外国から技術を買って第二の柱ができた、という筋書きでこの提携をまとめると、起きたことを取り違える。東海電極製造は1950年に独自の技術でファーネス式の国産化に成功し、1955年には国内シェア40%を占めていた。足りなかったのは技術の有無ではなく、自動車生産の伸びに設備と品質を合わせる時間であった。1960年の提携は、その時間を対価を払って買い、若松の改善と知多の新設に振り向けた判断と推察される。
もっとも、提携がすぐ効いたわけではない。カーボンブラックの比率は1960年下期に9.6%、1968年ごろでも約26%にとどまり、売上で電極を上回るのは17年後の1977年度であった。2018年12月期には市況の高騰で電極が再び利益の牽引役となり、二本の柱の主従は時期によって入れ替わっている。柱を一本増やすとは、競争優位を保って生き残る事業を当てることではなく、景気の波形が違う事業を並べて持ち続けることだったといえる。