1897年に石工の熊谷三太郎氏が福井の水力発電所の石積みを請け負ったことが起源。
1958年に黒部第四ダムの大町トンネル、1985年に青函トンネルを貫通させ、2004年に台湾のTAIPEI 101を完成させた。トンネル工事の老舗ゼネコンで、2017年に提携した住友林業が筆頭株主である。
京都電灯は1897年11月に福井県宿布で水力発電所の建設に着手し、その石工事を熊谷三太郎氏に任せた。熊谷三太郎氏は1871年に敦賀郡阿曾浦で生まれ、北陸線の工事現場で石を積んできた職人だった。京都電灯の担当者は3日をかけて福井市内で熊谷三太郎氏を探し出した。福井地方には石材の工事を請け負える業者が当時おらず、堅石積みを任せられる相手はほかにいなかったためである。宿布の現場は、熊谷三太郎氏が請負業者として取り組んだ最初の工事となった。証券誌の新規上場会社紹介は、この1897年11月の請負を熊谷組の創業と位置づけている。北陸へ進出する電力会社が堅石を積める職人を必要としたことが、一人の石工を元請けの立場に押し上げたのだろう。
宿布の工事で暮らしに余裕が生まれたものの、熊谷三太郎氏の仕事はまもなく途絶えた。福井周辺では笏谷石などの軟石が使われ、熊谷三太郎氏が専門とする堅石には発電所工事のほか需要がなかったためである。熊谷三太郎氏は自宅で花崗岩細工の石屋を営んだが、家計の窮迫は続いた。1901年から1902年にかけての永平寺改築では、仏殿の石工部分と石垣を請け負い、約6カ月で約120円を受け取った。材料が堅石で、地元の石工では扱えなかったことが受注の理由だった。1904年秋からは福井県の金津駅、1905年春には鯖江駅のホーム改良工事を請け、金津では10名ほどの石工を率いて施工した。堅石という専門の技能が、仕事の少ない時期にも熊谷三太郎氏へ注文をつないだとみられる。
1905年9月、京都電灯は福井県の中尾発電所の建設にあたり、飛島文吉氏の飛島組を福井で初めて指名入札に加えた。飛島文吉氏は熊谷三太郎氏を訪ね、土工は飛島組が、石材は熊谷三太郎氏が見積もる分担を持ちかけた。入札価格は4万8000円で、工事は2年をかけて1908年7月に竣工し、熊谷三太郎氏は石材の分担でこの工事から相当の利益を得た。その後も熊谷三太郎氏は京都電灯の黒田・牧・山村の各発電所に石工部門の担当として加わった。証券誌は飛島組との提携を1907年とし、熊谷三太郎氏が飛島組の下請として北陸の鉄道・電力工事に従事したと記している。宿布以来の京都電灯とのつながりと堅石の技能が、福井で新たに指名を得た飛島組にとって欠かせなかったと考えられる。
第一次世界大戦の好況で電力会社の設立が相次ぐなか、1919年4月に木曾電気興業の木曾川野尻水力工事が請負金140万円で飛島組に落札し、熊谷三太郎氏が現場の最高責任者を務めることになった。木曾電気興業は福沢桃介氏が社長を務め、木曾川の水力で電気製鉄を起こす目的で設立された。飛島組は経験の乏しさから全工区の受注を一度辞退したが、施主側が不足を応援すると申し出たため全工区を引き受けた。人夫賃は1918年末の1円50銭から1920年春には2円20〜30銭まで上がり、資本の小さい組には大きな賭けとなった。技術者の不足は、1916年1月に鳥取県の根雨線の現場で熊谷三太郎氏の下に入った牧田甚一氏が、現場と事務を一人で担って補った。同年9月に資本金10万円で株式会社飛島組が設立されると、熊谷三太郎氏は取締役に選ばれた。
1922年9月、熊谷三太郎氏は北恵那鉄道の中津川〜付知間の鉄道建設工事を91万5500円で引き受けた。北恵那鉄道は、大井ダムの建設で付知御料林の木材を川に流せなくなった大同電力が、代わりの運搬路として計画した鉄道である。大同電力は地方鉄道法の利益補償の規定に着目し、木材に加えて旅客も運ぶ会社として北恵那鉄道を設立した。1923年9月の関東大震災の直後に大同電力の福沢桃介社長が工事の即時打ち切りを命じた際も、熊谷三太郎氏は北恵那鉄道の責任者の清水省三氏を訪ね、自らの持ち場の工事を続けると申し入れた。震災で基礎の緩んだ木曾川の鉄橋は同年秋の洪水でほぼ全壊した。熊谷三太郎氏は2万円あまりの復旧費を自らの不注意によるとして施主に求めず、工事は1924年8月に竣工した。
電力業界は大戦期の好況のあと会社の乱立と過当競争に陥り、1926年頃から事業の拡大が頭打ちになった。水力電気工事を事業の主体としてきた飛島組は新たな活路を求め、1926年9月に始まった名古屋市の中川運河開削の入札に加わった。8社が参加した入札で飛島組は243万円で落札したが、2番札の水野組は278万円で、組内で見積りを検算し直すほどの差があった。飛島文吉氏は辞退も口にしたが、熊谷三太郎氏は指名に尽力した名古屋市土木部長の鵜飼賢一氏の立場を考え、損失を承知で施工を決めた。同年12月には中川運河での仕事ぶりが評価され、鉄道省の名古屋駅改良貨物設備の工事(60万3000円)を受注した。1925年から福井市議会議長を務めていた熊谷三太郎氏にとって、名古屋での実績は電力会社以外の発注者を得る足がかりになったと思われる。
1929年2月、熊谷三太郎氏は庄内電鉄の山形県鶴岡〜湯ノ浜温泉間12キロの軌道建設工事を62万6700円で個人として請け負った。専務の奥山亀蔵氏は新潟水力の常務時代に、熊谷三太郎氏が担当した下平赤倉発電所の工事を通じて面識があった。飛島文吉氏は以前に電鉄会社の工事で代金を受け取れず苦労した経験から、開業後の採算が見えない庄内電鉄の話に難色を示した。熊谷三太郎氏は多少の危険を承知で引き受け、飛島組に籍を置いて以来初めての単独請負となった。施主の資金は乏しく、熊谷三太郎氏は工事資金の立て替えから車輛の購入まで負担し、工事は1930年2月に竣工した。飛島組の判断と分かれて個人で請け負った経験が、のちの三信鉄道の単独請負の前例になったのではないか。
1934年1月3日、熊谷三太郎氏は三信鉄道の門島〜中部天竜間45キロの建設工事を、法人ではなく個人の名で契約した。天竜川沿いの区間にはトンネル116カ所と橋梁54カ所があり、資金計画も不確かだったため、飛島組は名義を出すことさえ拒んだ。熊谷三太郎氏は1929年6月から飛島組のもとで天竜峡〜門島間の第二工区を担い、この鉄道が天竜峡を使う大規模な水力工事につながると見ていた。1933年初秋、清水組との交渉に失敗した三信鉄道の支配人清水省三氏は、熊谷三太郎氏に工事費の後払いを持ちかけた。熊谷三太郎氏は東海道線と中央線を結ぶ路線を後世に残したいという考えを示し、64歳で引き受けた。着工後は三信鉄道の資金繰りが悪化し、1934年秋には未払金が150万円近くに達した。
1937年8月20日、小和田〜大嵐間の開通で三信鉄道は全区間がつながった。この年に熊谷三太郎氏は、中尾発電所以来の協力関係にあった飛島文吉氏と袂を分かった。7月に日中戦争が始まり、9月には輸入と事業資金の運用が許可制となり、10月には軍需以外の工事で鋼材50トン以上の使用が禁じられた。9月5日、熊谷三太郎氏は東京の別邸に熊谷太三郎氏と牧田甚一氏ら3人を招いて協議し、株式会社熊谷組の設立を決めた。会社は翌1938年1月に福井市で資本金40万円により設立され、熊谷三太郎氏が代表取締役社長に就任した。資金と資材の配分が許可に委ねられる統制のもとで、個人の名で大工事を請け続けるには法人格が必要になったと推察される。
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事実根拠:出所(熊谷組)