1937年2月[1]、長谷川武彦氏は兵庫県尼崎市で個人企業の長谷川工務店を興した[2]。木造建築の請負から出発した事業は、1946年8月に神戸出張所の開設とあわせて[3]資本金19万5,000円の株式会社へ改組され、本店は姫路市に置かれた[4]。同年9月に大阪出張所を開き[5]、1949年5月には建設業法の施行にあわせて建設大臣の登録を受けている[6]。1951年2月には東京出張所を開設して関東へ進出している[7]。1953年8月には本店を姫路から大阪出張所跡の所在地へ移す[8]とともに、資本金を1,000万円へ引き上げた[9]。
事業の性格を変えたのは、1950年に伊藤忠商事から受注した芦屋打出荘アパート[10]である。鉄筋コンクリート造のこの案件[11]を機に、耐火構造建築に要する設備機械の整備充実を図った[12]。資本金は1956年8月に5,000万円へ増資され[13]、1957年8月には大阪本店第一ビルを竣工させて本格的に貸ビル業を始めている[14]。1963年には東京・渋谷区に長谷川スカイラインビルを完成させて東京支店を移し、あわせて不動産部を新設した[15]。1964年に竣工した長谷川第一〇ビルは、世界で最初の全館鋳鋼管構造として注目を集めた[16]。
1961年、資本金を5,512万5,000円へ増資する際に大阪市場へ株式を公開し[17]、翌1962年3月5日には東京証券取引所市場第二部へ上場した[18]。上場時点の資本金は1億4,000万円[19]、従業員は284名[20]で、1961年11月期の完成工事高は約13億円[21]と、同年5月期の7億円からほぼ倍増[22]していた。事業の内訳は総合建設業96.2%、貸室業3.8%[23]であり、建築工事の受注方法は特命によるものが72.8%、競争によるものが27.2%を占めた[24]。系列的な受注は持たず[25]、手持工事高は約26億円で前期比42%増[26]だった。1965年4月には東京・大阪・名古屋の各市場第一部へ指定替えとなった[27]。
半期売上高は1958年11月期の2.1億円から1965年5月期の39.6億円へ拡大[28]したが、税引前利益率は1963年5月期の11.1%を頂点に[29]1965年11月期には2.8%まで下がった[30]。売上が19倍近くに伸びる一方で利益率は4分の1に縮み[31]、建築請負の採算は上場前後の数年で振れ幅を広げた。これを下支えしたのが貸ビル業で、1961年11月期の貸室収入は5,200万円と前期比13%の増収[32]となっている。1968年時点では東京と大阪に8棟のビルを保有して貸室業を営み[33]、資本金は12億4,800万円、従業員は527名を数えた[34]。
マンション事業の始まりは1967年、兵庫県芦屋市で手がけた芦屋松浜ハイツ83戸[35]だった。当時の全国のマンション供給量は2,000戸弱[36]にすぎず、外国人好みのデラックスなスタイルを採り入れた高級物件が主流[37]を占めていた。長谷川工務店が自社マンションの第1号を着工したのは1968年4月[38]で、三井信託銀行との販売提携[39]によるものである。1969年12月には日商岩井と業務提携を結び、商社が持つ用地情報をもとにマンション建設を提案して受注する経路を得た。用地を探し、企画とともに商社などへ売り込んで事業を請け負う土地持ち込みによる特命受注方式[40]が、ここで事業の型として固まった。
1970年2月には分譲を担う長谷工不動産を設立し、同年12月に本社を大阪から東京・渋谷区へ移した[41]。1973年9月にはハワイに現地法人を設けて海外へ出ている。1974年初めには首都圏で民間デベロッパー融資の第1号を出し[42]、購入者の年齢を分析したところ20歳代が初めて最上位に立った[43]。年収200万円から300万円の若い層がマンションの購入者として定着[44]し、1,500万円から1,700万円の物件は立地さえ悪くなければ即日完売か6〜7倍の競争率で売れた[45]。売上高は1971年3月期の110億円から1976年3月期には1,004億円へ[46]、5年で9倍に伸びた。1978年9月には、マンション管理を担う長谷工コミュニティを設立している[47]。
規模を利益に変えたのは設計の規格化で、長谷川工務店は住宅生産システム『コンバス』に約100種類のパターン[48]を用意し、構造計算などの主要な仕様を絞り込んだ[49]。共通のサッシ、共通のエレベーターを使い、設計をできるだけ画一化する[50]仕組みをつくっている。合田耕平副社長は1980年の講演で[51]、建築業者は個性を重んじる企業だが、それを逆に標準化するよう社員の考え方を変えてきたところが他社との違い[52]であると述べた。同じ図面で施工する下請業者は数を重ねるほど精度を上げ、工期を縮めた[53]。部材はグロスで通常の市価の4割ほどで取得でき[54]、サッシは市価の半分以下となった[55]。
一貫体制は財務にも表れ、事業主へ企画をあっせんして契約を予約する段階で前受金を受け取るため、1978年5月期は未成工事受入金734億円に対し支出金329億円[56]と、約400億円の受入超となった[57]。これは負債の26%を占める無利息の資金[58]である。工事の粗利益率は1977年の12.6%から1980年に19.2%まで上がり[59]、10%強にとどまる一般の建設業者[60]との差を広げた。水上芳美社長は1980年の講演で[61]、入札による受注は1件もなく、自社以外の設計は断る形で進めざるを得ない[62]と述べている。1979年度の施工は1万7,200戸[63]で、日本住宅公団の分譲住宅1万5,000戸を上回った[64]。
市場内の位置は施工戸数に表れ、1976年に7,781戸、1977年に11,461戸を施工して[65]、国内マンション市場のシェアはそれぞれ15.6%、14.4%を占めた[66]。同じ2年間の全国新設住宅着工は約150万戸[67]で、そのうちマンションが占める割合は3.3%から5.3%へ伸びている[68]。1979年には首都圏で建設された53,772戸のうち10,247戸[69]、近畿圏で建設された24,203戸のうち5,100戸[70]を長谷川工務店が建て、シェアは首都圏19.1%、近畿圏21.3%となった[71]。両圏あわせた1万5,400戸は、同年に日本住宅公団が建てた約3万4,000戸の45%に相当する[72]。
1979年、長谷川工務店は営業方針を変え、マンション用地を確保するために約150億円の土地を先行取得[73]した。売上高は1982年3月期に2,043億円、経常利益率は12.9%の頂点に達している[74]。しかし1980年5月期から1985年5月期にかけての住宅不況で業績は直撃を受け[75]、1985年3月期の売上高は1,934億円、経常利益率は5.4%まで落ちた[76]。マンション用地も首都圏で不足気味となっていた[77]。それでも1981年1月には首都圏のマンション施工シェアが約20%に達し[78]、1983年6月には販売受託を担う長谷工アーベストを設立している[79]。1987年8月に合田耕平氏が代表取締役社長へ就任し[80]、1988年5月には新規事業を担当するクリエイティブ事業部を設けて[81]、マンションに次ぐ柱づくりに着手した。
1988年7月、京都御所の西側に京都ブライトンホテルを全額出資で開業した[82]。客室は全183室[83]で、通常のホテルならスイートルームにあたる広さを標準とした。長野県蓼科では約360万平方メートルの開発に総投資額1,000億円強[84]を、兵庫県淡路島では1991年着工・2003年開発終了予定の事業[85]を計画し、ホテル・リゾート事業全体の投資は1,000億円を突破する見通し[86]となった。同年10月には商号を長谷川工務店から長谷工コーポレーションへ変更している[87]。開業初年度にあたる1989年3月期、京都ブライトンホテルの売上高は目標を約30%上回る23億3,000万円[88]、営業利益は目標の2倍となった[89]。
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|---|---|---|---|---|
| 1937〜1967年木造の請負から鉄筋コンクリートへ ── 貸ビル業を併せ持つ工務店 | 長谷川武彦が長谷川工務店を個人創業 | ★ | ||
| 長谷川工務店を設立 | ★ | |||
| 大阪出張所を開設 | ★ | |||
| 鉄筋コンクリート造の芦屋打出荘アパートを受注 | ★ | |||
| 東京出張所を開設 | ★ | |||
| 本店を移転 | ★ | |||
| 貸ビル業を開始 | ★ | |||
| 不動産売買業を開始 | ★ | |||
| 株式を店頭公開 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京・名古屋各証券取引所市場第一部へ指定 | ★ | |||
| 1968〜1988年土地を持ち込んで特命で受注する ── マンション専業への転換と規格化 | 自社マンション第1号を着工しマンション事業に参入 | ★★ | ||
| 日商岩井と業務提携 | ★ | |||
| 長谷工不動産を設立 | ★ | |||
| 本社を移転 | ★ | |||
| ハワイに子会社を設立 | ★ | |||
| 本店を移転 | ★ | |||
| 長谷工コミュニティを設立 | ★ | |||
| 首都圏マンションシェアが約20%に到達 | ★ | |||
| 長谷工アーベストを設立 | ★ | |||
| 合田耕平 | 長谷工ライブネットを設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 長谷工コーポレーション、ホテル・リゾート事業への1,000億円多角化投資 1988年、マンション専業ゼネコンの長谷工コーポレーション(当時:長谷川工務店)が、市場の成熟を受けてホテル・リゾート事業に1,000億円規模を投じる多角化に踏み切り、京都でのホテル開業と商号変更で『脱マンション』を対外的に印象づけた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 合田耕平 | 商号を長谷工コーポレーションに変更 | ★ | ||
| 1989〜2005年1,850億円の一括処理と3,942億円の債権放棄 ── 倒産の淵からの再建 | 合田耕平 | 長谷工システムズを設立 | ★ | |
| 合田耕平 | 不二建設を設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 関西支社を移転 | ★ | ||
| 合田耕平 | 「毎年赤字より一回ドカンと出す」── 1,850億円特別損失の一括処理 1996年3月期、長谷工コーポレーションは不動産含み損1,600億円を含む1,850億円の特別損失を一括計上し、連結最終赤字2,144億円を計上した。合田耕平社長は、毎年に分けて損失を出し続けるより一度に処理する道を選び、バブル期に膨らんだ不良資産の清算を短期間で進める決断を下した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 合田耕平 | 嵩聰久が第4代社長に就任 | ★ | ||
| 合田耕平 | HASEKO America, Inc.を設立 | ★ | ||
| 合田耕平 | 長谷工アネシスを設立 | ★ | ||
| 岩尾崇 | 岩尾崇が第5代社長に就任 | ★ | ||
| 2006〜2025年特命受注99.7%とマンション専業 ── 他社が退くほど発注が集まる構造 | 岩尾崇 | 長谷工インテックを設立 | ★ | |
| 岩尾崇 | 長谷工リフォームを設立 | ★ | ||
| 大栗育夫 | 大栗育夫が第6代社長に就任 | ★ | ||
| 大栗育夫 | 生活科学運営を子会社化 | ★ | ||
| 辻範明 | 辻範明が第7代社長に就任 | ★ | ||
| 辻範明 | 総合地所を子会社化 | ★★ | ||
| 辻範明 | 連結経常利益1,000億円を初めて達成 | ★ | ||
| 辻範明 | 細田工務店を子会社化 | ★ | ||
| 池上一夫 | 私募REIT「長谷工レジデンシャルプライベート投資法人」の運用開始 | ★ | ||
| 池上一夫 | 海外事業で約230億円の特別損失を計上 | ★★ | ||
| 熊野聡 | 熊野聡が第9代社長に就任 | ★ |
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事実根拠:出所(長谷工コーポレーション)