東レ の歴史

更新:

1926年、三井物産の出資により滋賀県大津市に設立。デュポンとのナイロン提携、テトロン、赤字40年を耐えた炭素繊維トレカ、ヒートテックの共同開発までの沿革と経緯を執筆。

創業

1926年

母体

三井物産の出資

創業地

滋賀県大津市

直近売上高(2026/3)

25,851億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1926年に三井物産はレーヨン子会社を「東洋」と冠して設立したのか
A 1926年1月、第一次大戦期に膨らんだ余剰資本の投資先を探していた三井物産が、人造絹糸レーヨンの需要拡大を見込んで子会社の東洋レーヨンを資本金1,000万円で設立した。社名を『東洋』と冠したのは、人絹生産がなお危うい新規事業であり、失敗しても三井家へ累を及ぼさないためだった。前田勝之助は後年、東レは今でいうベンチャービジネスだったと振り返っている。国内20か所超で水質を調べ、製造に最も適う琵琶湖水系の大津へ拠点を定めた、慎重な賭けだった
Q なぜ1951年のデュポン提携で特許だけを買い、技術は自前で立ち上げたのか
A 事業構造を決めたのは、1951年6月に米デュポンと結んだナイロン技術提携の契約内容である。資本金7.5億円を上回る前払い金10.8億円を投じながら、得たのは特許実施権が中心で、名古屋工場の立ち上げは現場の試行錯誤に委ねられた。1952年の社内記事はアミラン繊維の成否が会社の浮沈を左右すると危機感を記す。特許だけを買い技術は自前で立ち上げるこの経験が自前技術志向を根づかせ、業界が脱繊維へ流れた後も繊維に残って40年赤字の炭素繊維を育てた。
Q なぜ2024年に大矢光雄社長は政策保有株を売り、自己株取得へ充てたのか
A 2024年に大矢光雄社長が政策保有株売却へ動いたのは、PBR1倍割れの常態化が、規模維持を優先して資本効率を押し下げてきた経営への株主の評価だったからである。事業別にROICを算定して低採算事業を可視化し、2024年度に政策保有株1,098億円を売却して代金を上限1,000億円の自己株取得へ充てた。あわせて戦略的プライシングで買い手有利のまま陥没していた価格を是正した。稼いだ資本を株主へ返すか低採算事業から引き揚げるかという規律を全社へ課した。

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1926年〜 三井物産の投資から始まる東洋レーヨンの設立と合成繊維メーカーへの転身

水質が立地を決めた技術文化の原点

レーヨン(人造絹糸)が日本に商品として初めて輸入[1]されたのは1905年で、以後、天然の生糸を補う新素材として国内の需要が増え、輸入量も伸び続けた。この市場の広がりを背景に、三井物産はみずからレーヨン製造会社を興す計画を立て[2]、ビスコース法によるレーヨン糸工場を滋賀県の琵琶湖畔に建てることを決めた。1926年1月に東京日本橋の三井物産社内で開かれた創立総会では、創立に尽力した安川雄之助氏が議長に推された[3]。東洋レーヨンはこの三井物産の事業計画から生まれた会社であり、世界の最高水準をめざすレーヨン糸工場を一から興すことを出発点に据えた(企業の歴史:明治百年 1968)。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]人造絹糸(レーヨン)が日本に商品として初めて輸入されたのは1905年(明治38年)
    • [2]三井物産がレーヨン製造会社の創設計画を立て、滋賀県琵琶湖畔にビスコース法によるレーヨン糸工場を建設することにした(沿革1927年8月「滋賀県石山に滋賀工場を設立しレーヨン糸の生産を開始」とも整合)
    • [3]1926年1月(1926年1月)の創立総会で、創立に尽力した安川雄之助氏が議長に推された

1926年1月、東洋レーヨンは三井物産の子会社として資本金1,000万円[4]で設立された。第一次世界大戦期に蓄積された三井物産の利益の投資先として化学繊維事業を選び、天然繊維を補う新素材として需要が見込まれた。工場用地の選定では国内20か所以上で水質調査を実施し、琵琶湖水系の水質が製造工程に最も適合するとの判断から、滋賀県大津を生産拠点に定めた。社名を『東洋』としたのは、前田勝之助の回想によれば「『東洋』の名を頭につけることになったのは、大正末期の創業期には人絹生産がかなりリスクのある事業と思われ、失敗した場合に三井家に迷惑をかけることを予想して、あらかじめそれを避けようとしたからだ。つまり東レは今でいうベンチャービジネスだったんですよ」(日経ビジネス 1984/8/6)というものだった。のちに築く技術重視の経営文化の原点が、創業期に形作られた。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1926年1月12日 三井物産㈱の出資により資本金10,000千円(1,000万円)で東洋レーヨン㈱を設立

1927年8月には滋賀工場で最初のレーヨン糸を紡出し[5]、翌1928年から紡糸機40台を用いた本格的な量産に入った。1931年にはレーヨン分野で国内有数のシェアに到達し、1938年には瀬田工場を新設して生産能力を拡げ[6]、1941年には国内3社を合併して[7]生産基盤を全国規模へ広げた。レーヨンは当時の天然繊維の代替素材として安定した需要を持ち、世界恐慌や戦時統制という厳しい経済環境下でも一定の販路を維持できた。東レの創業期における収益基盤だっただけでなく、のちの合成繊維参入や多角化へ向けた利益剰余金の蓄積源にもなり、経営資源として長期にわたり重要な位置を占めた。1962年には『レーヨン撤退戦でも東洋レーヨンが独走』と評されるまでに、レーヨン分野での業界地位を築き上げていた。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [5]1927年8月 滋賀工場(滋賀県石山)でビスコース法によるレーヨン糸の生産を開始
    • [6]1938年2月 瀬田工場を新設(レーヨンステープルの紡織一貫工場として完成)
    • [7]1941年7月 戦時下の企業統合で東洋絹織㈱・庄内川レーヨン㈱・㈱庄内川染工所の3社を吸収合併(有報沿革の記載)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
    • [1]人造絹糸(レーヨン)が日本に商品として初めて輸入されたのは1905年(明治38年)
    • [2]三井物産がレーヨン製造会社の創設計画を立て、滋賀県琵琶湖畔にビスコース法によるレーヨン糸工場を建設することにした(沿革1927年8月「滋賀県石山に滋賀工場を設立しレーヨン糸の生産を開始」とも整合)
    • [3]1926年1月(1926年1月)の創立総会で、創立に尽力した安川雄之助氏が議長に推された
  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]1926年1月12日 三井物産㈱の出資により資本金10,000千円(1,000万円)で東洋レーヨン㈱を設立
    • [5]1927年8月 滋賀工場(滋賀県石山)でビスコース法によるレーヨン糸の生産を開始
    • [6]1938年2月 瀬田工場を新設(レーヨンステープルの紡織一貫工場として完成)
    • [7]1941年7月 戦時下の企業統合で東洋絹織㈱・庄内川レーヨン㈱・㈱庄内川染工所の3社を吸収合併(有報沿革の記載)

特許だけを買ったゆえに育った自前技術の源流

1951年6月、自社は米国デュポン社とナイロンの技術提携契約を締結[8]した。ロイヤルティ前払い金として300万ドル、当時の為替レートで10.8億円という規模の資金を支払う決断であり、当時の資本金7.5億円を上回る規模の投資だった。契約は特許実施権の取得を中心に品質向上とコスト引き下げに向けた技術援助も含んでいたが[9]、量産の技術そのものは自力で立ち上げる部分が大きく、実際の生産立ち上げには試行錯誤と現場エンジニアの工夫を要した。翌1952年の社内向け記事ではアミラン繊維[10]の成否が会社の浮沈を左右するという率直な危機感が語られ、技術援助を得てもなお技術を自力で立ち上げるという原型が、ナイロン国産化期に刻まれた(産業と産業人 1952/1)。この困難な経験が東レで独自に技術を確立する経営方針として根付き、のちに技術蓄積の源泉となり、炭素繊維で40年にわたる忍耐強い技術投資を支える組織文化の原点となった。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1951年6月 米国DuPont社とナイロンの技術提携契約を締結
  • 産業と産業人(1952年1月)
    • [9]当時の社内向け記事(産業と産業人 1952年1月)は「ナイロンの特許権を獲得すると共に、技術援助を受けて、品質の向上とコストの引き下げを計ることになった」と記述しており、本文はこれに合わせて技術援助を受けた旨を明記
    • [10]1952年の社内向け記事に「結局このアミラン繊維の成果如何が、当社の浮沈に影響するところも大きい」という危機感の記述があり、本文の引用内容と一致

1951年4月には名古屋工場でナイロン生産が本格稼働し[11]、レーヨンに次ぐ第二の事業の柱を築いた。1953年には国産ナイロン製品の店頭価格[12]がブラウス1枚あたり4,000円から2,000円へ半減し、純絹のクレープデシンと同価格帯にまで下がって市場普及期に入った(読売新聞 1953/6/2)。1957年には英国ICI社からポリエステル繊維の技術[13]を導入し、帝人との業界共同事業として『テトロン』の商標のもとで販売を開始する体制を整えた。[14]ナイロンとポリエステルという合成繊維の二つの柱を手に入れ、創業期のレーヨンメーカーから戦後日本を代表する合成繊維メーカーへ事業構造を転換し、高度経済成長期の衣料需要拡大の波に乗って事業を拡大した。1962年には基礎研究所を新設し[15]、研究開発を組織的に進める経営体制が整い、技術を長期にわたり育てる東レ独自の経営スタイルが制度として根付いた。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [11]1951年4月 ナイロン工業化のため名古屋工場を建設し、ナイロンの本格生産を開始
    • [13]有報沿革は1957年2月「英国ICI社とポリエステル繊維の技術提携契約を締結」と記載(timelineも「英国ICI社ポリエステルに関する技術提携契約」、decisions/polyester-ici-alliance-1957.yamlも「ポリエステル繊維」で統一)。本文はこれに合わせて「ポリエステル繊維の技術」と記載
    • [14]ポリエステル繊維「テトロン」の生産開始(1958年4月 三島工場完成・東レテトロンの生産開始)
    • [15]1962年9月 基礎研究活動促進のため基礎研究所(現基礎研究センター)を開設
  • 読売新聞(1953年6月2日)
    • [12]1953年に国産ナイロン製品の価格が前年の半値に下がったことは読売新聞の記事(「下着類など去年の半分のお値段に下がっている」)と整合
  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [8]1951年6月 米国DuPont社とナイロンの技術提携契約を締結
    • [11]1951年4月 ナイロン工業化のため名古屋工場を建設し、ナイロンの本格生産を開始
    • [13]有報沿革は1957年2月「英国ICI社とポリエステル繊維の技術提携契約を締結」と記載(timelineも「英国ICI社ポリエステルに関する技術提携契約」、decisions/polyester-ici-alliance-1957.yamlも「ポリエステル繊維」で統一)。本文はこれに合わせて「ポリエステル繊維の技術」と記載
    • [14]ポリエステル繊維「テトロン」の生産開始(1958年4月 三島工場完成・東レテトロンの生産開始)
    • [15]1962年9月 基礎研究活動促進のため基礎研究所(現基礎研究センター)を開設
  • 産業と産業人(1952年1月)
    • [9]当時の社内向け記事(産業と産業人 1952年1月)は「ナイロンの特許権を獲得すると共に、技術援助を受けて、品質の向上とコストの引き下げを計ることになった」と記述しており、本文はこれに合わせて技術援助を受けた旨を明記
    • [10]1952年の社内向け記事に「結局このアミラン繊維の成果如何が、当社の浮沈に影響するところも大きい」という危機感の記述があり、本文の引用内容と一致
  • 読売新聞(1953年6月2日)
    • [12]1953年に国産ナイロン製品の価格が前年の半値に下がったことは読売新聞の記事(「下着類など去年の半分のお値段に下がっている」)と整合

1970年〜 藤吉次英社長の「繊維に残る」宣言と炭素繊維40年の赤字を抱えた技術投資

業界が逃げた本業に、あえて残る決断の逆説

1970年代、日本の繊維産業は急激な円高進行とアジア新興国の台頭により、構造的な収益悪化に直面した。かつてトヨタや松下と並ぶ三井グループの優等生と評された東レも、1965年のダイヤモンド誌でかつての高度成長会社のイメージは消えたと書かれ、1975年には週刊東洋経済に『落ちた"三井の星"』と題する特集が組まれるまでに威信を落とした(ダイヤモンド 1965/9/6、週刊東洋経済 1975/7/19)。鐘紡は化粧品、帝人は医薬品、東洋紡はフィルムへと、大手繊維各社が相次いで非繊維分野へ本業を広げるなか、藤吉次英社長は1975年9月に『脱繊維』という業界潮流を否定し[16]、繊維は衣食住を支える必需素材であり、競争力の源泉は事業分野そのものではなく素材に対する技術の深さと組織的蓄積にあるという東レ独自の哲学を社内外に示した。

  • 日経ビジネス(1975年9月29日)
    • [16]1975年9月、藤吉次英社長は日経ビジネスの編集長インタビューで「脱繊維なんていう根性のやつは、繊維をやめた方がいい」と述べ「脱繊維」を明確に否定した(decisions/fiber-commitment-1975.yamlの記述と整合)

この宣言と並行して、繊維の研究開発過程で副次的に生まれた多様な技術を樹脂やフィルムといった関連分野へ派生させる方針を経営戦略に据えた。1970年には千葉にABS樹脂工場と土浦にPPフィルム[17]工場を、1971年には岐阜にポリエステルフィルム工場を新設し[18][19]、多角化は繊維技術の延長線上に位置づけて行った。1980年代にはフィルム分野で磁気テープ用途が拡大し、国内市場のおよそ半分を占める水準にまで成長した。繊維を捨てずに繊維から派生する技術を育てる手法は、他社の非関連多角化とは異なる独特の経営スタイルとして社内に根付き、のちの炭素繊維事業への長期投資を可能にする経営文化の底流として働いた。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1970年7月 千葉工場完成・ABS樹脂の生産を開始(timeline 1970/1「樹脂とフィルムに設備投資」とも整合)
    • [18]有報沿革ではPPフィルム(トレファン)の生産開始は土浦工場(1970年11月完成)。東海工場(1971年3月完成)はテレフタル酸・カプロラクタムの生産拠点であり、本文はこれに合わせて「土浦にPPフィルム工場」と記載
    • [19]有報沿革では岐阜工場(1971年7月完成)はポリエステルフィルムの生産。本文はこれに合わせて「1971年には岐阜にポリエステルフィルム工場」と記載
  • 日経ビジネス(1975年9月29日)
    • [16]1975年9月、藤吉次英社長は日経ビジネスの編集長インタビューで「脱繊維なんていう根性のやつは、繊維をやめた方がいい」と述べ「脱繊維」を明確に否定した(decisions/fiber-commitment-1975.yamlの記述と整合)
  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1970年7月 千葉工場完成・ABS樹脂の生産を開始(timeline 1970/1「樹脂とフィルムに設備投資」とも整合)
    • [18]有報沿革ではPPフィルム(トレファン)の生産開始は土浦工場(1970年11月完成)。東海工場(1971年3月完成)はテレフタル酸・カプロラクタムの生産拠点であり、本文はこれに合わせて「土浦にPPフィルム工場」と記載
    • [19]有報沿革では岐阜工場(1971年7月完成)はポリエステルフィルムの生産。本文はこれに合わせて「1971年には岐阜にポリエステルフィルム工場」と記載

40年の赤字の果てに獲得した航空機市場の地位

1971年8月、東レは炭素繊維『トレカ』の生産を開始[20]した。当初の用途は釣竿やゴルフシャフトといったスポーツ・レジャー分野に限定され、製造コストが高止まりしたまま需要の裾野も広がらず、事業単位としては赤字が長期にわたり続いた。しかし東レは事業撤退を選ばず、毎年の赤字を抱えながらも設備改良と品質安定化への投資を続ける経営判断を維持した。1982年にはボーイング社からB767の材料メーカーとして指定を受け、航空機向け構造材としての本格供給が始まった。長年の赤字による技術投資が初めて具体的な市場成果として結実する歴史的な転換点だった。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1971年8月 炭素繊維「トレカ」の生産を開始

1990年にはB777向け炭素繊維の納入が始まり、採用部位の拡大は、設計段階からの深い関与と品質管理の緻密な積み上げが高く評価された結果だった。2006年にはB787の主要構造材として全面採用が公式発表され、機体重量に占める複合材比率は約50%に達した。ボーイングとの長期独占供給契約を結び、約40年にわたり赤字を許容し続けた忍耐の技術投資が、航空機用炭素繊維の市場地位として実った。2012年の週刊東洋経済では、帝人が医薬品[21]、クラレが樹脂・化学品へ主力を移すなかで繊維事業への投資をやめなかった東レの選択が、斜陽事業の復活事例として取り上げられた。事業撤退を選ばず長期視点で技術を育てるという創業以来の東レの経営文化が、この成果の源泉となった。

  • 週刊東洋経済(2012年4月12日)
    • [21]週刊東洋経済2012年4月12日号に「斜陽事業が大復活/その中でも、東レは、繊維事業への投資をやめなかった」という記述があり、本文の要約と一致
  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [20]1971年8月 炭素繊維「トレカ」の生産を開始
  • 週刊東洋経済(2012年4月12日)
    • [21]週刊東洋経済2012年4月12日号に「斜陽事業が大復活/その中でも、東レは、繊維事業への投資をやめなかった」という記述があり、本文の要約と一致

「大企業病」と「急性肺炎」を告白した前田改革

1985年、東レは繊維部門の人員配置転換を進め、同年にインターフェロン-β製剤の製造承認を取得して医薬品分野へ進出した。1987年に社長へ就任した前田勝之助は、社内の機能不全を容赦ない言葉で振り返る。「40年代から60年代にかけて、大企業病にかかってしまった。これが糖尿病です。この20年間に、日本のGNPはおよそ20倍に膨らんだのですが、売上高で見ると、当社は3倍しか成長していません。さらに1985年前後、糖尿病に加えて急性肺炎を併発してしまった。新規事業、脱繊維とあれこれ取り組み、その結果何が残ったのかというと急性肺炎だったのです。本業の繊維部門は大赤字を出し、新卒の採用もゼロにしなければならない状態でした」(日経ビジネス 1991/9/9)。1991年に長期経営ビジョン『AP-G2000』を策定し、1993年に液晶用カラーフィルターの量産、1994年に中国での現地生産も始まり、事業領域を広げた。

前田は組織の硬直化にも診断を下した。2000年3月期に最終赤字へ転落し、2009年3月期・2010年3月期にも2期連続の最終赤字を計上し、繊維事業の収益力だけでは全社の業績安定性を担保できない弱さが露呈した。2002年には中期経営課題『NT21』を策定し、炭素繊維や環境素材といった成長分野への集中投資を加速した。繊維に残るという創業以来の方針を堅持しつつ、利益の源泉は伝統的な繊維事業から炭素繊維・電子材料・フィルムといった先端材料へ移行した。企業性格は繊維メーカーから先端材料メーカーへ内実の変容を遂げ、2014年以降の本格的な先端材料メーカーへの進化の前提条件となった。

2014年〜 先端材料メーカーへの進化とDプロによる資本効率経営への転換

東レの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2014年 米ゾルテックの買収による産業用炭素繊維への参入 技術自前主義を転換した初の大型買収は、風力発電向けの需要をどう読み違えたか
  2. 2018年 蘭テンカーテ・アドバンスト・コンポジットの買収による熱可塑性複合材料への参入 炭素繊維の世界首位が過去最大の1230億円を投じたのは、なぜ売上270億円の小さな会社だったのか
  3. 2020年 人員解雇
  4. 2023年 中期経営課題PJ「AP-2025」を開始

空から地上へ広げたが収益は追いつかない現実

2014年2月、東レは米国Zoltek Companiesの取得を完了し子会社化した(有価証券報告書ベースの取得支出は913億円。2013年9月の買収合意発表時点の取得額は1株16.75ドル・総額約580億円)。[22][23]風力発電翼向けのラージトウ炭素繊維を主力製品とする同社の取得により、航空機偏重だった従来の炭素繊維用途構成を産業用途へ拡張する経営陣の意図を示した節目だった。2018年7月にはオランダのTenCate Advanced Composites Holding[24]を約1,171億円で追加買収し、熱可塑性樹脂を用いた炭素繊維複合材料の製品群を取得した。2件のクロスボーダー買収により、炭素繊維関連ののれんは合計約900億円規模に積み上がった。事業構成は航空機から風力発電・自動車・産業機器へと用途の裾野が広がり、繊維から派生した炭素繊維事業は、航空機の次に産業用途で勝負をかける節目を迎えた。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]2014年2月 Zoltek Companies, Inc.(米国)を買収
    • [24]2018年7月 TenCate Advanced Composites Holding B.V.(オランダ法人・現Toray Advanced Composites Holding B.V.)を買収
  • 東レ 有価証券報告書(2014年3月期)
    • [23]decisions/zoltek-acquisition-2014.yamlによれば、2013年9月の買収合意発表時点の取得額は1株16.75ドル・総額約584百万ドル(約580億円)で、913億円は2014年2月の取得完了後に有価証券報告書(2014年3月期)が開示した「取得のための支出」。本文は「発表した」を「取得を完了し子会社化した」に改め、両方の数値を書き分けた

しかしZoltek社は風力発電向け需要が期待通りには拡大せず、産業用途における収益化の進捗は道半ばにとどまった。2020年代に入ると、炭素繊維事業全体として投下資本に見合う収益を安定的に生み出せるかという問いが経営の中心課題へと押し上がり、航空機以外の用途で収益拡大シナリオをどう実現するかが、中長期の最重要課題として意識された。買収による事業拡大という戦略的成長手段の実効性そのものが市場から厳しく問い直され、のれんの減損リスクが決算の背景で常に意識される経営環境が定着した。航空機依存からの脱却という当初の戦略目的と、産業用途の収益性という現実の事業課題の間で、東レの炭素繊維事業は微妙なバランスのうえに置かれた。

  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
    • [22]2014年2月 Zoltek Companies, Inc.(米国)を買収
    • [24]2018年7月 TenCate Advanced Composites Holding B.V.(オランダ法人・現Toray Advanced Composites Holding B.V.)を買収
  • 東レ 有価証券報告書(2014年3月期)
    • [23]decisions/zoltek-acquisition-2014.yamlによれば、2013年9月の買収合意発表時点の取得額は1株16.75ドル・総額約584百万ドル(約580億円)で、913億円は2014年2月の取得完了後に有価証券報告書(2014年3月期)が開示した「取得のための支出」。本文は「発表した」を「取得を完了し子会社化した」に改め、両方の数値を書き分けた

規模を守る経営から効率を問う経営への反転

2020年代に入ると、東レは売上規模の大きさに対して利益率が改善しないという構造的な経営課題に向き合った。事業別にROICを算定したところ、数量維持や設備稼働率を経営上優先した一部の既存事業が全社の資本効率を押し下げている実態が、初めて体系的に可視化された。PBR1倍割れという株主価値上の不名誉な状態が常態化するなか、低PBRの要因を成長性ではなく収益率そのものに求める分析を取締役会で共有した。東京証券取引所による資本コストを意識した経営の要請という外部圧力も2023年3月に重なり、資本効率という論点が経営陣の最優先課題として前面に出た。

2024年、東レは構造改革施策『Dプロ』を始めた。PPスパンボンド、欧米フィルム子会社、ポリエステル短繊維、Zoltek社など投下資本の規模が収益改善の余地が限られた事業群を対象に選び、事業ごとにROICが成立する条件を検証し、条件を満たさない事業は縮小・撤退に進む制度を組み込んだ。2024年には政策保有株式の順次売却も公表し、規模維持を暗黙の前提に据えてきた従来型の経営方針を変えた。『繊維に残る』という藤吉以来の理念を保ちながら、個別事業レベルでは徹底した資本効率の規律を課すという新しい経営哲学が、社内に浸透し始めた。

東レの沿革1926〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
三井物産による人絹事業への出資と、「三井」を冠さない東洋レーヨンの設立商社が初めての製造事業に踏み出すとき、本家の名を貸すか、外すか——大正末の人絹をめぐる設計 詳細を読む★★★
レーヨンで国内シェア確保
瀬田工場を新設
国内3社を合併
東京証券取引所に株式上場
米デュポンとのナイロン技術提携資本金の1.5倍を投じて特許を買った社運の決断は、いかにして自前技術の源流となったか 詳細を読む★★★
英ICIからのポリエステル繊維技術の導入と、帝国人造絹絲との共同導入独占を捨てて競合と組んだのはなぜか——ライセンス料も商標も分け合った技術提携 詳細を読む★★★
三島工場が竣工、ポリエステル繊維「テトロン」生産開始★★
ポリエステルフィルム「ルミラー」本格生産開始
PNC法でプロラクタムの生産開始
基礎研究所を新設
タイでの合弁2社の設立と、海外現地生産の開始大口輸出先が輸入代替へ動くとき、輸出で守るか現地で作るか——1963年の合繊進出第1号 詳細を読む★★★
商号を東レに変更
樹脂とフィルムに設備投資
炭素繊維「トレカ」の事業化と、黒字化まで約40年におよぶ赤字事業の継続買い手が釣り竿とゴルフシャフトしかない素材を、なぜ5人の社長が畳まずに引き継いだのか 詳細を読む★★★
石川工場を新設
藤吉次英社長による「脱繊維」の否定と繊維への残留脱繊維こそ合理とされた繊維不況期に、藤吉次英氏はなぜ繊維に留まると決めたのか 詳細を読む★★★
インターフェロン-β製剤の製造承認を取得
繊維部門の人員配置転換
前田勝之助前田勝之助氏が「大企業病」を自己診断した経営改革かつて「三井の星」と呼ばれた優等生は、自社の「大企業病」をどう名指し、風土をどう変えたか 詳細を読む★★★
前田勝之助B777向け炭素繊維を納入
前田勝之助長期経営ビジョンAP-G2000を策定
前田勝之助カラーフィルターの量産開始
前田勝之助現地生産開始
平井克彦長期経営ビジョンNew AP-G2000を策定
平井克彦最終赤字に転落★★
榊原定征中期経営課題NT21を策定
榊原定征蝶理を子会社化
榊原定征B787向け炭素繊維を納入★★
榊原定征ファーストリテイリングとの戦略的パートナーシップとヒートテックの共同開発繊維を斜陽とみた各社が非繊維へ移るなか、東レはなぜ繊維に残り、ユニクロと組んだのか 詳細を読む★★★
日覺昭廣2期連続の最終赤字に転落
日覺昭廣米ゾルテックの買収による産業用炭素繊維への参入技術自前主義を転換した初の大型買収は、風力発電向けの需要をどう読み違えたか 詳細を読む★★★
日覺昭廣蘭テンカーテ・アドバンスト・コンポジットの買収による熱可塑性複合材料への参入炭素繊維の世界首位が過去最大の1230億円を投じたのは、なぜ売上270億円の小さな会社だったのか 詳細を読む★★★
日覺昭廣人員解雇
大矢光雄中期経営課題PJ「AP-2025」を開始
大矢光雄構造改革「Dプロ」の開始★★
大矢光雄政策保有株式の順次売却を公表
出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 東レ 有価証券報告書 第144期(2025年3月期)【沿革】
  • 産業と産業人(1952年1月)
  • 読売新聞(1953年6月2日)
  • 日経ビジネス(1975年9月29日)
  • 週刊東洋経済(2012年4月12日)
  • 東レ 有価証券報告書(2014年3月期)

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