創業1968年、24歳の塚本勲氏が東京都千代田区外神田の2坪の事務所で加賀電子を創業した。父親から借りた50万円では、現金取引を求める部品メーカーへの仕入資金が足りない。塚本氏は顧客に出向いて代金を前払いで受け取り、その金で部品を仕入れて納める方式で運転資金不足を埋めた。前払いで仕入れるこの作法から、在庫を持たず借金もしないという規律が生まれ、半導体メーカー系列に属さない独立系として、顧客の要望に応じ品目を切り替える便利屋型の商社が立ち上がった。
決断2008年のリーマン・ショックを塚本会長は「創業以来、最大のチャンス」と捉え、円高で日本企業の海外生産需要が伸び、買収対象の評価も下がる、この二つを取りに行くM&Aへと方針を変えた。2014年に生え抜きの門良一氏が社長を継ぎ、2019年には富士通エレクトロニクスを約205億円で買収して、グループ売上はトップのマクニカ・富士エレHDとほぼ並ぶ約5,000億円に達した。創業以来の無借金は、買収資金で有利子負債が前年比3.8倍に膨らみ、ここで一度離れた。
- 歴史詳細 3章・5,863字
メインコンテンツ。一次資料をベースに歴史を紐解く
- 沿革年表 45件
主要な出来事を重要度別に時系列で整理
- 長期業績 1982〜2026年(45カ年)
有価証券報告書などの公開データに基づく長期データ
- 直近の業績
業績推移と経営体制
- セグメント情報 2005〜2024年(20カ年)
各事業の売上・営業利益・利益率の推移
- 歴代社長
代表取締役社長・CEO の在任期間・経歴・在任中の施策
- 取締役一覧 2018〜2024年(7カ年)
取締役の構成バランスと社外独立性
- 大株主・株主構成 1985〜2024年(40カ年)
上位10名の入れ替わりと所有者区分7区分の推移
- 組織と給料 2011〜2024年(14カ年)
連結/単体の年次変化と業界他社の平均給与比較
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ創業期の1968年に無借金・在庫レスの「受発注方式」が生まれたのか
- A 資金も借入力もないまま部品商社を始めたため、現金取引を求める仕入先への支払いを、顧客からの前払いで賄うしかなかった。塚本勲氏は顧客に事情を説明して代金を前払いで受け取り、注文を受けてから部品メーカーを選んで同業者に発注し、回収を経て仕入先へ支払う受発注方式を編み出した。在庫を持たず借入もしないこの型は、創業期の制約が生んだ必要から定まり、後年まで「在庫は罪の子」という規律として組織に根付いた。
- Q なぜリーマン後を「最大のチャンス」と捉え、創業以来の無借金を手放してまでM&Aに踏み込んだのか
- A 円高で日本企業の海外生産需要が増す一方、買収候補の評価額は金融危機で下がり、安く買って商権を取り込める好機が重なったためである。塚本勲会長はこれを「創業以来、最大のチャンス」と捉え、受発注方式で在庫も借入も持たずに蓄えた自己資本を元手に、M&Aへ方針を変えた。2014年に生え抜きの門良一氏が社長を継ぎ、2019年に富士通エレクトロニクスを約205億円で買収してグループ売上は約5,000億円へ達し、業界トップ級に並んだ。買収資金で有利子負債が前年比3.8倍に膨らみ、創業以来の無借金はここで一度離れた。
- Q なぜ近年、商社の加賀電子がEMS(受託製造)へ約1,000億円を投じて製造側へ収益源を移すのか
- A 部品の取次だけでは、顧客の海外生産シフトと半導体市況の変動にさらされ、付加価値を取りにくい。富士通エレクトロニクス買収で取り込んだ製造・実装の機能を5年かけて統合し、自社工場で部品実装まで請け負えば、取次より高い利幅と安定した受注を確保できる。2025年5月の「中期経営計画2027」で電子機器の受託製造(EMS)に約1,000億円を積み増し、日本・中国・アセアンとメキシコ新工場の4拠点へ生産網を広げ、2017年に置いたTAXAN MEXICOが北米向け受託製造の先頭を担う。買収頼みの成長を製造投資で補う段階に入った。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1968年〜1985年 24歳塚本勲の創業と「お客に前払いしてもらう」無借金経営の確立
父親から借りた50万円と「在庫は罪の子」── 資金ゼロから始まった商社
加賀電子の源流は、1968年2月、24歳の塚本勲氏が金沢の父から借りた50万円を元手に東京・神田で個人創業した電子部品商であった[3][4][5]。同年9月には資本金100万円で法人登記し、東京都千代田区外神田三丁目の木造2階建て2坪の事務所で株式会社加賀電子として再出発した[1][2]。塚本氏は16歳で金沢を出て横浜のヴァイオレット電機に入り、約2年の製造と約6年の営業を経験、その後サンコー電機を約半年で辞して独立に踏み切った[6]。社名は、父との借金の相談の際に母が「加賀百万石といわれているから、年商100億円ぐらいの会社になれるといいね」と語った言葉に由来する[7]。
創業資金は事務所の賃料や備品の購入で早々に底をつき、現金取引を求める部品メーカーへの仕入資金が確保できなくなった。塚本氏は顧客に事情を説明して代金を前払いで受け取り、その現金で仕入先に支払う資金繰りを編み出した[8]。さらに、顧客の注文を受けてから部品メーカーを選んで同業者に発注し、納品と回収を経て仕入先に支払う受発注方式を確立し、在庫を持たずに商社業を回す型をつくった[9]。賞与資金や配当資金以外は固定預金を超えて借りない無借金経営はこのとき定まり、塚本氏は後年まで「在庫は罪の子」を口癖に、注文先行の仕入れを組織の規律として徹底した[10][11]。
便利屋型商社としての品目拡張とTAXANブランドの誕生
1970年代の加賀電子は、エレクトロニクス業界の需要変動に応じて取扱品目を機動的に切り替える便利屋型の商社として事業を広げた。1973年にはCBトランシーバーのブームに対応し、1978年にはインベーダーゲーム向けICの取扱いに参入、1983年からは任天堂ファミリーコンピュータのソフト生産にも関与した[12][13][14]。創業者の塚本氏は顧客が要望するものは品目を問わず取り扱う方針を社内に徹底し、品目の専門化を避けて取引先の要望に応える総合商社的なポジションを取り続けた。電子部品商社業界は半導体メーカー系列の専業商社が大半を占めるなか、独立系の便利屋として複数メーカーの部品を顧客の要望に合わせて1個から届ける受注対応能力で差別化した。
1980年には連結売上高が100億円を突破し、創業から12年で母の語った規模に到達した[15]。自社ブランド「TAXAN」は、日本語の「沢山」に由来し、たくさん売ってたくさん幸せになる願いと、社名にXとNが入ると有名になるという米国のジンクスを掛けて1982年ごろ名づけられた[16]。1981年には米国にTAXAN USA CORP.を設立し、TAXAN名義でアップル社製パソコン用CRTモニター「KG-12」を投入、翌1982年にはカラーモニター「TAXAN RGB VISION」が大ヒットして米国での商標認知が広がった[17][18]。加賀電子はこれにより、部品商社でありながら自社開発製品を持つメーカー機能を併せ持つ事業形態へと広げた。
店頭登録までの17年 ── 資本市場への第一歩
1985年6月、加賀電子は本店を東京都千代田区外神田六丁目へ移転し、創業の地である秋葉原電気街へ回帰した[19]。同年12月には英国にTAXAN(UK)LTD.を設立して欧州での自社ブランド販売に乗り出すとともに、社団法人日本証券業協会・東京地区協会へ株式を登録し、店頭公開銘柄として資本市場との接点を初めて持った[20][21]。創業から17年、社員2人・資本金100万円の事務所から始まった同社は、株式公開によって事業拡張資金の調達手段を制度として整えた[22]。塚本氏は公明正大で公私混同を避け経営をオープンにすることを信条とし、上場前から社員への経営情報開示と増資による外部資金調達を組み合わせていた[23]。
加賀電子の創業17年は、無借金・在庫レスという経営規律と、便利屋型の品目柔軟性、そして自社ブランドTAXANによる海外展開という3つの軸を組み上げた期間だった。この3軸はそれぞれ単独で運営されたのではなく、顧客の前払いで仕入資金を確保する→在庫を持たず受注ごとに調達する→品目の専門化を避けて顧客の要望に応える→米国を含む販売先を広げて事業範囲を拡張する、という連鎖構造で結ばれていた。1985年の店頭登録は、この連鎖構造を資本市場の検証に晒した節目であり、続く翌年の東京証券取引所市場第二部上場の前提条件を準備した[24]。
1986年〜2008年 東証一部上場と1990年代の海外連結子会社網構築
東証二部上場と1990年代のアジア現地法人連発
1986年12月、加賀電子は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した[25]。創業18年で店頭登録から1年での二部上場である。1990年代に入ると、加賀電子は海外現地法人の設立を加速させ、1992〜2002年の10年間に5拠点を連続して設立した。1992年に香港、1994年にシンガポール、1995年に台湾、2000年に中国上海、2002年にタイへと、東アジア・東南アジアの主要拠点を相次いで開設した[26][27][28][29][30]。当時の電子部品業界は日本メーカーの海外生産シフトが本格化した時期で、顧客であるセットメーカーの海外工場に部品を届ける現地調達の窓口機能が商社に求められていた。加賀電子はこの需要を捉え、現地法人を直接設立して連結子会社化する方式を採り、独立系商社として現地調達網を自前で組み上げた。
1993年1月、加賀電子は株式会社巴商会よりアップルコンピュータ社製品の営業部門を譲り受け、情報機器流通領域での足場を強化した[31]。1997年9月には東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、創業から29年で東証一部上場会社の地位に到達した[32]。2001年には連結売上高1,000億円を突破した[33]。創業時の母親が掲げた「100億円」目標を1980年に達成してから21年、その10倍の規模に到達したことで、便利屋型商社というポジションが業界内で確立した。連結子会社の拡大は海外だけでなく国内でも進み、1991年に加賀デバイスを電子デバイス部の分社化で設立し、1995年に加賀ソルネットを設立、2002年にマイクロソリューションを設立するなど、グループ各社が事業分野ごとに専門特化する構造が組まれた[34][35][36]。
TAXANブランドと情報機器事業の二刀流 ── 商社業に閉じない収益構造
2000年代前半の加賀電子は、電子部品商社としての本業に加えて、自社ブランドTAXANを用いた情報機器事業の拡張を進めた。2006年4月には加賀コンポーネント株式会社がプラスビジョン株式会社よりプロジェクター事業を譲り受け、情報機器の品目を広げた[37]。2006年10月には同社情報機器事業部門の主要部門を加賀ハイテック株式会社へ事業譲渡し、グループ内での事業再編を進めた[38]。FY05(2006年3月期)の連結売上高は2,577億円で、商社機能を主軸としつつ、自社ブランドのPC周辺機器・モニター・プロジェクターを併売する複線型の収益構造が定着した。
連結子会社網の拡張は2005〜2008年にもM&Aで継続された。2005年8月に株式会社樫村(加賀ハイテック)、2006年12月に大塚電機、2007年4月に加賀アミューズメント(特機事業本部AM営業部のアミューズメント関連事業を会社分割で設立)、2008年8月にエー・ディ・エム株式会社を株式公開買付により子会社化した[39][40][41][42]。一連のM&Aは独立系商社の枠を超えて、エレクトロニクス領域の周辺事業を取り込むグループ拡張戦略の表れであり、FY07(2008年3月期)の連結売上高は2,913億円に達し、創業41年で年商3,000億円規模の企業群に育った。塚本氏は2007年4月に代表取締役会長へ移行し、社長兼任から会長専任への組織体制移行を進めた[43]。
リーマン直前の到達点と「無借金経営」の規律維持
2008年8月のリーマン・ブラザーズ破綻に至るまでの加賀電子は、創業以来41年の経営規律として無借金・在庫レスの基本方針を維持していた。FY08(2009年3月期)の連結売上高は2,736億円で前期比6.1%減、経常利益22億円・純利益▲8億円とリーマン・ショックの影響で初の純損失を計上した。電子部品商社業界全体が金融危機後の半導体需要急減で売上2〜3割減と業績悪化に直面するなか、加賀電子の純損失は同業他社に比べて軽微にとどまった。創業時から徹底した在庫レス経営と注文先行型の仕入方式は、需要が急減した局面で在庫評価損のリスクを最小化する効果を発揮した。
リーマン直前の加賀電子は、無借金経営・在庫レス・便利屋型品揃え・自社ブランドTAXAN・東アジア現地法人網という5つの経営資産を持つ準大手の電子部品商社に成長していた。1968年に2坪の事務所から始まった企業が、40年で連結売上3,000億円規模に到達した軌跡である。だが業界内のポジションは依然として上位ではなく、半導体メーカー系列の専業商社や、業界1位のマクニカ・富士エレホールディングスとの売上規模差は3〜5倍残っていた。この規模差を埋める手段としてのM&Aは、続くリーマン後の局面で創業者が経営判断の中核に据える戦略となった。
2009年〜2025年 リーマン後を「最大のチャンス」と捉えたM&A連鎖と業界トップ級到達
「創業以来、最大のチャンス」── 円高M&Aと海外拠点拡張
2008年の金融危機を、創業者の塚本会長は創業以来最大のチャンスと位置づけ、円高による日本企業の海外生産需要拡大と、買収対象企業の評価減を二重に活用するM&A加速の方針を採った。2009年4月にKAGA (EUROPE) ELECTRONICS LTD.をイギリスに、KD TEC s.r.o.をチェコに、同年6月に東京電電工業(現・加賀テクノサービス)を子会社化し、欧州市場と国内事業の同時拡張を実施した[44][45]。FY10(2011年3月期)の連結売上高は2,379億円・経常利益37億円と回復に転じ、FY13(2014年3月期)には2,578億円まで戻した。リーマン後の急回復は単なる景気の戻りではなく、円高局面で日本企業が中国・東南アジア・メキシコへの生産移転を検討する流れに、加賀電子の現地法人網が直接対応できたことが背景にある。
2010年代後半は、加賀電子の海外拠点と国内グループ再編が並行して進んだ。2014年4月、塚本氏は代表取締役会長専任となり、創業以来46年率いた社長職を門良一氏に譲った[46]。門良一氏は1980年3月に加賀電子へ入社し、営業本部AM営業部部長、特機事業本部長、コンポーネントビジネスユニット長を経て社長に就任した生え抜きの後継者である[47]。門社長は就任時、社内会議で100円玉を掲げて経常利益100億円の達成を社員に共有目標として示し、100円玉を見るたびに思い出すよう促した。FY13の経常利益58億円という水準からの目標設定で、創業者から託された業績目標を数字として社員に共有する手法を採った。2017年1月にはTAXAN MEXICO,S.A. DE C.V.をメキシコに設立し、北米市場向けEMS(電子機器受託製造)拠点の起点を据えた[48]。
業界2位への跳躍 ── 205億円で買収した富士通エレクトロニクス
2018年9月10日、加賀電子は富士通エレクトロニクス株式会社の株式70%を約204億円で取得することを発表した[49]。残る30%は富士通セミコンダクター(FSL)保有株式として2021年内を目途に追加取得する建付けで、取引総額はアドバイザリー費1.3億円を加えて約205億円となった[50]。買収は2019年1月1日に完了し、同社は加賀FEI株式会社として連結子会社入りした[51]。同社は富士通グループの半導体・電子部品商社部門を担っていた企業で、ソシオネクスト製品の販売など旧富士通系の販売チャネルを抱えており、買収後のFY18(2019年3月期)には加賀FEIにおけるソシオネクスト製品販売だけで約840億円を計上する規模を持っていた[52]。
この買収によりグループ売上高は約5,000億円規模となり、業界トップのマクニカ・富士エレホールディングスとほぼ並ぶポジションに到達した[53]。買収の戦略的意義は3つの柱で説明される。第1に両社の商材と国内外の販売チャネルを相互補完して半導体販売シェアを拡大すること、第2に加賀電子がグローバルに展開するEMS事業の拠点網に加賀FEIの顧客基盤を共有してEMS成長を加速すること、第3に販売組織と各種機能の最適化による経営効率向上である。創業以来の無借金経営の規律は、買収資金調達のためにFY18末の有利子負債が325億円へ前年比3.8倍に膨張する形で一時的に離脱した[54]。
中期経営計画2027と創業60周年売上1兆円構想
富士通エレクトロニクス買収後の加賀電子は、M&Aによる規模拡大を継続した。2019年10月に十和田パイオニア(現・加賀EMS十和田)を子会社化し、2020年4月に株式会社エクセル、同年11月に旭東電気を子会社化した[55][56][57]。エクセル買収はFY21(2022年3月期)に負ののれん発生益を計上する形で連結業績に寄与し、FY21の売上高は4,958億円・経常利益215億円・純利益154億円と過去最高を更新した。続くFY22(2023年3月期)には売上高6,081億円・営業利益322億円・純利益231億円と、世界的な半導体需要拡大により業績ピークに到達した。連結従業員数もFY14の5,092名からFY24の8,560名へ約68%増となり、富士通エレクトロニクス・エクセル等の子会社化に伴う人員統合が同時に進んだ。
しかし2023年以降は半導体在庫調整の局面に転じ、FY23(2024年3月期)売上高5,427億円・営業利益258億円、FY24(2025年3月期)売上高5,478億円・営業利益236億円と、ピーク比で減益となった。2025年5月に発表された新中期経営計画「中期経営計画2027」(2025〜2027年度)は、EMS事業の売上高をFY24の1,345億円からFY27の2,300億円へ約1,000億円拡大する計画を中核に据え、日本・中国・アセアン・メキシコの4拠点で生産網を拡張する方針を示した[58][59]。同時に2028年度の創業60周年を一区切りとする長期目標として売上高1兆円構想を掲げ、自律成長と新規M&Aの両軸で規模拡大を継続する方針を表明した[60]。
門社長は半導体商社業界の再編戦略として競争相手の数を減らす方向を打ち出し、足し合わせた効果が単純合算を下回っても許容するという1+1を1.8とする発想で、同業の電子部品商社やEMS事業を行う企業を対象とするM&Aを継続する意向を示した。1968年に父親から借りた50万円で創業した便利屋型の商社が、創業60周年を視野に売上1兆円という業界トップを目指す企業に育った軌跡である[61]。創業者・塚本会長が編み出した「お客の前払いで仕入れる」という極小資本の商売作法は、半世紀を経て、買収対象企業の販売チャネルを取り込むことでグループ全体の取引規模を拡張する経営手法へと組み替えられた。独立系商社のポジションを保ちながらM&Aで業界トップ級へ到達するという同社の経営軌道は、創業者の規律と後継者の規模追求が二段重ねで成立した結果である。