1936年〜 田辺の脇道を走った中堅と循環器への絞り込み
エーザイの業績推移:単体
- 1936年 桜ヶ丘研究所を設立
- 1938年 ビタミンE剤「ユベラ」と婦人衛生薬「サンプーン」発売
- 1941年 旧日本衛材を設立
- 1944年 旧日本衛材と桜ヶ丘研究所を合併し日本衛材を設立
- 1949年 戦後の経営危機
- 1951年 ビタミン剤「チョコラA」を発売
- 1953年 キャッシュフロー経営の導入
田辺の常務が副業で立てた桜ヶ丘研究所
エーザイの始まりは1936年11月、田辺商店(株式会社田辺元三郎商店)の常務取締役新薬部長だった内藤豊次氏が、本業の傍ら東京三河島に設けた「合資会社桜ヶ丘研究所」である。豊次は欧米視察で先進国の研究機関の厚みを目の当たりにし、自前の研究所を持たなければ国産新薬は作れないと判断した。田辺商店の経営陣はソロバンを理由に容れず、豊次は田辺商店の堀井工場長や順天堂病院の医師らを巻き込み、自分は毎週木曜の晩だけ顔を出す副業的な体制で研究所を立ち上げた(オール大衆 1969/09)。翌1937年には荒川区三河島に約462平方メートルの研究所を建て製薬営業の許可も得ており、エーザイ自身はこれを創業に数える。豊次自身は出張先の温泉旅館に50冊もの専門書を持ち込み"調書出張"と呼ぶ独習で新薬知識を蓄え、「エビオス」「ハリバ」「サロメチール」といった田辺の花形商品を次々に手がけた背景がある。 [1][2][3][4][5]
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1936年11月に合資会社桜ヶ丘研究所を設立した
- [2]創業者は内藤豊次で、当時は田辺商店(田辺元三郎商店)の常務取締役新薬部長だった
- [3]桜ヶ丘研究所は東京三河島に設けられた
- [4]内藤豊次は欧米視察を経て自前の研究所を設立した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [5]1937年に荒川区三河島へ約462平方メートルの研究所を建築し製薬営業の許可を得て、これを同社の創業としている
研究所が最初に世に出した「ユベラ」と「サンプーン」は1938年に田辺商店から発売されヒットした。1941年に埼玉県本庄へ工場を新設して日本衛材株式会社を設立、1944年には研究所と日本衛材を合併した。豊次が55歳で田辺を定年退職して経営に専念したのを境に、エーザイは田辺の影から独立した中堅製薬会社へ転換した。田辺の役員が社外に立てた研究所が、10年ほどで独立企業として立ち上がり、戦後の中堅製薬として自立する経路は、当時の業界でも異例だった。大手の輸入品販売が業界の主流だった時代に、自前の研究所発で製品を持つ中堅が現れた意味は小さくない。 [6][7]
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [6]1941年に埼玉県本庄へ工場を新設し日本衛材株式会社を設立した
- [7]1944年に研究所と日本衛材を合併した
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [1]1936年11月に合資会社桜ヶ丘研究所を設立した
- [2]創業者は内藤豊次で、当時は田辺商店(田辺元三郎商店)の常務取締役新薬部長だった
- [3]桜ヶ丘研究所は東京三河島に設けられた
- [4]内藤豊次は欧米視察を経て自前の研究所を設立した
- [6]1941年に埼玉県本庄へ工場を新設し日本衛材株式会社を設立した
- [7]1944年に研究所と日本衛材を合併した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [5]1937年に荒川区三河島へ約462平方メートルの研究所を建築し製薬営業の許可を得て、これを同社の創業としている
「親父を抑えるために」導入されたキャッシュフロー経営
戦後しばらくのエーザイは食べるための苦しみに終始した。ビタミンC注射液、義歯、性病予防剤など雑多な品目で食いつなぎ、1949年から1952年が史上最も苦しい時期だった。この苦境の最中、創業者・豊次が無理な拡張で会社を潰しかける事件が起きる。長男の祐次は後年、「親父を抑えるために、キャッシュフローの考えを社に導入したのです」(日経ビジネス 1995/09/25)と語った。父の攻めと子の守りが直接ぶつかった結果、エーザイの財務規律は外から持ち込まれたのではなく、内側の父子の攻防から形作られた。豊次の投資欲と祐次のキャッシュ管理がひとつの会社のなかで綱引きをする体制が、ここから続く。 [8][9]
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [8]内藤祐次は内藤豊次の長男である
- 日経ビジネス 1995年9月25日号
- [9]長男・祐次がキャッシュフロー(財務規律)の考えを社内に導入した
苦境を抜ける足がかりは商品ではなく売り方だった。1949年5月に避妊薬サンプーンが公認されて市場が開けると、ルチンC、チョコラA、チョコラD酒など高単位ビタミン剤の再開発や医薬品ネオフィリンの声価で販路が広がり、内藤豊次社長以下が合理的な代理店網を組織する構想を進めた。その結実が1952年10月に全国規模で誕生した代理店組織「チョコラ会」で、三年ごとの契約更新で運用した。当時は競争メーカーも代理店すじもその成果を疑問視したが、数年後には多くのメーカーが同社の方式を踏襲した。さらに1957年には最初の長期計画「三六計画」(月商3億6,000万円を三カ年半・七期で実現する計画)を立案実施し、これが「三八計画」「第三次長期計画」へつながり生産・販売・研究・事業の四部門を固めた。資金の薄い中堅が、商品の単発ヒットではなく代理店網と計画経営で土台を築いた(企業の歴史:明治百年 1968)。 [10][11][12][13]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [10]1949年5月に避妊薬サンプーンが公認され、ルチンC・チョコラA・チョコラD酒など高単位ビタミン剤の再開発と医薬品ネオフィリンの声価で販路が拡大した
- [11]1952年10月に全国規模の代理店組織「チョコラ会」が誕生し、三年ごとの契約更新で運用された
- [12]当時は競争メーカーも代理店すじもチョコラ会の成果を疑問視したが、数年後に多くのメーカーが同社の方式を踏襲した
- [13]1957年に最初の長期計画「三六計画」(月商3億6,000万円を三カ年半・七期で実現)を立案実施し、「三八計画」「第三次長期計画」へつなげ生産・販売・研究・事業の四部門を確立した
1955年に当時としては珍しい片仮名社名「エーザイ」へ改称、1960年に株式公開、1961年に東証一部上場を果たした。1966年には祐次が「社歴が一番長いから」(日経ビジネス 1976/07/16)という理由で社長に就任する。武田・三共・塩野義といった大手が抗生物質の価格競争でドロ仕合を演じる横で、エーザイは競争の薄い循環器系に研究を絞り込んだ。祐次自身も「抗生物質はいますさまじい価格競争になっている」(日経ビジネス 1976/07/16)と述べ、先発に叩かれる領域から距離を置く姿勢を明言した。資金がないから絞らざるを得なかった消去法の戦略が、結果として最大の差別化となり、後のノイキノンやアリセプトを生む土台になった。規模を追うのではなく時間を味方にする発想がここで定着した。 [14][15][16]
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [14]1955年に社名を片仮名の「エーザイ」へ改称した
- [15]1961年に東京証券取引所第一部へ上場した
- [16]1966年に内藤祐次が社長に就任した
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [8]内藤祐次は内藤豊次の長男である
- [14]1955年に社名を片仮名の「エーザイ」へ改称した
- [15]1961年に東京証券取引所第一部へ上場した
- [16]1966年に内藤祐次が社長に就任した
- 日経ビジネス 1995年9月25日号
- [9]長男・祐次がキャッシュフロー(財務規律)の考えを社内に導入した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- [10]1949年5月に避妊薬サンプーンが公認され、ルチンC・チョコラA・チョコラD酒など高単位ビタミン剤の再開発と医薬品ネオフィリンの声価で販路が拡大した
- [11]1952年10月に全国規模の代理店組織「チョコラ会」が誕生し、三年ごとの契約更新で運用された
- [12]当時は競争メーカーも代理店すじもチョコラ会の成果を疑問視したが、数年後に多くのメーカーが同社の方式を踏襲した
- [13]1957年に最初の長期計画「三六計画」(月商3億6,000万円を三カ年半・七期で実現)を立案実施し、「三八計画」「第三次長期計画」へつなげ生産・販売・研究・事業の四部門を確立した
ノイキノン10億円→280億円が変えた中堅の体質
1965年に開発を開始した代謝性強心剤「ノイキノン」は、コエンザイムQという当時注目の物質を慢性狭心症治療に応用する試みだった。複数のメーカーが参戦したが他社は次々脱落し、エーザイが世界で初めて製品化に成功したのは1974年4月である。1975年3月期に10億円だった売上は、1981年3月期には280億円まで膨らみ、全体売上の約4分の1を占める主力品となった(日経ビジネス 1982/06/28)。資金の薄い中堅が大手の手薄な領域で腰を据えて待ち続けた結果で、開発から製品化まで約10年を要した粘り強さがそのまま収益として返った局面である。絞り込み戦略が初めて目に見える数字に変わった。 [17][18][19]
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [17]1965年に代謝性強心剤「ノイキノン」(コエンザイムQ応用)の開発を開始した
- [18]エーザイは1974年4月にノイキノンを世界で初めて製品化した
- 日経ビジネス 1982年6月28日号
- [19]ノイキノン売上は1975年3月期の10億円から1981年3月期に280億円へ拡大し全体売上の約4分の1を占めた
ノイキノンの成功と1978年発売のメチコバールに引っ張られ、1976年3月期を底に6期連続で増収増益。1976年から1982年で売上は2.1倍、経常利益は5倍に伸びた。売上高経常利益率は15〜16%台、自己資本比率は54.1%まで改善した。「武田や三共、塩野義といった大手が大型バスで名神高速道路を突っ走っている時、うちは小型自動車やオートバイを何台か連ねて旧東海道を走ってきた」(日経ビジネス 1982/06/28)と祐次が述懐した独自路線が、財務的にも裏づけられた時期である。祐次はこの時期、「ホームランはそなにしょっちゅう打てるものではないが、独創的なものであればヒットでも2塁打でも構わない」(日経ビジネス 1982/06/28)とも語り、大手との正面衝突を避ける路線を明言した。以後の抗がん剤参入や海外展開も、この成功体験を土台にして組み立てられる。 [20][21]
- 日経ビジネス 1982年6月28日号
- [20]1976年から1982年で売上は2.1倍、経常利益は5倍に伸びた
- [21]売上高経常利益率は15〜16%台、自己資本比率は54.1%まで改善した(1982年3月期)
- エーザイ 有価証券報告書【沿革】
- [17]1965年に代謝性強心剤「ノイキノン」(コエンザイムQ応用)の開発を開始した
- [18]エーザイは1974年4月にノイキノンを世界で初めて製品化した
- 日経ビジネス 1982年6月28日号
- [19]ノイキノン売上は1975年3月期の10億円から1981年3月期に280億円へ拡大し全体売上の約4分の1を占めた
- [20]1976年から1982年で売上は2.1倍、経常利益は5倍に伸びた
- [21]売上高経常利益率は15〜16%台、自己資本比率は54.1%まで改善した(1982年3月期)