東武鉄道などを展開する根津財閥は、工業化の波に乗るために明治時代を通じて複数の製造業に参入。紡績業に新規参入するために日清紡績を設立した。

東武鉄道などを展開する根津財閥は、工業化の波に乗るために明治時代を通じて複数の製造業に参入。紡績業に新規参入するために日清紡績を設立した。
東京に亀戸工場を開設し、根津財閥として紡績業に参入。ところが不景気により日清紡の業績は悪化した。このため「瀕死の日清紡績」と呼ばれるなど、創業期は厳しい状況であった
経営再建のために、元東京紡績出身の宮島清次郎(みやじま・せいじろう)氏が日清紡の専務として入社。会社再建12条の考えに従って、工場内の組織改革を実施。その後、第一次世界大戦の勃発による特需もあり、日清紡の経営再建に寄与。1919年から1940年までの約21年にわたって社長を歴任し、戦前の日清紡の業績拡大を担った。
戦後の公職追放もあり、桜田氏は当時41歳での社長抜擢。1945年〜1964年までは社長、1964年〜1970年までは会長、1970年〜1984年までは顧問をつとめ、日清紡の実質的な経営トップを約40年にわたって歴任した。
ブレーキ事業に参入
ブレーキ事業に参入
日清紡はブレーキ部品(ライニング・ブレーキシュー)の製造を行なっていたが、自動車市場の発展を受けて最終製品であるブレーキ機器への進出を決定。最新鋭のディスクブレーキに参入するために、デーベス社と技術提携を締結した。設備面では1968年に美合工場のブレーキ設備を名古屋工場に移設し、20〜30億円の設備投資で生産設備を刷新。その上で、自動車メーカーからのコストダウン要請に対応できる事業展開を目指した。ブレーキ機器への参入に先立って、日清紡は顧客として「ホンダ、日野自動車・プリンス自動車(日産自動車)」の3社に納入する契約を取り付けた。
1973年10月のオイルショックにより、FY1974〜FY1977にかけて同業他社の繊維企業が赤字に転落する中、日清紡は最終黒字を確保。固定費を増やさない経営に徹した成果が現れ、業界内で相対的に高収益な繊維会社として注目を集めた。
自動車向けブレーキ部材の量産のために、群馬県に館林工場を新設。館林工場でライニングなどの部材を生産し、名古屋工場で最終製品であるブレーキ機器を製造する分業体制を整えた。従来の関東地区では東京工場(西新井)でブレーキの生産を行っていたが、生産効率を高めるために館林工場に設備を移管した。1981年に第一工場(1期工事)、1984年に第一工場(2期工事)、1990年に第二工場、1994年に第3工場をそれぞれ館林工場内に新設し、ブレーキの主力生産拠点として活用した。
ABSに対応したブレーキの製造拠点として、浜北精機工場を新設
自動車向けブレーキ事業への設備投資(館林第3工場の新設)のために転換社債の発行を決定。年間の営業キャッシュフロー140億円に対して、日清紡の年間投資予定額(ブレーキ事業への投資・繊維事業の合理化)が160億円を予定したため、不足分を社債発行で充当する狙いがあった
1980年代の館林工場の新増設により日清紡はブレーキ事業の売上高を拡大。1991年にはブレーキ事業の売上高が約320億円を記録した
日清紡は「繊維・自動車ブレーキ」に次ぐ主力事業を展開するために、エレクトロニクス業界の新日本無線の買収を決定した。ただし、当時、新日本無線の株価が保有資産に比べて割安だったため、村上ファンドと日清紡HDの2社が、新日本無線のTOBに名乗りを上げた。最終的に日清紡は、新日本無線の株式53%を175億円で取得に成功して議決権を確保した。
名古屋市内の名古屋工場を閉鎖し、ブレーキ製造を2005年に新設した豊田工場に移転。工場の耐震性や周辺宅地化の影響を加味し、旧名古屋工場の閉鎖を決定
日清紡(鵜澤静社長)は、ドイツのブレーキ摩耗材メーカーの買収を決定。株式100%を約400億円で取得し、日清紡としては大型投資となった。TMD社の取り込みで、欧州向けの自動車メーカーの製造拠点および販路確保を目論む
大王製紙に売却
FY2018とFY2019の2期連続で最終赤字に転落。FY2018は当期純損失71億円、FY2019は同66億円。FY2019は買収したドイツTMD社の「自動車用ブレーキ用摩耗材製造資産」について140億円の減損損失を計上したことが主要因。投資有価証券の売却による特別利益34億円を計上して損失の一部をカバー。