要市場が欧米先進国の研究機関や大学だったため、その所在地に物理的な拠点を持つことが海外売上を取りに行く前提条件であった。そこで日本電子は1962年12月の米国法人を皮切りに、1964年にフランス、1968年に英国と豪州、1970年代以降はオランダ・スウェーデン・ドイツ・韓国・シンガポール・台湾へと販社網を広げた。電子顕微鏡で得た輸出経路は、後年の半導体検査・計測装置を世界へ売る基盤にもなった。
- Q なぜ大井泉社長は2019年に「70年目の転進」を掲げ、半導体計測へ投資を集中したのか
- A 売上の約7割を占める理科学・計測機器は市場規模に限りがあり、電子顕微鏡で世界の上位を守るだけでは成長を続けにくくなっていた。2019年6月に就任した大井泉社長は、培ってきた技術と人脈を半導体・産業・医用の各市場へ向け直す「70年目の転進」を中期経営計画に掲げ、2019年3月期に経常利益74億円だった水準を2022年3月期に100億円へ引き上げる目標を立てた。EUV世代のフォトマスクを描くマルチビーム電子線描画装置をオーストリアのIMSと共同開発し、需要急増に応えるため武蔵村山製作所を2021年に開所して生産能力を引き上げた。半導体微細化に伴うナノ計測需要が、老舗の計測機器メーカーを先端半導体の装置供給者へと変えた。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1949年〜1971年 電子顕微鏡国産化を起点とする理科学計測機器メーカーの誕生
三鷹市での創業と電子顕微鏡国産化の決意
創業は終戦直後の1946年5月に遡る。科学振興と工業立国に日本再建の道を見た風戸健二氏を中心とするグループが、千葉県茂原市で電子顕微鏡の研究開発に着手した[1][2]。約1年半の試作の末に電子顕微鏡の試作機を完成させ、1949年5月、その茂原時代の実績を母体として総員13名・資本金500千円の株式会社日本電子光学研究所を東京都三鷹市に設立した[3][4][5]。戦後の物資不足と外貨制約のなかで電子顕微鏡の国産化に挑む技術志向の集団としての船出であった。
電子顕微鏡は、光学顕微鏡では到達できないナノメートル領域の観察を可能にする計測装置で、金属組織・半導体材料・生物試料の構造解析に不可欠な機器である。設立に前後してJEM-1型電子顕微鏡を完成させ、1950年2月には通商産業省から「育成発展せしむべき企業」との推薦を受けて、国産電子顕微鏡メーカーとしての地歩を固めた[6][7]。1955年2月には三鷹製作所の社屋を購入し、販路開拓のため東京・丸ノ内と大阪に営業所、フランス・パリに代理店を置いて事業拡大の拠点を整えた[8]。1956年4月にはフランス政府原子力研究所へ電子顕微鏡を納入し、これが30数カ国への輸出の糸口となった[9]。基礎研究と産業応用の両面で需要が拡大していく成長分野であった。創業から3年後の1952年11月には産業機器分野へ進出(高周波焼入装置完成)、1956年8月には分析機器分野へ進出(磁気共鳴装置完成)した[10][11]。NMR(核磁気共鳴装置)等の分析機器事業の起点で、後年の理科学・計測機器事業の柱となる領域に初めて参入した[12]。
創業者の風戸健二氏は、海軍機関学校で技術教育を受け、海軍技術研究所で対空ミサイル開発計画のマネージャーを務めた技術士官であった[13]。復員準備の整理中に、かつて呉で入手していた黒岩大助『電子顕微鏡』(1942年)に目を通したことが事業の出発点となり、敗戦で痛感した日本の科学技術の遅れを電子顕微鏡の国産化に賭けた[14]。1949年5月、海軍技術研究所時代から縁の深かった伊藤庸二の光電製作所・日本無線の協力で、三鷹市上連雀にあった日本無線研究所の一隅を借りて事業を開始した[15]。社名「日本電子光学研究所」の英訳 Japan Electron Optics Laboratory の頭文字が、後の略称JEOLの由来である[16]。初期のJEM-1型は山梨大学・東京大学生産技術研究所をはじめ国公立大学・研究機関へ納入され、国産電子顕微鏡メーカーとしての評価を確立していった[17]。
「日本電子」への社名変更と東証上場
1960年9月、東京都昭島市にさくら精機株式会社(1989年12月「日本電子テクニクス株式会社」に変更、2021年4月日本電子に吸収合併)を設立し、本体から電子顕微鏡の組立・量産機能を切り出した[18][19]。研究開発と生産の分離は、研究開発型ベンチャーが製品の量産対応を進める際の典型的な組織設計である。
1961年5月、「日本電子株式会社」に商号変更した[20]。社名は「光学」を外し、より広い電子機器メーカーとしてのアイデンティティを示す方向への転換であった。1962年4月、資本金を2億1,000万円に増資して東京証券取引所市場第二部に上場し、公開市場での資金調達体制を整えた[21][22]。創立当時50万円でスタートした資本金は毎年のように増資を重ねており、上場前年には3,500万円、上場直前の倍額増資を経てこの水準に達したものである[23]。同年12月には米国にJEOLCO(U.S.A.)INC.(1993年4月「JEOL USA,INC.」に変更)を設立し、米国市場への進出を拡大した[24]。創業から13年で海外展開に着手したのは、電子顕微鏡という製品の主要市場が欧米先進国であり、現地販売・サービス拠点の必要性が高かったためである。
1964年4月、昭島製作所開発館を完成させR&D機能を拡張、同年11月にはフランスにJEOLCO(FRANCE)S.A.(2005年4月「JEOL(EUROPE)SAS」に変更)を設立し、欧州事業の起点を築いた[25][29]。1966年6月に本店を三鷹市から昭島市へ移転、同年3月には資本金11億3,400万円となって1966年8月には東証一部に上場し、大企業の地位を得た[26][30][31]。1955年から1965年の10年間で従業員は136名から1,592名へと10倍以上に拡大している[27]。製品面でも1961年にスーパースコープ、1966年に100万ボルト超高圧電子顕微鏡を完成させ、小型から大型まで各種の電子顕微鏡を取り揃えた[28]。1968年7月に英国・10月に豪州、1971年4月に英文社名を「JEOL Ltd.」に統一、1972年4月には医用機器分野へ進出(生化学自動分析装置完成)と、創業から23年で電子顕微鏡・理科学計測機器・産業機器・医用機器の4軸を持つメーカーへ転じた[32][33][34][35]。
1972年〜2008年 産業機器・医用機器・分析機器の多軸化と欧州販売網の拡張
欧州販社網の拡張
1973年2月にオランダ、3月にスウェーデン、1984年4月にイタリア、1994年2月に韓国、1995年1月にシンガポール(JEOL ASIA)、1997年6月にドイツ、1999年1月に台湾と、欧州・アジアの主要国に販売・サービス拠点を設けた[36][37][38][39][40][41][42]。電子顕微鏡という超高額(数千万円〜数億円規模)の研究設備は、購入後の据付・校正・保守・修理のサービス品質が販売判断の決定要因となる。世界の主要研究機関・大学・先端製造企業の所在地に物理的に拠点を持つことが、海外売上を取りに行く前提条件であった。
1972年4月の医用機器分野進出(生化学自動分析装置完成)以降、医用機器事業も売上を拡大した[43]。生化学自動分析装置は、血液中の各種成分(血糖・コレステロール・肝機能指標等)を自動測定する機器で、シスメックス(血球計数装置)とは異なる検査領域で、病院・診療所向けの需要が安定的に存在する。日本電子は理科学計測機器・産業機器・医用機器の3軸事業構成を、1970年代に整えた[44]。
1970年初頭、風戸社長は理科学機器部門を米国ベックマン・パーキンエルマー両社と比肩する世界的専門メーカーへ育てる方針を掲げ、海外市場の開拓を直販体制の強化で進めた[45]。代理店の販売力やアフターサービスの限界を補うため、1973年のオランダ・スウェーデンに続いてブラジル(JEOL do Brasil)、1974年には東欧担当のJEOL Anstalt(リヒテンシュタイン)と現地法人の設立を相次いで進めた[46]。米国では1971年2月に分析機器部門の事務所をニュージャージー州クランフォードへ拡張移転し、同年4月の英文社名「JEOL Ltd.」統一にあわせて現地法人名をJEOLCOからJEOLへ改めた[47]。スイス・オーストリア・西ドイツのみは現地のコントロン社への販売委託を続け、1974年時点で海外現地法人は11社に達した[48]。
第1次石油危機と国際競争下の減量経営
1970年代前半、日本電子は全機種を輸出に向ける方針のもと海外開拓に注力し、1971年10月には製品の輸出国が50カ国を超えた[49]。最大の市場は欧米で、透過電子顕微鏡ではフィリップス・シーメンス・ツァイスや日立製作所、核磁気共鳴装置(NMR)では米バリアン・パーキンエルマーや西独ブルッカーと、製品開発とサービスの両面で激しい国際競争に直面した[50]。日本電子の1973年度調査では透過電子顕微鏡でフィリップスに次ぐ世界第2位・シェア約25%、走査電子顕微鏡で世界第1位を占めたが、核磁気共鳴装置ではパルスフーリエ変換方式の他社新製品の登場で主力機種が劣勢となり、1971年4月にFT-NMR(JNM-PS-PFT-100型)を完成させたものの、相次ぐ仕様変更で欧米市場での核磁気共鳴装置事業は苦戦した[51][52]。
1973年11月以降の鉱工業生産の落ち込みは1975年2月まで続き、1974年度の実質GNPはマイナス成長を記録した[53]。変動相場制への移行も加わって輸出条件は不安定になり、高度成長期のような売上拡大は望めなくなった。日本電子は売上規模に対して人員が過剰になったと判断し、企業の存続を優先して人員を売上に見合う規模へ減らす方針を決めた[54]。1974年3月末に2,568名であった従業員を1975年3月末に1,900名とする計画で、第1の手段として業務の一部を別会社化し、関係従業員を出向させた[55]。同盟系の労働組合とは、労働条件と日本電子社員としての身分・組合員資格を保障する協約を1974年6月初めに結んだ[56]。売上拡大を前提に増員を続けてきた経営からの転換であった。
リーマンショックと再建期
2002年3月に山形クリエイティブ株式会社(2016年4月「日本電子山形株式会社」に変更)を設立、2009年7月には日本電子データム・日本電子アクティブを吸収合併してグループの組織を簡素化した[57][58]。2011年4月には東京都昭島市に分社型の新設分割で株式会社JEOL RESONANCE(2022年10月日本電子に吸収合併)を設立し、NMR事業を分社化した[59]。
2008年秋のリーマンショックで日本電子は直撃を受けた。FY07の売上938億円から FY08は売上838億円・経常損失27.3億円・純損失19.2億円へ転落、FY09に売上847億円・経常利益2.1億円とぎりぎりの黒字回復、FY10は売上752億円と縮小、FY11は再び純損失90.5億円を計上する苦闘期に入った。研究設備・産業機器需要の世界的な蒸発と、円高による海外売上の円換算減少が同時に襲う局面となった。
栗原権右衛門社長(FY07-FY17)は、リーマンショック直撃から再建を主導した経営者である[60]。電子顕微鏡・理科学計測機器という高額研究設備の需要回復を待ちながら、医用機器・産業機器の事業立て直しと費用構造の見直しを並行で行った。FY12時点の売上796億円・純利益16億円から、FY17時点の売上1,045億円・純利益45億円へと10年がかりで戻した。
2009年〜2024年 半導体先端計測装置への集中投資と「VISION 2030」
武蔵村山製作所開所と半導体エコシステムへの集中
2018年6月、大井泉氏が代表取締役社長兼COOに就任した。日本電子入社の生え抜きで、1964年1月生[61][62]。栗原権右衛門会長との会長・社長分担で経営の連続性を保ちながら、半導体微細化に伴うナノ計測需要の取り込みと、先端ロジック・先端メモリ向け検査・計測装置の供給拡張という方向性を示した[63]。2020年1月には米国のIntegrated Dynamic Electron Solutions, Inc.の全株式を取得し、電子顕微鏡関連技術を補強した[64]。2021年4月に日本電子テクニクスを吸収合併、同年10月に武蔵村山製作所を開所して生産能力を引き上げた[65][66]。
2021年に大井泉氏は代表取締役社長兼CEOへ昇格し、長期構想「VISION 2030」を起点に半導体計測・産業機器・医用機器の3本柱を事業戦略の中心に据えた。半導体メーカーの3次元実装・EUV対応に合わせた検査・計測装置の供給を強化し、先端ロジック・先端メモリ向けの売上比率を引き上げる方針が打ち出された。2022年10月にJEOL RESONANCEを吸収合併し、NMR事業を本体に統合した[67]。
業績の急回復と円安効果
FY21(2022年3月期)以降、日本電子の業績は劇的に好転した。売上高はFY21の1,384億円からFY24の1,967億円へと約42%増、営業利益はFY21の141億円からFY24の355億円へと約2.5倍に拡大した。半導体微細化(3nm・2nm・1.4nm世代)に伴う電子顕微鏡需要の急拡大と、半導体検査用走査型電子顕微鏡・電子線描画装置の供給増、加えて2022年以降の急速な円安局面で、円建て海外売上の円換算額が増加した。理科学・計測機器事業(電子顕微鏡含む)の売上はFY14の692億円からFY24時点で増加し、産業機器事業も電子線描画装置・半導体パッケージ検査用CT等で売上を伸ばした。医用機器事業は事業ポートフォリオ再編で売上規模を抑える方向に転じた。
2025年1月、ジャパンスーパーコンダクタテクノロジー株式会社の全株式を取得し、超伝導磁石技術を取得した[68]。NMR(核磁気共鳴装置)の高磁場化に必要な超伝導磁石の内製化で、研究設備の競争力を引き上げる戦略的買収であった。同月、フランスにJEOL HOLDING EUROPE SASを設立し、欧州事業の持株会社化を行った[69]。1960年代以降数十年にわたって拡張した欧州販社網を、ガバナンス上の持株会社の下に統合する組織再編である。
電子顕微鏡(透過型・走査型)の世界シェアは日立ハイテクサーモフィッシャーサイエンティフィック・ツァイスと並ぶ寡占構造のなかで上位を維持しており、半導体微細化に伴うナノ計測需要の拡大を取り込んで売上を継続増加させている。質量分析計(MS)・NMR(核磁気共鳴装置)・電子線描画装置・半導体検査用CT等、製品ポートフォリオは多軸にわたり、研究機関向け・産業向け・医療向けの3軸事業構成を維持している。創業から76年を経た同社は、電子顕微鏡国産化という戦後の技術的悲願から始まり、産業機器・分析機器・医用機器の多軸化を経て、半導体先端計測装置の事業集中で先端半導体エコシステムの装置メーカーへ転じた[70]。栗原権右衛門会長(FY18以降)と大井泉社長CEOの会長・社長分担体制で、技術主導の経営と中長期投資の継続を両立させる経営フェーズに入っている[71]。