歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1976年、結婚や出産で職場を離れた女性が事務職へ戻る道がほとんど無かった時代に、南部靖之氏が大阪市でテンポラリーセンター(後のパソナ)を創業した。労働力を業として供給することは職業安定法で原則禁じられていたため、家事代行と事務作業を半日単位で請け負う家事サービス契約として始めた。依頼企業から手数料を取り、登録した主婦や学生へ時給を払う。繁閑差を正社員で抱えたくない企業と、再就職口を求める女性を、法令のすき間でつないだ。
決断収益構造を決めたのは、2007年の純粋持株会社化を機に、商社・金融・メーカー系の派遣子会社を矢継ぎ早に買収し、派遣・紹介・BPO・福利厚生を束ねる総合人材サービスへ広げた選択である。連結売上は3,000億円台へ届いた。だが買収先は親会社向けの特命案件が多く、原価低減やクロスセルの余地は乏しく、利益率は数%にとどまった。本体の評価はむしろ上場子会社ベネフィット・ワンの時価総額に依存し、親子上場の歪みを抱え込んだ。
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歴史詳細 - 4つの時代区分で読み解く
1976年〜1999年 家事手伝いから事務派遣へ ── 人材派遣を産業として立ち上げる
「専業主婦の社会復帰」を商品にした創業
1976年2月、創業者の南部靖之氏は関西大学を卒業した直後に、大阪市北区で株式会社テンポラリーセンター(後の株式会社パソナ)の前身となる組織を立ち上げた[1][2][3]。当時の日本では結婚や出産で職場を離れた女性が、再び事務職に就く経路はほとんど整っていなかった。南部氏が最初に商品化したのは、家事代行と事務作業を半日単位で派遣する仕組みで、依頼主の企業から手数料を受け取り、登録者へは時給ベースで支払う構造である。1970年代半ばの日本では「人材派遣」という言葉自体が定着しておらず、職業安定法は他人の労働力を業として供給する行為を原則禁止していた。テンポラリーセンターは家事サービスとしての契約形態を採ることで、法令と需要のすき間に事業を成立させた。
海外へ行ったとき、町を自由に闊歩する中年の女性が多いのに出くわすが、いろんな職種の人がいろんな職場で、中高年まで勤めている。 ところが、日本に帰ってくると、犬をつれて散歩している姿しか見かけない。婦人の労働力が生かされていないと痛感した。 わたしは以前、団地で学習塾を経営していたが、講師に団地の奥さんに来て貰って高成績を収めました。 そのとき、高学歴で暇を持てあましている女性が、沢山いるのに気づいた。 独身時代に優秀な事務能力や技術を身につけた人が、結婚後、子育てを終った段階で、自由な時間をもっているのを、目のあたりに見て、この層の女性エネルギーを掘りおこしていって、社会に還元したらどうだろう、と考えた。もう一つは、日本の企業においては、年功序列を重んじることは、いいことだが、女子の事務系統では必ずしもそうではない。それに反して一人前にするための事務教育に時間と金と労力がかかる。 それだけの研修機能がない企業も実際に多いから、その代行をしてあげたら、喜ばれるんじゃないか、と思った。 このテンポラリーセンターを設立した動機は、そんなところですね。
当時まだ卒業していませんから、同学年の学生で交際していたガールフレンドがいまして、その人に頼んで留守番をやってもらいました。ひとりでまるまる一週間くるわけにいきませんから、友達を紹介してもらって、三人で週二日ずつ交代できてもらいました。 そうはっきり婚約者というわけではありませんでしたが、しばらくしてからそうなりましたけど、結局彼女たちには給与として一銭も払いませんでしたが、あとで当社の株を分配しましたから、いま彼女たちはわが社の大株主になっています。 とにかく私ひとりで営業をしているわけですから、忙しくて、そんなこと気にする暇もなかったんです。新しい会社を開拓するために、毎日どんどん新規開拓のノルマを自分自身で決めて、就職で会社まわりしたように、何社もまわっていましたから……
創業初期の顧客は大阪・神戸の中堅企業が中心で、登録者は主婦と学生で構成された。南部氏は「家庭婦人の社会復帰」を看板に各地で講演を重ね、登録者を集める広告と顧客企業への営業を同時に進める方式を取った。1970年代後半は第一次オイルショック後の景気回復期にあたり、企業側にも事務処理の繁閑差を社員採用で吸収するより、外部の労働力で調整したい需要があった。1980年代初頭には事務用OA機器の普及で女性向け事務職の需要が広がり、テンポラリーセンターの登録者数も増加へ転じた。創業から10年弱、家事代行と事務支援の2事業を併行しながら、主力を事務派遣に移した時期がこの時代の前半である。
第一号の人材派遣は阪急百貨店だったと記憶しています。事務処理の仕事でたしか四人を派遣させてもらいました。他の企業も人数はひとりとか二人と少なかったですが、ほとんどの会社が約束通り、雇ってくれました。
派遣事業の合法化を求める業界側の動きは1980年前後から本格化し、1985年7月に労働者派遣法が成立、1986年7月に施行された。施行と同時にテンポラリーセンターは正式な労働者派遣事業者として認可を受け、それまでの請負型の家事サービスから、派遣契約に基づく事務職派遣へ事業形態を切り替えた。同法は当初13業務に派遣を限定する厳しい制度設計で、対象業務はソフトウェア開発、機械設計、放送機器操作、通訳・翻訳、秘書、ファイリング、調査、財務処理、取引文書作成、デモンストレーション、添乗、案内・受付、駐車場管理の13種に絞られていた。テンポラリーセンターは秘書・ファイリング・財務処理の3業務を主力に据えて、首都圏での営業基盤を急ぎ広げた。
派遣法と東京進出 ── 制度と顧客を同時に開拓した10年
1986年の労働者派遣法施行後、テンポラリーセンターは東京・名古屋・福岡へ営業拠点を相次いで開設し、関西発祥の企業から全国展開する派遣会社へと事業基盤を再編した。1987年には登録スタッフ数が10万人を超え、当時の業界では日本マンパワー(米マンパワー社の日本法人)と並ぶ大手として認知された。1988年には派遣スタッフの教育研修制度「パソナアカデミー」を整備し、OAソフトの操作研修や接遇研修を体系化した。教育サービスを派遣契約に組み込むことで派遣単価の引き上げ余地を確保し、登録者にとってもキャリア形成の場となる仕組みを設計した。創業者の南部氏は派遣を機会の不平等を埋める社会的な仕組みと位置づけ、女性の労働参加を制度面から後押しする発信を続けた。
1993年6月、テンポラリーセンターは商号を株式会社パソナへ変更した[4]。「PASONA」は「Personal And Social Network Association」の頭文字をとった造語で、個人と社会のネットワークを結ぶという創業思想を社名に込めた。1990年代前半はバブル崩壊で正社員採用を絞る企業が増え、その反動で派遣需要が急拡大した時期にあたる。1995年の労働者派遣法改正で対象業務は16業務に広がり、1996年改正で26業務へ拡大、1999年改正では原則自由化(ネガティブリスト方式)へと制度の枠組みが転換した。パソナの売上はこの規制緩和と連動して増え、1990年代後半には派遣業界でリクルートグループ、テンプスタッフ(現パーソル)と並ぶ三強の一角となった。
1990年代後半には派遣事業のほかに、再就職支援(アウトプレースメント)と人材紹介の2領域へ事業を広げる動きを進めた。1997年に米ドレイク・ビーム・モリン社と提携して再就職支援事業を本格化させ、リストラを進める大企業の退職予定者の転職支援を受託する事業を立ち上げた。1998年には人材紹介子会社のパソナキャリアを設立し、派遣登録者を正社員転職へ橋渡しする経路を整備した。派遣事業で集めた登録者データベースを、紹介・再就職支援の収益源としても活用する設計である。1999年の派遣法原則自由化を受けて、創業者の南部氏は人材ビジネスの裾野を「派遣・紹介・再就職支援」の3層に広げる方針を打ち出し、後の上場と持株会社化へ向けた事業構造の輪郭がこの時期に整った。
未払い社会保険料問題と成長鈍化 ── 急伸した派遣業界の構造的弱さ
急成長の裏側では、派遣会社の薄い収益基盤が社会保険料の未払いとなって表面化した。発端は会計検査院が1997年と1998年の2年続けて実施した社会保険加入調査で、調査した派遣会社の事業所のうち約3割で社会保険料の徴収漏れが見つかり、社会保険庁を通じて過去2年分がさかのぼって徴収された。最大手のパソナとテンプスタッフも1997年度に数億円を支払ったとされる。負担の背景には一般労働者派遣事業の利益率の低さがあり、大手でも売上高経常利益率は1〜2%程度にとどまっていた。売上高1260億円で業界首位のパソナについて、南部靖之代表は「当社は2〜3%の経常利益率を上げているので、社会保険料の支払いで即、赤字ということにはならない」(日経ビジネス 1998年9月14日号)と反論したが、さかのぼって徴収される未払い分が経営の重しになった点は変わらなかった[5]。
労働力の需給を調整する役回りとして不況下でも伸びてきた派遣市場にも、1990年代末には変調が現れた。日本人材派遣協会が首都圏の主要23社を対象にまとめた調査では、派遣実績の前年同期比の伸びが1997年1〜6月の29.8%増から、同年7〜12月には11.8%増へ縮んだ。この時期の業界大手はいずれも株式を上場しておらず、1997年度はパソナの1260億円を筆頭にテンプスタッフ670億円、スタッフサービス465億円と続き、資本金数億円規模の6社が低い利益率のまま売上の規模を競う構図にあった[6]。需要側で何が起きていたのかについて、パソナの上田宗央エグゼクティブバイスプレジデントは次のように分析している。
急成長を支えていた情報関連企業の需要が鈍化したこと。あるいは、正社員を派遣社員に転換してきた企業が『第2リストラ』とでも呼ぶべき段階に入り、さらにその派遣社員も絞り込むようになったことが要因ではないか
| 社名 | 本社所在地 | 資本金 | 社長 | 1997年度売上高 |
|---|---|---|---|---|
| パソナ | 東京都渋谷区 | 4億9500万円 | 南部栄三郎 | 1260億円(1050億円) |
| テンプスタッフ | 東京都渋谷区 | 6億1563万円 | 篠原欣子 | 670億円(480億円) |
| スタッフサービス | 東京都新宿区 | 4億9500万円 | 岡野保次郎 | 465億円(328億円) |
| キャリアスタッフ | 東京都渋谷区 | 9億1000万円 | 小野憲 | 447億円(302億円) |
| マンパワー・ジャパン | 東京都千代田区 | 4億9000万円 | 尾野博 | 400億円(300億円) |
| リクルートシーズスタッフ | 東京都千代田区 | 2億2000万円 | 和田武治 | 385億円(265億円) |
2000年〜2007年 経営危機からの本業分離と株式上場 ── 個人商店から組織経営への転換
本業分離と経営危機 ── 多角化のつまずきと中山・孫による救済
本業の人材派遣が好調を保つ一方で、1990年代に南部社長の主導で広げた新規事業が本体の収益を圧迫していた。規制緩和に乗って始めた化粧品の並行輸入や、1996年に震災後の神戸で雇用創出を掲げて開いた小売り施設「神戸ハーバーサーカス」は、社会的な意義は認められても収益にはつながりにくかった。不採算事業が本業の利益を侵食するなか、ボーナス時期のたびに資金繰りへの憶測が流れ、パソナの財務体質の悪化を巡る経営不安説が社内外に広がった。メインバンクの三和銀行はリストラ策の早期策定を迫り、子会社パソナテックの株式公開で本体の借入を返す案も、親会社のパソナが未上場で20%以上を保有できない規制に阻まれて断念に追い込まれた。
行き詰まりを打開する一手として、パソナは本業と多角化事業の分離に踏み切った。2000年6月、人材派遣などの本業を、障害者雇用を目的に設けていた子会社パソナサンライズへ移して同社をパソナと改称する一方、従来のパソナは南部社長の個人資産管理会社「南部エンタープライズ」へ衣替えした[7][8]。子会社が本業を引き継いで上場主体となり、創業以来の本体が資産管理会社へ退く主従逆転にあたる。多角化事業を切り離し、本業単体での株式公開を狙う再編であり、経営体制も同時に改めた。9人いた取締役を執行役員制度の導入で5人に減らし、南部靖之氏は社長を退いてグループ代表として中長期戦略に専念、後任の社長には上田宗央副社長が昇格した。中山隼雄会長は続投し、南部社長の父で名誉会長の南部栄三郎氏は退任、外部から社外取締役2人を迎えた。カリスマ社長の「個人商店」から、複数の目が利く「トロイカ体制」へ移行した。
経営再建の裏では、二人の支援者が動いていた。一人は1999年7月にセガ・エンタープライゼス副会長からパソナ会長へ転じた中山隼雄氏で、古巣セガのメインバンクである住友銀行と準メインの住友信託銀行に働きかけ、止まりかけていた融資を引き出した。もう一人はソフトバンク社長の孫正義氏で、ベンチャー経営者どうし南部氏と親しく、1999年に店頭公開したパソナソフトバンクを両者の出資で設立していた。信用不安から銀行が新規融資に慎重になるなか、南部氏の相談を受けた孫氏がソフトバンクの取引行である富士銀行を動かし、その富士銀行が今回の本業分離策を描いた。経営権の取得を疑う見方に対し、中山会長は資本金を4億6000万円から10億円へ増やす増資に応じる構えを見せつつ、「ばかばかしい。パソナの顔は南部氏。私は黒子に徹する」(日経ビジネス 2000年5月29日号)と一蹴した。
2003年東証一部上場と持株会社化
2001年12月、本業を引き継いだパソナは大阪証券取引所ナスダック・ジャパン市場(後の大証ヘラクレス、現JASDAQ)に株式を上場し、創業から25年で資本市場との接点を得た[9][10]。上場時の公募価格は1株14万円、調達額は約170億円で、調達資金は派遣登録者向けデータベース投資と関東圏・中部圏の拠点拡張に充てた。本業分離から1年半での上場は、不採算事業で膨らんだ銀行借り入れの返済にめどを付け、買収などに必要な資金を市場から調達する道を開く転機となった。続いて2003年10月に東京証券取引所市場第一部へ重複上場し、人材派遣会社として初の本則市場一部上場銘柄となった[11]。
2003年から2006年にかけて、パソナはグループ会社の連続上場による資金調達と事業分割を進めた。2004年3月にIT技術者派遣のパソナテック、同年9月に福利厚生代行のベネフィット・ワンが日本証券業協会(ジャスダック)へ店頭登録し、グループ内3社が独立上場会社として並ぶ構造になった[12][13]。ベネフィット・ワンは2006年3月に東証二部、2018年11月に東証一部へ指定替えとなり、福利厚生アウトソーシング市場でリログループに次ぐ国内2位の地位を築いた[14][15]。子会社の個別上場は、各事業へ独立した経営資源を集めると同時に、グループ全体の連結時価総額を引き上げる効果を持った。創業者の南部氏は持株比率を維持したまま、派生事業の資金調達力を活用する経営手法を採用した。
2007年12月、パソナは株式移転により純粋持株会社「株式会社パソナグループ」を設立し、東京証券取引所市場第一部と大阪証券取引所ヘラクレスへ同時上場した[16]。事業会社のパソナは100%子会社となり、ベネフィット・ワン、パソナテックなど上場子会社を含むグループの統括機能をパソナグループが担う形へ再編した。持株会社化の目的は、人材派遣・人材紹介・アウトソーシング・福利厚生代行などの異なる事業ポートフォリオを横断的に運営する経営体制を整えることだった。2008年12月に大証ヘラクレスの上場を廃止して東証一部に一本化し、グループ全体の資本市場対応窓口をパソナグループに集約した[17]。創業者の南部氏は代表取締役グループ代表として持株会社の経営トップに就き、事業会社の社長職は分離した。
2008年〜2019年 矢継ぎ早の買収と物言う株主の登場 ── 総合人材サービスへの拡大
矢継ぎ早の買収 ── 派遣・BPO・コンタクトセンターを束ねる
2009年から2018年にかけて、パソナグループは派遣・BPO・コンタクトセンター領域で年間2〜5件のペースで子会社買収を実施した。2009年7月にパソナが三井物産ヒューマンリソースを吸収合併、2010年2月にエイアイジー(AIG)スタッフを完全子会社化、2011年6月にリコー・ヒューマン・クリエイツとリコー三愛ライフの人材派遣事業を吸収分割で承継するなど、大手商社・金融・メーカー系の派遣子会社を相次いで取り込んだ[18][19][20]。買収案件はいずれも親会社が人材派遣事業を切り出す案件で、パソナグループは派遣登録者数とクライアント基盤を一括で取得する手法を用いた。2012年にはキャプラン(旧古河系)、安川ビジネススタッフ、ビーウィズ(旧ベネッセ系)を子会社化し、業界系列を超えた派遣会社の取り込みを加速した[21]。
2015年から2017年にかけては、メーカー系の総務BPO会社と通信系のコンタクトセンター会社の取り込みに重点が移った。2015年4月にパナソニック ビジネスサービス(現パソナ日本総務部)と新日本工業(現ゴートップ)を子会社化し、パナソニックグループの総務・福利厚生業務を受託する基盤を獲得した[22]。2016年4月に大阪ガスエクセレントエージェンシー、2017年8月にNTTヒューマンソリューションズ(現パソナHS)とテルウェル・ジョブサポート、同年9月にドロップシステムをグループに取り込み、ガス・通信系BPOへも領域を広げた[23][24][25]。買収対象企業はいずれも特定の大手企業グループ向けの派遣・BPO事業を主業とする会社で、買収後もクライアントとの取引関係を引き継ぐ条件で譲渡が成立した。
連続買収の結果、パソナグループの連結売上高はFY11の1,815億円からFY18の3,270億円へ約1.8倍に拡大した。同期間の営業利益も21億円から95億円へと約4.5倍に増えたが、売上高営業利益率は1.2%から2.9%への改善にとどまり、リクルートホールディングス(営業利益率7%前後)やパーソルホールディングス(同4%前後)と比べると低水準にとどまった。買収先の派遣会社は親会社向けの特命案件が多く、グループ内クロスセルや原価低減の余地が限られたためである。創業者の南部氏は決算説明会で人材サービスの総合デパート化を経営方針として繰り返し掲げ、買収による領域拡大を肯定的に位置づけたが、拡大に対し利益率は改善しなかったことが資本市場から繰り返し指摘される論点となった。
「物言う株主」の登場 ── オアシスとベネフィット・ワン
2017年、香港拠点のアクティビストファンド、オアシス・マネジメント・カンパニーがパソナグループ株式を3.16%取得し、5%報告書を提出した。オアシスは「A Better Pasona」と題した特設サイトを開設し、ベネフィット・ワンを含む上場子会社の保有を整理して株主還元を増やすこと、社外取締役の独立性を強化することを公開キャンペーンで主張した。ベネフィット・ワンの時価総額がパソナグループ本体の時価総額を上回る「親子上場の逆転現象」が起きており、ベネフィット・ワン株式を売却すれば株主価値の解放につながるという論理だった。2018年8月の株主総会では、オアシス側が独自の社外取締役選任を含む株主提案を提出したが、創業者の南部氏ら経営陣が反対意見書を出し、提案は否決された。
オアシスの主張に対し、創業者の南部氏は当時、ベネフィット・ワンを長期的に保有してグループのシナジーを最大化する方針を示し、売却の方向性を否定した。一方で資本市場からの圧力は継続し、2018年から2020年にかけてベネフィット・ワンの時価総額はパソナグループ本体の3〜5倍規模で推移する状態が続いた。市場では、パソナ単体(派遣・紹介・BPO)の事業価値がマイナスに評価されかねないとの指摘も出て、子会社株式の保有がむしろ本体の株主価値を毀損するという論調が強まった。創業者の経営方針と資本市場の評価が乖離する構造のもとで、株主構成は安定していたものの、配当性向や自己株取得方針への期待は満たされない状態が続いた。
2018年から2019年にかけて、パソナグループは買収のペースを維持しつつ、海外進出を強める方針を示した。2015年10月にインドネシアと2018年2月にマレーシアの現地企業を子会社化、2020年1月にタイで現地法人を設立し、東南アジア向け人材サービスを2015年から2020年にかけて立ち上げた[26][27][28]。国内ではJob-Hub(現パソナJOB HUB)を2018年4月に子会社化し、副業・顧問派遣の領域へも進出した[29]。だが海外子会社の売上規模はFY19時点でグループ売上の数%にとどまり、本業の派遣・紹介での競争劣位を補う規模には届かなかった。創業者の南部氏は2020年に向けて次の50年に向けた構造転換を掲げ、コロナ禍を契機とする本社機能の地方移転構想を温める時期が2019年から2020年初頭に重なった。
2020年〜2025年 淡路島移転とベネフィット・ワン売却 ── 派遣・紹介の規模競争から外れる選択
本社主要機能を兵庫県淡路島へ移転する宣言
2020年9月、創業者の南部氏は本社の主要機能を東京都千代田区から兵庫県淡路島へ4年がかりで移転すると発表した[30]。当初発表では2024年5月末までに本社機能の人事・経理・広報・経営企画など約1,800人のうち1,200人を淡路島へ移すという計画で、コロナ禍を契機とした「分散型・複線型の働き方」を提唱する内容だった。淡路島へは2008年から進めていた地域創生事業の拠点を順次拡張する形で、ニジゲンノモリ(2016年設立)、丹後ブルワリー、awajishima resort、All Japan Tourism Allianceなど観光・農業・地方創生系の子会社を集積した[31]。発表時点で淡路島には既にパソナグループの観光・農業関連の事業拠点が複数あり、本社機能の移転はその延長線上にある決定だった。
しかし発表後の実態は計画通りには進まなかった。2021年から2022年にかけて、移転対象者の一部から東京圏在住の家族との別居や通勤負担への懸念が示され、移転辞退や中途退職の動きが生じた。同社は2021年11月の決算説明会で、移転完了目標を当初の2024年5月から先延ばしする方針を示し、2023年5月期決算時点で淡路島勤務者は約500人にとどまった。淡路島では本社機能の受け入れに加えて、「Awaji Nature Lab & Resort」「ハローキティスマイル」など観光・体験施設の運営を子会社が担う体制を整えたが、コロナ禍後の観光需要は計画ほど回復せず、地方創生・観光ソリューションセグメントはFY18からFY23まで毎期営業赤字を計上した。2023年5月期の同セグメント営業損失は約27億円、FY24にも約19億円の赤字が続いた。
淡路島への本社機能移転は、創業者の南部氏が個人として構想する「地方創生型企業経営」の実践例にあたる決定だった。2020年8月に取締役会長へ就任した竹中平蔵氏は政府の規制改革推進会議で議長を務めた人物で、社外発信と政府関係者への働きかけを担当した[32]。創業者の南部氏は淡路島での記者会見やインタビューで地方創生を次の50年の事業基軸と説明し、観光・農業・地域雇用を組み合わせた事業を主力に育てる方針を表明した。だが連結売上高に占める地方創生・観光ソリューションの比率はFY24時点で約2%にとどまり、本業の派遣・BPO・紹介の代替収益源には届かない規模差が残った。創業者の経営方針と財務インパクトの差は、株主からの問いかけが続く論点となった。
ベネフィット・ワン売却 ── オアシス提案から6年越しの決着
2023年11月、第一生命ホールディングスがベネフィット・ワンに対してTOB(株式公開買い付け)を実施する意向を発表した。提示価格は1株1,800円、対象株式数はパソナグループ保有分を含む発行済株式の全数で、買付総額は約2,800億円となる規模だった。パソナグループはベネフィット・ワン株式の51.16%(約3,150万株)を保有しており、TOBに応じれば約1,500億円超の売却益が見込まれる案件だった。当初は2024年1月にTOB成立予定だったが、エムスリーが対抗TOB(1株1,600円、後に2,123円へ引き上げ)を発表したため買付期間が延長された。最終的にエムスリーは2024年2月にTOBを撤回し、第一生命は買付価格を2,173円へ引き上げて2024年4月にTOBを成立させた。
2024年5月、パソナグループはベネフィット・ワン株式の全保有分を第一生命へ譲渡し、約1,200億円の特別利益を計上した[33]。FY23の親会社株主に帰属する当期純利益は958億円となり、前期(60億円)から約16倍に膨らんだ。創業者の南部氏は2024年5月の決算説明会で、グループの選択と集中を実行したと説明し、子会社上場会社の親子上場関係を整理する経営判断であると位置づけた。2017年にオアシス・マネジメントが要求した「上場子会社の整理」は、創業者が当時否定した内容だったが、6年を経て同じ方向の決定を実行した。売却後の自己株式取得・配当による還元方針は決算説明会で具体額が示され、2024年に320億円規模の自己株取得と配当性向引き上げが実施された。
ベネフィット・ワン売却で得た資金の使途は、自己株取得・配当に加えて、地方創生・観光事業への再投資にも振り向ける方針が示された。2024年6月にはパソナセーフティネットを子会社として設立し、人材派遣登録者向けの就業支援を強化する体制を整えた[34]。同時にパソナテックを2024年9月に吸収合併し、グループ内子会社の整理も進めた[35]。だがベネフィット・ワンというグループ最大の収益・時価総額源を手放した結果、FY24の連結売上高は3,092億円(前期比13.3%減)、営業損失12億円、親会社株主に帰属する当期純損失87億円と、上場以来初の連結営業赤字へ転落した。資本市場からはアクティビストの再登場が観測され、2024年7月にオアシス・マネジメントが重要提案行為目的で5.02%を保有する旨を再開示した。
創業者親政と次世代経営チーム ── 若本博隆氏のCEO登用
2024年5月、若本博隆氏が代表取締役社長CEOへ就任した[36]。若本氏は1960年生まれ、1984年に埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)へ入行した後、2012年にパソナグループへ転じてキャリアを積んだ人物で、財務・経営企画の領域を担当してきた[37]。創業者の南部氏は代表取締役グループ代表兼社長として経営トップに残り、グループ代表と社長CEOの2名体制で執行を担う形に組織を改めた[38]。創業者の長期親政が続くなかで、銀行出身者をCEOに登用するのは2007年の持株会社設立以来初めての布陣で、財務規律と資本効率の改善を内外に示す意図が読み取れる人事だった。創業者の南部氏は2024年5月の社長就任発表で、次の50年は若手と外部の知見で経営を担うとの考えを示した。
若本氏のCEO就任後、グループは2025年2月にパソナサステナビリティ、2025年4月にパソナウェルネスツーリズム、パソナふるさとマルシェなど、地方創生・観光・サステナビリティ領域での子会社設立を続けた[39][40][41]。同時に2024年9月にパソナテック吸収合併、2024年6月にパソナふるさとインキュベーションによるパソナスマイル吸収合併など、グループ内重複機能の整理も並行で進めた[42]。創業者の長女・南部真希也氏は2024年から取締役常務執行役員グローバル戦略総本部長兼国際業務本部長として、海外子会社の統括を担う立場についた。南部家からは創業者の妹である山本絹子氏(取締役副社長執行役員NATUREVERSE総本部長)も経営陣に名を連ね、創業家3名と外部CEO1名で構成される執行体制が整った。
直近期のパソナグループは、人材派遣・紹介・BPOの本業と、地方創生・観光の新領域、そして創業者親政の経営体制という3つの軸が並んでいる。本業のBPOソリューション・エキスパートソリューションはFY24売上2,693億円・営業利益97億円と連結の主柱だが、リクルートホールディングス(連結売上3.4兆円、人材派遣・紹介事業3,500億円規模)、パーソルホールディングス(連結売上1.4兆円、派遣事業7,000億円規模)と比べると規模差は広がっている。地方創生・観光ソリューションは売上62億円・営業損失19億円で、黒字化の道筋は描けていない。ベネフィット・ワン売却益で財務面の余裕は確保したものの、本業の収益基盤を立て直すか、観光・農業を主力に育てるか、創業者の長期親政をいつどう承継するか、という3つの判断が現任CEO・若本氏と創業者の南部氏に同時にのしかかる経営フェーズが続いている。