家事代行から始めた事務派遣 ── テンポラリーセンターの創業

女性の再就職という社会の空白を、派遣がまだ合法でない時代にどう事業へ翻訳したか

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時期 1976年2月
意思決定者 南部靖之 創業者
論点 新業態の創出と社会課題の事業化
概要
1976年2月、関西大学の学生だった南部靖之が、結婚や出産で退職した女性の再就職を掲げ、大阪市北区で株式会社テンポラリーセンター(後のパソナ、現パソナグループ)の前身を興した創業。労働者派遣がまだ法で認められていない時代に、家事代行と事務作業を半日単位で請け負う契約の形をとり、女性を企業の事務現場へ送り出す事業を設計した。日本の人材派遣という業態の草分けとなる。
背景
1970年代の日本では、結婚・出産で職場を離れた女性が事務職へ戻る経路がほとんど整っていなかった。海外で中高年の女性が働き続ける姿を見た南部は、日本では婦人の労働力が生かされていないと痛感し、団地の学習塾で主婦を講師に迎えた経験から、時間を持て余す高学歴の女性という人材の層に着目した。
内容
南部は家事代行と事務支援を半日単位で送り出す仕組みを商品にし、依頼主の企業から手数料を受け取り登録者へ時給を払う構造を組んだ。労働力を業として供給することに職業安定法の制約があるなか、請負・家事サービスという契約の形で法令と需要のすき間に事業を成立させ、まだ学生だった南部はたったひとりで営業に回った。
含意
労働者派遣法の公布(1985年)に十年ほど先立って、制度がまだ用意していない働き方を事業の側から先に立ち上げた点に特徴がある。1986年の同法施行で正式な派遣事業者へ切り替え、女性向けの事務派遣で成長した。事業が制度に先行したこの創業は、日本の人材派遣産業の出発点となった。
筆者の見解

制度が事業を追いかけた創業

この創業の核心は、制度がまだ形にしていない働き方を、事業の側が先につくり出した点にある。労働者派遣という業態は、法が定義してから会社が生まれたのではない。働きたい女性と、事務の繁閑を調整したい企業のあいだにある需要を、南部は家事代行という契約の器に載せて先に結び、その実績の上に、十年後の労働者派遣法が制度の輪郭を与えた。事業が制度を追い越し、あとから制度が事業を追いかける。人材派遣の草分けは、その順序で立ち上がった。

もっとも、「女性の社会復帰」という創業の理念は、その後の日本で単純な成功譚には収まらない。派遣は女性の労働参加を広げる一方で、非正規雇用の固定化という別の論点も抱え込んでいく。創業者ひとりの理念と行動力で切り開いた事業は、やがて上場企業となり、資本市場や物言う株主との緊張のなかで、規模と収益、社会性と株主価値の折り合いを問われることになる。制度に先んじて需要を事業へ翻訳したこの出発点は、人材サービスという産業が背負い続ける問いの、最初の一歩でもあった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

塞がれていた女性の再就職

1970年代の日本では、結婚や出産でいちど職場を離れた女性が、ふたたび事務職に就く経路はほとんど整っていなかった。関西大学の学生だった南部靖之は、海外の町で中高年の女性がさまざまな職場で働き続ける姿を見て、日本では女性の労働力が社会に生かされていないと痛感したという。独身のうちに事務の技能を身につけた女性が、子育てを終えて自由な時間を持ちながら、その力を発揮する場を持たない。南部は、この層のエネルギーを掘り起こして社会へ還元できないかと考えた[1]

着想には原体験があった。南部はかつて団地で学習塾を営み、講師に団地の主婦を迎えて高い成績をあげた経験から、高学歴で時間を持て余す女性が数多くいることに気づいていた。企業の側にも事情はあった。事務職を一人前に育てるには時間と費用がかかり、その研修機能を持たない会社は少なくない。すでに技能を備えた人材を送り込み、教育の手間を肩代わりできれば、企業に喜ばれるはずだ。テンポラリーセンター設立の動機を、南部はのちにそう振り返っている[2]

「人材派遣」という言葉のない時代

構想を事業に移すうえで、壁は制度の側にあった。当時の日本には「人材派遣」という言葉すら定着せず、他人の労働力を業として供給することには職業安定法の制約があった。労働者派遣を正面から認める労働者派遣法が公布されるのは1985年、施行は翌1986年で、南部の創業はそれより十年ほど早い。働きたい女性と、事務の繁閑を外部で調整したい企業の双方に需要がありながら、両者を直接に結ぶ器は法の上になかった[3]

決断

家事代行という器で始めた事務派遣

1976年2月、南部は大阪市北区で、株式会社テンポラリーセンターの前身となる会社を興した。最初に商品にしたのは、家事代行と事務作業を半日単位で送り出す仕組みである。労働者派遣が認められていない以上、契約は請負や家事サービスの形をとった。依頼主の企業から手数料を受け取り、登録した女性へは時給で支払う。「家庭婦人の社会復帰」を看板に掲げ、法がまだ用意していない事務派遣を、家事代行という器に載せて動かし始めた[4]

会社といっても、動かしていたのは学生の南部ひとりである。留守番は交際していた同学年の女性とその友人に頼み、三人が週二日ずつ交代で事務所に詰めた。給与を払う余裕はなく、のちに株式を分けて報い、彼女たちは会社の大株主になったという。南部自身は、就職活動で会社を回るように新規開拓のノルマを日々みずからに課し、顧客になりうる企業を一社ずつ訪ねて歩いた[5]

第一号は阪急百貨店

事業は少しずつ回り始めた。南部の記憶では、最初に人を送ったのは阪急百貨店で、事務処理の仕事に四人を出した。ほかの企業への派遣は一社あたり一人か二人と小さかったが、訪ねた会社のほとんどが約束どおり登録者を受け入れたという。請負という契約の器のなかで、女性を企業の事務現場へ送るという実質が、こうして動き出した。合法化を待つのではなく、需要のある場所へ先に人を届けることから、事業は立ち上がった[6]

結果

合法化前夜からの本業化

1980年代に入ると、事務用OA機器の普及で女性向けの事務職の需要が広がり、テンポラリーセンターの登録者も増えていった。家事代行と事務支援を併せ持つ事業の主力は、しだいに事務派遣へ移る。1986年に労働者派遣法が施行されると、同社は請負型の家事サービスから、認可を受けた正式な派遣事業へと契約の形を切り替えた。制度が整うのを待って参入したのではなく、需要を先取りして築いた事業基盤の上に、法という後ろ盾が加わった形である[7]

関西で生まれた会社は東京へ拠点を広げ、女性の事務派遣を軸に成長した。前身のテンポラリーセンターは、のちに株式会社パソナへ商号を変える。ただし変更の時期は資料により一致せず、有価証券報告書の沿革は1993年6月とする一方、1986年とする資料もあって、確定には一次資料の照合を要する。いずれにせよ、法の空白から始まったこの会社は、労働者派遣という新しい産業の草分けとして、日本の働き方の一角を担う存在へ育っていった[8]

出典・参考