荏原製作所の歴史
沿革
1912年に畠山一清氏が渦巻ポンプの学理を製品にするため開いたゐのくち式機械事務所が起源。
1987年に半導体向け真空機器へ参入し、1992年にはCMP装置を手がけた。ポンプの大型機で国内シェア4割を占めた流体機械の大手で、現在は精密・電子事業が利益のほぼ半分を生む。
1905年〜井口在屋氏の渦巻ポンプ理論と荏原製作所の設立
- 井口在屋氏が渦巻ポンプ理論を発表
- ゐのくち式機械事務所を創業[3]
- 日暮里に初めての工場を設置[4]
- 東京市下水道浅草田町ポンプ場向けに大型渦巻ポンプを受注[4]
- 荏原製作所を設立[3]
- 「荏」を遠心ポンプの羽根車で囲ったコーポレートマークを制定[4]
- ブロワ・ファンの製造を開始[4]
- 日本初の軸流ポンプを完成[4]
- 東京市淀橋浄水場で水道向けポンプの国産化を実現[4]
- 国産初のターボ冷凍機を完成[4]
- 国産初の水道用急速ろ過装置を完成[4]
- 羽田工場を新設し本社・工場を移転[3]
- 川崎工場を新設[3]
筆者所見
荏原の国内首位は、理論の先進性を価格の競争力に置き換えたところから始まった。関東大震災後の淀橋浄水場での能力試験で、荏原はスイスのズルツァー製品と同等の性能を3分の1の価格で示した[1]。昭和初期には国内のポンプ市場の6割強を押さえた[2]。井口在屋氏の学理は、輸入品の代替を官公庁に納得させる根拠として働いたことになる。水道と軍需という公的な需要先への傾斜は、戦後まで続く官需依存の起点にもなった。
- [1]オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [2]経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「荏原製作所」(1968年)
1945年〜戦災後の上場と荏原インフィルコによる水処理事業への進出
- 戦災により羽田工場から川崎工場へ生産移管[3]
- 東京証券取引所一部・大阪証券取引所一部に上場[3]
- 生産の主力を羽田工場に復帰[3]
- 荏原インフィルコを設立[3]
- 新潟証券取引所に上場[3]
- 廃棄物処理プラント事業に参入[4]
- 吸収式冷凍機の1号機を受注[4]
- 戦後初の海外事務所をタイ・開設[3]
- 製品のアフターサービスを目的に荏原サービスを設立[3]
- 藤沢工場を新設[3]
- キャリア社設計の密閉式軽量小型冷凍機を発売[2]
- 遠心ガス圧縮機・蒸気タービンで米国エリオット社と技術提携[4]
- 札幌証券取引所に上場[3]
- 6事業部制を採用[6]
- 原子炉用循環ポンプ分野に参入[4]
筆者所見
戦後の荏原の事業拡大は、畠山一清氏が外国技術の導入に引いた線の内側で行われた。畠山氏は提携先を、自社より格段に優れた技術か日本で未開拓の分野に限った[1]。水処理装置で米インフィルコ社と提携し、1956年に折半出資で荏原インフィルコを設立したのも、この基準による[5]。提携を絞ったことで、自前の技術と外部の導入が均衡し、水処理は祖業のポンプに次ぐ事業として育った。この合弁は、のちに荏原が環境事業へ傾斜する際の足場になった。
- [1]オール大衆 1970年「≪シリーズ・現代の成功者≫熱と誠とポンプと 畠山一清」
- [5]ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「荏原製作所」
1975年〜海外生産拠点の設立と半導体向け真空機器への参入
- 初の海外生産拠点を設立[3]
- 袖ヶ浦工場を新設[3]
- PT. Ebara Indonesiaを設立[3]
- Ebara International Corporationを設立[3]
- 現在のCIマークを策定[4]
- 精密・電子事業に参入[4]
- 吸収式(乾式)排ガス処理装置の販売を開始[4]
- 藤沢工場で真空ポンプ生産[3]
- 藤村宏幸氏が社長に就任[7]
- Ebara Italiaを設立[3]
- 環境事業本部を新設[8]
- 米国に精密・電子事業の拠点Ebara Technologiesを設立[4]
- 青島荏原環境設備有限公司を設立[3]
- ドイツにEbara Precision Machinery Europeを設立[4]
- 荏原インフィルコを吸収合併[3]
- 前田滋氏が社長に就任[9]
- 台湾に精密・電子事業の拠点台湾荏原精密を設立[4]
筆者所見
藤村宏幸氏が主導した脱ポンプの多角化は、市場分析より先に、工場閉鎖の経験に根ざしていた。1983年に川崎工場長として閉鎖に直面した藤村宏幸氏は、従業員1400人を他工場や子会社へ移し、希望退職を避けた[7]。新たな成長事業の創出を経営者の責任とする考えは、この経験に由来する[7]。半導体向け真空機器や環境事業への傾斜は、成熟したポンプだけでは雇用を維持できないという危機感の表れだった。拡大路線の負担は、のちに環境プラントの巨額損失として顕在化する。
- [7]日経ビジネス 2000年1月24日号「有訓無訓 赤字事業を解消するにはコツがある 藤村宏幸[荏原会長]」
1999年〜最終赤字285億円と入札談合事件による経営体制の刷新
- 中国に精密・電子事業の拠点上海荏原精密機械を設立[4]
- Elliott Companyを完全子会社化[3]
- 汎用風水力機械の営業部門を統合した荏原テクノサーブが営業開始[3]
- 依田正稔氏が社長に就任[12]
- CMP装置等の生産拠点荏原九州が操業を開始[3]
- コンプレッサ・タービン事業を荏原エリオットとして分社化[3]
- 冷熱機械事業を荏原冷熱システムとして分社化[3]
- ACT'95でガス化溶融炉参入
- 中国にAPIポンプの生産販売拠点嘉利特荏原ポンプ業を設立[3]
- 島川文雄氏が社長に就任[13]
- 風水力機械・環境事業・精密・電子事業の3カンパニー制を導入[3]
- 中国に大型・高圧ポンプの生産販売拠点荏原博ポンプポンプ業を設立[3]
- 中国に標準ポンプの拠点荏原機械(中国)を発足[3]
- 公共工事入札談合事件[14]
- 矢後夏之助氏が社長に就任[15]
- 旧本社・羽田工場を閉鎖しヤマト運輸に売却
- 水処理事業を荏原エンジニアリングサービスへ統合[3]
- グループ内の廃棄物処理事業を荏原環境プラントへ統合[3]
- 羽田工場の機能を移した富津工場を新設[3]
- 三菱商事・日揮の資本参加[3]
- 荏原九州を吸収合併[3]
- 荏原テクノサーブなどポンプ関連の3社を吸収合併[3]
筆者所見
ガス化溶融炉の挫折と入札談合事件は、いずれも公共需要への依存という同じ根から生じた。規制対応を急ぐ顧客の大型案件を短工期で同時に抱え、次世代技術への移行も重なって原価が超過した[10]。公共投資の停滞は、売上に占める公共事業の比率が高い荏原の事業環境をさらに厳しくした[11]。官需の波に合わせて受注を積み上げる経営は、需要の急増期には採算を、縮小期には競争の規律を損ないやすい。2010年の水事業の三社提携は、この依存から自前の請負を切り離す決断だった。
- [10]荏原製作所 Annual Report 2003「Message from the Management」
- [11]荏原製作所 Annual Report 2005「Message from the Management」
2013年〜水ingの株式譲渡と対面市場別5カンパニー制への移行
- 前田東一氏が社長に就任[16]
- 中東の販売・サービス拠点Ebara Pumps Middle EastをUAEに設立[3]
- 指名委員会等設置会社へ移行[3]
- 指名委員会等設置会社へ移行
- インドネシアの回転機械メンテナンス会社Turbindo Chikara Suryaを買収[3]
- ブラジルのポンプメーカThebe Bombas Hidráulicasを買収[3]
- 羽田工場跡地アスベスト訴訟損失引当金64億円を特別損失計上
- 熊本事業所に半導体製造装置の生産工場を増設[3]
- 浅見正男氏が社長に就任[16]
- Spiberへ出資、構造タンパク質素材の製造分野で業務提携[4]
- リージョナルフィッシュと資本業務提携[4]
- 長期ビジョン「E-Vision2030」を策定[19]
- メキシコにポンプの販売・サービス拠点Ebara Pumps Mexicoを設立[3]
- IFRSへ移行、営業利益613億円[16]
- トルコのポンプメーカVansan系のCigli Su Teknolojileriを買収[3]
- 東京証券取引所プライム市場へ移行[3]
- カナダ・米国の産業ポンプ・ミキサーメーカHayward Gordonを買収[3]
- E-Plan2025策定[3]
- 中国に地域統括会社荏原(中国)を設立[3]
- 売上収益8,667億円・営業利益980億円の過去最高[20]
- 細田修吾氏が社長に就任[21]
- 新半導体製造装置開発棟を竣工[22]
- 持分法適用の水ingを全株譲渡[23]
筆者所見
荏原の業績を押し上げたのは、2015年に成長戦略の中心とした買収より、精密・電子事業だった。買収は既存領域とその延長に限り、小規模な案件で海外の販路を得る方針だった[17]。精密・電子の受注残高は2020年12月期からの2年で465億円から2,308億円へ拡大した[18]。並列した事業を残したまま市場別の5カンパニー制へ再編したのは、半導体の伸びを全社の資本効率へ波及させる試みだった。半導体以外の事業が同水準の収益性を示せるかが、再編の真価を測る。
- [17]荏原製作所 統合報告書2015「社長メッセージ」
- [18]荏原製作所 Fact Book FY2022