1974年7月、関口房朗氏は資本金100万円で名古屋市[1]に株式会社名古屋技術センターを個人創業した。創業者の関口氏は前経営の配電盤メーカー大同機工で技術開発に失敗して倒産させた経歴を持ち、再起の場として技術者派遣ではなく一般産業機械の設計受託業を選んだ。
転機は1977年12月に三菱重工業が航空機プロジェクト[2]を発足したタイミングで訪れた。航空機開発は機密性が高く、外注では情報漏洩のリスクが残るため、発注側は社内に外部技術者を引き入れにくい構造を抱えていた。関口氏は技術者を客先に常駐させる派遣形態を提案し、社外秘の枠内で人だけを送り込む形を実現した[3]。三菱重工との取引が成立した1977年は、名古屋技術センターが受託業から技術者派遣業へ業態を切り替えた転機であり、ここから日本の製造業大手が同社の固定顧客として連なっていく構造の原型が組み上がった。
1979年12月には子会社の日本機械設計(後のジエクス)を設立し[4]、技術的に難度の低い設計を切り出した。1980年4月に関西管理本部[5]、1982年3月に関東管理本部を相次いで設置し[6]、名古屋発祥の企業として珍しく全国3拠点体制を5年で組んだ。1982年11月に社員数1000名を突破し[7]、1984年12月に社名を株式会社メイテックへ変更[8]、1987年3月には名古屋証券取引所市場第2部に上場した[9]。創業から13年で全国展開・上場・1000名超の体制まで成長した背景には、家電と自動車の新製品開発で技術者不足に陥った日本製造業の構造的需要があった。
1991年2月、メイテックは東京証券取引所市場第2部に上場し[10]、同年3月には社員数5000名を突破した[11]。1992年4月に神戸テクノセンター[12]、1993年3月に厚木テクノセンターを開設し[13]、関西・関東圏の研修拠点を整えた。社員用ディスコを名古屋市栄に開設するなど、若手技術者の採用広報と定着策に資金を投じた時期で、社員離職率は5%前後の低水準で推移したと当時の経営陣は説明している[14]。バブル景気下で大手製造業の研究開発投資が拡大し、設計・解析・実験の現場で外部技術者の需要が急増した結果、メイテックの客先常駐サービスは派遣単価と稼動率の両面で上昇局面に入った。
しかしバブル崩壊後の1993年、状況は一変した。顧客の製造業は研究開発費を含めた費用削減に舵を切り、メイテックの技術者は契約を打ち切られた。同年、同社は最終赤字に転落し、正社員の約半数にあたる約3000名の削減に踏み切った[15]。社員数5000名超の体制から数千人を切り離す規模の人員調整は、設備産業ではなく人を商品とする派遣業にとって事業の脆さを露呈する事態であり、顧客企業の研究開発投資が落ちれば固定費がそのまま赤字に化ける構造が浮かんだ。よって派遣業の損益構造は、製造業の景気サイクルに対して非対称な感応度を持つことが数字で確認された。
1996年、景気回復を見据えて理工系大卒の大量採用を再開し、年間2000人規模[16]の新卒採用に踏み切った。1993年の3000名削減と1996年からの2000人規模の連続採用は、3年間で社員数を急減・急増させる極端な人員調整で、契約打ち切りと再採用を3年サイクルで繰り返す派遣業の現実を映した。日本企業の終身雇用慣行が崩れ始める時期、メイテックは正社員雇用と派遣業を組み合わせた中間的な雇用形態として社内外へ説明し直す必要に直面した。だが景気変動に合わせて社員数を半減・倍増させる人員調整が、創業者の判断する範囲で繰り返された事実は、その後のクーデターの伏線でもあった。
1997年7月31日、メイテック取締役会で関口社長解任[17]の緊急動議が提出され、当事者として議決権を持たない関口氏を除く取締役全員が賛成した。後任の代表取締役社長には元専務の大槻三男氏が就任し、創業から23年続いた関口社長体制は終わった。創業者がオーナー支配を残したまま代表取締役の地位を失う事例は当時の日本企業では珍しく、1993年の約3000名の人員削減を契機として、経営判断への取締役会の異議が組織化されていた可能性を示唆する。取締役会内で何が議論されたかの公式記録は限定的だが、緊急動議という形式そのものが、合議による段階的な解任ではなく一回の決議で決着させる必要があったことを物語った。
関口氏は社長解任は無効として名古屋地裁に提訴したが、1999年に裁判所は取締役会決議を有効と認め、請求を棄却[18]した。1999年、後任社長には関口社長時代に社長室出身だった西本甲介氏が就任した[19]。1996年から1999年までの3年間、社長解任の動議、訴訟、後任就任を経て、メイテックの経営体制は創業者中心から取締役会中心へ移行した。
経営権が創業者から専門経営者へ移ったメイテックは、2000年に新Vision21と銘打った3カ年の中期経営計画を策定し、製造業向け派遣事業のフルラインナップ化を目指した。客先常駐に加えて、設計受託・技術研修・人材紹介を組み合わせた多面的なサービス体系を整えるという構想で、創業以来の客先常駐単独モデルから抜け出す方向だった。1974年の創業から1996年のクーデターまでの23年間で、メイテックは客先常駐型技術者派遣という日本独自のビジネスモデルを完成させた一方で、景気サイクルと連動する人員調整の脆さも併せて社内に積み残した。
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|---|---|---|---|---|
| 1974〜1996年客先常駐モデルの確立と創業者解任までの23年 | 名古屋技術センターを設立 | ★ | ||
| 日本機械設計(ジエクス)設立 | ★★ | |||
| 社名をメイテックに変更 | ★ | |||
| 名古屋証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| メイスタッフ設立 | ★ | |||
| 名古屋テクノセンター開設 | ★ | |||
| 東京本社設置 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| ジエクスとメイスタッフが合併 | ★★ | |||
| ジャパンアウトソーシングに商号変更 | ★ | |||
| 本社を港区に移転 | ★ | |||
| 1997〜2022年「リストラしない会社」の挑戦とリーマン・コロナの波 | 東京証券取引所市場第一部・名古屋証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 西本甲介 | 上海現地法人の設立による中国エンジニア育成・供給事業への進出 2003年、メイテックが上海に明達科(上海)諮詢有限公司を設立し、中国での技術者育成・人材紹介事業へ進出した経営判断。国内の客先常駐型派遣で築いた研修の型を、日系製造業の中国拠点向けに移そうとする試みであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西本甲介 | 不況期の収益源を求めた日本ドレーク・ビーム・モリンの買収 2004年、メイテックが再就職支援を主力とする日本ドレーク・ビーム・モリンを取得し、翌年に株式交換で完全子会社とした経営判断。技術者派遣が縮む不況期にこそ伸びる事業を抱え込み、1993年の大量人員削減を再演しない事業構成をつくる狙いがあった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西本甲介 | 株式交換により日本ドレーク・ビーム・モリンを完全子会社化 | ★★ | ||
| 西本甲介 | 第三者割当増資の引受によりアポロ技研を子会社化 | ★ | ||
| 西本甲介 | 日本ドレーク・ビーム・モリンの全株式をテンプスタッフへ譲渡 | ★★ | ||
| 西本甲介 | メイテックグローバルソリューションズを吸収合併 | ★ | ||
| 2023〜2025年持株会社制移行と総還元性向100%への転換 | 國分秀世 | 持株会社体制への移行と総還元性向100%を原則とする利益配分 2023年、メイテックが会社分割によって持株会社体制へ移り、商号を株式会社メイテックグループホールディングスへ改めた経営判断。同時に、総還元性向100%以内を原則とする利益配分の基本方針を明文化した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(メイテックグループホールディングス)