「毎年赤字より一回ドカンと出す」── 1,850億円特別損失の一括処理
バブル崩壊で膨らんだ不動産含み損に対し、合田耕平社長は分割ではなく一括処理を選んだ
更新:
- 概要
- 1996年3月期、長谷工コーポレーションは不動産含み損1,600億円を含む1,850億円の特別損失を一括計上し、連結最終赤字2,144億円を計上した。合田耕平社長は、毎年に分けて損失を出し続けるより一度に処理する道を選び、バブル期に膨らんだ不良資産の清算を短期間で進める決断を下した。
- 背景
- 1985年以降の「脱マンション」多角化でホテル・リゾートやオフィスビルに1,000億円規模を投じた長谷工は、不動産部門の売上構成比を5年で11%から56%へ拡大させていた。バブル崩壊後、この多角化投資は含み損として重くのしかかり、1991年時点で合田社長は多角化の失敗を認めていたが、含み損は想定を超えて1,600億円まで膨らんでいた。
- 内容
- 合田社長は毎年少しずつ損失を処理する案もあるなかで、1996年3月期に1,850億円を一括計上する道を選んだ。資産を簿価から時価へ切り替え、受け皿会社エイチ・シー土地開発(HLD)に不動産を移して主力銀行の支援を仰ぎ、信用不安を招く短期のリスクを引き受けてでも早期の収益改善を優先する判断であった。
- 含意
- 一括処理は、先送りが根強かった当時の日本企業の再建のなかで際立った速度の判断となったが、それだけで危機は収束しなかった。長谷工は1998年に34金融機関へ融資残高48%カットを要請し、1999年1月には株価が13円の史上最安値をつけるなど、財務再建にはなお数年を要した。
一括処理という速度と、続いた再建
1996年3月期の一括処理が示すのは、痛みを先送りしない決断の速さである。分割処理であれば表面上の赤字幅は毎年小さく抑えられたはずだが、合田社長はその選択肢を退け、信用不安という短期のリスクを引き受けてでも財務の全体像を一度に明らかにする道を選んだ。バブル期の多角化という自らの経営判断の誤りを社長自身の言葉で認めたうえでの処理だった点にも、この決断の重みがうかがえる。
もっとも、一括処理は財務再建の終着点ではなく通過点にとどまった。含み損の清算を終えてなお、有利子負債の重さは1998年の大規模な債務免除として改めて表面化し、株価は1999年に史上最安値をつけている。ウミを出し切る決断がその年度の決算を軽くしても、積み上がった負債そのものを消し去るわけではない。長谷工の再建はその後も数年をかけて続いており、一括処理は再建の入り口であって完了ではなかったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「脱マンション」多角化の代償
1985年以降、マンション市場の成熟を見た長谷工コーポレーションは「脱マンション」を掲げ、事業領域をホテル・リゾートやオフィスビルへ広げた。ホテル・リゾート事業には1,000億円規模の投資計画が策定され、1988年7月には京都駅近くにホテルエルシエント京都を開業した。同年10月には商号を「長谷川工務店」から「長谷工コーポレーション」に改め、マンション専業からの脱却を印象づけた[1][2]。
不動産部門の売上構成比は、この多角化を通じて5年間で11%から56%へ急拡大し、マンション専業という強みを手放す代わりに市況変動へさらされる比重を高めていった。1991年、合田社長はマンション不況下のインタビューで「かつて経済性を追求し過ぎて失敗した」と多角化の反省を語り、建設コストの引き下げを社内に指示した[3][4]。
膨らみ続けた含み損と有利子負債
反省を語った後も、含み損は縮小しなかった。地価はバブル期のピークから総じて4分の1から5分の1にまで下落し、半年で300億円値下がりした保有物件もあった。不動産含み損は1,600億円に達し、有利子負債はピーク時に自己資本の4倍超となる1兆3,000億円まで膨張して、財務基盤を根底から揺るがした[5][6]。
主力の建築部門も採算が悪化していた。建築単価はピーク時の半分に下がり、受注量を倍にしなければ利益が出ない状況で、人員を減らしながらの合理化が続いていた。不動産部門の損失を建築部門の稼ぎで穴埋めする収益構造は、含み損が膨らむほど支えきれなくなっていった[7]。
決断
分割か、一括か
合田社長が「思い切った再建計画」を検討し始めたのは1994年12月ごろからであった。首都圏の住宅地地価がおおむね底値圏に近づいたとの手応えを得て、資産を簿価のまま抱え続けるより時価に切り替えて早期に売却できる水準へ引き下げる方が得策と判断した。役員のなかには地価下げ止まりの見方に慎重な声もあったが、最終判断は社長自身が下している[8][9]。
毎年200〜300億円ずつ損失を分割して処理する道もあり得た。しかし合田社長は「毎年赤字を出し続けるのは会社にも社員にも精神衛生上よくない。一回ドカンと出して翌年から黒字にした方がいい」と判断し、1996年3月期に不動産含み損1,600億円を含む1,850億円の特別損失を一括計上する方針を固めた。少しずつ処理すれば赤字が長期化し、株主や社員の士気にも影響するというのが判断の前提であった[10][11]。
銀行支援と受け皿会社という仕組み
一括処理を実行に移すには仕組みが必要であった。外部に売れない土地は、長谷工とグループ各社が出資する受け皿会社エイチ・シー土地開発(HLD)を新設して時価で移し、HLDが長谷工から不動産を買い取る資金約1,600億円は、大和銀行・三井信託銀行・日本興業銀行など主力取引金融機関が融資する形をとった。銀行の支持がなければこの処理は絵に描いた餅で終わるところだったと合田社長は振り返っている[12]。
合田社長は、この決断が銀行団からの外圧によるものだとする見方を明確に否定した。償還が迫っていたワラント債の資金繰りをめぐり銀行団から損失処理を迫られたとの臆測があったが、「あくまで私が昨年末に決意し、それを実現するために金融筋が支持してくれた、という順番」だと説明している。すでに東京都港区高輪の土地9,800平方メートルを、取得価格566億円に対し159億円で外郭団体へ売却するなど、判断の実行は一部先行して進んでいた[13][14]。
結果
1996年3月期の決算とその後の推移
1996年3月期、長谷工コーポレーションは連結売上高4,950億円に対し、経常損益マイナス1,180億円、当期純損益マイナス2,144億円という巨額赤字を計上した。前年の1995年3月期は当期純損失46億円にとどまっていたのに対し、1996年3月期はその赤字が一気に膨らんだ形であり、1,850億円の特別損失一括計上が決算全体を押し下げたことを示している[15][16]。
一括計上の翌年、1997年3月期は経常損益マイナス250億円・当期純損益マイナス477億円となお赤字が続いたが、1998年3月期には経常利益が50億円の黒字に転じた。合田社長が語った「翌年から黒字にした方がいい」という目算どおりに単年度で進んだわけではなかったが、一括処理から2期を経て収益の基調は好転し始めていた[17]。
収束しなかった危機
一括処理を終えてもなお、長谷工の財務再建は終わらなかった。1998年には34の金融機関に対して融資残高の48%一律カットを要請し、債務免除総額は3,942億円に達した。1996年3月期の一括処理は不動産含み損の清算であったが、それだけでは1兆3,000億円まで膨らんだ有利子負債の重さを解消しきれなかったことを、この債務免除の規模が物語っている[18]。
株価は1998年9月に100円を、続いて50円を割り込み、1999年1月には13円という史上最安値をつけた。額面50円を下回る株価は「倒産株価」と呼ばれ、上場ゼネコンの経営破綻が相次いだ当時、市場は長谷工についても同じ道をたどるとみていた。1996年の一括処理から3年を経ても、市場の信認はなお回復していなかったことがうかがえる[19]。
- 日経ビジネス 1989年8月14日号「企業戦略 長谷工コーポレーション体当たり、ホテル・リゾート事業」
- 日経ビジネス 1991年11月18日号「マンション不況は谷底へ コスト削減、質の維持で悩む」
- 日経ビジネス 1995年11月13日号「敗軍の将、兵を語る 一気に赤字1,850億円 バブル清算し組織再建」
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 長谷工コーポレーション 会社年鑑(連結業績)
- 長谷工コーポレーション 公式IR