1918年〜 電極国産化から戦後復興へ
東海カーボンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
- 1918年 東海電極製造を設立
- 1919年 大三位製作所を合併
- 1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功
- 1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
- 1934年 当時最大級の18吋電極を試作、呉海軍工廠に納入
- 1935年 第二東海電極を設立
- 1941年 九州若松工場でカーボンブラック製造を開始
余剰電力の出口として生まれた会社
東海カーボンの創業は、中京財界における電力事業の発展と分かち難い。名古屋電燈の経営者だった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は、木曽川水系の水力発電を拡張するにつれ余剰電力の活用先を必要としていた。顧問電気技師の寒川恒貞は欧米視察の後に電気製鉄・アルミ・ソーダ製造を検討し、電気製鋼の将来性を評価。1913年に名古屋電燈製鋼部を設置し、1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)として分離した。 [1][2]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]名古屋電燈の経営者 福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)が木曽川水系の水力発電の余剰電力の活用先を求めていた
- [2]1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)が名古屋電燈製鋼部から分離
電気製鋼所の操業には黒鉛電極が大量に必要だったが、当時は米アチソン社からの輸入品に頼り高コストだった。寒川は電極の国産化を福沢に提案し、1918年4月8日に資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立。本社を東京、工場を名古屋に置き、寒川自身が初代社長に就任した。この会社は電気製鋼所の内製部門ではなく、関連業界の電極需要に広く応える独立炭素メーカーとして発足した点に特徴があった。電気製鋼所の一部門としてではなく別会社化したことで、後に電極以外の炭素製品やカーボンブラック、ファインカーボンへと事業領域を広げる余地が残された。 [3][4][5]
- 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
- [3]1918年4月8日 資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立(寒川恒貞が福沢桃介の賛意を得て設立、電気製鋼所向け国産黒鉛電極の供給が目的)
- [4]寒川恒貞が初代社長に就任
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [5]本社を東京、工場を名古屋に置いた/電気製鋼所の内製部門ではなく独立炭素メーカーとして発足
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- [1]名古屋電燈の経営者 福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)が木曽川水系の水力発電の余剰電力の活用先を求めていた
- [2]1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)が名古屋電燈製鋼部から分離
- [5]本社を東京、工場を名古屋に置いた/電気製鋼所の内製部門ではなく独立炭素メーカーとして発足
- 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
- [3]1918年4月8日 資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立(寒川恒貞が福沢桃介の賛意を得て設立、電気製鋼所向け国産黒鉛電極の供給が目的)
- [4]寒川恒貞が初代社長に就任
人造黒鉛から太物電極まで
創業翌年の1919年、東海電極は当時未開分野だった人造黒鉛の製造技術開発に着手し、1925年に電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功。苦心の末に1926年には大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以後わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たすことになる。1929年には製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始し、1934年には当時最大級の18吋電極の試作に成功して呉海軍工廠に納入した。軍需・重化学工業の拡張期に電極の太径化と品質向上で応じる姿勢が、業界でのポジションを固めた。 [6][7][8][9]
- 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
- [6]1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功(1919年からの人造黒鉛製造技術開発の成果)
- [8]1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
- [9]1934年 当時最大級の18吋電極を試作し呉海軍工廠に納入
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- [7]1926年(大正15年)苦心の末に大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以来わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たした
事業拡張の動きも早かった。1919年に東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併し、電機用ブラシなどの小物炭素製品の生産を加えて炭素製品分野に進出。1935年には熊本県田浦町に第二東海電極を設立し翌年合併、田ノ浦工場を取得した。1936年には九州若松工場を新設して原料ピッチコークスの自社製造を開始。1938年には茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移し、電機用ブラシなどの本格生産を始めた。戦時統制下でも製造拠点を広げて原料から完成品まで内製化する垂直統合型の炭素メーカーの原型ができあがり、創業時に50万円だった資本金は終戦時には3,700万円に達した。 [10][11][12][13][14][15]
- 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
- [10]1919年 東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併(電機用ブラシなど小物炭素製品の生産を始め、炭素製品分野へ進出)
- [13]1935年 熊本県田浦町に第二東海電極を設立、翌1936年に合併(田ノ浦工場を取得)
- [14]1936年 九州若松工場を新設し原料ピッチコークスの自社製造を開始
- [15]1938年 茅ヶ崎工場を建設(特殊炭素製造)
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- [11]1938年 茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移設し、電機用ブラシなどの本格的な生産を始めた
- [12]創業時50万円だった資本金は、戦時下の拡張を経て終戦時には3,700万円に達した
- 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
- [6]1925年 電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功(1919年からの人造黒鉛製造技術開発の成果)
- [8]1929年 製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始
- [9]1934年 当時最大級の18吋電極を試作し呉海軍工廠に納入
- [10]1919年 東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併(電機用ブラシなど小物炭素製品の生産を始め、炭素製品分野へ進出)
- [13]1935年 熊本県田浦町に第二東海電極を設立、翌1936年に合併(田ノ浦工場を取得)
- [14]1936年 九州若松工場を新設し原料ピッチコークスの自社製造を開始
- [15]1938年 茅ヶ崎工場を建設(特殊炭素製造)
- 企業の歴史(明治百年)(経済春秋社, 1968)
- [7]1926年(大正15年)苦心の末に大型人造黒鉛電極の製造に成功し、以来わが国炭素工業の発展に指導的役割を果たした
- [11]1938年 茅ヶ崎工場を建設して大三位工場の設備を移設し、電機用ブラシなどの本格的な生産を始めた
- [12]創業時50万円だった資本金は、戦時下の拡張を経て終戦時には3,700万円に達した
カーボンブラック事業の原点
電極とならぶもう一本の柱となるカーボンブラックは、九州若松工場で副生するピッチオイルを原料とする試作研究から始まった。1937年に研究着手、1941年に本格製造を開始し、国産カーボンブラックの先駆的役割を果たした。戦時下の需給逼迫期を経て、戦後は1949年5月に東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場し、戦後復興期の株式市場再開に合わせて資本基盤を整えた。 [16][17]
- 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
- [16]1937年に研究着手し1941年にカーボンブラックの本格製造を開始(九州若松工場で副生するピッチオイルを原料、国産カーボンブラックの起点)
- [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場
1949年10月のGHQ覚書により自動車に関するすべての制限が撤廃されると、自動車用タイヤ・ゴム産業が成長を始め、その補強剤としてのカーボンブラック需要が飛躍的に拡大する見込みが生まれた。電極が電気製鋼という副産物の出口から生まれたのに対し、カーボンブラックはタイヤ産業という別の成長市場の入口となった。2つの主力素材が揃ったことが、その後の事業構造を規定した。
- 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
- [16]1937年に研究着手し1941年にカーボンブラックの本格製造を開始(九州若松工場で副生するピッチオイルを原料、国産カーボンブラックの起点)
- [17]1949年5月 東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場