1976年2月、創業者の南部靖之氏は関西大学工学部を卒業する直前に[1]、大阪市北区で株式会社テンポラリーセンター(後の株式会社パソナ)[2]の前身となる組織を立ち上げた[3]。発足時の商号はマンパワーセンターで、テンポラリーセンターへ改めたのは1979年である[4]。着想は就職活動の途上で生まれた。卒業の1年前から140社ほどを回った南部氏は、ある会社で、君を雇えば一生面倒をみることになるが忙しいのは今だけだと告げられ、それなら忙しいときだけ働く人を使ってもらえるかと切り返した[5]。資本金380万円の半分は化学会社の役員だった父の栄三郎氏が出し、残りはアルバイトの貯金と友人の援助で埋めている[6]。
事業の発想は学生時代の学習塾から来ている。南部氏は大学1年の秋に学習塾を開き、千里ニュータウンに住む生徒の母親たちが簿記や英会話の能力を持ちながら働く場を持たず、1日4〜5時間、月に2週間だけなら働きたいと望んでいることを知った[7]。創業直後は信用がなく、どこを訪ねても相手にされない。父の栄三郎氏を社長に据えたのも対外的な信用を得るためで、最初の派遣先はお歳暮商戦の阪急百貨店だった[8]。南部氏によれば第一号の派遣は事務処理の仕事で4人、ほかの企業も1人か2人という規模だったが、ほとんどの会社が約束どおり受け入れた[9]。南部氏は営業部長として大阪の企業を回り、事務所の保証金を2年分割にしてもらうほどの資金繰りのなかで顧客を開拓していった[10]。
労働者派遣法が成立するまで、この事業に派遣という法的な枠はなかった。職業安定法が労働力の供給事業を原則として禁じていたため、テンポラリーセンターは企業からの業務委託という形で契約を結び[11]、発注先へ出向く際も部屋から鉛筆に至るまで賃貸契約を交わす請負の形式を労働省から求められていた[12]。スタッフの社会保険や雇用保険を申し立ててもパートタイム扱いしか認められず、南部氏は一時的な雇用も終身雇用と並ぶ社会の仕組みとして認められるべきだと主張し続けた[13]。1985年7月に労働者派遣法が成立し、1986年7月に施行されると、南部氏はこれではっきり線が引かれたと述べ、法制化を業界の節目として歓迎した[14]。
派遣法の施行を境に、テンポラリーセンターは規模を一気に広げた。1986年の時点で登録スタッフは未婚を含めて約3万人、人材派遣単体の年商は180億円、子会社21社を含めた連結では約300億円に達していた[15]。1989年には取引先が1万数千社、スタッフ約5万人、派遣事業の年商340億円となり、関連会社は30社を超える[16]。登録スタッフの9割は女性で、新たに設けた子会社の社長にも女性を据えることが多かった[17]。教育はテンポラリーカレッジが担い、派遣前に1週間の事前研修を課したうえで、成績のふるわない登録者には次の仕事を回さない運用を取った[18]。
海外にも早くから出た。1983年に西ドイツの日系企業へ秘書を送ったのを皮切りに、香港、シンガポール、スイスへと派遣先を広げ[19]、1988年10月には南部氏自身が家族とともに米コネチカット州へ移り、東京・ニューヨーク・シンガポール・デュッセルドルフの四極体制を掲げた[20]。1993年6月、テンポラリーセンターは商号を株式会社パソナへ変更[21]する。創業20年を機に旧名を使わずゼロからやり直すという意図が込められていた[22]。制度の側も動き、1995年の法改正で対象業務は16業務、1996年に26業務へ広がり、1999年改正では原則自由化へ転じた。
1993年に立ち上げた人材交流システム機構は、中高年社員の出向を仲介する事業だった。大企業から出向で受け入れ、さらに中小企業へ送るという当初案は二重の出向で雇用関係が曖昧だとされ、出向と派遣の組み合わせに改めても、派遣法は雇用を1社に限る前提で作られていると退けられる[23]。1994年3月、南部氏は派遣を諦め、出向者でチームを組んで企業の一部門を請け負う形へ切り替えた。派遣であれば4万から5万人分の働き口を見込めたが、請負では約3000人にとどまった[24]。制度の枠が事業の規模を決めた経験は、その後も繰り返し現れる。
急成長の裏側では、派遣会社の薄い収益基盤が社会保険料の未払いとなって表面化した。発端は会計検査院が1997年と1998年の2年続けて実施した社会保険加入調査で、調査した派遣会社の事業所のうち約3割で徴収漏れが見つかり、社会保険庁を通じて過去2年分がさかのぼって徴収された[25]。最大手のパソナとテンプスタッフも前年度に数億円を支払ったとみられている[26]。負担の背景には利益率の低さがあり、大手でも売上高経常利益率は1〜2%程度にとどまっていた。売上高1260億円で業界首位のパソナについて、南部靖之代表は自社は2〜3%の経常利益率を確保しており社会保険料の支払いで即座に赤字になることはないと反論した[27]。
労働力の需給を調整する役回りとして不況下でも伸びてきた派遣市場にも、1990年代末には変調が現れた。日本人材派遣協会が首都圏の主要23社を対象にまとめた調査では、派遣実績の前年同期比の伸びが1997年1〜6月の29.8%増から、同年7〜12月には11.8%増へ縮んでいる[28]。この時期の業界大手はいずれも株式を上場しておらず、1997年度はパソナの1260億円を筆頭にテンプスタッフ670億円、スタッフサービス465億円と続き、資本金数億円規模の各社が低い利益率のまま売上の規模を競う構図にあった。パソナの上田宗央エグゼクティブバイスプレジデントは、急成長を支えた情報関連企業の需要が鈍り、正社員を派遣に置き換えてきた企業が第2のリストラ段階に入って派遣社員まで絞り込み始めたことを要因に挙げた[29]。
株式を公開しない理由については、企業版のNPOを目指しており、公開会社であれば神戸の小売業などは株主代表訴訟になったかもしれないと説明している[30]。だが翌1999年、その閉じた経営に外から光が当たる。
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