戦前に日本一の貿易会社であった三井物産は、当時注目されつつあったパルプを原料とする「レイヨン」の開発研究を決断し、東レ(東洋レーヨン)を創業した。日本には蓄積されていない技術であったため、東レは外国人技術者を積極雇用することによって、レーヨンの実用化を目論む。なお、創業に三井物産が関与したことから、2020年の現在でも東レは本社を三井財閥の本拠地である東京日本橋に据えている。

戦前に日本一の貿易会社であった三井物産は、当時注目されつつあったパルプを原料とする「レイヨン」の開発研究を決断し、東レ(東洋レーヨン)を創業した。日本には蓄積されていない技術であったため、東レは外国人技術者を積極雇用することによって、レーヨンの実用化を目論む。なお、創業に三井物産が関与したことから、2020年の現在でも東レは本社を三井財閥の本拠地である東京日本橋に据えている。
レーヨンの国産化を実現するために、滋賀県の大津に大規模工場を新設した。
レーヨンの増産を図るために、滋賀県の瀬田に大規模工場を新設した。
合成繊維の研究では米国の化学メーカーデュポンが世界の最先端を走っていた。そこで、東レ(田代茂樹・社長)は天然繊維「絹」の代替として期待されたナイロンに着目し、デュポンからナイロンの技術導入を決めた。なお、技術提携の金額は10.8億円に対して東レの資本金は7.5億円であり、この提携に失敗すれば東レの企業存続が危うくなることが予想された。
デュポンから導入したナイロンを量産するために、名古屋工場を新設。ナイロンの原料であるカプロラクラムの生産を開始した。
東レは合成繊維への進出の第二弾として、ポリエステルに関する技術導入を決断。東レと帝人の2社が契約を締結し、天然繊維メーカーを潰しにかかる。
ICIから導入したポリエステルを量産するために、三島工場を新設した。東レの工場は滋賀県、愛媛県、愛知県といった西日本・中部地方を中心に配置されていたが、首都圏に近い三島に工場を新設することで首都圏市場への物流コストの低減も目論む。
合成繊維市場にいち早く参入し、ナイロンとポリエステルという2大市場を掌握した東レが競争で優位に立つ。この結果、1960年3月期(半期)には売上高純利益率11.0%を達成し、合成繊維事業は収穫期を迎えた。
1960年代前半の東レは売上高純利益率10%前後で推移する高収益企業であったが、1965年3月期(半期)で売上高純利益率2.5%に低迷した。天然繊維メーカーが相次いで合成繊維に参入したことで東レの優位性が失われたことが理由であった。
1971年のニクソンショックにより円高ドル安が進行し、1973年のオイルショックにより日本経済が不況に陥ると、合成繊維の輸出企業であった東レの収益も悪化。1975年3月期(半期)に45億円の経常赤字に転落し、超優良企業の苦戦として悪い意味で注目を浴びた。
脱繊維を本格化させるために、東レは「夢の抗がん剤」と言われたインターフェロンの開発研究に参入した。当初は注目を浴びたものの、この薬が東レの業績を支える存在にはならなかった。
高機能材料としての繊維製品を開発するために、炭素繊維の研究開発に注力。この結果、1992年に東レは米国最大の旅客機メーカーであるボーイングに炭素繊維部材の納入に成功する。以後、東レにとってボーイングは大口顧客となり、炭素繊維の開発を強化する。
東レは炭素繊維のさらなる拡大のために、ボーイングの次世代旅客機B787向けに独占供給契約を締結した。ボーイングとしては東レの炭素繊維によって機体重量を削減することで航空機の燃費を削減できるメリットがあった。
新型コロナウイルスによって世界各地の旅客機需要が激減したことに加え、B737MAXの相次ぐ墜落事故によって巨額損失を免れなくなったことで、東レの大口取引先であるボーイングが経営危機に陥る。このため、東レの株価は、2月20日時点の700円から、3月19日には一時400円へと暴落した。