長谷工コーポレーション、ホテル・リゾート事業への1,000億円多角化投資
マンション専業の限界にどう向き合うか——「脱マンション」を掲げた長谷工の賭け
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- 概要
- 1988年、マンション専業ゼネコンの長谷工コーポレーション(当時:長谷川工務店)が、市場の成熟を受けてホテル・リゾート事業に1,000億円規模を投じる多角化に踏み切り、京都でのホテル開業と商号変更で「脱マンション」を対外的に印象づけた経営判断。
- 背景
- 「土地を持ち込む」専業モデルで急成長した長谷工は、1980年代半ばに住宅不況とマンション用地の不足に直面し、本業依存からの脱却を課題として抱えていた。1987年8月に就任した合田耕平社長のもとで新規事業への展開が模索された。
- 内容
- 1988年7月に京都で「京都ブライトンホテル」を全額出資で開業したのを皮切りに、長野県蓼科と兵庫県淡路島で大規模リゾート開発に着手し、同年10月には商号を「長谷工コーポレーション」に変更してグループ経営の総合化を印象づけた。
- 含意
- 素人集団による手探りの参入は初年度こそ好調だったが、不動産部門の比重を急速に高めた結果、バブル崩壊後の巨額含み損と有利子負債膨張の主因となり、1990年代の経営危機に直結した。
専業の強みをどこまで手放すか
この経営判断の核心は、マンション専業ゆえの成長の限界に直面した長谷工が、本業で培った企画力・施工技術を武器に、まったく畑違いのホテル・リゾート事業へあえて自前で踏み込んだ点にある。運営を外部の専門企業に委ねる選択肢もありながら「長谷工の考え通りに開発、運営できるとは限らない」として自前主義を貫いた判断には、専業で築いた成功体験への自負がうかがえる。
もっとも、初年度のホテル事業が好調だった一方で、不動産部門の比重が短期間で急拡大した事実は、多角化がバブル経済という追い風に強く依存していたことを示している。マンション市場の成熟という課題認識自体は的確であったとみられるが、投資の規模とスピードが景気反転後の損失耐性を大きく損ねる結果を招いた。専業の強みをどこまで手放してよいかという問いは、長谷工がその後の再建過程で改めて向き合うことになる論点であったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「土地を持ち込む」専業モデルの成熟と限界
長谷川工務店(現・長谷工コーポレーション)は、土地の仲介あっせんから設計・施工・販売までを一貫して手がける「住宅総合生産システム」により、集合住宅専業のゼネコンとして急成長を遂げた。1980年1月の講演で合田耕平副社長(当時)は、首都圏マンションシェアが19.1%、近畿圏が21.3%に達したと説明し、標準設計とサッシ・エレベーターの共通化による低コスト体質が競争力の源泉であると語った。専業ゆえの効率性は、他の総合建設会社にはない高い収益率を同社にもたらしていた[1]。
しかし1980年代半ばになると、専業ゆえの弱みも顕在化してきた。80年5月期から85年5月期にかけての住宅不況では、マンション依存の高い収益構造がそのまま業績の落ち込みに直結した。加えてマンション用地の供給は首都圏を中心に不足気味となり、土地を持ち込んで受注する従来の営業モデルの継続的な成長には限界がみえ始めていた。合田耕平氏は1987年8月に代表取締役社長へ就任し、本業依存からの脱却という課題を引き継いだ[2][3]。
「脱マンション」方針とクリエイティブ事業部の新設
1985年以降、長谷工は「脱マンション」を掲げてホテル・リゾート事業へ事業領域を広げる方針を固め、1988年5月には新規事業を担う専任部署としてクリエイティブ事業部を新設した。海外では、合田氏が副社長時代の1970年代前半に取得したハワイのマンション用地を足がかりに、現地でハワイアン・モナーク・ホテル(288室)を開業した経験もあり、マンション以外の分野に自ら踏み込む土壌はすでに社内にあった。もっとも、ホテル・リゾート運営に要するノウハウは本業のマンション開発とはまったく異質で、経験者は社内にほとんどいなかった[4][5]。
決断
京都ブライトンホテルの開業
長谷工は1988年7月、マンション用地として1983年に買い入れていた京都御所西側の土地に、全額出資の運営会社を通じて「京都ブライトンホテル」を開業した。全183室は通常のホテルのスイートルームに匹敵する広さを持ち、平均的なツインで42平方メートル、室料は2万4,000円前後というゆとりある設定とした。運営会社の社長を兼ねた菊地幸雄取締役は「ホテルの名前に長谷工を付けるのはやめたんですよ。やっぱり土建業者のイメージですからね」と述べ、マンション会社のイメージからの転換を強く意識していた[6][7]。
ホテル事業への参入は、大藪昌常務取締役クリエイティブ事業部長によれば「合田(耕平)社長が気に入って、とにかく開発すると決めてかかって計画をスタートさせたようなもの」であった。ノウハウを持つ専門企業への運営委託という選択肢もあったが、長谷工は「それでは長谷工の考え通りに開発、運営できるとは限らない」として、大半の事業を自社で手がける方針を貫いた。開業準備室は1985年秋に社員7人で発足し、他ホテルからのスカウト組も含めてホテルマンを順次募集し、手探りで準備を進めた[8]。
蓼科・淡路島への展開と商号変更
京都に続き、長谷工は長野県蓼科と兵庫県淡路島で大規模リゾート開発に着手した。蓼科では別荘・リゾートマンションの分譲に加え、ホテルやスキー場、テニスコート、温泉施設などを運営する構想を描き、開発面積は約360万平方メートル(ゴルフ場計画地を除く)、総事業費は1,000億円強に上った。淡路島ではマリーナを中心とするリゾート開発を進め、1991年に着工し2003年の開発終了を見込む長期計画とし、ホテル・リゾート事業全体の総投資額は1,000億円規模に達する見通しであった[9][10]。
1988年10月、長谷工は商号を「長谷川工務店」から「長谷工コーポレーション」に変更し、マンション専業のイメージを脱してグループ経営の総合化を印象づけた。ホテル・リゾート事業の着手と商号変更は同時期に重なっており、多角化路線を対外的に明確に打ち出す転換点となった。開発・運営とも大半を自社で手がける方針のもと、経験者のいない分野への進出は「体当たり」と評されるほどの手探りの取り組みであった[11]。
結果
ホテル事業の好調な滑り出しと不動産部門の急拡大
京都ブライトンホテルは開業から1年、1989年3月期決算で売上高が目標を約30%上回る23億3,000万円、営業利益は目標の2倍に達し、宴会・婚礼部門が特に好調であった。長谷工はこの実績を受けて来期には償却を含めた黒字転換を見込んでおり、素人集団による手探りの参入は、少なくとも初年度の数字としては軌道に乗ったとみることができる[12]。
しかし、多角化はその後の長谷工の事業構成を大きく変えていった。不動産部門の売上構成比は5年間で11%から56%へと急拡大し、マンション専業の強みを手放す事業構成に変わった。バブル崩壊後、この積極投資は含み損として跳ね返り、不動産含み損は1,600億円に達し、有利子負債はピーク時に自己資本の4倍超となる1兆3,000億円まで膨張した。長谷工は1996年3月期に1,850億円の特別損失を一括処理し、再建へ着手した[13][14]。
- 日経ビジネス 1989年8月14日号「長谷工コーポレーションのホテル、リゾート事業 体当たりで脱マンションに着手」
- 日経ビジネス 1988年1月18日号「新社長登場 合田耕平氏(長谷川工務店)」
- 証券アナリストジャーナル 18巻2号(1980年)「長谷川工務店 マンション専業で明るい前途」(合田耕平副社長講演)
- 長谷工コーポレーション 有価証券報告書【沿革】
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)
- 長谷工コーポレーション 公式IR