歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1936年、東京電気(現・東芝)から電線事業が分かれて昭和電線電纜が川崎に発足した。翌年に裸銅線の製造を始め、戦後の1949年には全国に販売網を敷いて電力・通信インフラの復興需要へ銅線を納めた。すでに古河電工・住友電工・藤倉電線が上位を占めており、第四極として復興需要を下支えした。供給者としては成り立った半面、上位三社の規模に追いつく手立ては最初から持たないまま出発した。
決断第四極の昭和電線は、量で稼ぐ道を選んだ。全国に工場を構えて売上2,000億円規模を保ったが、価格決定力は上位三社に届かず、利益率は数%台に張り付いた。2019年、リーマン後の二期連続赤字で自己資本比率が26.6%まで低下したのを受け、研究職出身の長谷川隆代社長が「黒字ならいい」という低利益を許す慣行をROIC経営で解き、汎用電線を古河との合弁へ切り離して、再エネ・データセンター向けの高機能ケーブルへ経営資源を振り向けた。
決断の理由 — クリティカルな歴史の転換点を読み解く
- Q なぜ1936年に東京電気から分かれた昭和電線は第四極にとどまったのか
- A 親会社の東京電気から電線事業だけを切り出して発足したため、独立した時点で上位三社のような自前の鉱山・伸銅から一貫した銅調達基盤を持たなかったことが大きい。1936年に資本金100万円で川崎に設立され、翌1937年に裸銅線の製造を始めて送配電向け電線を供給したが、すでに古河電工・住友電工・藤倉電線が上位を占めていた。1949年に全国へ販売網を敷いて復興需要を下支えしながらも、規模で三社に追いつく手立ては持たないまま第四極の地位で出発した。
- Q なぜ2019年に長谷川社長は汎用電線を古河電工との合弁へ切り離したのか
- A 価格決定力で上位三社に届かない汎用電線を抱えたまま「赤字さえ出なければよい」という低利益を許す慣行が残り、二期連続赤字で自己資本比率が26.6%まで下がったことが背景にある。研究職出身の長谷川隆代氏はこの慣行をROIC経営で解き、稼ぐ力の弱い汎用電線を切り離す判断を下した。2019年に建設・電販向け汎用電線の販売を古河電工と統合してSFCCを設立し、空いた経営資源を再エネ・電気自動車・データセンター向けの高機能ケーブルへ集めた。ROICは5.6%から12.3%へ改善した。
- Q なぜ2025年に長谷川会長はTOTOKUを買収し小又CEOへ社長を譲ったのか
- A 財務を立て直す守りの段階を終え、データセンター向け光ファイバの需要を取りに行く成長の段階へ移すため、買収と承継を同時に進めた。2025年3月に光ファイバ・特殊電線のTOTOKUを約144億円で取得して連結子会社にし、製造能力を厚くした。同年4月には回復を設計した長谷川隆代氏が代表権ある会長へ退き、光通信デバイス出身の小又哲夫氏が第16代社長CEOに就いた。新体制は中期経営計画の営業利益目標を170億円から240億円へ引き上げ、配当も180円へ増やした。
歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1936年〜2005年 第一期:東芝系電線専業として戦後復興を支える
設立と戦後復興期の全国販売網整備
1936年5月、東京電気(現・東芝)から電線事業が分離されて昭和電線電纜株式会社が川崎市に設立された。資本金100万円[1]、1937年8月に裸銅線製造販売を開始し[2]、1938年には電力ケーブル・通信ケーブルへ品目を広げて電線ケーブル一貫メーカーの体制を整えた。太平洋戦争中は軍需用電線に生産の主力を注いだが戦災を免れ、『企業の歴史 明治百年』(1968)によれば終戦直後には国内電線生産高の5割を製造する局面もあった。戦後の1949年4月に大阪販売店と仙台・福岡・名古屋出張所を設置して全国販売網を整備[3]、同年5月には東京証券取引所に株式上場している[4]。その後、朝鮮戦争を契機とする電線特需で生産は再び拡大し、古河電工・住友電工・藤倉電線に次ぐ電線業界第四極の地位を[5]、戦後の電力需要拡大と高度成長期のインフラ建設で固めた。
1961年12月に相模原工場を完成させた[6]。同工場は当初通信ケーブル専用工場として発足し、その後送電線路の超高圧化に対応して電力ケーブル工場を増設、電力・通信両分野の主力生産拠点に育っている。1967年11月に本社事務所を東京都港区に開設[7]、1968年5月には三重工場の第一期工事が完了して巻線の本格生産を開始した[8]。三重工場は東芝が自社の三重工場で生産していた巻線部門を継承したもので、東芝グループ内の分業体制をここで確立している。同1968年には川崎工場へ国内初のディップ・フォーミング方式による銅荒引線製造設備の設置を進めるなど生産体制を更新し、1968年4月期の売上高は219億円に達した。
1972年8月に仙台工場を加えて全国に生産拠点を置いた[9]。資金調達面では1973年9月に初の転換社債を発行して直接金融による調達を始め[10]、1979年6月に外貨建転換社債[11]、1988年2月に外貨建新株引受権付社債[12]と、当時の電線業界では先端的な資本市場調達を進めている。
バブル期の最高益と1990年代の構造改革
1990年4月に海老名工場を完成、これは後の光ファイバ・超電導関連の研究開発拠点に発展する[13]。この時期の電線業界は光通信・エレクトロニクス分野への展開が「昭和維新」と呼ばれるほど活発で、昭和電線電纜も非電線部門のウエイト引き上げを進めた。1992年時点では、相模原で生産能力の限界に達した光ファイバー生産の仙台移転と相模原工場の研究開発専門拠点への転換を計画し、三井銀ソフトウェアなど6社との光LAN(構内情報通信網)専門会社の設立、青森市での電子部品・電力用部品新工場の建設方針と、光・エレクトロニクスへの布石を重ねている。海外生産も米国・欧州・東南アジアに広がっており、同年には1988年から常務を務めた村田薫氏が社長に就任した。
しかしバブル崩壊後の1990年代は電線業界全体が需要収縮と銅価変動に苦しんだ時期で、昭和電線電纜も売上 2,000億円超の規模を維持しながら利益率は低位で推移した。2002年7月に電力用電線・ケーブル事業を株式会社エクシムへ営業譲渡[14]、構造改革期の象徴的な事業再編を実施している。
2006年〜2017年 第二期:持株会社化・富通提携と漂流
持株会社化とリーマンショック・富通提携
2006年4月、昭和電線電纜は会社分割を実施して持株会社体制へ移行、商号を「昭和電線電纜株式会社」から「昭和電線ホールディングス株式会社」に変更した[15]。事業会社として昭和電線ケーブルシステム株式会社と昭和電線デバイステクノロジー株式会社を設立、既存の昭和ビジネスサポート株式会社を昭和電線ビジネスソリューション株式会社に商号変更している[16]。第12代社長の富井俊夫氏(昭和電線電纜社長 2003-2006、HD 社長 2006-2011)が持株会社化を主導した[17]。
持株会社化直後の2007年3月期は連結売上 2,091億円・経常利益 25億円と一時的に拡大したものの、2008年9月のリーマン・ショックで2009年3月期は売上 1,849億円・経常利益 △46億円・純損失 △85億円と直撃を受けた。翌2010年3月期も売上 1,414億円・純損失 △25億円と二期連続赤字、自己資本比率は急落して財務体質は痛んだ。
2011年5月、相原雅憲氏(第13代社長)期[19]に中国の富通集団有限公司との業務提携契約を締結、同時に富通集団(香港)有限公司を割当先とする第三者割当増資を実施した[18]。当時の財務再建と中国市場アクセスの両立を狙った提携だが、業績推移を見ると2013年3月期は純損失 △64億円と再び赤字に陥っており、提携効果が即時に顕在化したとは言い難い。2015年10月に昭和電線ケーブルシステムがエクシムを吸収合併[20]、2017年4月に同社が昭和電線デバイステクノロジーと昭和電線ビジネスソリューションを吸収合併し[21]、持株会社化で分散した事業会社の統合が進められた。
中島社長期の構造改革と業界第四極からの脱却模索
2016年5月、第14代社長として中島文明氏が就任した[22]。2016-2018年度の中期経営計画で「構造改革」と「成長分野(自動車・鉄道・道路・防災減災・医療)への注力」を両輪に掲げ、利益目標を2年前倒しで達成したと評価されている。
ただし依然として営業利益率は数パーセント台に留まり、業界第四極としての低収益体質は残っていた。2018年6月のトップ交代を経て[23]、財務体質と利益許容文化の根本転換は次期社長へ持ち越された。
2018年〜2025年 第三期:ROIC 経営による財務改革と SWCC への事業構造転換
長谷川社長就任とROIC経営の導入
2018年6月、第15代社長として長谷川隆代氏が就任した[24]。1984年に新潟大学大学院応用化学科を修了して入社した研究職出身、超電導技術開発を出自とする技術者で[25]、業界初の女性社長かつ研究職出身トップの登板であった。長谷川氏は就任時の自己資本比率 26.6%、DEレシオ 1.5倍という危険水準の財務体質と、「黒字ならいい」という低利益を許容する経営を最大の課題と認識した。
2019年に ROIC(投下資本利益率)を全事業セグメントの主要指標として導入、不採算事業の整理・撤退と資本効率改善を断行した。同年、汎用電線販売事業を古河電工と統合してサンエレクトリック株式会社(SFCC)を設立、競合との共同体制で汎用電線の収益性を再構築している。製造拠点も最大25社あった子会社群を統合、仙台の銅電線生産を茨城へ移管して物流コストと過剰在庫を圧縮した。AI 需要予測を生産計画に導入、再生可能エネルギー・電気自動車・データセンター向けの高機能ケーブルへ経営資源を集中させた。
業績反転とSWCC商号変更
業績は劇的に改善した。2018年3月期に売上 1,681億円・営業利益 62億円・純利益 37億円だった連結数字は、2024年3月期に売上 2,139億円・営業利益 128億円・純利益 88億円と、6年間で売上 +27%、営業利益約2倍、純利益 約2.4倍に伸びた。自己資本比率は約47%まで回復し、2018年6月就任時 791円だった株価は10倍超の水準まで上昇、時価総額は約210億円から約2,000億円規模へ拡大している。
2023年4月、商号を「昭和電線ホールディングス」から「SWCC」へ変更した[26]。社名から「昭和」と「電線」を外し、電線事業に留まらないソリューション提案型企業への転換を明示するブランディング判断であった。同時に長谷川社長は「ガバナンス強化」「事業セグメント制」「ROIC 経営」を三本柱とする経営改革の総仕上げとして、社外取締役による監視強化・執行役員の権限強化・年功序列の硬直人事の打破を進めた。
TOTOKU取得と小又CEO体制発足・次期中計
2025年3月、株式会社 TOTOKU を株式取得して連結子会社化し[27]、光ファイバ・データセンター向けケーブルの製造能力を厚くした。同年4月に長谷川氏は代表権ある会長・取締役会議長へ移行[28]、第16代社長として小又哲夫氏(1989年昭和電線電纜入社、光通信デバイス製造・経営企画・戦略本部長を歴任)が CEO に就任した[29]。中計「Change & Growth SWCC 2026」の営業利益目標を170億円から240億円に上方修正、配当を150円以上から180円に増配する強気の数字を出している。
2026年3月に開催した成長戦略・財務資本政策説明会では、次期中計「Transformation for Growth SWCC 2030」のスローガンを公表、長谷川期の「ROIC 経営 1.0」(投下資本リターンの重視)を「ROIC 経営 2.0」(キャッシュフロー最大化と成長加速の両立)へ進化させる方針を示した。2030年目標は営業利益400億円超(オーガニックのみ)、営業利益率12%超、ROIC 15%超で、e-Ribbon(光ファイバ)への20億円投資と生産能力7倍化計画など、データセンター向け需要を最大の成長軸として明示している。東芝系電線専業として戦後復興期に発足してから創業90年を迎える局面で[30]、SWCC は電力・通信のレガシー領域と再エネ・データセンターの成長領域を両軸で動かす体制に移行している。