歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1944年、戦時統制経済下の「電気工事業整備要綱」により協立興業社ほか7社が統合し、関東配電(戦後の東京電力)が出資して関東電気工事が発足した。工事を発注する電力会社が自ら資本を入れ、施工を専属で請け負わせる関係である。発注者を株主に抱えたため、電力需要が伸びる時期に送配電工事を継続して受注でき、営業で仕事を取るのではなく親会社の発注に乗って売上が積み上がった。この受注のあり方が、その後の事業の中心になった。
決断発注に乗る関係は安定を生んだが、工事は請け負うたびに収入が一度で終わる請負業の限界も残った。これを変えたのが、2012年の銚子風力開発への資本参加に始まる発電事業への進出である。自ら施工した設備を売り渡さずに所有・運営し、引き渡して終わる一過性の請負収入とは別に、発電から継続して入る収入を主力に加えた。工事を請け負うだけの会社から発電も担う会社へ、東京電力との関係は保ったまま稼ぎ方を広げた。
現況関電工は2025年、再エネ発電・蓄電池・EV充電をグリーンイノベーション本部に集約し、2044年の創立100周年に「グリーンイノベーションカンパニー」を名乗るための中期計画「Milestone2030」に定めた。電気工事を請け負う会社から、脱炭素インフラを手がける会社への業態転換を模索しており、設備投資を前年の3倍超に積み増し、新領域への投資を加速させた。もっとも、利益の大半はなお電気工事の請負が生み、新事業の利益創出に課題を残す。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1944年〜1984年 戦時統制下の設立と東京電力エリア電気工事会社としての確立
「電気工事業整備要綱」が生んだ統合会社という出自
1944年9月、戦時統制経済の一環として政府が定めた「電気工事業整備要綱」のもとで[1]、㈱協立興業社ほか7社の電気工事会社が統合され、これに関東配電株式会社(戦後の東京電力の前身)が参加して[2]、資本金300万円・本社東京都赤坂区溜池2番地に関東電気工事株式会社が設立された[3][4]。設立と同時に神奈川・埼玉・千葉・群馬・栃木・茨城・山梨・沼津(現静岡)の8支店を一斉に開設し[5]、関東1都7県の電気工事業をカバーする体制で営業を開始した。戦時下の電気工事業統合の産物として誕生した経緯は、その後80年にわたって関東電気工事=のちの関電工が東京電力エリアの送配電工事を独占的に担う関係を規定した。創業から80年経った2024年時点でも東京電力グループが46.4%の株式を保有する筆頭株主であり続け、戦時統制下の設立経緯が現代まで尾を引く資本構造を残している。
戦後の電気工事業界は1949年の建設業法成立を機に法的位置づけを整え、関東電気工事は1949年10月に建設業法に基づく建設大臣登録(イ)第250号を取得した[6]。電気事業再編成令(1951年)で関東配電は東京電力株式会社として再編されたが、関東電気工事と東京電力(旧関東配電)の元請・施工請負関係は途切れず継承された。1959年1月には大阪支社(現関西支店)を設置し[7]、東京電力エリアから初の越境拠点を構えた。1961年10月、東京証券取引所市場第二部に上場し、資本金は3億5千万円となった[8]。電気工事専業会社としての東証2部上場第一陣であり、戦後復興と高度成長期の電力需要拡大によって、関東配電系列の電気工事会社が独立資本として資本市場に登場した。
1961年の上場で得た資本市場へのアクセスは、関東電気工事に営業エリアと事業領域の両方を拡張する余地を与えた。1970年1月に仙台支社(現東北支店)[9]、同年2月に信越支社(現長野支店)を設置すると同時に土木工事の営業を開始、東京証券取引所市場第一部に指定(資本金17億円)された[10]。上場後9年で東証1部入りを果たした背景には、1960年代を通じた電力需要拡大による安定的な業績成長と、東京電力からの工事発注が継続的に拡大した事業基盤がある。さらに同年5月には空調管工事(現環境設備工事)の営業を開始[11]、同年8月に札幌支社(現北海道支店)を設置[12]、1971年4月には第一企業㈱(現㈱関工パワーテクノ)に資本参加した[13]。わずか1年余りで全国営業網の骨格形成・事業領域拡大・グループ会社化の3軸を同時並行で進めた。
原子力工事参入と「関電工」への自己定義変化
1973年6月に総合教育センター(現人材育成センター)を設置し[14]、労働集約的な施工業者にとって最重要の経営課題である現場技能者の内製育成体制を制度化した。1974年4月には建設業法改正に対応して建設大臣許可(特-49)第3885号を取得し[15]、特定建設業者としての地位を確立した。1970年代を通じて土木・空調管・電気の総合設備工事業者への業容拡張が進むなかで、最大の転機は1979年7月の原子力関連工事の営業開始である[16]。東京電力が福島第一原子力発電所(1971年営業運転開始)に続く原子力発電所の建設・運転体制を拡大する時期にあたり、東京電力エリアの電気工事専属会社として原子力施設の電気工事へ参入した。この決断の事業基盤は約36年後の2015年7月、福島原子力事故からの復興工事を担う「福島本部」設置で再び動員された[17]。
1981年10月にはシンガポール支社を設置し、初の海外拠点を開設した[18]。日本の建設業界が東南アジア・中東への展開を加速させた時期にあたり、関東電気工事も日系企業の海外進出に同行する形で海外事業を開始した。とはいえ海外売上高は連結売上高の10%にも届かず、現在に至るまで国内売上が9割超を占める構造で、シンガポール拠点設置は本格的な海外事業展開ではなく、東南アジアの日系企業向け施工サービスを提供する小規模な拠点運営に留まっている。第二段階の海外事業拡張は2022年以降、グリーンイノベーション本部の海外展開として再起動される。
1984年9月、創業から40年使い続けた「関東電気工事」という社名を「株式会社関電工」に変更した[19]。略称「関電工」を正式な商号に格上げするこの社名変更は、電気工事専業から総合設備工事業者への自己定義の変化を表す変更であった。1970年の土木工事・空調管工事への参入、1979年の原子力工事参入、1981年の海外進出を経て、もはや「電気工事」という単一業務名では事業範囲を表現しきれなくなったための商号変更である。同年11月には関工不動産管理㈱(現㈱ケイアセットマネジメント)を設立し[20]、不動産管理事業という設備工事業の周辺領域にも進出した。1944年の戦時統制下設立から40年で、関電工は東京電力エリアの電気工事会社から、関東を中心とした総合設備工事業者への業容拡張を成し遂げ、第二段階の事業展開へ向かう体制を整えた。
1985年〜2011年 関電工としての多角化と東京電力依存構造の固定化
バブル期の事業領域拡張と無担保転換社債100億円による資金調達
1985年1月、東京工事警備㈱に資本参加して警備サービス事業を獲得した[21]。同年5月には第1回無担保転換社債100億円を発行し[22]、銀行借入依存からの脱却と直接金融による資金調達への移行を進めた。資本金17億円の会社が100億円の転換社債を発行したという事実は[23]、1980年代後半のバブル経済期における関電工の信用力と、東京電力グループ会社としての安定性が資本市場で評価されていたことを示している。1987年7月には関工メンテナンスサービス㈱(現㈱関工ファシリティーズ)を設立し[24]、施工受注後のビル設備管理というストック型メンテナンス事業の組成に着手した。1988年12月には本社を東京都港区芝浦4丁目8番33号(現在地)に移転し[25]、現在まで37年以上同じ場所で本社機能を構えている。
1990年代前半は全国営業網の最終整備期となった。1990年4月に名古屋支店[26]、1991年7月に九州支店を設置し[27]、関電工は全国主要都市すべてに支店を構える体制が完成した。ただし営業エリア拡張の本質は、各支店が自立した地域営業基盤を持つというより、東京電力エリア外への営業窓口を持つことで全国規模の民間ゼネコン向け工事受注機会を取りに行く構造であった。1993年7月にはつくば技術研究所(現技術研究所)を設置し[28]、労働集約的な施工業からの技術開発投資による差別化を志向した。バブル崩壊後の建設需要縮小局面で同業他社が支店縮小・人員削減を進めた時期に、関電工が逆に支店展開と技術研究所設置を続けられた背景には、東京電力からの安定的な工事発注がある。
1994年7月の㈱ベイテクノ設立[29]、1997年7月の中央支店(現東京支店)設置[30]、1997年10月の㈱茨城ケイテクノ・栃木ケイテクノ・群馬ケイテクノ・山梨ケイテクノ・静岡ケイテクノ5社同時設立[31]、1998年7月の㈱神奈川ケイテクノ・千葉ケイテクノ・埼玉ケイテクノ3社同時設立[32]を通じて、東京電力エリア各県に施工子会社「ケイテクノ」を配置するグループ構造を体系化した。1995年1月の阪神・淡路大震災を機に、電気・通信インフラの耐震性確保が社会的要請として強まり、電力各社は配電網の更新・強化投資を拡大した。関電工はこの需要拡大を受注に取り込むため、東京電力エリアの1都7県(茨城・栃木・群馬・山梨・静岡・神奈川・千葉・埼玉)に地域子会社を配置し、地元採用の技能者で施工する仕組みを整えた。本社一括施工ではコスト競争で勝てない地域工事を、地元採用・地元施工の子会社網で受注する戦略であり、東京電力1社への発注依存体制を地理的に分散させる現場運用の合理化策でもあった。「ケイテクノ」群の設立は単なるグループ会社拡張ではなく、東京電力の配電部門が地域別の発注体制を取るのに合わせて、関電工側も地域別受注体制を組み立てる、発注者の組織構造に合わせた施工側の組織再編であった。
同業買収による事業拡張と非伝統領域への参入
2000年代に入ると関電工は非伝統的な事業領域への進出を加速させた。2000年11月に㈱ネットセーブを設立してIT・ネットワーク領域への参入を試み[33]、2001年12月には宅地建物取引業者免許(東京都知事(1)第80352号)を取得して[34]不動産取引業への進出も実現した。電気設備工事の本業から派生する周辺事業領域への染み出しが続いた時期である。本業の電気工事業についても、地理的拡張・同業他社の取り込みが進んだ。2003年5月、阪急電気工事㈱(現㈱阪電工)に資本参加した[35]。東京電力エリアの会社が関西電気工事業界の有力会社に資本参加する、エリア越境型の同業買収であった。
2004年6月には㈱TLC(現㈱タワーライン・ソリューション)に資本参加し[36]、鉄塔・送電線という送配電インフラの基幹施工領域に進出した。2008年4月には川崎設備工業㈱に資本参加(名古屋証券取引所市場第二部上場)し[37]、中部圏の設備工事会社をグループに取り込んだ。川崎設備工業はその後も独立上場を維持し、関電工との親子上場関係を形成した。2000年代の連続買収を通じて、関電工は東京電力エリア外への営業エリア拡大を子会社化によって実現する手法を確立した。同時期の同業大手(きんでん、九電工、トーエネック、四電工など電力会社系列の電気工事会社)が地域内での収益確保に注力するなか、関電工は東京電力エリア外への積極展開で売上規模を相対的に拡大する戦略を採った。
2011年3月の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故は、関電工にとっても直接的な事業環境の激変をもたらした。東京電力46.4%株主構造のもとで、東京電力の福島第一原発の廃炉・除染工事、配電網の復旧・強靭化工事、再生可能エネルギー発電施設の建設という3つの新領域が一気に発注される構図となった。1979年の原子力工事営業開始以来の蓄積が、震災後の原子力施設関連工事の受注基盤として活きた。2012年3月期の連結売上高は4,418億円・経常利益91億円・純利益19億円と低水準であったが、その後の震災復興工事と再生可能エネルギー事業の収益化が、関電工の次の事業構造転換を駆動した。1984年の「関電工」改称以降27年間続いた東京電力依存・電気工事中核の事業構造は、3.11を境に「電気工事+発電事業+復興工事+海外」の4軸への組み替えを迫られた。
2012年〜2024年 発電事業者への業態転換とグリーンイノベーションカンパニーへの再定義
風力・太陽光・バイオマス ── 施工請負業から発電事業者への業態転換
2012年10月、関電工は銚子風力開発㈱に資本参加し、発電事業を開始した[38]。3.11後のエネルギー政策転換(2012年7月の固定価格買取制度(FIT)施行)が再生可能エネルギー発電事業を立ち上げた局面で、関電工は施工請負業者から発電事業者へという業態転換の第一歩に着手した。施工請負業者である関電工が発電事業者になる転換は、自社が施工した設備を自社所有・運営し継続的なキャッシュフローを生み出す事業モデルへの軸足の移行を意味した。2013年3月には嘉麻太陽光発電㈱を設立し、太陽光発電事業を本格化した[39]。2015年6月には前橋バイオマス発電㈱を設立し[40]、風力・太陽光・バイオマスの再生可能エネルギー3領域に展開する体制が整った。
2015年7月、福島本部を設置した。1979年7月の原子力関連工事営業開始から36年を経て[41]、福島原子力事故からの復興工事を本部級組織として独立させる組織変更であった。福島県内の除染工事、被災インフラの復旧工事、福島イノベーション・コースト構想に基づく新産業誘致施設の建設工事など、福島復興関連の電気・設備工事を本部単位の組織で受注・施工する体制で、東京電力との特殊な事業関係を地理的・組織的に明確化する措置となった。2016年3月には2021年満期ユーロ円建取得条項付転換社債型新株予約権付社債200億円を発行し[42]、海外市場での直接金融活用による資金調達を行った。1985年5月の第1回無担保転換社債100億円発行から31年ぶりの転換社債発行で[43]、再生可能エネルギー発電事業・福島復興関連事業・既存施工事業の同時拡張に向けた投資原資の確保が目的であった。
2016年4月の㈱神奈川パワーテクノ・埼玉パワーテクノ設立[44]、2017年7月の㈱千葉パワーテクノ・茨城パワーテクノ・栃木パワーテクノ・群馬パワーテクノ・西関東パワーテクノ・静岡パワーテクノ6社同時設立[45]は、2020年4月の発送電分離(電力システム改革第3段階・東京電力パワーグリッドの設立)を見据えた送配電施工体制の地域別子会社配置である。1997〜1998年の「ケイテクノ」9社設立から約20年後、東京電力エリア各県に「パワーテクノ」と名付けた送配電施工子会社を再度配置する措置で、東京電力パワーグリッドの発注体制変化への対応であった。2016年10月には佐藤建設工業㈱に資本参加し、土木工事領域も強化した[46]。
「Milestone2030」── 100周年へのロードマップ
FY15の連結売上高は4,477億円・経常利益170億円・純利益94億円と、震災後初の好決算となった。FY16には連結売上高4,709億円・経常利益273億円・純利益175億円と利益が急増し、震災復興工事と再生可能エネルギー関連工事の本格化が業績に表れた。FY18には連結売上高5,635億円・経常利益307億円・純利益197億円、FY19には連結売上高6,161億円・経常利益355億円・純利益225億円と、6,000億円台の売上規模に到達した。
2020年6月、第13代社長に就任した仲摩俊男社長(1982年関電工入社、埼玉支社長・北関東北信越営業本部長を経て副社長)[47]は、コロナ禍と建設需要変動局面での経営を引き継いだ。仲摩社長は後に、営業担当3年目に主要顧客の本社建て替えを11社JVで担った際、施主の求める建物性能が高すぎて採算が合わず、赤字回避へ全社で奔走した経験[48]を振り返り、建設請負業特有の受注後採算管理の難しさを率直に語っている。2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しにより、関電工はプライム市場へ移行した[49]。1961年の東証2部上場、1970年の東証1部指定、2022年のプライム移行という資本市場での位置づけ変遷である[50]。
FY22の連結売上高は5,415億円・経常利益340億円・純利益211億円、FY23には連結売上高5,984億円・経常利益426億円・純利益273億円と回復軌道に乗り、FY24には連結売上高6,718億円・営業利益583億円・経常利益594億円・純利益423億円と、過去最高益を更新した。FY24の純利益は前期比+55.0%、ROEは前期7.8%から11.5%へ拡大し、PBRは0.64から1.07へ改善した。震災復興工事の本格化、再生可能エネルギー関連工事の積み上がり、データセンター向け電気工事需要の積み増し、配電網更新需要の継続が、複数年連続の増収増益局面を作った。2024年は1944年9月の関東電気工事設立から80年の節目にあたり[51]、関電工は2025年に中期経営計画「Milestone2030」を公表した。2030年度に売上高8,000億円・営業利益600億円、温室効果ガス排出量を2020年度比50%削減する目標を掲げ、2044年の創立100周年に「グリーンイノベーションカンパニー」となるビジョン[52]への中継点と位置づけている。再エネ発電・蓄電池・EV充電インフラ・PPA(電力販売契約)など、グリーンイノベーション本部に集約した新領域の収益化加速が焦点である。2025年4月、第14代社長として田母神博文社長(1986年関電工入社、東関東営業本部長・千葉支店長を経て専務)が就任し[53]、5代連続生え抜き社長体制を継承した。東京電力46.4%株主のもとでの伝統的な施工請負業から、再エネ発電事業者・グリーンインフラ施工業者・福島復興施工業者という3軸への業態転換が、創立100周年に向けた20年間の経営課題として残されている。