1874年に西松桂輔氏が始めた個人の土木請負が起源。
鉄道当局の御用達として東海道線・信越線・筑豊線・鹿児島線などの鉄道工事を手がけ、九州の請負から本州にまたがる工事業者へ育った。売上高3,960億円の中堅ゼネコンで、営業利益率7.1%は同業の上位に位置する。
西松建設の起点は、1874年(明治7年)に初代の西松桂輔氏が個人で始めた土木請負にある。1962年の経済誌の誌面は、その創業の地を九州の若松と記しており、事業は個人の商いとして始まった。1968年刊の企業史の書籍も、同じ明治7年に西松桂輔氏が土木建築の仕事に携わったことを創業に置いた。1961年の証券誌は、日本の近代的な土木請負業の出発点を鉄道工事に求めた。そのうえで西松も、鉄道の御用達を務める工事業者として事業を起こしたと整理している。発注者が官の鉄道当局に限られていた時期に、その御用達の地位を得たことが、資本の乏しい個人の請負に継続した仕事の口をもたらしたと推察される。
西松桂輔氏の請負は、はじめ九州と四国の鉄道建設に従事した。各地で鉄道路線の建設が相次ぐと、西松桂輔氏は事業の規模を段階的に広げた。東海道線を皮切りに、信越線・筑豊線・鹿児島線の鉄路建設の工事を手がけた。工区は九州北部の筑豊と南部の鹿児島に加え、本州の東海道と信越の山間部にまで及んだ。路線名から見ると、請け負った工事は本州の幹線と九州の炭鉱地帯の路線の双方にわたっていた。1962年の経済誌の誌面は、創業から90年近い老舗である点を、新興の建設業者との差として挙げた。新線の着工が続く時期に工区から工区へ移り続けた働き方が、九州の個人の請負を本州にまたがる鉄道工事業者へ育てたのだろう。
1906年(明治39年)4月、二代目の西松光治郎氏が初代の西松桂輔氏から事業を継いだ。西松光治郎氏は、西松工業所の名を掲げて営業を続けた。1961年の証券誌の沿革は、この二代目を西松光次郎氏と表記している。翌1962年の経済誌の誌面は西松光治郎氏と記しており、二つの誌面で名の一字が異なる。1968年刊の企業史の書籍は、同じ1906年を西松工業所としての独立の年に位置づけた。初代の個人名で請けていた工事は、この年から西松工業所という屋号の下での工事に変わった。代替わりの時期に屋号を立てたのは、鉄道の発注者に対して、創業者が退いた後も事業が続くことを示す狙いがあったとみられる。
西松工業所は、初代の西松桂輔氏が九州と四国の鉄道建設で重ねた実績を引き継いで出発した。1906年に独立した体制が固まるまでには、明治の年号が終わった後の1914年(大正3年)まで時間を要した。1968年刊の企業史の書籍は、東海道線や信越線、筑豊線、鹿児島線の工事を、独立に先立つ時期の実績としてまとめて並べている。1961年の証券誌も、明治期の西松を鉄道御用達の工事業者として描き、ダムや水力発電の工事はその後に加わったと記した。明治の終わりまでの西松工業所は、鉄道工事の一本に事業を絞った請負業者であり、九州で培った鉄道当局との取引が受注の足場になったと思われる。
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事実根拠:出所(西松建設)