安藤・間佐久間ダム工事での米アトキンソン社との共同企業体結成と機械化施工の導入
人力とモッコの土木か、米国式の機械群か——150メートル級ダムを3年で築く工法をどう選んだか
- 概要
- 1953年、間組は天竜川中流の佐久間ダム工事をめぐる国際入札に、熊谷組と米ガイ・F・アトキンソン社を加えた共同企業体で臨み、発電所と堰堤あわせて約85億円で施工を引き受けた。米国から持ち込んだ重機械群を主軸に現場を編成し、従来の技術工法なら10年以上といわれた難工事を3年で仕上げた。
- 背景
- 高さ150メートル級のダムを築く構想は昭和初期からあったが、あばれ川と呼ばれた天竜川の工事条件に手が出ないままだった。発注者である電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、在来工法では早期完成が無理だと判断し、みずから渡米して機械輸入と技術者援助を取り決めた。
- 内容
- 電源開発は借入と機械導入の事情からジョイント・ベンチャーによる国際入札の形をとり、3組が競った。間組・熊谷組・アトキンソン社の組が落札し、ワゴンドリル、バッチャープラント、骨材プラント、ケーブルクレーン、ダンプトラックなどを主軸とする現場編成に切り替えた。
- 含意
- 佐久間で組み上げた施工体系は、黒部川第四発電所、御母衣ロックフィルダム、井川発電所へと引き継がれた。日本の土木事業に機械の導入が本格化する契機ともなり、間組はダム工事に定評のある土木のトップクラスという評価を固めた。
借りた体系を自社の技術に変えるまで
技術提携という言葉から思い浮かぶのは、図面や特許のやり取りかもしれない。だが佐久間で間組が受け取ったのは、ワゴンドリルからケーブルクレーンに至る機械群と、それを動かす現場の編成そのものであった。人力とモッコとトロッコで組み上げてきた段取りを、約85億円の工事を抱えたまま入れ替える。従来なら10年以上といわれた工期が3年に縮んだ理由は、機械の性能よりも、この組み替えを一度で成立させた側の力にあるとみることができる。
もっとも、この提携を構想したのは間組ではなかった。渡米してパインフラットダムを見比べ、450万ドルの機械輸入と技術者援助を取り決めたのは、発注者である電源開発の高碕達之助総裁である。間組はその枠組みに乗って入札を争った側であり、機械も資金も外から来ていた。借りた体系を自社の技術に変えられたかどうかは、御母衣で再びアトキンソン社の技術を導入し、黒部第四や井川へ型式を広げた歩みが示している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
在来工法では届かない工期
天竜川中流に高さ150メートル級のダムを築く構想は昭和初期からあったが、あばれ川と呼ばれた工事条件に手が出ないまま戦後を迎えた。電源開発株式会社の高碕達之助総裁は、理事の永田年氏の助言を受けて在来工法での早期完成は無理だと判断し、みずから渡米して450万ドルの機械輸入と技術者援助を取り決めた。電源開発はこのためにバンクオブアメリカから700万ドルを借り入れている[1]。
間組の側にも、この工事を取りにいく理由があった。戦前にはアジア最大の出力70万キロワットを誇る朝鮮・水豊発電所を手がけ、大型ダムでは国内屈指の経歴を持っていた。終戦で壊滅的な打撃を受けた会社を立て直したのは神部満之助社長で、明治神宮仮御殿御造営工事の拝命を再建の第一歩とし、進駐軍工事を次々に請け負っている。1951年には戦後初のダム工事として木曽川・丸山ダムに着手し、電源開発の現場へ戻っていた[2][3][4]。
決断
3つの共同企業体が争った国際入札
佐久間ダム工事の発注は、借入と機械導入の事情から、ジョイント・ベンチャーによる国際入札の形をとった。西松建設・前田建設・飛島土木・佐藤工業・大成建設の国内5社連合、鹿島建設・大林組に米モリソン社が加わる組、そして間組・熊谷組に米ガイ・F・アトキンソン社が加わる組が競っている。種々のいきさつを経て、最後の組が発電所と堰堤あわせて約85億円で施工を引き受けた[5]。
アトキンソン社は、発注者の側が先に見定めていた相手であった。高碕総裁は1952年11月に技術者を伴って渡米し、佐久間と似た設計のダムを尋ねてカリフォルニア州のパインフラットへ案内されている。ロープを使わず、舗装した道の上を10トン級のダンプトラックが土を運び、人がいるのかどうかも分からない現場を前に「これだ、これだ」と受け止めた。その工事を請け負っていたのが、ガイ・F・アトキンソン氏の会社であった[6]。
人力とモッコの体系を入れ替える
米国の工法をそのまま持ち込めるかどうかは、現地に立った時点でも見通せなかった。高碕総裁は、汽車の通じる地点までは機械を送れても、その先に大型トラックの走る道をつくるのは難しいとみて、米国式にはやれないと口にしている。同行した技師は3年もすればできると答え、米国から来たパーカー技師も1時間ほど岩の上に座って考えたすえ、岩盤が良いからできると判断した。工事は1953年4月に着工した[7]。
現場に入った機械は、ワゴンドリル、バッチャープラント、骨材プラント、ケーブルクレーン、ダンプトラックなどであった。これらを主軸に据えた編成は、それまで日本の土木を支えてきた人力とモッコとトロッコの体系とは断絶しており、当時の記録は目をみはる思いであったと書き残している。間組が引き受けたのは機械を与えられることではなく、施工の組み立て方そのものを入れ替える仕事であった[8]。
結果
3年で終えた難工事と、次の型式への連鎖
従来の技術工法によれば10年以上かかるといわれた難工事を、間組は3年で仕上げた。1956年4月には送電を開始し、同年10月15日に完工式が行われている。電源開発を離れて経済企画庁長官となっていた高碕達之助氏はその場で祝辞を述べ、生涯を通じて最も大きな仕事として長く記憶に残るに違いないと書き残した。安藤ハザマの公式沿革も、この工事を戦後初の大規模機械化施工と記している[9][10][11]。
佐久間で組み上げた体系は、そのまま次の難工事へ引き継がれた。間組は1956年6月に世界第2位のアーチダムである黒部川第四発電所工事へ着手し、1957年6月着工の御母衣ロックフィルダムでは再びアトキンソン社の技術を導入して44か月で完成させている。1957年10月には日本で初めて中空重力式を採用した井川発電所も完成させ、ダムの型式をまたぐ施工技術を蓄えた[12]。
業界に広がった機械化
機械化の効果は1社にとどまらなかった。佐久間と黒部に代表される大土木工事を通じて、日本の土木事業への機械の導入が本格化した。1955年前後にはブルドーザやダンプトラック、パワーショベルの多くを輸入に頼っていたが、この時期以降は国内生産の伸びが著しく、石川島や三菱重工、日立造船、神戸製鋼、小松製作所といった造船・重機械の各社がこの部門へ進んでいる[13]。
間組自身は、この一連のダム工事を通じて土木のトップクラスという評価を固めた。1966年9月期には完工高に占める建築の比率が53%となって初めて土木を上回り、年間完工高は約531億円に達している。ベトナムの発電所やタイの鉄道、ラオスのナムグム・ダムなど海外工事の受注にも入り、ダム工事に定評のある会社という看板のうえに事業の幅を広げていった[14]。
- 有沢広巳監修『日本産業史 2』(日経文庫, 日本経済新聞社, 1994)「建設-新工法・新技術相次ぐ」「建設-巨大工事にいどむ」
- 高碕達之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社, 1980 所収)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 経済時代(経済時代社, 1954)
- 経済時代(経済時代社, 1972)
- 安藤ハザマ 会社沿革(公式サイト)