1974年〜 客先常駐モデルの確立と創業者解任までの23年
- 1974年 名古屋技術センターを設立
- 1979年 日本機械設計(ジエクス)設立
- 1984年 社名をメイテックに変更
- 1987年 名古屋証券取引所市場第二部に上場
- 1987年 メイスタッフ設立
- 1988年 名古屋テクノセンター開設
- 1995年 ジエクスとメイスタッフが合併
倒産経験者が「技術開発しない開発はあり得ない」と立てた受託業
1974年7月、関口房朗氏は資本金100万円で名古屋市に株式会社名古屋技術センターを個人創業した。創業者の関口氏は前経営の配電盤メーカー大同機工で技術開発に失敗して倒産させた経歴を持ち、再起の場として技術者派遣ではなく一般産業機械の設計受託業を選んだ。創業時点の事業構想は「企業から設計案件を請け負い、外注ベースで返す」という名古屋圏の地場受託業の体裁を取っており、客先に技術者を常駐させるという後年の主力モデルはまだ表に出ていなかった。倒産で学んだ「技術開発しない開発はあり得ない」という認識が、技術者集団に経営資源を集中する出発点となった。 [1][2]
- メイテックグループホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1974年7月 名古屋市に株式会社名古屋技術センターを資本金100万円で設立(個人創業)
- [2]創業者は関口房朗氏
転機は1977年12月に三菱重工業が航空機プロジェクトを発足したタイミングで訪れた。航空機開発は機密性が高く、外注では情報漏洩のリスクが残るため、発注側は社内に外部技術者を引き入れにくい構造を抱えていた。関口氏は技術者を客先に常駐させる派遣形態を提案し、社外秘の枠内で人だけを送り込む形を実現した。三菱重工との取引が成立した1977年は、名古屋技術センターが受託業から技術者派遣業へ業態を切り替えた転機であり、ここから日本の製造業大手が同社の固定顧客として連なっていく構造の原型が組み上がった。 [3][4]
- メイテックグループホールディングス 公式IRサイト 沿革ページ
- [3]1977年12月 三菱重工業との航空機プロジェクト取引開始(受託業から技術者派遣業への転機)
- [4]客先常駐型の技術者派遣形態を提案し、社外秘の枠内で人だけを送り込む取引を成立させた(後年の主力モデルの原型)
1979年12月には子会社の日本機械設計(後のジエクス)を設立し、技術的に難度の低い設計を切り出した。1980年4月に関西管理本部、1982年3月に関東管理本部を相次いで設置し、名古屋発祥の企業として珍しく全国3拠点体制を5年で組んだ。1982年11月に社員数1000名を突破し、1984年12月に社名を株式会社メイテックへ変更、1987年3月には名古屋証券取引所市場第2部に上場した。創業から13年で全国展開・上場・1000名超の体制まで成長した背景には、家電と自動車の新製品開発で技術者不足に陥った日本製造業の構造的需要があった。 [5][6][7][8][9][10]
- メイテックグループホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [5]1979年12月 子会社 日本機械設計株式会社(後の株式会社ジエクス)設立
- [6]1980年4月 関西管理本部設置
- [7]1982年3月 関東管理本部設置
- [9]1984年12月 社名を株式会社メイテックへ変更
- [10]1987年3月 名古屋証券取引所市場第2部に上場
- メイテックグループホールディングス 公式IRサイト 沿革ページ
- [8]1982年11月 社員数1000名突破
- メイテックグループホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [1]1974年7月 名古屋市に株式会社名古屋技術センターを資本金100万円で設立(個人創業)
- [2]創業者は関口房朗氏
- [5]1979年12月 子会社 日本機械設計株式会社(後の株式会社ジエクス)設立
- [6]1980年4月 関西管理本部設置
- [7]1982年3月 関東管理本部設置
- [9]1984年12月 社名を株式会社メイテックへ変更
- [10]1987年3月 名古屋証券取引所市場第2部に上場
- メイテックグループホールディングス 公式IRサイト 沿革ページ
- [3]1977年12月 三菱重工業との航空機プロジェクト取引開始(受託業から技術者派遣業への転機)
- [4]客先常駐型の技術者派遣形態を提案し、社外秘の枠内で人だけを送り込む取引を成立させた(後年の主力モデルの原型)
- [8]1982年11月 社員数1000名突破
バブル崩壊で正社員1/2を削減した派遣業の構造的脆弱性
1991年2月、メイテックは東京証券取引所市場第2部に上場し、同年3月には社員数5000名を突破した。1992年4月に神戸テクノセンター、1993年3月に厚木テクノセンターを開設し、関西・関東圏の研修拠点を整えた。社員用ディスコを名古屋市栄に開設するなど、若手技術者の採用広報と定着策に資金を投じた時期で、社員離職率は5%前後の低水準で推移したと当時の経営陣は説明している。バブル景気下で大手製造業の研究開発投資が拡大し、設計・解析・実験の現場で外部技術者の需要が急増した結果、メイテックの客先常駐サービスは派遣単価と稼動率の両面で上昇局面に入った。 [11][12][13][14][15]
- メイテックグループホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [11]1991年2月 東京証券取引所市場第2部に上場
- [13]1992年4月 神戸テクノセンター開設
- [14]1993年3月 厚木テクノセンター開設
- メイテックグループホールディングス 公式IRサイト 沿革ページ
- [12]1991年3月 社員数5000名突破
- 有価証券報告書
- [15]バブル崩壊期の社員離職率は5%前後と当時の経営陣が説明
しかしバブル崩壊後の1993年、状況は一変した。顧客の製造業は研究開発費を含めた費用削減に舵を切り、メイテックの技術者は契約を打ち切られた。同年、同社は最終赤字に転落し、正社員の約半数にあたる約3000名の削減に踏み切った。社員数5000名超の体制から数千人を切り離す規模の人員調整は、設備産業ではなく人を商品とする派遣業にとって事業の脆さを露呈する事態であり、顧客企業の研究開発投資が落ちれば固定費がそのまま赤字に化ける構造が浮かんだ。よって派遣業の損益構造は、製造業の景気サイクルに対して非対称な感応度を持つことが数字で確認された。 [16]
- メイテックグループホールディングス 公式IRサイト 沿革ページ
- [16]1993年 最終赤字転落、正社員約半数にあたる約3000名を削減
1996年、景気回復を見据えて理工系大卒の大量採用を再開し、年間2000人規模の新卒採用に踏み切った。1993年の3000名削減と1996年からの2000人規模の連続採用は、3年間で社員数を急減・急増させる極端な人員調整で、契約打ち切りと再採用を3年サイクルで繰り返す派遣業の現実を映した。日本企業の終身雇用慣行が崩れ始める時期、メイテックは正社員雇用と派遣業を組み合わせた中間的な雇用形態として社内外へ説明し直す必要に直面した。だが景気変動に合わせて社員数を半減・倍増させる人員調整が、創業者の判断する範囲で繰り返された事実は、その後のクーデターの伏線でもあった。 [17]
- メイテックグループホールディングス 公式IRサイト 沿革ページ
- [17]1996年 理工系大卒の大量採用を再開、年間2000人規模
- メイテックグループホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [11]1991年2月 東京証券取引所市場第2部に上場
- [13]1992年4月 神戸テクノセンター開設
- [14]1993年3月 厚木テクノセンター開設
- メイテックグループホールディングス 公式IRサイト 沿革ページ
- [12]1991年3月 社員数5000名突破
- [16]1993年 最終赤字転落、正社員約半数にあたる約3000名を削減
- [17]1996年 理工系大卒の大量採用を再開、年間2000人規模
- 有価証券報告書
- [15]バブル崩壊期の社員離職率は5%前後と当時の経営陣が説明
取締役会クーデターで終わった創業者・関口房朗氏の23年体制
1997年7月31日、メイテック取締役会で関口社長解任の緊急動議が提出され、当事者として議決権を持たない関口氏を除く取締役全員が賛成した。後任の代表取締役社長には元専務の大槻三男氏が就任し、創業から23年続いた関口社長体制は終わった。創業者がオーナー支配を残したまま代表取締役の地位を失う事例は当時の日本企業では珍しく、1993年の約3000名の人員削減を契機として、経営判断への取締役会の異議が組織化されていた可能性を示唆する。取締役会内で何が議論されたかの公式記録は限定的だが、緊急動議という形式そのものが、合議による段階的な解任ではなく一回の決議で決着させる必要があったことを物語った。 [18]
- 有価証券報告書
- [18]1997年7月31日 取締役会で関口社長解任の緊急動議、関口氏を除く取締役全員が賛成・解任
関口氏は社長解任は無効として名古屋地裁に提訴したが、1999年に裁判所は取締役会決議を有効と認め、請求を棄却した。1999年、後任社長には関口社長時代に社長室出身だった西本甲介氏が就任した。1996年から1999年までの3年間、社長解任の動議、訴訟、後任就任を経て、メイテックの経営体制は創業者中心から取締役会中心へ移行した。新体制で西本社長は「不況期にもリストラをしない会社」を経営方針として掲げ、1993年の3000名削減の経験を経営トラウマとして社内で共有し直す姿勢を採った。 [19][20]
- 有価証券報告書
- [19]1999年 名古屋地裁が取締役会決議を有効と認め、関口氏の解任無効請求を棄却
- [20]1999年 後任社長に西本甲介氏(関口社長時代に社長室出身)が就任
経営権が創業者から専門経営者へ移ったメイテックは、2000年に新Vision21と銘打った3カ年の中期経営計画を策定し、製造業向け派遣事業のフルラインナップ化を目指した。客先常駐に加えて、設計受託・技術研修・人材紹介を組み合わせた多面的なサービス体系を整えるという構想で、創業以来の客先常駐単独モデルから抜け出す方向だった。1974年の創業から1996年のクーデターまでの23年間で、メイテックは客先常駐型技術者派遣という日本独自のビジネスモデルを完成させた一方で、景気サイクルと連動する人員調整の脆さも併せて社内に積み残した。 [21]
- メイテックグループホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [21]1974年の創業から1996年のクーデターまで23年間(客先常駐型技術者派遣モデルの完成期)
- 有価証券報告書
- [18]1997年7月31日 取締役会で関口社長解任の緊急動議、関口氏を除く取締役全員が賛成・解任
- [19]1999年 名古屋地裁が取締役会決議を有効と認め、関口氏の解任無効請求を棄却
- [20]1999年 後任社長に西本甲介氏(関口社長時代に社長室出身)が就任
- メイテックグループホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [21]1974年の創業から1996年のクーデターまで23年間(客先常駐型技術者派遣モデルの完成期)