1907年4月27日に新潟県長岡市にて、北越製紙株式会社(現・北越コーポレーション)が設立された。長岡の紙卸商(田村氏)などが中心となって設立され、稲作が盛んな長岡周辺で調達できる「稲藁」を原料とした板紙の生産を企画した。
田村文四郎氏(紙卸商・田村家)と覚張治平氏(書籍商)が中心となり、合計143名の出資により設立された。特に田村氏は新潟随一の紙商と言われ、北越製紙の設立は「紙問屋から製紙業」に進出することを意味した。
なお、田村家が特に北越製紙への経営に関与したことから、1950年代までの北越製紙は田村家の出身者が社長を歴任する伝統があった。
板紙製造のための工場新設にあたって「原料調達が容易であること」「工業用水が確保できること」「電力が安価なこと」の条件を満たす長岡市北端(信濃川流域)の蔵王町を選定。工場用地を取得し、北越製紙・長岡工場を新設した。
設備投資の面では、製紙のための抄紙機をドイツから輸入。会社設立から約1年かけて、製造の準備が整い、1907年10月25日に開所式を実施した。開所式には元長岡藩主や、新潟県知事が参加し、北越製紙に期待を寄せた。
1914年から1919年における第一次世界大戦による好景気を受けて、北越製紙も業容を拡大。1920年には北越板紙を買収し、同社の工場を「新潟工場」とすることで「長岡・新潟」の2拠点体制となった。
1937年に北越製紙は人絹(化学繊維)向けの原料を製造するために北越パルプを設立。北越製紙の新潟工場の隣接地を新たに取得することで、人絹パルプの生産工場を新設した。1944年に北越パルプは北越製紙と合併した。
1945年の終戦直後において、北越製紙は戦時中に空襲による被害を受けなかったことで迅速に復興。1951年には製紙業界でもトップレベルの収益を確保した。
そこで、1950年以降、これらの収益を設備投資に回すことで生産設備を増強。長岡・新潟・市川の主力3拠点において、それぞれ抄紙機を新設することで増産体制を確立。1955年4月には洋紙生産高ベースで国内シェア5位を確保し、地方企業にも関わらず、大手と互角に戦う会社したことで注目された。
1955年から1957年にかけて、日本経済の一時的な低迷を受けて、製紙の需要が低迷。北越製紙は「設備老朽化・過剰人員・減量高」の影響を受け、収益性が低下した。そこで、1957年に「北越製紙再建法策案」を取りまとめ、設備の近代化及び合理化を軸とした再建策をまとめた。
1958年には希望退職者の募集を含む再建案を発表。社員447名(全社員の14%)と、臨時作業員154名(全臨時作業員の59%)について、それぞれ人員整理を実施した。
1959年11月ごろから鈴木一弘氏(買い占め屋)が北越製紙の株式を取得。合計36%の株式を保有した上で、北越製紙関係者に(高値での)買取を要求した。これに対して、北越製紙は不当な買い占めと主張し反発した。その後、鈴木一弘は、他の企業の買い占めの事案で「脅迫罪」の疑いで逮捕され、北越製紙の買い占めも立ち消えとなった。
1963年6月28日に、北越製紙の会長・田村文吉氏が逝去。北越製紙の創業家出身であり、社長および会長を歴任した人物であった。田村文吉氏の逝去後、北越製紙は田村家の経営から脱却する。
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首都圏向けの製造拠点として、従来の市川工場(千葉県)の拡張が難しくなったことを受けて、1971年に勝田工場(茨城県)を新設。米国の製紙業界では「板紙・洋紙の需要増大」がトレンドとなっており、北越製紙の経営陣は日本国内でも同様の市場が形成されると判断。勝田工場では「特殊白板」の生産を軸に据えた。
市川工場と勝田工場を統合し「関東工場」に改称
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2006年8月に製紙業界トップ企業である王子製紙は、北越製紙に対する敵対的買収を宣言。株式の過半数を保有することにより、王子製紙と北越製紙の経営統合を行う計画を公表した。王子製紙の狙いは、上質紙の抄紙機で新鋭設備が充実した北越製紙を取り込むことにより、王子製紙において老朽化した抄紙機を破棄し、工場稼働率を改善することにあった。
これに対して、王子製紙の競合にあたる日本製紙が反発。王子製紙によるTOBが業界の秩序を見出すと主張し、日本製紙は北越製紙の株式取得によってTOBの阻止を目論んだ。このため、TOBが成立するかの焦点になったのが、北越製紙と取引関係がある三菱商事がTOBに応じるかどうかとなった。
北越製紙は王子製紙によるTOBを阻止するために、株式の希薄化を伴う第三者割当増資を決定。三菱商事に対して増資を決定し、同社が北越製紙の株式合計24.1%を保有し、北越製紙は増資によって303億円を資本調達した。表向きの名目は、北越製紙における抄紙機への設備投資のための増資とした。
三菱商事への第三者割当増資によって、王子製紙による北越製紙の買収(株式50.1%の保有)が厳しい状況となり、TOBは不成立となった。
三菱商事に対する第三者割当増資により、北越製紙は三菱商事の系列企業となった。2019年に提携関係を解消するまで関係性が続いた。
2008年には岸本晢夫氏(三菱商事元勤務・1999年に北越製紙に入社)が北越製紙の代表取締役CEOに就任し、三菱商事との連携を象徴する代表異動となった。
北越製紙は業界再編の主導権を握るべく、2009年10月に紀州製紙を完全子会社化した。これにより紀州製紙は上場廃止となった。
業界再編を主導するために、2012年に大王製紙の株式を創業家から22.3%取得。だが、大王製紙の経営陣は北越製紙による再編に反発し、2015年に転換社債の発行を決定。これにより株式の希薄化が想定されることから、北越製紙は大王製紙の経営陣を提訴するなど、再編で苦戦した。
これらの経緯から、北越コーポレーションは大王製紙を関係会社として支配するものの、大王製紙としては北越コーポレーションを信頼していない微妙な関係性に至った。このため、2021年からオアシスが北越コーポレーションに対して展開するキャンペーン(岸本社長の解任提案を含む)について、大王製紙は関連企業を通じて、オアシスに同調する動きを見せた。
2006年の王子製紙からのTOBに対する対抗策として、三菱商事に対して第三者割当増資を行ったことを契機に、北越製紙は三菱商事との提携関係を開始。
投資ファンドのオアシスは、北越コーポレーションの株式を取得した上で、2021年10月から企業価値向上のためのキャンペーン「A Better Hokuetsu」を展開。2008年から代表取締役を歴任する岸本社長の体制において、株価及び収益性が低迷したことから、同氏が代表に適任ではないとした。
2024年までにオアシスは北越コーポレーションの株式を随時取得して約18%を保有。2024年6月にオアシスは北越コーポレーションの株主総会にて、社外取締役の新任や、岸本社長の解任を株主提案したが、これらの議案は否決された。
なお、岸本社長の解任に関する議案(第5号議案)については、賛成割合は38.17%となり否決された。
これは、オアシスが保有する18%に加え、大王製紙系の大王海運(北越コーポレーションの株式9.97%を保有)がそれぞれ賛成して約28%の賛成票を確保したが、それに同調する賛成票が10%程度であっため、結果として過半数を満たさず否決となった。