日露戦争後の1907年2月、日清紡績株式会社が東京の亀戸に誕生した。設立年月日は1907年2月5日、資本金1,000万円(払込250万円)で、初代会長には平沼専蔵氏が就任している。綿糸の輸入代替が国策とされた明治後期の紡績勃興期にあって、同社は会社設立後ただちに第一期紡機59,028錘を建設し、翌41年6月に操業を開始した。43年3月には京都の帝国製絲(13,000錘)を買収して拡大策をとったが、続く反動期には関東地方の大洪水で本社工場が被害を受け、創業まもない同社は早くも苦境に立たされた。
苦境を脱する転機となったのが、1914年8月に専務として迎え入れた宮島清次郎氏である。宮島氏は大正4年に高岡紡績(10,000錘)、大正8年には岡崎紡績(16,000錘)を買収し、同年に青島工場(20,000錘)・名古屋工場(110,000錘)を新設、大正10年には六工場・紡機23万錘・織機1,215台を擁する一大紡績メーカーへ育てた。大正8年9月に社長へ昇格した宮島氏は、昭和8年2月に人造糸へ進出するため日清レイヨンを創設して糸から綿布加工までの一貫体制を構築している。もっとも昭和10年以降の戦時体制のもとで保有機の供出や外地への設備移駐を命ぜられて設備が激減し、太平洋戦争の敗戦により同社は設備の約80%を喪失、終戦時には紡機17万9,000錘にまで減少した。宮島社長は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て昭和20年12月に桜田武氏へ引き継がれた。
終戦後の日清紡績は戦前の保有設備の回復に努め、1955年までに紡織関係工場10・綿紡機53万8,000錘・織機6,752台へと復興拡大した。さらに繊維部門にとどまらず化成品・工作・製紙・印刷といった非繊維部門にも進出し、経営の多角化を推し進めている。1958年6月の徳島工場(現・徳島事業所)新設、1961年10月の東京証券取引所市場第一部への指定、1966年1月の藤枝工場(現・藤枝事業所)新設と、生産拠点の拡張を続け、1972年12月にはブラジルにNISSHINBO DO BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立して海外生産拠点の確保にも着手した。1973年10月の第一次石油危機を境に、原油高と韓国・台湾勢の台頭で日本繊維業界が構造的な競争力低下に直面すると、日清紡績は繊維以外の領域を拡げた。1981年11月に館林化成工場(現・館林事業所)を新設して化成品事業を本格化、1986年4月に美合工機工場、1987年1月に浜北精機工場を新設して精密機器事業を始めるなど、"紡績"を社名に冠しながらも化成品・精密機器・自動車関連へ業域を分散させる構造変化が1980年代後半までに進んだ。
1989年1月のKOHBUNSHI(THAILAND)LTD.(タイ、後にNISSHINBO MECHATRONICS(THAILAND)LTD.へ改称)設立から、海外子会社の連続設立が始まった。1992年7月に千葉工場(現・旭事業所)を新設、1993年4月に本社を東京都中央区日本橋人形町二丁目に移転、同年7月には浦東高分子(上海)有限公司を中国に設立した。1996年6月にはNISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO., LTD.をタイに設立、1997年3月にはNISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を米国に設立、1998年4月にはPT.GISTEX NISSHINBO INDONESIA(後にPT.NISSHINBO INDONESIA)をインドネシアに設立、1999年3月にはSAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONを韓国に設立した。
自動車部品への進出は平坦な道ではなかった。1967年夏の業界誌の座談では、部品メーカーは品質と値段でしか勝負できず、自動車メーカーからの年二度の値引き要求に応じ続けてきたがもう限界で、開発費や試験費の負担も価格に認められない——常務の幕内が示した現状認識である。生き残る条件は技術革新と、それを支える資本力に尽きるという見立てである。紡績の収益で部品事業を支えた同社の選択は、この認識と重なる。1990年代後半に集中した海外子会社設立は、自動車ブレーキ事業のグローバル供給網構築を主目的とした投資である。紡績の技術蓄積が摩擦材製造に転用されるという技術系譜が、日清紡績を綿紡績会社から自動車部品メーカーへと業態変化させる土台となった。
2000年12月にはコンチネンタル・テーベス株式会社を設立し、ドイツの自動車部品大手コンチネンタル社との合弁でブレーキ事業の競争力強化を狙った。2000年12月にはPT.NIKAWA TEXTILE INDUSTRY(インドネシア)の株式追加取得も実施し、繊維事業の海外生産拠点も並行して整備した。1990年代から2000年代初頭にかけての日清紡績は、繊維・自動車ブレーキ・化成品・精密機器という4本柱で構成される複合事業会社へと変貌を遂げた。創業から1世紀近くを経た同社にとって、綿紡績の専業企業から複合企業へという構造変化は、繊維不況への対応策として進めた多角化が逐次的に蓄積された結果だった。
大正8年9月に社長へ昇格した宮島清次郎氏は、機械設備の近代化と糸から綿布加工までの一貫体制づくりで日清紡績の事業基盤を確立した。宮島氏は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て昭和20年12月に桜田武氏へ受け継がれている。概略書"企業の歴史 : 明治百年"は、戦後の日清紡績が『徹底した自由主義経済理念による経営と経営の合理化』を最大の特色とし、その合理主義経営が宮島清次郎・桜田武・露口達の各社長によって推し進められてきたと記している。斜陽の紡績業界にあって同社は異色の高収益と堅実性を保ち、昭和39年10月期以降は配当14%を継続して、業績不安から減配したことはなかった。この時期の日清紡績は、綿紡績の収益で足場を固めながら、財界に重きをなす経営者を輩出し、紡績会社の枠を超えた地位を維持していた。
桜田氏の系譜を継いだ露口達氏が社長を担った時期、日清紡績は繊維にとどまらない多角化を一段と進めた。1966年末には東邦レーヨンの再建に着手し、自社常務であった真船清蔵氏を同社社長に送り込んでいる。創立60周年の時点で、戦後9回の増資を経て資本金は40億円、年間売上高は約480億円・利益約15億円、13工場に従業員約1万名を擁し、紡績会社から出発しながら合理的な多角経営会社へと業容を広げていた。露口氏は1975年に『首切りなどしてなくても済むように、いつも不況を頭に入れた経営をやってきました』と語っており、好不況を通じて堅実を貫く経営方針が高度成長期にも維持されたことがうかがえる。1973年の石油危機以降に繊維業界全体が構造不況へ陥るなかで、日清紡績は紡績以外に収益源を求める必要に迫られ、1980年代以降に化成品・精密機器・自動車関連へ業域を拡張した。
1980年代半ばに社長を担った望月朗宏氏、1990年代に社長を務めた指田禎一氏、2000年代に社長を務めた岩下俊士氏が順次経営を承継するなかで、日清紡績の事業ポートフォリオは組み替えられた。1981年の館林化成工場、1986年の美合工機工場、1987年の浜北精機工場と、1980年代に立て続けに新設された工場群は、いずれも繊維以外の事業領域に属する生産拠点である。同社の多角化は、繊維事業の縮小と非繊維事業の拡張を逐次的に積み重ねる形で進められたが、その意思決定の背後には戦後の歴代経営者が共有していた"複合化への必要性"という認識があった。1907年の創業から100年を迎える前後の時期に、日清紡績は綿紡績の枠を超える複合企業へと変貌するための基盤を整えた。
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事実根拠:出所(日清紡ホールディングス)