日清紡HD の歴史

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沿革 1907〜2026年

1907年〜渋沢栄一系列の紡績会社から複合事業会社への助走

  1. 日清紡績を設立
  2. 重要岡崎紡績を買収し青島・名古屋工場を新設、紡績設備を大幅に拡張
  3. 東亜実業を設立
  4. 東京証券取引所に上場
  5. 徳島工場を新設
  6. 東京証券取引所市場第一部に指定
  7. 藤枝工場を新設
  8. NISSHINBO DO BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立
  9. 館林化成工場を新設
  10. 美合工機工場を新設
  11. 浜北精機工場を新設
  12. KOHBUNSHI(THAILAND)LTD.を設立
  13. 千葉工場を新設
  14. 浦東高分子(上海)有限公司を設立
  15. NISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO.,LTD.を設立
  16. NISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を設立
  17. SAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONを設立

2000年〜インドネシア繊維と摩擦材コンチネンタル・テーベス、新日本無線の子会社化

  1. インドネシアPT.NIKAWA TEXTILE INDUSTRYを子会社化
  2. コンチネンタル・テーベスを設立
  3. SAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONが韓国取引所に上場
  4. 重要公開買付により新日本無線を子会社化

2009年〜日清紡HDへの移行と日本無線・TMD FRICTIONの買収、紙製品事業の譲渡

  1. 持株会社制に移行し日清紡HDに商号変更
  2. 公開買付により日本無線を子会社化
  3. 重要ルクセンブルクTMD FRICTION GROUP S.A.の全株式を取得
  4. 南部化成の全株式を取得
  5. 日清紡ペーパー プロダクツ等の紙製品事業を譲渡

2018年〜リコー電子デバイス取得と日清紡マイクロデバイス、TMD譲渡と日立国際電気の買収

  1. リコー電子デバイスの株式を取得
  2. 新日本無線がリコー電子デバイスを吸収合併し日清紡マイクロデバイスに商号変更
  3. NISSHINBO COMPREHENSIVE PRECISION MACHINING (GURGAON) PRIVATE LTD.を設立
  4. ルクセンブルクTMD FRICTION GROUPの全株式を譲渡
  5. HVJHDの全株式を取得し日立国際電気を子会社化
  6. 石井靖二氏が社長に就任
  7. 成形品事業の投資ファンドへの譲渡を決議
  8. 四国化成ホールディングス株の一部を売却
紡績から無線・電子へ
1907年 1919年 2005年 2009年2010年 2022年2023年 2026年 日清紡績 1907年設立 岡崎紡績 1919年買収 新日本無線 2005年TOBで子会社化 日清紡HD 2009年持株会社制へ 日本無線 2010年TOBで子会社化 日清紡マイクロデバイス 2022年リコー電子と合併 日立国際電気 2023年子会社化
創業 1907年
創業者 福澤桃介
創業地 東京都中央区
創業 1907年2月5日、東京の亀戸に資本金1,000万円で日清紡績が設立され、初代会
1907年2月5日、東京の亀戸に資本金1,000万円で日清紡績が設立され、初代会長には平沼専蔵氏が就任した。設立後ただちに紡機59,028錘を建設して翌年6月に操業を開始したが、反動期の不況と関東地方の大洪水で本社工場が被害を受ける。1914年8月に専務として迎えた宮島清次郎氏が高岡紡績と岡崎紡績を買収し、青島と名古屋に工場を新設して、1921年には六工場・紡機23万錘・織機1,215台を擁するに至った。1933年2月には人造糸へ進むため日清レイヨンを設け、糸から綿布加工までを一社で持った。戦時の設備供出と外地への移駐により、終戦時の紡機は17万9,000錘まで減っている。
決断 主軸を約30年ごとに入れ替え、売る相手の産業ごと移してきた。綿紡績の収益で自動車
主軸を約30年ごとに入れ替え、売る相手の産業ごと移してきた。綿紡績の収益で自動車ブレーキの摩擦材を育て、1981年に化成品、1986年に精密機器の工場を新設している。2005年12月に公開買付で新日本無線を連結子会社化し、これを機に持株会社化の検討へ入って、2009年4月に日清紡ホールディングスへ商号を変更して5社を新設分割で切り出した。2010年12月には日本無線を子会社化する。2011年9月には欧州ブレーキ摩擦材大手TMD Frictionの全株式を取得したが、TMDはブレーキ事業を2012年3月期の営業利益42億円から翌期の43億円の損失へ転じさせ、2023年11月に全株式を譲渡した。
現況 セグメント利益率が最も高いのは、無線でも半導体でもなく不動産である。2025年1
セグメント利益率が最も高いのは、無線でも半導体でもなく不動産である。2025年12月期の連結売上高5,023億円・営業利益264億円のうち、無線・通信が売上2,518億円・利益176億円で最大となった。売上179億円の不動産はセグメント利益126億円で、利益率は7割に達する。一方でマイクロデバイスは売上624億円に対し55億円の損失を計上し、化学品でも41億円の減損損失を計上した。社名に残る繊維は売上333億円・利益0.9億円にとどまる。2023年12月に子会社とした日立国際電気が加わって以降、官公需向けの無線が連結営業利益の3分の2を占めている。
競合 相手が自動車メーカーだった時期と、官公庁である現在で、価格の決め方が違う。同じ紡
相手が自動車メーカーだった時期と、官公庁である現在で、価格の決め方が違う。同じ紡績から出た東レが1975年に脱繊維を否定して繊維に残ったのに対し、日清紡は繊維を連結売上の6.6%まで小さくし、2017年4月には紙製品事業を大王製紙へ譲渡している。値引きを年二度求められる顧客から入札と年度予算で発注する顧客へ売り先が移り、連結営業利益率は2023年12月期の2.3%から2025年12月期の5.3%へ上がった。
長期業績の推移 1949〜2026年
日清紡ホールディングス:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
1970年3月期〜2025年12月期

第1章 1907年〜 渋沢栄一系列の紡績会社から複合事業会社への助走

1907年〜平沼専蔵会長の創業と宮島清次郎による基礎固め

日露戦争後の1907年2月、日清紡績株式会社が東京の亀戸に誕生した。設立年月日は1907年2月5日、資本金1,000万円(払込250万円)で、初代会長には平沼専蔵氏が就任している。綿糸の輸入代替が国策とされた明治後期の紡績勃興期にあって、同社は会社設立後ただちに第一期紡機59,028錘を建設し、翌41年6月に操業を開始した。43年3月には京都の帝国製絲(13,000錘)を買収して拡大策をとったが、続く反動期には関東地方の大洪水で本社工場が被害を受け、創業まもない同社は早くも苦境に立たされた。

  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]日露戦争後の明治40年(1907年)2月、設立年月日1907年2月5日に日清紡績株式会社が設立された
    • [3]設立時の資本金は1,000万円・払込250万円だった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]日清紡績は東京の亀戸に誕生した(概略書記載。沿革は1993年4月の人形町二丁目移転のみ記載で創業地は未記載)
    • [4]初代会長に平沼専蔵が就任した
    • [5]会社設立後に第一期紡機59,028錘を建設し1908年(明治41年)6月に操業を開始した
    • [6]明治43年(1910年)3月に京都の帝国製絲(13,000錘)を買収した
    • [7]反動期に関東地方の大洪水で本社工場が被害を受けた(原典は「戦後の反動期」とのみ記す)

苦境を脱する転機となったのが、1914年8月に専務として迎え入れた宮島清次郎氏である。宮島氏は大正4年に高岡紡績(10,000錘)、大正8年には岡崎紡績(16,000錘)を買収し、同年に青島工場(20,000錘)・名古屋工場(110,000錘)を新設、大正10年には六工場・紡機23万錘・織機1,215台を擁する一大紡績メーカーへ育てた。大正8年9月に社長へ昇格した宮島氏は、昭和8年2月に人造糸へ進出するため日清レイヨンを創設して糸から綿布加工までの一貫体制を構築している。もっとも昭和10年以降の戦時体制のもとで保有機の供出や外地への設備移駐を命ぜられて設備が激減し、太平洋戦争の敗戦により同社は設備の約80%を喪失、終戦時には紡機17万9,000錘にまで減少した。宮島社長は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て昭和20年12月に桜田武氏へ引き継がれた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [8]大正3年(1914年)8月に宮島清次郎が専務として迎え入れられ、大正8年9月に社長へ昇格した
    • [9]大正4年に高岡紡績、大正8年に岡崎紡績を買収し、青島工場・名古屋工場を新設した
    • [10]大正10年には六工場・紡機23万錘・織機1,215台を擁する一大紡績メーカーへ成長した
    • [11]昭和8年2月に人造糸へ進出するため日清レイヨンを創設し、糸から綿布加工までの一貫体制を築いた
    • [12]太平洋戦争の敗戦により設備の約80%を喪失し、終戦時には紡機17万9,000錘に減少した
    • [13]昭和15年12月に宮島社長が会長となり社長に鷲尾勇平が就任、昭和20年12月に桜田武が社長となった

終戦後の日清紡績は戦前の保有設備の回復に努め、1955年までに紡織関係工場10・綿紡機53万8,000錘・織機6,752台へと復興拡大した。さらに繊維部門にとどまらず化成品・工作・製紙・印刷といった非繊維部門にも進出し、経営の多角化を推し進めている。1958年6月の徳島工場(現・徳島事業所)新設、1961年10月の東京証券取引所市場第一部への指定、1966年1月の藤枝工場(現・藤枝事業所)新設と、生産拠点の拡張を続け、1972年12月にはブラジルにNISSHINBO DO BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立して海外生産拠点の確保にも着手した。1973年10月の第一次石油危機を境に、原油高と韓国・台湾勢の台頭で日本繊維業界が構造的な競争力低下に直面すると、日清紡績は繊維以外の領域を拡げた。1981年11月に館林化成工場(現・館林事業所)を新設して化成品事業を本格化、1986年4月に美合工機工場、1987年1月に浜北精機工場を新設して精密機器事業を始めるなど、"紡績"を社名に冠しながらも化成品・精密機器・自動車関連へ業域を分散させる構造変化が1980年代後半までに進んだ。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [14]昭和30年(1955年)までに紡織関係工場10・綿紡機53万8,000錘・織機6,752台へ復興拡大した
    • [15]繊維部門以外に化成品・工作・製紙・印刷など非繊維部門へ進出し経営の多角化を推進した
  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [16]1958年6月に徳島工場・1961年10月に東証一部指定・1966年1月に藤枝工場を新設・指定した
    • [17]1972年12月にブラジルにNISSHINBO DO BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立した
    • [18]1981年11月に館林化成工場(現・館林事業所)を新設し化成品事業を本格化した
    • [19]1986年4月に美合工機工場・1987年1月に浜北精機工場を新設し精密機器事業を始めた
参考文献[1]-[19]
  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [1]日露戦争後の明治40年(1907年)2月、設立年月日1907年2月5日に日清紡績株式会社が設立された
    • [3]設立時の資本金は1,000万円・払込250万円だった
    • [16]1958年6月に徳島工場・1961年10月に東証一部指定・1966年1月に藤枝工場を新設・指定した
    • [17]1972年12月にブラジルにNISSHINBO DO BRASIL INDUSTRIA TEXTIL LTDA.を設立した
    • [18]1981年11月に館林化成工場(現・館林事業所)を新設し化成品事業を本格化した
    • [19]1986年4月に美合工機工場・1987年1月に浜北精機工場を新設し精密機器事業を始めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [2]日清紡績は東京の亀戸に誕生した(概略書記載。沿革は1993年4月の人形町二丁目移転のみ記載で創業地は未記載)
    • [4]初代会長に平沼専蔵が就任した
    • [5]会社設立後に第一期紡機59,028錘を建設し1908年(明治41年)6月に操業を開始した
    • [6]明治43年(1910年)3月に京都の帝国製絲(13,000錘)を買収した
    • [7]反動期に関東地方の大洪水で本社工場が被害を受けた(原典は「戦後の反動期」とのみ記す)
    • [8]大正3年(1914年)8月に宮島清次郎が専務として迎え入れられ、大正8年9月に社長へ昇格した
    • [9]大正4年に高岡紡績、大正8年に岡崎紡績を買収し、青島工場・名古屋工場を新設した
    • [10]大正10年には六工場・紡機23万錘・織機1,215台を擁する一大紡績メーカーへ成長した
    • [11]昭和8年2月に人造糸へ進出するため日清レイヨンを創設し、糸から綿布加工までの一貫体制を築いた
    • [12]太平洋戦争の敗戦により設備の約80%を喪失し、終戦時には紡機17万9,000錘に減少した
    • [13]昭和15年12月に宮島社長が会長となり社長に鷲尾勇平が就任、昭和20年12月に桜田武が社長となった
    • [14]昭和30年(1955年)までに紡織関係工場10・綿紡機53万8,000錘・織機6,752台へ復興拡大した
    • [15]繊維部門以外に化成品・工作・製紙・印刷など非繊維部門へ進出し経営の多角化を推進した

1989年〜自動車ブレーキ事業の海外展開と新日本無線・日本無線への布石

1989年1月のKOHBUNSHI(THAILAND)LTD.(タイ、後にNISSHINBO MECHATRONICS(THAILAND)LTD.へ改称)設立から、海外子会社の連続設立が始まった。1992年7月に千葉工場(現・旭事業所)を新設、1993年4月に本社を東京都中央区日本橋人形町二丁目に移転、同年7月には浦東高分子(上海)有限公司を中国に設立した。1996年6月にはNISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO., LTD.をタイに設立、1997年3月にはNISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を米国に設立、1998年4月にはPT.GISTEX NISSHINBO INDONESIA(後にPT.NISSHINBO INDONESIA)をインドネシアに設立、1999年3月にはSAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONを韓国に設立した。

  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [20]1989年1月にタイにKOHBUNSHI(THAILAND)LTD.(後にNISSHINBO MECHATRONICS(THAILAND)LTD.へ改称)を設立した
    • [21]1992年7月に千葉工場(現・旭事業所)を新設した
    • [22]1993年4月に本社を東京都中央区日本橋人形町二丁目に移転した
    • [23]1993年7月に中国に浦東高分子(上海)有限公司を設立した
    • [24]1996年6月にタイにNISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO., LTD.を設立した
    • [25]1997年3月に米国にNISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を設立した
    • [26]1998年4月にインドネシアにPT.GISTEX NISSHINBO INDONESIA(後にPT.NISSHINBO INDONESIA)を設立した
    • [27]1999年3月に韓国にSAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONを設立した

自動車部品への進出は平坦な道ではなかった。1967年夏の業界誌の座談では、部品メーカーは品質と値段でしか勝負できず、自動車メーカーからの年二度の値引き要求に応じ続けてきたがもう限界で、開発費や試験費の負担も価格に認められない——常務の幕内が示した現状認識である。生き残る条件は技術革新と、それを支える資本力に尽きるという見立てである。紡績の収益で部品事業を支えた同社の選択は、この認識と重なる。1990年代後半に集中した海外子会社設立は、自動車ブレーキ事業のグローバル供給網構築を主目的とした投資である。紡績の技術蓄積が摩擦材製造に転用されるという技術系譜が、日清紡績を綿紡績会社から自動車部品メーカーへと業態変化させる土台となった。

  • 月刊経済 1967年8月号
    • [28]1967年8月時点で日清紡常務の幕内は、部品メーカーは品質と値段でしか勝負できず、自動車メーカーから年2回の値引きを要求されて応じてきたが限界に来ており、開発費や試験費の負担も価格に認められないと述べた
    • [29]同じ場で幕内は、部品メーカーが生き残る条件は技術革新と、技術を支える資本力の問題だと述べた

2000年12月にはコンチネンタル・テーベス株式会社を設立し、ドイツの自動車部品大手コンチネンタル社との合弁でブレーキ事業の競争力強化を狙った。2000年12月にはPT.NIKAWA TEXTILE INDUSTRY(インドネシア)の株式追加取得も実施し、繊維事業の海外生産拠点も並行して整備した。1990年代から2000年代初頭にかけての日清紡績は、繊維・自動車ブレーキ・化成品・精密機器という4本柱で構成される複合事業会社へと変貌を遂げた。創業から1世紀近くを経た同社にとって、綿紡績の専業企業から複合企業へという構造変化は、繊維不況への対応策として進めた多角化が逐次的に蓄積された結果だった。

  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [30]2000年12月にコンチネンタル・テーベス株式会社を設立した
    • [31]2000年12月にPT.NIKAWA TEXTILE INDUSTRY(インドネシア)の株式を追加取得した
参考文献[20]-[31]
  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [20]1989年1月にタイにKOHBUNSHI(THAILAND)LTD.(後にNISSHINBO MECHATRONICS(THAILAND)LTD.へ改称)を設立した
    • [21]1992年7月に千葉工場(現・旭事業所)を新設した
    • [22]1993年4月に本社を東京都中央区日本橋人形町二丁目に移転した
    • [23]1993年7月に中国に浦東高分子(上海)有限公司を設立した
    • [24]1996年6月にタイにNISSHINBO SOMBOON AUTOMOTIVE CO., LTD.を設立した
    • [25]1997年3月に米国にNISSHINBO AUTOMOTIVE MANUFACTURING INC.を設立した
    • [26]1998年4月にインドネシアにPT.GISTEX NISSHINBO INDONESIA(後にPT.NISSHINBO INDONESIA)を設立した
    • [27]1999年3月に韓国にSAERON AUTOMOTIVE CORPORATIONを設立した
    • [30]2000年12月にコンチネンタル・テーベス株式会社を設立した
    • [31]2000年12月にPT.NIKAWA TEXTILE INDUSTRY(インドネシア)の株式を追加取得した
  • 月刊経済 1967年8月号
    • [28]1967年8月時点で日清紡常務の幕内は、部品メーカーは品質と値段でしか勝負できず、自動車メーカーから年2回の値引きを要求されて応じてきたが限界に来ており、開発費や試験費の負担も価格に認められないと述べた
    • [29]同じ場で幕内は、部品メーカーが生き残る条件は技術革新と、技術を支える資本力の問題だと述べた

1990年〜戦後経営者の系譜と多角化の意思決定

大正8年9月に社長へ昇格した宮島清次郎氏は、機械設備の近代化と糸から綿布加工までの一貫体制づくりで日清紡績の事業基盤を確立した。宮島氏は昭和15年12月に会長へ退き、社長は鷲尾勇平氏を経て昭和20年12月に桜田武氏へ受け継がれている。概略書"企業の歴史 : 明治百年"は、戦後の日清紡績が『徹底した自由主義経済理念による経営と経営の合理化』を最大の特色とし、その合理主義経営が宮島清次郎・桜田武・露口達の各社長によって推し進められてきたと記している。斜陽の紡績業界にあって同社は異色の高収益と堅実性を保ち、昭和39年10月期以降は配当14%を継続して、業績不安から減配したことはなかった。この時期の日清紡績は、綿紡績の収益で足場を固めながら、財界に重きをなす経営者を輩出し、紡績会社の枠を超えた地位を維持していた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [32]宮島清次郎は大正8年9月に社長へ昇格し、昭和15年12月に会長へ退いて社長は鷲尾勇平を経て昭和20年12月に桜田武へ受け継がれた
    • [33]概略書は日清紡の合理主義経営が宮島清次郎・桜田武・露口達の各社長によって推進されたと記している
    • [34]昭和39年10月期以降は配当14%を継続し業績不安から減配したことはなかった

桜田氏の系譜を継いだ露口達氏が社長を担った時期、日清紡績は繊維にとどまらない多角化を一段と進めた。1966年末には東邦レーヨンの再建に着手し、自社常務であった真船清蔵氏を同社社長に送り込んでいる。創立60周年の時点で、戦後9回の増資を経て資本金は40億円、年間売上高は約480億円・利益約15億円、13工場に従業員約1万名を擁し、紡績会社から出発しながら合理的な多角経営会社へと業容を広げていた。露口氏は1975年に『首切りなどしてなくても済むように、いつも不況を頭に入れた経営をやってきました』と語っており、好不況を通じて堅実を貫く経営方針が高度成長期にも維持されたことがうかがえる。1973年の石油危機以降に繊維業界全体が構造不況へ陥るなかで、日清紡績は紡績以外に収益源を求める必要に迫られ、1980年代以降に化成品・精密機器・自動車関連へ業域を拡張した。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [35]露口達が社長を担い、その時期に多角化が進んだ(概略書は宮島・桜田・露口の社長系譜を記載、09引用は露口達『日清紡・当時会長』として登場)
    • [36]昭和41年(1966年)末に東邦レーヨンの再建へ着手し、自社常務の真船清蔵を同社社長に送り込んだ
    • [37]創立60周年時点で資本金40億円、年間売上高約480億円・利益約15億円、13工場・従業員約1万名を擁した(戦後9回の増資)
  • 日経ビジネス(1975年11月/露口達氏(日清紡・当時会長))
    • [38]露口達は1975年の日経ビジネスで不況を念頭に置いた堅実経営を語った

1980年代半ばに社長を担った望月朗宏氏、1990年代に社長を務めた指田禎一氏、2000年代に社長を務めた岩下俊士氏が順次経営を承継するなかで、日清紡績の事業ポートフォリオは組み替えられた。1981年の館林化成工場、1986年の美合工機工場、1987年の浜北精機工場と、1980年代に立て続けに新設された工場群は、いずれも繊維以外の事業領域に属する生産拠点である。同社の多角化は、繊維事業の縮小と非繊維事業の拡張を逐次的に積み重ねる形で進められたが、その意思決定の背後には戦後の歴代経営者が共有していた"複合化への必要性"という認識があった。1907年の創業から100年を迎える前後の時期に、日清紡績は綿紡績の枠を超える複合企業へと変貌するための基盤を整えた。

  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [39]1981年館林化成・1986年美合工機・1987年浜北精機の各工場を新設した
参考文献[32]-[39]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [32]宮島清次郎は大正8年9月に社長へ昇格し、昭和15年12月に会長へ退いて社長は鷲尾勇平を経て昭和20年12月に桜田武へ受け継がれた
    • [33]概略書は日清紡の合理主義経営が宮島清次郎・桜田武・露口達の各社長によって推進されたと記している
    • [34]昭和39年10月期以降は配当14%を継続し業績不安から減配したことはなかった
    • [35]露口達が社長を担い、その時期に多角化が進んだ(概略書は宮島・桜田・露口の社長系譜を記載、09引用は露口達『日清紡・当時会長』として登場)
    • [36]昭和41年(1966年)末に東邦レーヨンの再建へ着手し、自社常務の真船清蔵を同社社長に送り込んだ
    • [37]創立60周年時点で資本金40億円、年間売上高約480億円・利益約15億円、13工場・従業員約1万名を擁した(戦後9回の増資)
  • 日経ビジネス(1975年11月/露口達氏(日清紡・当時会長))
    • [38]露口達は1975年の日経ビジネスで不況を念頭に置いた堅実経営を語った
  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
    • [39]1981年館林化成・1986年美合工機・1987年浜北精機の各工場を新設した

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出典・参考 4件
出典・参考
  • 日清紡ホールディングス 有価証券報告書 第183期(2025年12月期)【沿革】
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 月刊経済 1967年8月号
  • 日経ビジネス(1975年11月/露口達氏(日清紡・当時会長))

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