東海カーボン の歴史

創業

1918年

創業者

寒川恒貞

創業地

東京都

直近売上高(2025/12)

3,229億円

長期業績と転換点(1996/12〜2025/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1918年に電気製鋼所の内製部門にせず、独立した炭素メーカーとして設立したのか
A 電気製鋼所の操業に欠かせない黒鉛電極は米アチソン社の輸入に頼り高コストで、国産化が福沢桃介氏と寒川恒貞氏にとっての課題だった。これを製鋼所の一部門にすれば、電極の需要は親会社の製鋼量に縛られる。そこで1918年4月、資本金50万円で本社を東京・工場を名古屋に置く独立した東海電極製造を興し、関連業界の電極需要に広く応える形をとった。電極に閉じず炭素製品やカーボンブラックへ広がる余地は、この別会社化のなかに残された
Q なぜ1950年に日本初のファーネス式カーボンブラックを工業化したのか
A 電極は電気製鋼の副産物の出口で、需要は鉄鋼の景気に縛られていた。鉄鋼以外の市場を持つため、若松工場で副生するピッチオイルを原料に1937年から研究を進め、1949年のGHQ覚書で自動車の制限が撤廃されてタイヤ需要の拡大が見えたところで、1950年に自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラックを工業化した。ゴム用シースト116は復興する自動車・タイヤ産業に売れ、1955年には国内シェア4割へ達した
Q なぜ2024〜2025年に欧州・国内の黒鉛電極生産を縮小し撤退したのか
A 2017年の米SGL GE買収で築いた電極の世界3極体制は、中国環境規制と電炉鉄鋼需要が重なったFY18に営業利益731億円の最高益を生んだ。だが規模で稼ぐ電極は供給に振れやすく、2019年以降は中国・インド製の安価品流入と鉄鋼生産の低迷で市況が逆回転した。FY24に特別損失769億円・純損失565億円を計上し、2025年6月に滋賀工場の電極生産を止め独TOKAI ERFTCARBONを譲渡して、買収で握った欧州拠点を自ら手放した

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1918年〜 電極国産化から戦後復興へ

東海カーボンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

  1. 1918年 東海電極製造を設立
  2. 1919年 大三位製作所を合併
  3. 1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功
  4. 1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
  5. 1934年 当時最大級の18吋電極を試作、呉海軍工廠に納入
  6. 1935年 第二東海電極を設立
  7. 1941年 九州若松工場でカーボンブラック製造を開始

余剰電力の出口として生まれた会社

東海カーボンの創業は、中京財界における電力事業の発展と分かち難い。名古屋電燈の経営者だった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は、木曽川水系の水力発電を拡張するにつれ余剰電力の活用先を必要としていた。顧問電気技師の寒川恒貞は欧米視察の後に電気製鉄・アルミ・ソーダ製造を検討し、電気製鋼の将来性を評価。1913年に名古屋電燈製鋼部を設置し、1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)として分離した。 [1][2]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]名古屋電燈の経営者 福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)が木曽川水系の水力発電の余剰電力の活用先を求めていた
    • [2]1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)が名古屋電燈製鋼部から分離

電気製鋼所の操業には黒鉛電極が大量に必要だったが、当時は米アチソン社からの輸入品に頼り高コストだった。寒川は電極の国産化を福沢に提案し、1918年4月8日に資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立。本社を東京、工場を名古屋に置き、寒川自身が初代社長に就任した。この会社は電気製鋼所の内製部門ではなく、関連業界の電極需要に広く応える独立炭素メーカーとして発足した点に特徴があった。電気製鋼所の一部門としてではなく別会社化したことで、後に電極以外の炭素製品やカーボンブラック、ファインカーボンへと事業領域を広げる余地が残された。 [3][4][5]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1918年4月8日 資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立(寒川恒貞が福沢桃介の賛意を得て設立、電気製鋼所向け国産黒鉛電極の供給が目的)
    • [4]寒川恒貞が初代社長に就任
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [5]本社を東京、工場を名古屋に置いた/電気製鋼所の内製部門ではなく独立炭素メーカーとして発足
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [1]名古屋電燈の経営者 福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)が木曽川水系の水力発電の余剰電力の活用先を求めていた
    • [2]1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)が名古屋電燈製鋼部から分離
    • [5]本社を東京、工場を名古屋に置いた/電気製鋼所の内製部門ではなく独立炭素メーカーとして発足
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1918年4月8日 資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立(寒川恒貞が福沢桃介の賛意を得て設立、電気製鋼所向け国産黒鉛電極の供給が目的)
    • [4]寒川恒貞が初代社長に就任

人造黒鉛から太物電極まで

創業翌年の1919年、東海電極は当時未開分野だった人造黒鉛の製造技術開発に着手し、1925年に電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功。苦心の末に1926年には大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以後わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たすことになる。1929年には製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始し、1934年には当時最大級の18吋電極の試作に成功して呉海軍工廠に納入した。軍需・重化学工業の拡張期に電極の太径化と品質向上で応じる姿勢が、業界でのポジションを固めた。 [6][7][8][9]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功(1919年からの人造黒鉛製造技術開発の成果)
    • [8]1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
    • [9]1934年 当時最大級の18吋電極を試作し呉海軍工廠に納入
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [7]1926年(大正15年)苦心の末に大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以来わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たした

事業拡張の動きも早かった。1919年に東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併し、電機用ブラシなどの小物炭素製品の生産を加えて炭素製品分野に進出。1935年には熊本県田浦町に第二東海電極を設立し翌年合併、田ノ浦工場を取得した。1936年には九州若松工場を新設して原料ピッチコークスの自社製造を開始。1938年には茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移し、電機用ブラシなどの本格生産を始めた。戦時統制下でも製造拠点を広げて原料から完成品まで内製化する垂直統合型の炭素メーカーの原型ができあがり、創業時に50万円だった資本金は終戦時には3,700万円に達した。 [10][11][12][13][14][15]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1919年 東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併(電機用ブラシなど小物炭素製品の生産を始め、炭素製品分野へ進出)
    • [13]1935年 熊本県田浦町に第二東海電極を設立、翌1936年に合併(田ノ浦工場を取得)
    • [14]1936年 九州若松工場を新設し原料ピッチコークスの自社製造を開始
    • [15]1938年 茅ヶ崎工場を建設(特殊炭素製造)
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [11]1938年 茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移設し、電機用ブラシなどの本格的な生産を始めた
    • [12]創業時50万円だった資本金は、戦時下の拡張を経て終戦時には3,700万円に達した
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功(1919年からの人造黒鉛製造技術開発の成果)
    • [8]1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
    • [9]1934年 当時最大級の18吋電極を試作し呉海軍工廠に納入
    • [10]1919年 東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併(電機用ブラシなど小物炭素製品の生産を始め、炭素製品分野へ進出)
    • [13]1935年 熊本県田浦町に第二東海電極を設立、翌1936年に合併(田ノ浦工場を取得)
    • [14]1936年 九州若松工場を新設し原料ピッチコークスの自社製造を開始
    • [15]1938年 茅ヶ崎工場を建設(特殊炭素製造)
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
    • [7]1926年(大正15年)苦心の末に大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以来わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たした
    • [11]1938年 茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移設し、電機用ブラシなどの本格的な生産を始めた
    • [12]創業時50万円だった資本金は、戦時下の拡張を経て終戦時には3,700万円に達した

カーボンブラック事業の原点

電極とならぶもう一本の柱となるカーボンブラックは、九州若松工場で副生するピッチオイルを原料とする試作研究から始まった。1937年に研究着手、1941年に本格製造を開始し、国産カーボンブラックの先駆的役割を果たした。戦時下の需給逼迫期を経て、戦後は1949年5月に東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場し、戦後復興期の株式市場再開に合わせて資本基盤を整えた。 [16][17]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1937年に研究着手し1941年にカーボンブラックの本格製造を開始(九州若松工場で副生するピッチオイルを原料、国産カーボンブラックの起点)
    • [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場

1949年10月のGHQ覚書により自動車に関するすべての制限が撤廃されると、自動車用タイヤ・ゴム産業が成長を始め、その補強剤としてのカーボンブラック需要が飛躍的に拡大する見込みが生まれた。電極が電気製鋼という副産物の出口から生まれたのに対し、カーボンブラックはタイヤ産業という別の成長市場の入口となった。2つの主力素材が揃ったことが、その後の事業構造を規定した。

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1937年に研究着手し1941年にカーボンブラックの本格製造を開始(九州若松工場で副生するピッチオイルを原料、国産カーボンブラックの起点)
    • [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場

1950年〜 自動車・鉄鋼と並走した国際展開

東海カーボンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

  1. 1950年 自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造
  2. 1955年 カーボンブラック国内シェア40%に到達
  3. 1959年 日本初の20吋電極を完成
  4. 1960年 米キャボット社とのカーボンブラック製造技術提携と知多工場の新設 国産初のファーネス式を自力で工業化した会社は、なぜ世界最大手の技術を入れたか
  5. 1962年 知多工場を新設、カーボンブラック製造
  6. 1971年 防府工場を新設、人造黒鉛電極製造
  7. 1988年 工場集約化と合理化を敢行

ファーネス式カーボンブラックの国産化

戦後のカーボンブラック需要は自動車産業の復活とともに拡大した。東海電極は1950年、自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造に成功し、ゴム用「シースト116」を工業化した。1955年には国内シェア40%に到達し、タイヤメーカー向けの主要サプライヤーとしての地位を築いた。昭和30年代には電気炉の大電力操業化に伴い太物電極の需要が高まり、1959年には日本で初めて20吋電極を完成させた。国内経済の変動に合わせて電極需要が増減する中、輸出を推進し1959年上期には電極輸出比率49%を記録した。 [18][19][20][21]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [18]1950年 自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造に成功、ゴム用「シースト116」を工業化
    • [19]1955年 カーボンブラック国内シェア40%に到達
    • [20]1959年 日本で初めて20吋電極を完成(電気炉の大電力操業化に対応)
    • [21]1959年上期 電極輸出比率49%を記録

1960年にはカーボンブラック分野で米キャボット社と技術提携契約を締結し、世界大手の製造技術を導入。若松工場の設備改善と並行して1962年には愛知県武豊町に知多工場を建設した。以降はタイヤ産業の活況に支えられてカーボンブラックの売上は急伸し、1975年下期には総売上の40%を超え主力製品となった。事業構造の変化を反映して1975年6月、社名を東海電極から東海カーボンに変更。1978年には石巻工場を新設し3工場体制が整い、1980年にはカーボンブラックが社内売上の50%を超えた。 [22][23][24]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [22]1960年 米キャボット社とカーボンブラック製造技術の提携契約を締結
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1975年6月 社名を東海電極から東海カーボンに変更(カーボンブラック比率が総売上の40%超に)
    • [24]1978年 石巻工場を新設し3工場体制が整った
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [18]1950年 自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造に成功、ゴム用「シースト116」を工業化
    • [19]1955年 カーボンブラック国内シェア40%に到達
    • [20]1959年 日本で初めて20吋電極を完成(電気炉の大電力操業化に対応)
    • [21]1959年上期 電極輸出比率49%を記録
    • [22]1960年 米キャボット社とカーボンブラック製造技術の提携契約を締結
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1975年6月 社名を東海電極から東海カーボンに変更(カーボンブラック比率が総売上の40%超に)
    • [24]1978年 石巻工場を新設し3工場体制が整った

プラザ合意後の円高と集約化

1985年9月のプラザ合意を受けて円高が進むと、電極の国際競争力は低下した。東海カーボンは1987年から1988年にかけて工場の集約化と合理化を敢行し、円高局面を乗り越えた。主力製品の電極とカーボンブラックがともに成熟産業であることへの危機感から、1986年7月には富士研究所を新設し、炭化けい素ウィスカー、C・Cコンポジット、燃料電池用カーボン、グラッシーカーボンなどの先端材料研究に着手した。 [25][26]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1985年9月のプラザ合意後の円高に対応し、1987〜1988年に工場の集約化と合理化を実施
    • [26]1986年7月 総合研究所「富士研究所」を新設(先端材料研究強化)

経営のグローバル化も本格化した。1987年9月にニューヨークに現地法人TOKAI CARBON AMERICAを設立、1990年2月にはタイに合弁でTHAI CARBON PRODUCT社を設立してカーボンブラック製造販売に進出。同年12月に韓国の正友石炭化学へカーボンブラック技術を供与するなど、アジア・北米への展開を積み上げた。電極の輸出に依存した1960年代の国際化から、現地生産・合弁・技術供与を組み合わせる1990年代型の国際化への転換が進んだ時期である。 [27][28]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [27]1987年9月 米国ニューヨークに現地法人TOKAI CARBON AMERICAを設立
    • [28]1990年2月 タイに合弁でTHAI CARBON PRODUCT社を設立(カーボンブラック製造販売)
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1985年9月のプラザ合意後の円高に対応し、1987〜1988年に工場の集約化と合理化を実施
    • [26]1986年7月 総合研究所「富士研究所」を新設(先端材料研究強化)
    • [27]1987年9月 米国ニューヨークに現地法人TOKAI CARBON AMERICAを設立
    • [28]1990年2月 タイに合弁でTHAI CARBON PRODUCT社を設立(カーボンブラック製造販売)

東洋カーボン合併で業界首位メーカーへ

国際競争力強化の節目となったのが、1992年1月の東洋カーボンとの合併である。両社はともに1918年創業の炭素メーカーで、70年余にわたり併存した。合併により滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場を取得し、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で国内シェア首位、電機用ブラシとファインカーボンで第2位を占める日本最大の炭素製品総合メーカーとなった。建設・産業用などの摩擦材(茅ヶ崎第二工場)、摺動材の新分野も加わった。 [29][30]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1992年1月 東洋カーボンと合併(滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場を取得、摩擦材事業を獲得、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で国内首位の炭素製品総合メーカーに)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [30]東海カーボンと東洋カーボンはともに1918年の創業以来、70年余の歴史をもつ炭素メーカーであった

合併時の1994年12月期で売上437億円・従業員947人という規模から、炭素製品総合メーカーとして電極・カーボンブラック・ファインカーボン・摩擦材の4事業を揃え、それぞれで国内上位を占める体制が整った。バブル崩壊後の長引く不況と円高進行下、東洋カーボン合併によるスケールメリットと事業ポートフォリオの拡張が、以後の海外展開とM&Aの基礎となった。一方で、タイヤ原料であるカーボンブラックの輸入が漸増し、国際競争力の向上が業界課題として残された。 [31]

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [31]1994年12月期 売上437億円
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1992年1月 東洋カーボンと合併(滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場を取得、摩擦材事業を獲得、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で国内首位の炭素製品総合メーカーに)
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
    • [30]東海カーボンと東洋カーボンはともに1918年の創業以来、70年余の歴史をもつ炭素メーカーであった
    • [31]1994年12月期 売上437億円

1992年〜 4事業グローバル化と電極市況の高波

東海カーボンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

  1. 1992年 同年創業の東洋カーボンとの合併と、炭素製品国内首位の総合メーカーへの再編 同じ1918年に生まれ70年余を並走した二社は、なぜ円高下の電極事業で一つになったか
  2. 1996年 大嶽史記夫が代表取締役社長就任
  3. 1996年 TOKAI CARBON KOREA設立
  4. 2005年 黒鉛電極製造販売会社ERFTCARBONを完全子会社化
  5. 2016年 初の純損失▲79億円
  6. 2017年 米SGL GE社の取得によるアジア・北米・欧州の黒鉛電極3極体制の構築 最大の電炉鋼市場・北米に足場を持つか——長坂一社長はなぜ他社買収の付帯条件に手を挙げたか
  7. 2018年 カーボンブラックメーカーSid Richardson Carbonを完全子会社化

ファインカーボンと欧州・アジア拠点の積み上げ

東洋カーボン合併後の1990年代後半以降、東海カーボンは半導体産業向けのファインカーボン事業を軸に海外拠点を増やした。1996年8月に韓国TOKAI CARBON KOREA、1999年3月に英国TOKAI CARBON EUROPE、2006年3月に中国大連のTokai Carbon (Dalian)を設立。ファインカーボンは半導体製造装置・シリコン結晶引き上げ装置部品といった先端市場向けで、電極・カーボンブラックとは異なる成長ドライバーに成長した。 [32]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1996年8月 韓国にTOKAI CARBON KOREAを設立(ファインカーボン加工販売)

電極分野でも欧州に足場を拡張した。2005年7月にはドイツの黒鉛電極製造販売会社ERFTCARBONの全持分を取得し完全子会社化(TOKAI ERFTCARBON GmbH)、2006年12月にはドイツのファインカーボン加工販売会社CARBON INDUSTRIE-PRODUKTEグループの出資持分80%を取得した。2007年9月にはドイツにファインカーボン欧州統括会社TOKAI CARBON EUROPE GmbHを設立し、欧州事業の現地体制を整えた。2007年代表取締役社長に工藤能成が就任(在任2007〜2015)し、国際化の実行段階に入った。 [33][34]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [33]2005年7月 ドイツの黒鉛電極製造販売会社ERFTCARBONの全持分を取得し完全子会社化(TOKAI ERFTCARBON GmbH)
    • [34]2006年12月 ドイツのファインカーボン加工販売会社CARBON INDUSTRIE-PRODUKTEグループの出資持分80%を取得
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1996年8月 韓国にTOKAI CARBON KOREAを設立(ファインカーボン加工販売)
    • [33]2005年7月 ドイツの黒鉛電極製造販売会社ERFTCARBONの全持分を取得し完全子会社化(TOKAI ERFTCARBON GmbH)
    • [34]2006年12月 ドイツのファインカーボン加工販売会社CARBON INDUSTRIE-PRODUKTEグループの出資持分80%を取得

リーマンショックと電極市況の振幅

2008年9月のリーマンショックは東海カーボンを直撃した。FY08売上1,284億円・営業利益216億円から、FY09売上832億円・営業利益52億円へと売上が3分の2に、営業利益が4分の1に急落した。世界的な自動車生産急減と鉄鋼需要の縮小が、カーボンブラックと電極の両方を同時に押し下げた。2010〜2015年にかけて売上高は1,000億円前後に戻ったものの、電極市況は低迷し、FY15の黒鉛電極事業は売上約270億円・営業利益約25億円にとどまった。 [35]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [35]FY09(2009年12月期)売上832億円・営業利益52億円

転機はFY16の減損である。電極・ファインカーボン事業の減損損失など特別損失110億円を計上し、FY16通期で純損失▲79億円と創業以来の最大赤字を記録した。2015年に社長に就任した長坂一は、この赤字を踏まえて電極事業の再構築を進める方針を明確化した。市況悪化を受けた同業他社の撤退と、中国環境規制による電極供給タイト化が同時進行する中で、次の買収機会を窺う局面に入った。 [36]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [36]2015年 長坂一が代表取締役社長に就任
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [35]FY09(2009年12月期)売上832億円・営業利益52億円
    • [36]2015年 長坂一が代表取締役社長に就任

SGL買収と電極市況のピーク

長坂在任中の最大のM&Aは、2017年11月の米SGL GE社買収である。ドイツSGL社の黒鉛電極事業を承継した米国法人を取得し、社名をTOKAI CARBON GE LLCとした。これによりアジア・北米・欧州の3極体制が実現し、世界大手の一角としての地位を築いた。2018年9月には米国のカーボンブラックメーカーSid Richardson Carbonを、2019年7月にはドイツの炭素黒鉛製品グループCOBEX Holdcoを完全子会社化し、アルミ・鉄鋼向けスメルティング&ライニング事業を獲得した。 [37][38][39]

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [37]2017年11月 米SGL GE社を完全子会社化(ドイツSGL社の黒鉛電極事業を承継した米国法人を取得、社名をTOKAI CARBON GE LLCとし、アジア・北米・欧州の3極体制を実現)
    • [38]2018年9月 米カーボンブラックメーカーSid Richardson Carbonを完全子会社化
    • [39]2019年7月 ドイツCOBEX Holdcoを完全子会社化(スメルティング&ライニング事業を獲得)

M&A後のタイミングは異例に恵まれた。中国環境規制による電極供給絞り込みと電炉鉄鋼需要の急増が重なり、電極市況が急騰。FY18は売上高2,313億円(前期の2.2倍)、営業利益731億円(前期111億円から6倍強)、純利益734億円と過去最高益を記録した。黒鉛電極事業単独で売上1,021億円・営業利益560億円・利益率55%という異常値を記録し、買収価格の回収は1年程度で完了した計算になる。市況のピークでSGLを取得した幸運は、しかし同時に以後の市況反転局面での調整を不可避にした。

  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
    • [37]2017年11月 米SGL GE社を完全子会社化(ドイツSGL社の黒鉛電極事業を承継した米国法人を取得、社名をTOKAI CARBON GE LLCとし、アジア・北米・欧州の3極体制を実現)
    • [38]2018年9月 米カーボンブラックメーカーSid Richardson Carbonを完全子会社化
    • [39]2019年7月 ドイツCOBEX Holdcoを完全子会社化(スメルティング&ライニング事業を獲得)

東海カーボンの沿革1918〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
東海電極製造を設立
大三位製作所を合併
電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功
製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
当時最大級の18吋電極を試作、呉海軍工廠に納入
第二東海電極を設立
九州若松工場新設、ピッチコークス製造開始
茅ヶ崎工場を新設、特殊炭素製造
九州若松工場でカーボンブラック製造を開始★★
東京・大阪・名古屋3証券取引所に株式上場
自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造★★
カーボンブラック国内シェア40%に到達
日本初の20吋電極を完成
米キャボット社とのカーボンブラック製造技術提携と知多工場の新設国産初のファーネス式を自力で工業化した会社は、なぜ世界最大手の技術を入れたか 詳細を読む★★★
知多工場を新設、カーボンブラック製造
防府工場を新設、人造黒鉛電極製造
商号を東海電極から東海カーボンに変更
石巻工場新設
田ノ浦工場で等方性黒鉛材の生産技術を確立
総合研究所「富士研究所」を新設
ニューヨークにファインカーボン販売会社TOKAI CARBON AMERICA設立
工場集約化と合理化を敢行★★
合弁でTHAI CARBON PRODUCT設立
同年創業の東洋カーボンとの合併と、炭素製品国内首位の総合メーカーへの再編同じ1918年に生まれ70年余を並走した二社は、なぜ円高下の電極事業で一つになったか 詳細を読む★★★
大嶽史記夫大嶽史記夫が代表取締役社長就任
大嶽史記夫TOKAI CARBON KOREA設立
大嶽史記夫大阪・名古屋証券取引所の上場廃止
大嶽史記夫黒鉛電極製造販売会社ERFTCARBONを完全子会社化★★
工藤能成ファインカーボン加工販売会社CARBON INDUSTRIE-PRODUKTE出資持分80%取得
工藤能成工藤能成が代表取締役社長就任
工藤能成リーマンショックで売上半減
長坂一長坂一が代表取締役社長就任
長坂一初の純損失▲79億円★★
長坂一米SGL GE社の取得によるアジア・北米・欧州の黒鉛電極3極体制の構築最大の電炉鋼市場・北米に足場を持つか——長坂一社長はなぜ他社買収の付帯条件に手を挙げたか 詳細を読む★★★
長坂一カーボンブラックメーカーSid Richardson Carbonを完全子会社化★★
長坂一電極市況高騰で売上2,313億円・営業利益731億円
長坂一売上高3,404億円・営業利益406億円
長坂一純損失▲565億円、特別損失769億円★★
長坂一滋賀工場の黒鉛電極生産中止、Tokai Erftcarbonを譲渡★★
長坂一ブリヂストン・旭カーボン所有のBRIDGESTONE CARBON BLACK THAILANDを共同取得
出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
  • 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)

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