決断
他の組が退いた工事を個人の名で請け負い続け、法人化へ進んだ会社である。1926年の名古屋・中川運河では2番札より35万円安い落札に飛島文吉氏が辞退を示したが、熊谷三太郎氏は施工を決めた。1929年の庄内電鉄では飛島組の難色を押して初めて単独で請け負い、1934年には飛島組が名義も出さなかった三信鉄道45キロを個人で契約する。トンネル116カ所を抱える工事は未払金が150万円近くまで膨らんだものの、1937年8月の全通にこぎつけた。同じ年に飛島組と決別し、資金と資材が許可制となった統制下で、個人の請負を法人へ移した。