安藤・間会社分割による建設事業の切り出しと、承継会社・株式会社間組の設立
本体での再建か、健全な事業だけの切り出しか——46行の同意を条件とした再出発
- 概要
- 2003年1月17日、株式会社ハザマは資産評価損など約1,100億円の特別損失計上と、みずほコーポレート銀行など全取引金融機関46行への金融支援要請を発表した。同年10月1日、旧法人の会社分割によって建設事業部門の承継会社・株式会社間組が設立され、東京証券取引所市場第一部へ上場した。
- 背景
- バブル期に受注した案件の工事代金未収と債務保証が重荷となり、1992年9月中間期には経常利益が前年同期比41%減の86億円へ落ち込んでいた。2000年には主力4行へ総額1,050億円の債権放棄を要請したものの、官庁土木の縮小もあって再建計画は達成できなかった。
- 内容
- 本体を土木・建築の建設会社と不動産会社に簿価分割し、含み損を抱える不動産は旧法人へ集約して売却を進めた。承継会社は債務の株式化で100億円を増資して483億円の有利子負債を引き継ぎ、1,948人体制で売上約2,000億円・経常利益70億円を目標に置いた。
- 含意
- 分割は再建の完了ではなく、統合相手を探すための準備であった。同じ2003年に安藤建設と資本業務提携を結び、10年後の2013年4月、間組を存続会社として安藤建設を統合し、株式会社安藤・間が発足した。
社名だけを持って身軽になるということ
会社分割による再建は、債務を旧法人に置いて身軽になる手続きとして説明されることが多い。だが旧ハザマの場合、簿価分割に踏み切るまでに二度の金融支援があり、二度目は46行すべての同意を要した。全行がそろわなければ法的整理もありうる状態で、大和文哉社長は自らの退任を前提に計画を出している。切り出す側の経営陣が残らない形でしか建設事業を続ける道が開かなかったところに、この判断の性格が表れているとみることができる。
もっとも、身軽になった承継会社が独力で伸びたわけではない。連結売上高は2,372億円まで進んだのち、2010年3月期には経常利益が5億円まで縮み、2013年3月期も1,979億円にとどまった。会社分割と同じ2003年に安藤建設と資本業務提携を結び、10年後の合併へ至った経緯は、分割が再建の完了ではなく、組む相手を探すための準備であったことを示している。1889年以来の「間組」を名乗り直せたのは、その準備が間に合ったためだといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
バブル期の受注が残した延滞債権
財務の傷はバブル期の受注に始まっていた。1992年9月中間期の業績は営業利益が前年同期比14%減の142億円、経常利益が同41%減の86億円まで落ち込み、未収金のうち予定日を過ぎても入金されない延滞分が400億円に達した。当時会長だった本田茂氏は、銀行が融資を決めた事業なら安心と安易に乗ってしまいがちだったと振り返り、審査体制の甘さを反省として語っている[1][2]。
延滞債権のうち最大のものは、大分県のオートサーキット場「オートポリス」に関連する建設代金の約400億円であった。運営会社の日本オートポリスは1992年9月に破産宣告を受け、ハザマは同年3月期に80億円の貸倒引当金を特別損失へ計上している。1992年3月期末の債務保証は2,000億円近くにのぼり、その大半を関連会社が占めていた。1990年代後半には海外工事の損失と国内の不採算案件が重なった[3][4]。
一度目の債権放棄と、届かなかった再建計画
自主再建を断念したハザマは、2000年5月、第一勧業・三菱信託・日本長期信用・日本債券信用の主力4行へ総額1,050億円の債権放棄を要請した。免除額の半分程度をメーンバンクの第一勧業銀行が負担し、不良債権処理として2001年3月期に約1,200億円の特別損失を計上する計画であった。当時の日経ビジネスは、会見に緊迫感が乏しく、要請には不可欠と考えられる経営責任も明確にされていないと書いている[5][6]。
新しい再建計画は、単独の売上高3,600億円と営業利益140億円を目標に置き、人員をさらに700人減らして2005年3月末までに3,150人体制へ縮める内容であった。債務免除益1,050億円で不良資産を処理し、連結有利子負債を半減させる筋書きも示している。ただし確実なのは債権放棄に伴う処理と経費削減までで、得意とする官庁土木工事の縮小という問題が将来の収益力に影を落としていた[7][8]。
決断
二度目の金融支援と簿価分割
2003年1月17日、前期末で2,000億円弱の有利子負債を抱えていたハザマは、資産評価損など約1,100億円の特別損失を計上し、当期に1,232億円の連結最終赤字となる見通しを公表した。同時に再建計画の見直しと、メーンのみずほコーポレート銀行を含む全取引金融機関46行への金融支援要請を発表している。二度目の要請の責任を取り、大和文哉社長は退任の意向を示した[9]。
新三カ年再建計画の柱は、本体を土木・建築を担う建設会社と不動産会社に簿価で分割することであった。含み損を抱える不動産は旧法人に集約して売却を急ぎ、損失が膨らんだ場合には推定総額1,400億円前後の債務免除を受ける。承継する建設会社は債務の株式化で100億円を増資し、483億円の有利子負債を引き継ぐ。再建計画終了時には1,948人体制で受注高1,980億円、売上約2,000億円、経常利益70億円を目標に据えた[10]。
46行の同意を要した会社分割
この分割が成立するかどうかは、取引銀行の足並みにかかっていた。ハザマは私的整理ガイドラインを適用して46行の協力を仰いだが、前期末の単独有利子負債のうち旧第一勧業銀行分は762億円で全体の38%にすぎない。主力2行の判断で処理できたフジタとは事情が異なり、全行の支援が得られなければ法的整理もありえた。銀行の3月決算を見据えると、この時期がぎりぎりのタイミングにあたった[11]。
調整は整い、2003年10月1日、旧法人(現商号・青山管財株式会社)の会社分割によって建設事業部門の承継会社が設立された。新会社は東京証券取引所市場第一部へ上場し、建設業許可と宅地建物取引業免許も取得している。名乗りは「株式会社ハザマ」ではなく、1889年の創業以来の「間組」に戻した。不採算資産と過剰債務を旧法人へ残し、建設事業だけを持って再出発する形が整った[12][13]。
結果
承継会社の10年と、合併への道筋
承継会社の初年度にあたる2004年3月期は、10月設立のため約6か月の変則期となり、連結売上高1,403億円、経常利益38億円、当期純利益7億円で着地した。通期となった2005年3月期は2,253億円、2007年3月期には2,372億円まで伸び、再建計画が3年後に置いた売上約2,000億円の水準は超えている。過剰債務を旧法人へ移したことで、外から中身の読めるバランスシートを示せる状態になった[14]。
それでも独力での拡大には限りがあった。リーマンショック後の2010年3月期には連結経常利益が5億円まで縮み、当期純損益は17億円の赤字となる。売上高も2012年3月期1,820億円、2013年3月期1,979億円で足踏みした。会社分割と同じ2003年に結んだ安藤建設との資本業務提携が布石となり、2013年4月、間組を存続会社として建築に強い安藤建設を統合し、株式会社安藤・間が発足した[15][16]。
- 日経ビジネス 1993年1月4日号「敗軍の将、兵を語る 本田茂氏[ハザマ会長]甘い審査で延滞債権増加 社長退き回収に専念」
- 日経ビジネス 2000年6月5日号「緊迫感なきハザマ、モラルハザードの極み『みずほ』発足前に駆け込み? 損失処理先送りも不可解」
- 週刊東洋経済 2000年9月9日号「[特集]このお騒がせ会社に未来はあるか ハザマ債権放棄問題が決着でも将来の収益力は「霧の中」」
- 週刊東洋経済 2003年2月1日号「[News&Forecast/時々刻々]ゼネコン統合先未定のハザマ処理はみずほの“見切り発車”」
- 安藤・間 有価証券報告書【沿革】
- 株式会社間組・安藤・間 有価証券報告書(連結財務諸表)
- 安藤ハザマ 会社沿革(公式サイト)