1918年に寒川恒貞氏が製鋼用電極の国産化を目指して設立した東海電極製造が起源。
1950年に自社技術で日本初のファーネス式カーボンブラック製造を工業化した。黒鉛電極と半導体向けファインカーボンも持つ炭素製品メーカーで、カーボンブラックは年産200万トン規模に育った。
東海電極製造は1918年4月8日、資本金50万円で設立された。工場は名古屋、本社は東京とし、同年11月に操業を始めた。創業者の寒川恒貞氏は電気製鋼所の常務取締役として、北海道から船で届く三角電極が海の荒れで遅れ、電気炉が止まる事態に悩んでいた。製鋼用電極と電解ソーダ用電解板は国内の技術では品質が足りず、需要の大半を米国アチソン社の製品に依存していた。設立趣意書は『最も優秀なる電極材料を供給し,一般電気炉工業並に電解工業の発達を助成し』ことを事業の目的に掲げた。自社の製鋼所向けの自給にとどめず、他の電気炉工業や電解工業へ売ることを前提に別会社とした判断が、総合炭素メーカーへの起点になったとみられる。
東海電極製造は1919年11月1日の臨時株主総会で大三位製作所の合併を決め、資本金を100万円とした。大三位製作所は1911年創立の品川大井の工場で、電刷子の製造を担った。竹内時次氏が米国で得た知識をもとに興し、「OS」マークの電刷子は芝浦製作所などの電機メーカーに納められていた。寒川恒貞氏は炭素製品を幅広く手がける総合化を志向しており、小物炭素製品の技術と顧客を持つ同業との合併を得策と判断した。合併に合わせ、営業目的に電刷子とカーボランダムなどの窯業を加えた。合併直後の1920年上期には、電刷子の好調を受けて1割2分の合併記念配当を実施した。電極の量産が立つ前に、販路の固まった電刷子で収益の足場を得たと推察される。
東海電極製造は1928年7月、アチソン社の製品と同等の品質を持つ人造黒鉛質の電解板を開発した。電解ソーダ工場は第1次大戦中に15〜16か所へ増え、大戦末期に米国が電解板の輸出を禁じたことで国産化の要請が強まっていた。1923年の関東大震災後の特需は短く、国産電極の用途は合金鉄とカーバイド用に限られていた。1925年に試作品が東海曹達と関東酸曹の電解槽で使われ、国産電解板の初の実用化となった。1927年7月には商工省の研究補助金を受け、名古屋工場の黒鉛化の月産能力を1トンから2.5トンに引き上げた。創業以来の名古屋工場の設備改良と拡張が、この研究の土台となった。製鋼用より先に電解板を仕上げた背景には、ソーダ業界と商工省の支援で研究費を賄えた事情があったと思われる。
東海電極製造は1930年3月、名古屋工場で焼成炉と黒鉛化炉に手を入れ、黒鉛化の能力を月産10トンとして電解板の本格生産に入った。1929年12月の金輸出解禁で輸入品の調達が難しくなり、曹達晒粉同業会は1930年1月に年間購入量200トンの1割を東海電極製造に発注した。電刷子では1930年に大三位工場が人造黒鉛質の「2703」を製品化した。製鋼用では1928年頃から細物の丸形人造黒鉛電極を手がけ、1932年4月には径200ミリ以下の品が海軍工廠に指定された。1926年の人造黒鉛電極の製造成功以来の蓄積が、細物電極の量産を支えた。電解板の売上が先に立ったことで、太物電極の研究に充てる資金の出所ができたのだろう。
東海電極製造は1934年9月に径18インチの人造黒鉛電極を試作し、同年10月、初の納入先として呉海軍工廠に届けた。発端は1931年、呉海軍工廠が特殊鋼を作るため北米から30トン電気炉を輸入すると決めたことにあった。電極は2年分を輸入でつなぎ、1934年までに国産化するよう求められた。社長の寒川恒貞氏は大型プレスの先行投資を認めず、短い電極でも径450ミリの黒鉛化品をまず試作するよう求めた。技師の永井雅夫氏は『昭和9年にやっと3本の試作品を提出する迄に約1,000本の不良製品が残骸をさらしたのであった』と回顧している。この太物電極の量産が、のちに第二東海電極を設ける目的となった。設備より試作の実証を先にした手順が、小さな資本で太物電極に挑む危険を抑えたことがうかがえる。
東海電極製造は1935年3月、資本金300万円の第二東海電極を設立し、熊本県田ノ浦に工場を建てた。人造黒鉛電極の需要は年約4,000トンに達し、名古屋工場は用地も電力も拡張の余地を失っていた。熊本電気が25年間・1万キロワットの電力を低額で供給する条件を受け入れたことが、田ノ浦を選ぶ決め手となった。出資の大半を東海電極製造が持ち、熊本電気と大同電気製鋼所も株主に加わった。原料では1936年1月に福岡県の若松工場でピッチコークスの生産を始めた。田ノ浦工場は同年3月に全電極工場が稼働し、東海電極製造は同年11月に第二東海電極を合併した。これで原料のピッチコークスから電極まで自社で一貫して作る体制が整った。電力費が原価を左右する人造黒鉛電極では、安い電力の確保が工場の立地を決めたと解される。
東海電極製造は1938年6月、神奈川県茅ケ崎町に電刷子と炭素棒の工場を新設した。前年4月、取締役技術部長の寒川恒一郎氏と名古屋工場長の村上竹蔵氏が欧米視察に出て、日中戦争の勃発を受けて10月に帰国していた。両氏はドイツのリングスドルフ社などの設備を見て、電刷子を大工場方式で量産するよう進言した。茅ケ崎工場の当初の能力は電刷子が月産15万個、炭素棒が月産15万本であった。視察の成果にはリードハンマー式の焼成炉と、カーボンブラックの採集炉の採用も含まれた。資金面では1938年8月に400万円を増資し、資本金を1,000万円とした。1944年12月には大三位工場を閉じ、その設備を茅ケ崎へ移した。海外の設備を見た技術者の進言が、軍需で膨らむ小物炭素製品の量産に直結したと考えられる。
東海電極製造は1939年10月、九州若松工場でカーボンブラック工場(月産50トン)の建設に着手し、1941年1月に完成させた。米国は1939年7月、日米通商航海条約を破棄すると日本に伝え、1941年3月の対日経済封鎖でカーボンブラックは輸入できなくなった。カーボンブラックはゴム工業と印刷インクに欠かせない原料であった。若松工場ではピッチコークスの製造で出る重質のピッチオイルの保管が懸案であった。1937年の渡独調査でピッチオイルからカーボンブラックを採集するリードハンマー社の方式を知り、その製造権を取得した。工場は操業2か月目から月産50トンを確保し、1943年の生産は900トンを超えて国内1位となった。1939年以来のカーボンブラックの研究は、戦後のタイヤ需要に応える新しいプラントへつながった。
東海電極製造は1945年11月、名古屋・田ノ浦・九州若松・茅ケ崎・名古屋第2の全工場に生産の再開を指令した。終戦直後、社長の寒川恒一郎氏は全工場の操業を止め、9月30日に社員の半数を整理していた。空襲の被害は豊田分工場を除いて軽く、若松工場も1946年下期にはピッチコークスとカーボンブラックの製造を立ち上げ直した。余った電力で石炭不足を補う鉄鋼増産が進み、1946年には名古屋と田ノ浦で人造黒鉛電極の増産が続いた。1946年7月に藤沢市で技術研究所を開設し、1948年12月には名古屋工場を復旧させた。1948年5月に企業再建整備計画の認可を得ると、同年8月に資本金を3,700万円から8,000万円に増やし、下期に配当を10%で再開した。電極の復興需要が、戦後の再建を支える収益源となったと推測される。
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事実根拠:出所(東海カーボン)