1936年 酒造カルテルから発酵化学メーカーへの出発と4事業部体制の確立
- 1936年協和化学研究所を発足
- 1949年協和発酵工業株式会社を設立(企業再建整備法に基づき旧会社を解散・第二会社として発足)
- 1949年東京証券取引所に株式上場
- 1951年メルク社と提携・結核治療薬「ストレプトマイシン」の製造を開始
- 1953年蒸留酒会社の買収を本格化
- 1956年発酵法によるグルタミン酸ソーダの製造を発明(味の素と競合へ)
- 1958年山陽化学工業を合併・宇部工場を開設
協和キリンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書・会社四季報等
発酵の軍需転用が医薬品参入の底流となる転換
会社の法人としての出発点は、戦時下に発足した前身企業群にさかのぼる。1943年3月、政府の勧めによりアセトン・ブタノールおよびこれから誘導される高級燃料の製造を目的として、山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収し、その設備を中心に資本金2000万円の東亜化学興業が発足した。1945年4月には協和化学興業を合併して化学薬品・医薬品の製造を事業目的に加え、終戦後は平和産業へ転換して高級燃料の製造を廃し新たに酒類の製造を加え、同年10月に協和産業へ社名を変更した。1949年7月には企業再建整備計画に基づき旧会社の協和産業が解散し、同日、資本金5000万円の協和発酵工業が設立された。発酵技術の研究機関として始まった協和化学研究所の流れと、戦時の燃料製造を担った化学企業の流れが、企業再建整備の過程で一つの新会社へと束ねられた。 [1][2][3][4]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [1]前身の東亜化学興業は1943年3月、政府の勧めでアセトン・ブタノール並びにこれから誘導される高級燃料の製造を目的として山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収し、その設備を中心に資本金2000万円で発足した
- [2]東亜化学興業は1945年4月に協和化学興業を合併し、化学薬品・医薬品の製造を事業目的に追加した
- [3]終戦に伴い平和産業へ転換し高級燃料の製造を廃して酒類の製造を加え、1945年10月に社名を協和産業へ変更した
- [4]1949年7月に企業再建整備計画に基づき旧会社の協和産業が解散し、同日資本金5000万円の協和発酵工業が設立された
1936年7月、宝酒造・合同酒精・日本酒類の3社が共同出資し、東京渋谷の幡ヶ谷に協和化学研究所が設立された。酒造業界のカルテル組織である協和会を母体とする発酵技術の研究機関として事業が始まった。宝酒造から派遣された加藤辨三郎氏が中心となり、発酵技術の軍需転用に取り組んで、糖蜜からブタノールを製造し航空機燃料へ転換する技術を独自に開発した。1943年には富士工場と防府工場を相次いで新設し、量産体制の整備に踏み切る。しかし南方戦線からの糖蜜輸送経路の途絶によって量産には至らず、そのまま終戦を迎えた。酒造業の副産物から始まった研究所は、軍需の渦中で医薬品産業の母胎となる発酵技術を蓄積した。
終戦とともに軍需が失われ、約800名の人員整理に踏み切ったうえで、1949年に企業再建整備法に基づく再編の枠組みで協和発酵工業として再出発した。1951年には米メルク社との技術提携契約を締結して結核治療薬ストレプトマイシンの国内製造を開始し、発酵技術の応用先を戦時軍需から平時の医薬品事業へ転換させた。防府工場には4億円という、当時の資本金2.7億円を超える規模の設備投資を断行し、戦後日本の医薬品産業における発酵技術の担い手としての地位を固める道筋を切り開いた。発酵という一つの技術基盤が戦争と平和を貫いて会社の中心軸であり続ける構造が定着した。 [5]
- 協和キリン 有価証券報告書/協和発酵工業60年史
- [5]1949年に企業再建整備法に基づく再編で協和発酵工業として再出発した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 経済春秋社, 1968)
- [1]前身の東亜化学興業は1943年3月、政府の勧めでアセトン・ブタノール並びにこれから誘導される高級燃料の製造を目的として山口県防府市の東洋紡績人絹工場を買収し、その設備を中心に資本金2000万円で発足した
- [2]東亜化学興業は1945年4月に協和化学興業を合併し、化学薬品・医薬品の製造を事業目的に追加した
- [3]終戦に伴い平和産業へ転換し高級燃料の製造を廃して酒類の製造を加え、1945年10月に社名を協和産業へ変更した
- [4]1949年7月に企業再建整備計画に基づき旧会社の協和産業が解散し、同日資本金5000万円の協和発酵工業が設立された
- 協和キリン 有価証券報告書/協和発酵工業60年史
- [5]1949年に企業再建整備法に基づく再編で協和発酵工業として再出発した
発酵を核に多角化が進む4事業部体制の成立
1953年から蒸留酒会社の買収を本格化して酒類事業を拡充し、1956年には発酵法によるグルタミン酸ソーダの製造法を発明して味の素と直接競合する関係に入った。1959年には東京渋谷区の土壌から分離した放線菌を研究の起点として抗がん剤マイトマイシンを発売し、医薬品分野でも発酵技術を独自製品の開発力の源泉と位置づけた。1967年には医薬品・酒類・化学品・食品の4事業部体制を確立し、発酵技術という共通基盤のもとで四つの異なる最終市場へ展開する多角化経営に入った。発酵という一つの基盤技術から生まれる応用の広がりは、当時の産業のなかでも珍しい4事業並列の構造を形づくった。
1981年には協和メディックスを設立して診断薬分野に進出し、後のバイオ医薬品の基礎となる抗体技術への投資を長期視点で拡充した。1983年には実質的な創業者である加藤辨三郎会長が逝去し、以後の経営はサラリーマン社長体制で4事業の調整役を担う構造へ移った。1991年には循環器領域への本格参入としてコニールを発売するなど医薬品事業の拡充は続いた。しかし4事業を製薬企業の人件費水準と管理体制で一体運営する構造は、医薬品への経営資源集中を組織面から常に制約し続け、後のキリンHD傘下入り後に順次進む事業分離の遠因の一つとなった。発酵技術という共通基盤の強みが、事業ごとに異なる収益性と資本効率の差を吸収できなくなった時期である。