1954年に伊部政次郎氏らが函館市に設立したデパート信用販売が起源。
百貨店の棒二森屋を最初の加盟店にクーポン式の分割払いを始め、1998年にはリボ払い金利を業界最低の16.8%まで引き下げた。三菱UFJ系の信販大手で、ベトナムやインドネシアなど4カ国に海外拠点を持つ。
前身は1954年設立のデパート信用販売。
1976年の合併でジャックスへ商号を変更し、1980年にパイオニアクレジットを吸収合併した。2008年にJNS管理サービスの全株式を取得し、2019年にジェーシービーの信用保証事業を承継。信販業界の再編を通じて事業ポートフォリオを拡大した。
1953年10月、函館の渡邊達弥氏は新聞の家庭欄で、東京の日本信販が百貨店と提携して月賦販売を広げているとの記事を読んだ。当時の函館ではチケット式の月賦団体が4つ並び立って小売店を抱え、棒二森屋と丸井今井の2百貨店はその競争の外にあった。渡邊達弥氏は山根要氏・熊沢清八郎氏と相談し、百貨店専門の月賦会社なら採算がとれると見込んだ。渡邊達弥氏と山根要氏は日本信販で1週間の実地指導を受け、百貨店を説得できる社長として函館船渠の元常務の伊部政次郎氏を迎えた。1954年6月、伊部政次郎氏を社長とするデパート信用販売が棒二森屋と提携して函館に設立された。30代前半の創業者が自ら社長に立たずに地元財界の重鎮を据えた人選は、信用を商品とする事業の性格を踏まえたものとみられる。
デパート信用販売は社名に「函館」や「北海道」を入れず、設立の時点から札幌や仙台への進出を想定した。1957年1月、社長の伊部政次郎氏は仙台の藤崎・丸光・東殖の3百貨店を訪ね、月賦販売の受託を打診した。丸光は日本信販に出店を求めて断られており、その背景には1955年に両社が交わした地域の紳士協定があった。デパート信用販売は百貨店側が求めた本社の仙台移転を断り、1957年2月に函館本社のままでの支店開設の了解を得た。地元小売商の反対運動を経て同年4月に仙台支店を開設し、8月には会員が6,000人に達して採算を確保した。東北への営業地域の拡大は、1959年の商号変更の理由の1つにも挙げられた。
1958年4月、デパート信用販売は丸井今井と専門店113店を函館の加盟店に加え、棒二森屋1店の体制を改めた。売上げに占める百貨店の比重が下がり、百貨店専属の会社と誤解される恐れも出たため、1959年7月に社名を北日本信用販売へ改めた。改称の背景には、取扱商品を一般の専門店へ広げる経営方針があった。同じころ、クーポン券を担保にした高利の借入や券の割引転売が現れ、売上代金の回収を損なう恐れが生じた。北日本信用販売は1959年12月に函館商工信用組合と提携し、会員の借入を審査して保証する融資保証業務を始めた。クーポンの周りに生じた資金需要を自社の保証業務に取り込んだ判断は、のちの融資部門の起点になったと推察される。
1963年1月、北日本信用販売は創立10年を迎えて収益力が弱く、社内留保も乏しいと自己診断した。1965年4月には営業の5大政策を定め、収入の88%を占めるクーポン部門を5年後に60%へ下げ、新規部門を20%にする目標を掲げた。同年6月、北日本信用販売は日本出版販売と契約し、加盟店の客の代金を立て替えて分割で回収する個品割賦を始めた。加盟店は代金を一括で受け取って貸倒れを負わず、信販会社は加盟店と客の双方から手数料を得た。この方式なら百貨店も、1959年の通達や1961年の割賦販売法が制限したクーポンを使わずに客と割賦契約を結べた。1976年3月期には債権買取を中心とする月販事業部門が取扱高の86.1%を占め、商品は家電・図書・呉服に及んだ。
1969年3月、北日本信用販売はソニー商事と提携し、ソニー製品の割賦債権の買取を北海道・東北・北陸で全面的に引き受けた。対象の中心はトリニトロン方式のカラーテレビで、ソニーは東芝・松下・日立と異なり自前のクレジット会社を持たなかった。1969年度の取扱高は、ソニー製品の販売に支えられて52億5,000万円に達した。取扱高の急増に主力銀行の融資が追いつかず、1970年5月の役員会では売上げを一時縮小する案も出た。専務の渡邊達弥氏と山根要氏はソニー商事に90日手形のサイトの延長を求め、ソニーは銀行保証なしで90日の延長を受け入れた。1976年の上場時には、ソニー商事は三菱銀行と並ぶ持株比率9.3%の大株主となっていた。
1971年、日本信販は札幌と仙台に支店を開設し、北日本信用販売との間にあった暗黙の地域の境を越えた。北日本信用販売は1972年7月に東京事務所を設けて市場を調べ、日本信販の独占に最も不満を持つ取引先がソニー商事だと把握した。説得を受けたソニー商事は提携する信販会社を複数にして東京市場を開放し、北日本信用販売の筆頭株主となることも決めた。北日本信用販売は1972年10月、メーカーや商社の要望に応える全国営業網の起点として、日本信販の本拠の東京に支店を設けた。1973年4月には札幌証券取引所に上場し、同年11月には三菱銀行が株式と人材を出す主力銀行となった。地盤を守る受け身の対応ではなく相手の本拠へ出た判断が、全国型の信販会社へ移る転機になったと思われる。
1976年3月、北日本信用販売は福岡と広島に支店を開設し、営業地域は北海道から九州までに及んだ。1975年度の取扱高は686億円に達し、株主も全国に散ったため、実態に合う社名と東京証券取引所への上場が課題となった。額面を500円から50円に下げるため休眠会社を取得して商号をジャックスとし、1976年4月1日にこの会社が北日本信用販売を吸収合併した。社名は社長の伊部政次郎氏の発案で、JAPAN CONSUMERS CREDIT SERVICEに由来した。ジャックスは1976年11月4日に東京証券取引所市場第2部に上場し、割賦購入あっせん業者88社の中で日本信販に次ぐ2位にあった。同年9月には療養中の伊部政次郎氏が会長となり、三菱銀行出身の河村友三氏が社長に昇格した。
1978年度の大手信販7社の取扱高は前期比55%増の1兆3,154億円となり、ジャックスは業界3位に位置した。ジャックスは1979年度からの4か年の第1次中期経営計画を定め、1982年度の取扱高6,000億円と後発地域のシェア向上を目標に置いた。資金調達の多様化と低コスト化を目的に、1980年10月と1981年9月にロンドンで各2,500万ドルのユーロダラー建て転換社債を発行した。1980年10月にはパイオニアクレジットを吸収合併し、その社員82人と7営業所を引き継いだ。パイオニアクレジットは資金の立替えだけを担い、1979年9月期の取扱高の46%で信用調査と回収をジャックスに委ねていた。副社長の山根要氏は、量の拡大より質の充実を他社に先がけて進める方針を示した。
ジャックスの業績は1980年度から3期続けて計画を下回り、生産性の向上も見られなかった。ジャックスは1983年4月に中期3か年計画のサンプラン30を定め、1985年度に経常利益100億円と取扱高1兆円を目標に置いた。同月には副社長の山根要氏を委員長とする運営委員会を設け、大都市圏の取扱高の構成比を高める方針を示した。初年度の取扱高の達成率は93%にとどまり、1984年6月に山根要氏が社長に昇格した。1988年1月、社長の山根要氏は1987年9月中間期の取扱高5,029億円を示し、通期で1兆円を超える見込みを函館の加盟店に報告した。函館の1店から始めた加盟店網が全国で1兆円規模の取扱高を生むに至り、次の段階のカード事業へ経営資源を振り向ける基盤ができたのだろう。
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事実根拠:出所(ジャックス)