1907年〜 創業と製紙基盤の確立と事業ポートフォリオ再編
北越コーポレーションの業績推移:単体
- 1907年 北越製紙を設立
- 1908年 長岡工場で板紙の製造を開始
- 1914年 北越板紙を設立
- 1920年 市川工場を新設(千葉県)
- 1944年 北越パルプを合併
- 1957年 北越製紙再建方策案を策定・人員削減へ
- 1959年 鈴木一弘氏による株式買い占め事件
稲藁を活かした紙卸商の製造業転身
1907年4月、長岡の紙卸商・田村文四郎と書籍商・覚張治平を中心とする143名の出資者が北越製紙株式会社を設立した。稲作の盛んな新潟は原料となる稲藁の調達が容易な土地柄であり、新潟随一の紙商であった田村家が築き上げてきた広範な販路がそのまま創業時の販売基盤となった。翌年10月にはドイツ製の抄紙機を据え付けて長岡工場での板紙製造を開始し、1914年に設立した北越板紙を1917年に合併して新潟工場とし、長岡と新潟の2拠点体制を築いた。原料・販路・水力という製紙業の3条件を地元の信濃川流域で完結させたところに、創業期の北越製紙の独自性と強さがあった。 [1][2][3]
- 北越コーポレーション 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1907年4月 長岡市にて設立総会を開催し北越製紙㈱を創業(同年5月9日設立登記)
- [2]1908年10月 長岡工場で板紙の製造を開始(祖業である板紙生産の起点)
- [3]北越板紙は1914年7月に新潟市に設立した板紙生産の関連会社で、1917年2月に合併して新潟工場と称した。1920年12月の新設は市川工場(千葉県)である
第1次世界大戦の好景気を受けて北越製紙は業容を急拡大したが、大戦後の反動不況により1920年に新設した市川工場は採算割れが続いた。好況期の拡張投資が不況期に採算上の負担となる構図は、設備投資の規模が直接固定費を押し上げる装置産業の宿命でもあり、北越製紙が直面した最初の本格的な経営試練となった。経営の中核には引き続き田村家の出身者が据えられ、田村家から出た社長が1950年代まで歴任する創業家支配の統治体制がはっきりとした形をとって定着した。創業時の人脈と販路に支えられた経営構造は、戦後の業界再編期に至るまで色濃く残り続けた。 [4]
- 北越コーポレーション 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [4]1920年12月 市川工場を新設(千葉県)。新設直後に第一次世界大戦終結による不況に直面し採算割れが続いた
- 北越コーポレーション 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [1]1907年4月 長岡市にて設立総会を開催し北越製紙㈱を創業(同年5月9日設立登記)
- [2]1908年10月 長岡工場で板紙の製造を開始(祖業である板紙生産の起点)
- [3]北越板紙は1914年7月に新潟市に設立した板紙生産の関連会社で、1917年2月に合併して新潟工場と称した。1920年12月の新設は市川工場(千葉県)である
- [4]1920年12月 市川工場を新設(千葉県)。新設直後に第一次世界大戦終結による不況に直面し採算割れが続いた
戦後復興期に獲得した洋紙生産国内5位
戦時中に空襲を免れた北越製紙は早期に生産体制を立て直し、1951年には製紙業界のなかでもトップレベルの収益を計上した。同社はこの収益を設備投資の原資として振り向け、長岡・新潟・市川の3拠点で抄紙機を相次いで新設して増産体制を整えた。その結果、1955年には洋紙生産高で国内シェア5位を確保し、新潟を本拠とする地方企業でありながら王子・本州・十條といった東京資本の大手と互角に競う存在として業界内外の注目を集めた。地方発の中堅メーカーが大手の一角に並ぶという、戦後の製紙業界では異例の位置取りをした時期である。
しかし1957年からの景気低迷で収益性が低下し、北越製紙は再建方策案を策定して希望退職を含む人員整理に踏み切らざるを得なくなった。1959年には鈴木一弘による株式買い占め事件が起き、外部からの経営介入のリスクが現実のものとして同社の前に立ち現れた。株式の買い占めは当時の上場企業に共通する脅威だったが、創業家支配が残る地方中堅メーカーにとっては組織防衛の足場そのものが論点となる事件でもあった。さらに1963年には田村文吉会長の逝去によって創業家による経営に区切りがつき、半世紀以上にわたって続いた田村家中心の統治構造は終わりを迎えた。地方の中堅紙メーカーから業界中位の企業へと立場が変わるなか、北越製紙は新たな統治構造への転換を迫られた。