東海カーボン米キャボット社とのカーボンブラック製造技術提携と知多工場の新設

国産初のファーネス式を自力で工業化した会社は、なぜ世界最大手の技術を入れたか

時期 1960年
意思決定者(推定) 東海電極製造 取締役会
論点 カーボンブラックの製造技術と生産能力
概要
1960年、東海電極製造は米キャボット社とカーボンブラックの製造技術について提携契約を結んだ。自社技術でファーネス式の国産化に先鞭をつけていた同社が世界最大手の技術を導入し、若松工場の設備を改めたうえで、1962年12月に愛知県武豊町へ知多工場を新設した。1960年下期に売上の9.6%だったカーボンブラックは、のちに黒鉛電極と並ぶ二本目の柱となった。
背景
1949年10月に自動車に関する制限が撤廃されるとタイヤ・ゴム工業が伸び、補強剤であるカーボンブラックの需要は急増した。同社は1950年にわが国初のファーネス式を工業化し1955年に国内シェア40%を得たが、売上の主力は黒鉛電極で、その需要は国内景気に連動して振れていた。
内容
米国最大手のキャボット社と製造技術の提携契約を締結し、若松工場の設備改善と生産能力の増強を進めた。あわせて二番目の専用拠点として1962年12月に知多工場を建設し、タイヤ向けカーボンブラックの量産体制を整えた。
含意
カーボンブラックは1975年下期に総売上の40%を超えて主力製品となり、同年6月の東海カーボンへの商号変更、1977年度の電極超えにつながった。1990年にはタイ・韓国へ製造技術を供与する側へ回っている。
筆者の見解

借りたのは技術か、時間か

外国から技術を買って第二の柱ができた、という筋書きでこの提携をまとめると、起きたことを取り違える。東海電極製造は1950年に独自の技術でファーネス式の国産化に成功し、1955年には国内シェア40%を握っていた。足りなかったのは技術の有無ではなく、自動車生産の伸びに設備と品質を合わせる時間であった。1960年の提携は、その時間を対価を払って買い、若松の改善と知多の新設に振り向けた判断とみることができる。

もっとも、提携がすぐ効いたわけではない。カーボンブラックの比率は1960年下期に9.6%、1968年ごろでも約26%にとどまり、売上で電極を上回るのは17年後の1977年度であった。2018年12月期には市況の高騰で電極が再び利益の牽引役となり、二本の柱の主従は時期によって入れ替わっている。柱を一本増やすとは、勝ち残る事業を当てることではなく、景気の波形が違う事業を並べて持ち続けることだったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

副生物から生まれたカーボンブラック

東海電極製造がカーボンブラックの製造を本格的に始めたのは、1941年1月の九州若松工場であった。若松工場はもともと黒鉛電極の原料であるピッチコークスを作るために建てた工場で、その過程で出る副生物のピッチオイルを原料に、1937年から試作研究を重ねてきた。原料から製品までを自前で通す一貫生産の延長に生まれた製品であり、国産カーボンブラックの先駆にあたる[1][2]

戦後の需要は自動車から来た。1949年10月にGHQ覚書で自動車に関する制限がすべて撤廃されると、タイヤとゴムの生産が伸び、補強剤であるカーボンブラックの需要は急に増えた。同社は1950年3月、独自の技術でゴム用ファーネスブラック「シースト116」の工業化にわが国で初めて成功し、1953年7月には若松工場に月産100トンの専用工場を建てた。1955年には国内シェアが40%に達した[3][4]

電極を主とする多角の事業構成

当時の東海電極製造は、炭素製品だけの会社ではなかった。1952年10月に富山県の中越電気工業を合併してカーバイド・石灰窒素・合金鉄・鋳物を扱う肥料と金属の部門を加え、1953年8月にはアセチレンからメチル・エチルケトンを合成する工業化にも着手している。電極で稼いだ資金を隣接する化学へ向ける動きが続き、次の柱の候補は一つに絞られていなかった[5]

提携の直前、社内でのカーボンブラックの比重はまだ小さかった。1960年6月から11月までの半期の売上27億円のうち、人造黒鉛電極が40.8%、中越工場のカーバイドが23.9%を占め、カーボンブラックは9.6%にとどまる。国内シェア40%を握る製品でありながら、金額では電極の四分の一に届かない。従業員1,588人のうち、若松工場に配置されていたのは127人であった[6]

決断

世界最大手からの技術導入

1960年、東海電極製造は米キャボット社とカーボンブラックの製造技術について提携契約を結んだ。キャボットは当時、米国で最大のカーボンブラックメーカーであった。自社技術でファーネス式の国産化に先鞭をつけた会社が、十年を経て外国企業の技術を受け入れたことになる。狙いは製造技術と生産能力をあわせて引き上げることにあり、提携と並行して既存の若松工場の設備改善が進められた[7][8]

自社技術がありながら世界最大手と組んだ背景には、需要の伸びに量産技術が追いつかない事情があったとみられる。カーボンブラックはタイヤの補強剤として品種ごとに求められる特性が異なり、自動車生産の拡大とともに需要が飛躍的に増えていた。国内シェア40%を保ったまま生産量を数倍にするには、手持ちの設備を改良するだけでは足りない。提携は、技術の自前主義より市場の速度を優先した選択であった[9]

電極一本足の振れをどう均すか

もう一つの動機は、主力である電極事業の振れ幅にあったとみられる。電極の需要は国内景気に連動して増減し、内需が落ち込む時期には輸出で穴を埋める必要があった。1959年上期の輸出比率は49%に達している。同じ1959年に日本で初めて20吋電極を完成させ、技術では先頭に立っていたものの、収益は鉄鋼の設備投資の周期に左右された。景気の波形が違うタイヤ向けの製品を厚くする意味は、そこにもあった[10][11]

提携から二年後の1962年12月、同社は愛知県武豊町に知多工場を建設し、カーボンブラックの製造を始めた。若松に続く二番目の専用拠点であり、創業以来の電極工場を置いてきた愛知県内での増設にあたる。導入した技術を既存設備の手直しだけで使い切らず、新しい工場に載せたところに、この製品を電極と並ぶ柱へ育てる意図がうかがえる。若松の改善と知多の新設は、一つの提携から出た二段構えの投資であった[12]

結果

カーボンブラックが主力になるまで

効果はまず売上構成に表れた。1968年ごろの年間売上高は約110億円で、内訳は黒鉛電極が約41%、カーボンブラックが約26%、電解板その他が約33%であった。1960年下期に9.6%だった比率は、八年ほどで四分の一を超えた。国内シェアも約30%を保ち、電極が安定を受け持つ一方、伸び率では自動車の成長を映したカーボンブラックが上回っていた[13]

伸長はその後も続いた。1975年下期にはカーボンブラックが総売上高の40%を超えて主力製品となり、同年6月、商号は東海電極製造から東海カーボンへ改められた。1977年度には売上で電極を上回り、1978年に石巻工場を新設して3工場体制が整い、1980年には社内比率が50%を超えた。石油危機で構造不況に陥った化学工業のなかで、この事業は異例の立ち直りをみせた[14][15]

技術を受け取る側から渡す側へ

三十年後、同社は技術を渡す側へ移った。1990年2月、タイのタイ・カーボン・プロダクト社に資本参加するとともに製造技術を供与する契約を結び、同年12月には韓国の正友石炭化学ともカーボンブラック製造技術の供与契約を締結した。1960年に世界最大手から受け取った技術は、三十年をかけて他国の企業へ移せる水準まで自社のものになっていたとみることができる[16]

二本の柱の主従は、その後も入れ替わりながら続いた。2018年12月期の営業利益は740億円の見通しとなったが、これを牽引したのはカーボンブラックではなく黒鉛電極であった。同じ年の9月、東海カーボンは米国で最大の生産能力を持つSRC社を341億円で買収し、北米にカーボンブラックの拠点を得ている。技術を借りた相手の本国で、生産の一角を占めるところまで来た[17]

出典・参考
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
  • 株式会社年鑑 昭和37年版
  • 東海カーボン 有価証券報告書【沿革】
  • 週刊東洋経済 2018年10月20日号「[第1特集 絶好調企業の秘密] 稼ぐ力をつけた日本企業 重厚長大企業の復活」

免責事項およびポリシー