歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1918年、名古屋電燈の福沢桃介は木曽川水力の余剰電力に出口を求めていた。顧問技師の寒川恒貞は、電気製鋼所が輸入に頼る黒鉛電極の国産化を提案し、東海電極製造を設立する。これを製鋼所の内製部門にはせず、関連業界の電極需要に広く応える独立した炭素メーカーとした。自社で市場を持たず、他産業が要る素材を作って供給する。電極にとどまらない炭素製品へ進む余地は、この独立した出発のなかにあった。
決断その独立した出発が戦後に効いた。1950年に日本初のファーネス式カーボンブラックを工業化し、復興する自動車・タイヤ産業の需要を取り込んで国内シェア4割を握る。電気製鋼の副産物の出口だった電極に対し、カーボンブラックはタイヤという別の市場への入口になった。鉄鋼とタイヤ、二つの産業へ売上の支えを分けたうえで、1992年に東洋カーボンと合併し、電極・カーボンブラック・ファインカーボン・摩擦材を揃える炭素総合メーカーへ進んだ。
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歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1918年〜1949年 電極国産化から戦後復興へ
余剰電力の出口として生まれた会社
東海カーボンの創業は、中京財界における電力事業の発展と分かち難い。名古屋電燈の経営者だった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は、木曽川水系の水力発電を拡張するにつれ余剰電力の活用先を必要としていた。顧問電気技師の寒川恒貞は欧米視察の後に電気製鉄・アルミ・ソーダ製造を検討し、電気製鋼の将来性を評価。1913年に名古屋電燈製鋼部を設置し、1916年に電気製鋼所(現大同特殊鋼)として分離した。
電気製鋼所の操業には黒鉛電極が大量に必要だったが、当時は米アチソン社からの輸入品に頼り高コストだった。寒川は電極の国産化を福沢に提案し、1918年4月8日に資本金50万円で東海電極製造株式会社を設立。本社を東京、工場を名古屋に置き、寒川自身が初代社長に就任した。この会社は電気製鋼所の内製部門ではなく、関連業界の電極需要に広く応える独立炭素メーカーとして発足した点に特徴があった。電気製鋼所の一部門としてではなく別会社化したことで、後に電極以外の炭素製品やカーボンブラック、ファインカーボンへと事業領域を広げる余地が残された。
人造黒鉛から太物電極まで
創業翌年の1919年、東海電極は当時未開分野だった人造黒鉛の製造技術開発に着手し、1925年に電解ソーダ工業用人造黒鉛電極(電解板)の試作に成功。1929年には製鋼用人造黒鉛電極(細物)の生産を開始し、1934年には当時最大級の18吋電極の試作に成功して呉海軍工廠に納入した。軍需・重化学工業の拡張期に電極の太径化と品質向上で応じる姿勢が、業界でのポジションを固めた。
事業拡張の動きも早かった。1919年に東京の小物炭素製品メーカー大三位製作所を合併して炭素製品分野に進出。1935年には熊本県田浦町に第二東海電極を設立し翌年合併、田ノ浦工場を取得した。1936年には九州若松工場を新設して原料ピッチコークスの自社製造を開始。1938年の茅ヶ崎工場建設を含め、戦時統制下でも製造拠点を広げ、原料から完成品まで内製化する垂直統合型の炭素メーカーの原型ができあがった。
カーボンブラック事業の原点
電極とならぶもう一本の柱となるカーボンブラックは、九州若松工場で副生するピッチオイルを原料とする試作研究から始まった。1937年に研究着手、1941年に本格製造を開始し、国産カーボンブラックの先駆的役割を果たした。戦時下の需給逼迫期を経て、戦後は1949年5月に東京・大阪・名古屋の3証券取引所に株式を上場し、戦後復興期の株式市場再開に合わせて資本基盤を整えた。
1949年10月のGHQ覚書により自動車に関するすべての制限が撤廃されると、自動車用タイヤ・ゴム産業が成長を始め、その補強剤としてのカーボンブラック需要が飛躍的に拡大する見込みが生まれた。電極が電気製鋼という副産物の出口から生まれたのに対し、カーボンブラックはタイヤ産業という別の成長市場の入口となった。2つの主力素材が揃ったことが、その後の事業構造を規定した。
1950年〜1991年 自動車・鉄鋼と並走した国際展開
ファーネス式カーボンブラックの国産化
戦後のカーボンブラック需要は自動車産業の復活とともに拡大した。東海電極は1950年、自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造に成功し、ゴム用「シースト116」を工業化した。1955年には国内シェア40%に到達し、タイヤメーカー向けの主要サプライヤーとしての地位を築いた。昭和30年代には電気炉の大電力操業化に伴い太物電極の需要が高まり、1959年には日本で初めて20吋電極を完成させた。国内経済の変動に合わせて電極需要が増減する中、輸出を推進し1959年上期には電極輸出比率49%を記録した。
1960年にはカーボンブラック分野で米キャボット社と技術提携契約を締結し、世界大手の製造技術を導入。若松工場の設備改善と並行して1963年には愛知県武豊町に知多工場を新設した。以降はタイヤ産業の活況に支えられてカーボンブラックの売上は急伸し、1975年下期には総売上の40%を超え主力製品となった。事業構造の変化を反映して1975年6月、社名を東海電極から東海カーボンに変更。1978年には石巻工場を新設し3工場体制が整い、1980年にはカーボンブラックが社内売上の50%を超えた。
プラザ合意後の円高と集約化
1985年9月のプラザ合意を受けて円高が進むと、電極の国際競争力は低下した。東海カーボンは1987年から1988年にかけて工場の集約化と合理化を敢行し、円高局面を乗り越えた。主力製品の電極とカーボンブラックがともに成熟産業であることへの危機感から、1986年7月には富士研究所を新設し、炭化けい素ウィスカー、C・Cコンポジット、燃料電池用カーボン、グラッシーカーボンなどの先端材料研究に着手した。
経営のグローバル化も本格化した。1987年9月にニューヨークに現地法人TOKAI CARBON AMERICAを設立、1990年2月にはタイに合弁でTHAI CARBON PRODUCT社を設立してカーボンブラック製造販売に進出。同年12月に韓国の正友石炭化学へカーボンブラック技術を供与するなど、アジア・北米への展開を積み上げた。電極の輸出に依存した1960年代の国際化から、現地生産・合弁・技術供与を組み合わせる1990年代型の国際化への転換が進んだ時期である。
東洋カーボン合併で業界首位メーカーへ
国際競争力強化の節目となったのが、1992年1月の東洋カーボンとの合併である。両社はともに1918年創業の炭素メーカーで、70年余にわたり併存した。合併により滋賀工場・山梨工場・茅ヶ崎第二工場を取得し、カーボンブラック・人造黒鉛電極・不浸透性黒鉛で国内シェア首位、電機用ブラシとファインカーボンで第2位を占める日本最大の炭素製品総合メーカーとなった。建設・産業用などの摩擦材(茅ヶ崎第二工場)、摺動材の新分野も加わった。
合併時の1994年12月期で売上437億円・従業員947人という規模から、炭素製品総合メーカーとして電極・カーボンブラック・ファインカーボン・摩擦材の4事業を揃え、それぞれで国内上位を占める体制が整った。バブル崩壊後の長引く不況と円高進行下、東洋カーボン合併によるスケールメリットと事業ポートフォリオの拡張が、以後の海外展開とM&Aの基礎となった。一方で、タイヤ原料であるカーボンブラックの輸入が漸増し、国際競争力の向上が業界課題として残された。
1992年〜2019年 4事業グローバル化と電極市況の高波
ファインカーボンと欧州・アジア拠点の積み上げ
東洋カーボン合併後の1990年代後半以降、東海カーボンは半導体産業向けのファインカーボン事業を軸に海外拠点を増やした。1996年8月に韓国TOKAI CARBON KOREA、1999年3月に英国TOKAI CARBON EUROPE、2006年3月に中国大連のTokai Carbon (Dalian)を設立。ファインカーボンは半導体製造装置・シリコン結晶引き上げ装置部品といった先端市場向けで、電極・カーボンブラックとは異なる成長ドライバーに成長した。
電極分野でも欧州に足場を拡張した。2005年7月にはドイツの黒鉛電極製造販売会社ERFTCARBONの全持分を取得し完全子会社化(TOKAI ERFTCARBON GmbH)、2006年12月にはドイツのファインカーボン加工販売会社CARBON INDUSTRIE-PRODUKTEグループの出資持分80%を取得した。2007年9月にはドイツにファインカーボン欧州統括会社TOKAI CARBON EUROPE GmbHを設立し、欧州事業の現地体制を整えた。2006年代表取締役社長に工藤能成が就任(在任2007〜2015)し、国際化の実行段階に入った。
リーマンショックと電極市況の振幅
2008年9月のリーマンショックは東海カーボンを直撃した。FY08売上1,284億円・営業利益216億円から、FY09売上832億円・営業利益52億円へと売上が3分の2に、営業利益が4分の1に急落した。世界的な自動車生産急減と鉄鋼需要の縮小が、カーボンブラックと電極の両方を同時に押し下げた。2010〜2015年にかけて売上高は1,000億円前後に戻ったものの、電極市況は低迷し、FY15の黒鉛電極事業は売上466億円・営業利益47億円にとどまった。
転機はFY16の減損である。電極・ファインカーボン事業の減損損失など特別損失110億円を計上し、FY16通期で純損失▲79億円と創業以来の最大赤字を記録した。2015年に社長に就任した長坂一は、この赤字を踏まえて電極事業の再構築を進める方針を明確化した。市況悪化を受けた同業他社の撤退と、中国環境規制による電極供給タイト化が同時進行する中で、次の買収機会を窺う局面に入った。
SGL買収と電極市況のピーク
長坂在任中の最大のM&Aは、2017年11月の米SGL GE社買収である。ドイツSGL社の黒鉛電極事業を承継した米国法人を取得し、社名をTOKAI CARBON GE LLCとした。これによりアジア・北米・欧州の3極体制が実現し、世界大手の一角としての地位を築いた。2018年9月には米国のカーボンブラックメーカーSid Richardson Carbonを、2019年7月にはドイツの炭素黒鉛製品グループCOBEX Holdcoを完全子会社化し、アルミ・鉄鋼向けスメルティング&ライニング事業を獲得した。
M&A後のタイミングは異例に恵まれた。中国環境規制による電極供給絞り込みと電炉鉄鋼需要の急増が重なり、電極市況が急騰。FY18は売上高2,313億円(前期の2.2倍)、営業利益731億円(前期115億円から6倍強)、純利益734億円と過去最高益を記録した。黒鉛電極事業単独で売上1,021億円・営業利益560億円・利益率55%という異常値を記録し、買収価格の回収は1年程度で完了した計算になる。市況のピークでSGLを取得した幸運は、しかし同時に以後の市況反転局面での調整を不可避にした。