1976年〜 家事手伝いから事務派遣へ ── 人材派遣を産業として立ち上げる
パソナグループの業績推移
- 1976年 家事代行から始めた事務派遣 ── テンポラリーセンターの創業 女性の再就職という社会の空白を、派遣がまだ合法でない時代にどう事業へ翻訳したか
- 1993年 テンポラリーセンターの商号をパソナに変更
「専業主婦の社会復帰」を商品にした創業
1976年2月、創業者の南部靖之氏は関西大学を卒業した直後に[1]、大阪市北区で株式会社テンポラリーセンター(後の株式会社パソナ)[2]の前身となる組織を立ち上げた[3]。当時の日本では結婚や出産で職場を離れた女性が、再び事務職に就く経路はほとんど整っていなかった。南部氏が最初に商品化したのは、家事代行と事務作業を半日単位で派遣する仕組みで、依頼主の企業から手数料を受け取り、登録者へは時給ベースで支払う構造である。1970年代半ばの日本では「人材派遣」という言葉自体が定着しておらず、職業安定法は他人の労働力を業として供給する行為を原則禁止していた。テンポラリーセンターは家事サービスとしての契約形態を採ることで、法令と需要のすき間に事業を成立させた。
- パソナグループ 有価証券報告書(役員の状況)
- [1]創業者は南部靖之である
- パソナグループ 有価証券報告書【沿革】
- [2]テンポラリーセンターは後の株式会社パソナである
- [3]1976年2月にテンポラリーセンターの前身となる組織が大阪市北区で立ち上げられた
創業初期の顧客は大阪・神戸の中堅企業が中心で、登録者は主婦と学生で構成された。南部氏は「家庭婦人の社会復帰」を看板に各地で講演を重ね、登録者を集める広告と顧客企業への営業を同時に進める方式を取った。1970年代後半は第一次オイルショック後の景気回復期にあたり、企業側にも事務処理の繁閑差を社員採用で吸収するより、外部の労働力で調整したい需要があった。1980年代初頭には事務用OA機器の普及で女性向け事務職の需要が広がり、テンポラリーセンターの登録者数も増加へ転じた。創業から10年弱、家事代行と事務支援の2事業を併行しながら、主力を事務派遣に移した時期がこの時代の前半である。
派遣事業の合法化を求める業界側の動きは1980年前後から本格化し、1985年7月に労働者派遣法が成立、1986年7月に施行された。施行と同時にテンポラリーセンターは正式な労働者派遣事業者として認可を受け、それまでの請負型の家事サービスから、派遣契約に基づく事務職派遣へ事業形態を切り替えた。同法は当初13業務に派遣を限定する厳しい制度設計で、対象業務はソフトウェア開発、機械設計、放送機器操作、通訳・翻訳、秘書、ファイリング、調査、財務処理、取引文書作成、デモンストレーション、添乗、案内・受付、駐車場管理の13種に絞られていた。テンポラリーセンターは秘書・ファイリング・財務処理の3業務を主力に据えて、首都圏での営業基盤を急ぎ広げた。
- パソナグループ 有価証券報告書(役員の状況)
- [1]創業者は南部靖之である
- パソナグループ 有価証券報告書【沿革】
- [2]テンポラリーセンターは後の株式会社パソナである
- [3]1976年2月にテンポラリーセンターの前身となる組織が大阪市北区で立ち上げられた
派遣法と東京進出 ── 制度と顧客を同時に開拓した10年
1986年の労働者派遣法施行後、テンポラリーセンターは東京・名古屋・福岡へ営業拠点を相次いで開設し、関西発祥の企業から全国展開する派遣会社へと事業基盤を再編した。1987年には登録スタッフ数が10万人を超え、当時の業界では日本マンパワー(米マンパワー社の日本法人)と並ぶ大手として認知された。1988年には派遣スタッフの教育研修制度「パソナアカデミー」を整備し、OAソフトの操作研修や接遇研修を体系化した。教育サービスを派遣契約に組み込むことで派遣単価の引き上げ余地を確保し、登録者にとってもキャリア形成の場となる仕組みを設計した。創業者の南部氏は派遣を機会の不平等を埋める社会的な仕組みと位置づけ、女性の労働参加を制度面から後押しする発信を続けた。
1993年6月、テンポラリーセンターは商号を株式会社パソナへ変更[4]した。「PASONA」は「Personal And Social Network Association」の頭文字をとった造語で、個人と社会のネットワークを結ぶという創業思想を社名に込めた。1990年代前半はバブル崩壊で正社員採用を絞る企業が増え、その反動で派遣需要が急拡大した時期にあたる。1995年の労働者派遣法改正で対象業務は16業務に広がり、1996年改正で26業務へ拡大、1999年改正では原則自由化(ネガティブリスト方式)へと制度の枠組みが転換した。パソナの売上はこの規制緩和と連動して増え、1990年代後半には派遣業界でリクルートグループ、テンプスタッフ(現パーソル)と並ぶ三強の一角となった。
- パソナグループ 有価証券報告書【沿革】
- [4]1993年6月にテンポラリーセンターは商号を株式会社パソナへ変更した
1990年代後半には派遣事業のほかに、再就職支援(アウトプレースメント)と人材紹介の2領域へ事業を広げる動きを進めた。1997年に米ドレイク・ビーム・モリン社と提携して再就職支援事業を本格化させ、リストラを進める大企業の退職予定者の転職支援を受託する事業を立ち上げた。1998年には人材紹介子会社のパソナキャリアを設立し、派遣登録者を正社員転職へ橋渡しする経路を整備した。派遣事業で集めた登録者データベースを、紹介・再就職支援の収益源としても活用する設計である。1999年の派遣法原則自由化を受けて、創業者の南部氏は人材ビジネスの裾野を「派遣・紹介・再就職支援」の3層に広げる方針を打ち出し、後の上場と持株会社化へ向けた事業構造の輪郭がこの時期に整った。
- パソナグループ 有価証券報告書【沿革】
- [4]1993年6月にテンポラリーセンターは商号を株式会社パソナへ変更した
未払い社会保険料問題と成長鈍化 ── 急伸した派遣業界の構造的弱さ
急成長の裏側では、派遣会社の薄い収益基盤が社会保険料の未払いとなって表面化した。発端は会計検査院が1997年と1998年の2年続けて実施した社会保険加入調査で、調査した派遣会社の事業所のうち約3割で社会保険料の徴収漏れが見つかり、社会保険庁を通じて過去2年分がさかのぼって徴収された。最大手のパソナとテンプスタッフも1997年度に数億円を支払ったとされる。負担の背景には一般労働者派遣事業の利益率の低さがあり、大手でも売上高経常利益率は1〜2%程度にとどまっていた。売上高1260億円で業界首位のパソナについて[5]、南部靖之代表は「当社は2〜3%の経常利益率を上げているので、社会保険料の支払いで即、赤字ということにはならない」(日経ビジネス 1998年9月14日号)と反論したが、さかのぼって徴収される未払い分が経営の重しになった点は変わらなかった。
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [5]パソナは1997年度の売上高1260億円で派遣業界首位だった
労働力の需給を調整する役回りとして不況下でも伸びてきた派遣市場にも、1990年代末には変調が現れた。日本人材派遣協会が首都圏の主要23社を対象にまとめた調査では、派遣実績の前年同期比の伸びが1997年1〜6月の29.8%増から、同年7〜12月には11.8%増へ縮んだ。この時期の業界大手はいずれも株式を上場しておらず、1997年度はパソナの1260億円を筆頭にテンプスタッフ670億円[6]、スタッフサービス465億円と続き、資本金数億円規模の6社が低い利益率のまま売上の規模を競う構図にあった。需要側で何が起きていたのかについて、パソナの上田宗央エグゼクティブバイスプレジデントは次のように分析している。
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [6]1997年度売上はパソナ1260億円・テンプスタッフ670億円・スタッフサービス465億円だった
- 日経ビジネス 1998年9月14日号
- [5]パソナは1997年度の売上高1260億円で派遣業界首位だった
- [6]1997年度売上はパソナ1260億円・テンプスタッフ670億円・スタッフサービス465億円だった