「新旧分離」による本業回帰と株式上場

多角化の失敗で債務超過に陥った人材派遣最大手は、なぜ本業だけを切り出して上場させたのか

更新:

時期 2000年6月
意思決定者 南部靖之氏・中山隼雄氏 パソナ グループ代表・パソナ 代表取締役会長(CEO)
論点 財務再建と本業回帰
概要
2000年6月、南部靖之氏が率いるパソナは、多角化の失敗で債務超過に陥った本業の人材派遣事業を「新旧分離」で別会社へ切り出し、2001年12月に大阪証券取引所のナスダック・ジャパン市場へ上場させた。不採算事業と負債を旧会社に残し、収益力のある本業を上場で再建する経営判断。
背景
1990年代後半、神戸の商業施設ハーバーサーカスや株式投資の失敗で財務が悪化し、単体は債務超過に転落していた。銀行団から債務圧縮を強く求められるなか、1999年にはセガの中山隼雄氏を会長に迎えて立て直しに着手していた。
内容
2000年6月、人材関連事業の営業権を子会社へ譲渡して「新パソナ」とし、旧パソナは南部エンタープライズと改称して非人材事業約100社を抱える持株会社に衣替えした。負債を新旧二社に分散させたうえで、収益資産である新パソナを上場させ再建の原資を得た。
含意
本業回帰と上場で財務は立て直され、2003年に東証一部へ上場した。2007年の純粋持株会社パソナグループ設立へと接続する一方、創業家に及ぶ上場益や開示の不透明さには当時から批判も残った。
筆者の見解

筆者見解

南部靖之氏の経営は、雇用の流動化という理念と、次々に打ち上げる事業構想の華やかさで知られてきた。だが一九九〇年代後半のパソナが直面したのは、その構想が生んだ不採算事業と、開示を欠いた不透明な財務であった。新旧分離は、理念の旗を掲げ続けながら収益の柱である本業だけを救い出す現実的な選択であったとみることができる。中山隼雄氏という外部経営者を迎えて初めて、その整理に踏み切れた点も見逃せない。

もっとも、この再建には影も伴っていた。負債と不採算事業を旧会社へ寄せる手法は、上場する新パソナの投資家からは見えにくく、連結対象外の創業家企業に上場益が及ぶ構図への批判も当時から出ていた。本業を市場の規律にさらす一方で、グループ全体の実態がどこまで透明になったのかは、なお問われる余地を残していたといえる。本業回帰という物語が、その後ふたたび広がる多角化路線とどう折り合うのかは、長く尾を引いた論点であったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

多角化の蹉跌と債務超過

南部靖之氏が実質的に率いるパソナは、人材派遣で年商一〇〇〇億円規模に達しながら、株主構成や損益をほとんど開示しない不透明な経営を続けていた。好調な業績がそれを支えていたが、一九九〇年代後半に本業の伸びが鈍り、南部氏が手掛けた多角化事業の綻びが表面化した。阪神大震災後に出身地神戸で開業した商業施設ハーバーサーカスは初期投資八〇億円を回収できず、鉄鋼商社ヤハギ株への投資では最終的に約二〇億円の損失を出し、長銀総研の買収も銀行の反対で断念に追い込まれていた[1]

パソナは長らく正確な売上高や損益、借入金の額を開示してこなかったが、後年に本誌の取材へ応じた数値によれば、不採算事業の整理に伴って二〇〇〇年一月期には単独決算で七四億円の最終赤字を計上し、一四億円の債務超過に転落していた。翌期にいったん黒字化して債務超過こそ脱したものの、なお二〇〇億円を上回る有利子負債・保証債務を抱え、銀行団から債務の圧縮を強く求められる状況にあった。財務の不透明さと過大な負債が、南部靖之氏の経営を追い込んでいた[2]

中山隼雄氏の招聘と「本気宣言」

こうした苦境のなか、パソナは一九九九年七月、セガ・エンタープライゼズ副会長の中山隼雄氏を代表取締役会長として迎えた。形式上の代表取締役だった南部氏の父・栄三郎氏は退任し、南部靖之氏自身は商法上の規定がない「グループ代表」という肩書きを脱いで代表取締役社長に就いた。上場企業の経営者として一定の評価を得ていた中山氏を招いた人事は、対銀行・対業界で追い込まれた南部氏の立て直しに向けた布石であったとみられる[3]

決断

新旧分離という手法

悪化した財務を一気に改善する手法として編み出されたのが、本業の人材関連事業を別会社へ営業譲渡する「新旧分離」であった。パソナは二〇〇〇年六月一日、人材派遣を中心とする人材関連事業の営業権を子会社のパソナサンライズに譲渡し、同社をパソナに社名変更した。一方の旧パソナは南部エンタープライズと改称し、赤字が続くハーバーサーカスなど非人材事業約一〇〇社を束ねる持株会社へ衣替えした。これによって、経営不振で膨らんだ負債を新旧二社に分散させた[4]

収益資産の切り出しと上場

新旧分離のねらいは、収益資産である人材派遣事業だけを新パソナに残し、これを上場させて再建の原資を得ることにあった。パソナは二〇〇一年十二月、大阪証券取引所のナスダック・ジャパン市場への上場を計画した。第三位株主にはソフトバンクの孫正義氏が名を連ね、同氏は前年に個人資産五〇億円を新パソナへ貸し付けていた。中山隼雄会長は本誌の取材に、二〇〇〇年六月の営業譲渡を私的整理ではなく本業回帰による事業のスピードアップと位置づけ、上場しなければ再建に時間がかかっただけだと述べた[5]

結果

上場の実現と東証一部へ

新パソナは計画どおり二〇〇一年十二月、大阪証券取引所のナスダック・ジャパン市場に上場した。上場で得た資金は借入金の返済に充てられ、パソナと南部エンタープライズに貸し込んでいた銀行団の債権回収も進んだ。二〇〇三年十月には東京証券取引所市場第一部への上場を果たし、それまで不透明とされてきた経営は資本市場の開示規律の下に移された。多角化で膨らんだ負債を旧会社へ切り離し、収益力のある本業を上場させるという再建の枠組みは、ひとまず所期の形を整えたといえる[6]

本業回帰後の再拡大

上場後の本業は規模を取り戻していった。単体の売上高は二〇〇三年五月期に一一一二億円、経常利益三五億円、当期純利益一六億円を計上し、債務超過に転落した数年前からの回復を数字の上でも示した。上場を機に開示された財務は、かつての不透明さから資本市場が検証できる形へと変わった。パソナはその後も人材派遣を軸に事業を広げ、二〇〇七年十二月には株式移転により純粋持株会社パソナグループを設立し、東京証券取引所市場第一部へ改めて上場した。新旧分離から始まった本業回帰は、後の持株会社体制へと接続していった[7][8]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1999年6月5日号「深層 セガ・中山氏を迎えたパソナグループの事情」
  • 週刊東洋経済 2001年10月27日号「経営分析 パソナ上場が改めて問いかける派遣最大手の『適格性』」
  • パソナ 有価証券報告書(2003年5月期)
  • パソナグループ 有価証券報告書(沿革)

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