1918年〜 八幡製鐵所構内荷役から始まった「労務請負」の70年
- 1932年 八幡製鐵所運搬請負共済組合設立に協力
- 1949年 建設業を開始
- 1950年 通運事業に参入
- 1952年 貨物自動車運送事業・自動車運送取扱事業に参入
- 1954年 戦後日本企業初のユーゴスラビア向けプラント輸出を一貫作業で受注 製鐵所構内の労務請負業者は、海外プラント輸出の一貫受注によっていかに「機工」領域へ参入したか
- 1959年 社名を「山九運輸機工」へ改め機工・建設部門へ進出、東証二部・一部上場で資本市場からの調達手段を確保 発注者の構内に張り付く労務請負一本足の経営から、3代目はどう抜け出そうとしたか
- 1959年 機工・建設部門に参入
創業者の中村精七郎氏が買収した磯部組と「サンキュー」の社名由来
1918年10月、創業者の中村精七郎氏は福岡県門司で磯部組を買収し、山九運輸株式会社を設立した[1]。中村精七郎氏は平戸藩で勘定奉行を務めた中村弥八郎の七男[2]として平戸に生まれ、12歳で北海道に移り18歳で米国へ遊学し、日清・日露の両戦争で軍事輸送に従事した後、1905年に海運業の中村組を興した。[3]買収先の磯部組は八幡や徳山など九州と山陽地方を地盤に官営八幡製鐵所の構内荷役を請け負う会社で、[4]社名は地域名の頭文字「山」「九」に、ロンドン体験で身につけた英語の感謝表現「Thank You」を掛け合わせた。[5]創業時の事業内容は朝鮮半島・満州・山東省からの鉄鉱石や石炭の陸揚げ、無煙炭輸送、官営八幡製鐵所や徳山海軍・光海軍燃料廠などの構内作業で、創業時点から特定発注者の構内で労務を請け負う形態が確立していた。
- [1]1918年10月 中村精七郎が福岡県門司で磯部組を買収し山九運輸株式会社を設立
- [4]磯部組は八幡・徳山など九州・山陽を地盤に官営八幡製鐵所の構内荷役を請け負う会社
- [2]創業者は中村精七郎。平戸藩で勘定奉行を務めた中村弥八郎の七男として平戸に生まれた
- [3]中村精七郎は1905年に海運業の中村組を興した
- [5]社名「山九」は地域名「山陽」「九州」の頭文字に、創業者がロンドンで体験した英語の感謝表現「Thank You(サンキュー)」を掛け合わせたもの
社名に込められた「サンキュー」が示すように、創業期から発注者への感謝と帰属を経営理念の中心に据えた。八幡製鐵所は1901年に国営として操業を開始し、1934年に日本製鐵へ移管されるまで日本の鉄鋼生産の中核を担った官営工場で、[6]その構内荷役を担うこと自体が、製鐵所の操業拡大に連動して荷役量と作業員規模が決まる関係を意味した。1932年には八幡製鐵所運搬請負共済組合が設立され、山九は代表役員として下請業者統合に協力[7]する立場となった。すなわち1社の発注者の生産計画が、そのまま山九の業績と人員配置を規定する構造が、創業当初から70年近く続く労務請負業の出発点となった。
- [6]官営八幡製鐵所は1901年に操業開始、1934年に日本製鐵へ移管
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [7]1932年 八幡製鐵所運搬請負共済組合が設立され、山九は代表役員として下請業者統合に協力
- [1]1918年10月 中村精七郎が福岡県門司で磯部組を買収し山九運輸株式会社を設立
- [4]磯部組は八幡・徳山など九州・山陽を地盤に官営八幡製鐵所の構内荷役を請け負う会社
- [2]創業者は中村精七郎。平戸藩で勘定奉行を務めた中村弥八郎の七男として平戸に生まれた
- [3]中村精七郎は1905年に海運業の中村組を興した
- [6]官営八幡製鐵所は1901年に操業開始、1934年に日本製鐵へ移管
- [5]社名「山九」は地域名「山陽」「九州」の頭文字に、創業者がロンドンで体験した英語の感謝表現「Thank You(サンキュー)」を掛け合わせたもの
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [7]1932年 八幡製鐵所運搬請負共済組合が設立され、山九は代表役員として下請業者統合に協力
戦中の519名戦死と戦後復興、ユーゴスラビアへのプラント輸出
1942年、創業者の中村精七郎氏から2代目の中村勇一氏に社長を譲ったが、[8]太平洋戦争下の南方派遣部隊598名のうち519名が戦死するという甚大な人的損失を被った。[9]1948年に創業者の中村精七郎氏が77歳で逝去し、同年から戦後初の陸上トラック輸送に進出[10]した。戦後復興期には新たな事業展開が続き、1949年に建設業、1950年に通運事業、1952年に貨物自動車運送と自動車運送取扱事業、1960年に倉庫業を相次いで開始した。[11]創業以来の構内荷役を本業に据えながら、戦後復興の需要に呼応して周辺領域へ事業を広げる手法を身につけた。
- [8]1942年 創業者中村精七郎から2代目中村勇一へ社長交代
- [9]太平洋戦争下の南方派遣部隊598名のうち519名が戦死
- [10]1948年 創業者中村精七郎が77歳で逝去、同年から戦後初の陸上トラック輸送に進出
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [11]1949年建設業・1950年通運事業・1952年貨物自動車運送と自動車運送取扱事業・1960年倉庫業を相次いで開始
1954年、戦後の日本企業として初めてユーゴスラビア向けレーヨンビスコースのプラント輸出を一貫作業で受注し、海外プラント輸送事業の出発点[12]となった。1959年にはブラジルのウジミナス製鉄所建設に協力[13]するなど、戦後初期から海外案件にも踏み込んだ。プラント輸送は重量物の据付・運搬・通関を一括して請け負う領域で、製鐵所構内で培った重量物ハンドリングの技術が国内外で評価された。すなわち戦後の山九は単純な労務請負から、機械据付と物流を一体で提供する「機工」領域へ業容を拡張する基礎を、1950年代のうちに固めた。
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [12]1954年 戦後の日本企業として初めてユーゴスラビア向けプラント輸出を一貫作業で受注(海外プラント輸送事業の出発点)
- [13]1959年 ブラジルのウジミナス製鉄所建設に協力
- [8]1942年 創業者中村精七郎から2代目中村勇一へ社長交代
- [9]太平洋戦争下の南方派遣部隊598名のうち519名が戦死
- [10]1948年 創業者中村精七郎が77歳で逝去、同年から戦後初の陸上トラック輸送に進出
- [13]1959年 ブラジルのウジミナス製鉄所建設に協力
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [11]1949年建設業・1950年通運事業・1952年貨物自動車運送と自動車運送取扱事業・1960年倉庫業を相次いで開始
- [12]1954年 戦後の日本企業として初めてユーゴスラビア向けプラント輸出を一貫作業で受注(海外プラント輸送事業の出発点)
山九運輸機工への社名変更と「技術とシステムの山九」の構築
1959年、2代目の中村勇一氏が45歳で急逝し、3代目に中村健治氏が就任した[14]。同年7月に社名を「山九運輸機工株式会社」へ改称し[15]、製鉄機械・石油化学装置の据付など機工・建設部門への進出を宣言した。山九運輸機工の名称は、運輸と機工の両輪をバランスよく発展させる経営方針を対外的に示すもので、創業以来の構内荷役・港湾運送と、戦後広げた重量物据付・プラント輸送を統合した事業構造を社名に書き込んだ。1962年3月には東京証券取引所市場第二部に上場し、5月に福岡証券取引所、1966年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、[16]社会的信用力と資本市場からの調達手段を手にした。
- [14]1959年 2代目中村勇一が45歳で急逝、3代目に中村健治が就任
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [15]1959年7月 社名を「山九運輸機工株式会社」へ改称(機工・建設部門へ進出)
- [16]1962年3月 東証市場第二部上場、5月 福岡証券取引所上場、1966年8月 東証市場第一部へ指定替え
上場後の山九運輸機工は、構内荷役を母体とする鉄鋼物流と、機工・建設・プラント輸送を結合した独自の事業構造を磨いた。1969年に国際航空貨物代理店の認可を取得し、[17]1970年に通関業を開始するなど、物流側も総合化を進めた。[18]1974年には大河内記念生産特賞を受賞し、「技術とシステムの山九」というコンセプト[19]が定まった。製鐵所構内荷役という労務請負の基盤の上に、機工と物流を二本柱として組み立てる経営戦略は、後の海外進出と多角化M&Aの土台となった。創業時点では官営八幡製鐵所1社の構内作業会社だった会社が、機工と物流の両輪を持つ総合事業体へ転換を準備したのが、この第1期の到達点となった。
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [17]1969年 国際航空貨物代理店の認可を取得
- [18]1970年 通関業を開始
- [19]1974年 大河内記念生産特賞を受賞、「技術とシステムの山九」のコンセプトが定まった
- [14]1959年 2代目中村勇一が45歳で急逝、3代目に中村健治が就任
- [19]1974年 大河内記念生産特賞を受賞、「技術とシステムの山九」のコンセプトが定まった
- 山九 有価証券報告書【沿革】
- [15]1959年7月 社名を「山九運輸機工株式会社」へ改称(機工・建設部門へ進出)
- [16]1962年3月 東証市場第二部上場、5月 福岡証券取引所上場、1966年8月 東証市場第一部へ指定替え
- [17]1969年 国際航空貨物代理店の認可を取得
- [18]1970年 通関業を開始