メイテックグループホールディングス不況期の収益源を求めた日本ドレーク・ビーム・モリンの買収

技術者を抱え続ける会社は、景気の谷をどう越えるか——再就職支援業の取り込みという解答

時期 2004年1月
意思決定者(推定) 西本甲介 社長
論点 事業多角化と景気耐性
概要
2004年、メイテックが再就職支援を主力とする日本ドレーク・ビーム・モリンを取得し、翌年に株式交換で完全子会社とした経営判断。技術者派遣が縮む不況期にこそ伸びる事業を抱え込み、1993年の大量人員削減を再演しない事業構成をつくる狙いがあった。
背景
1993年に正社員の約半数にあたる約3000名を削減した経験は、1997年の創業者解任を経て社内の原体験として残った。1999年に就任した西本甲介社長は、削減に頼らない構造を掲げ、派遣本体の周囲に複数の事業を並べる構想を進めた。
内容
2004年1月に株式取得で関連会社化し、同年10月に株式交換で完全子会社化した。同社をアウトプレースメント事業の担い手と位置づけ、フルライン型人材派遣・エンジニアリングソリューション・グローバルと合わせた4事業で1,000億円のグループを目指す構想に組み込んだ。
含意
買収の翌年から製造業は拡大に転じ、再就職支援の需要は逆に細った。2007年3月期にのれん42億92百万円の減損損失を計上し、2009年5月には事業の大半をテンプスタッフへ譲渡した。景気の逆相関に賭けた多角化は5年で畳まれた。
筆者の見解

景気の谷は、事業構成では埋められなかった

この判断の核にあるのは、雇用を守るという約束を事業の設計で裏づけようとした点にある。稼動しない技術者を抱えたまま景気の谷を越えるには、谷でこそ稼ぐ商売が要る——理屈としては筋が通っており、再就職支援は逆相関の候補として自然な選択であった。ただ、逆相関を成立させるには、買った事業が独立して黒字を出し続ける必要がある。日本DBMがキャリアサポート事業として計上したのは営業損失であり、好況期にはその赤字が本業の利益を削る側に回った。景気の谷に備える資産が、平時には負債のように振る舞ったとみることができる。

結果として、メイテックの景気耐性は多角化ではなく本業の内部で組み直された。リーマンショック後に非稼動社員が2300名へ膨らんだときも人員削減は選ばれず、その後は稼動率と対価の管理、そして厚い手元資金によって危機への備えが積み上げられた。買収から譲渡までの5年は、事業を買い足す方向での解決が、少なくともこの会社では続かなかった経過を示している。守りたいものが雇用であるとき、守り方は事業の数を増やすことなのか、それとも本業の値付けと財務の厚みなのか——後年の総還元性向100%という利益配分の方針まで含めて、この問いは同社の判断のなかで繰り返し現れているようにみえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

約3000名の削減という原体験

メイテックは1974年に名古屋の設計受託業として生まれ、1977年に三菱重工業の航空機開発へ技術者を常駐させたことを転機に、客先常駐型の技術者派遣へ業態を移した。顧客の研究所へ人を送り込むこの形は、家電と自動車の開発競争が続く限り需要が絶えない。1982年に社員1000名、1991年に5000名を超え、同年には東京証券取引所市場第2部への上場も果たした。ところがバブル崩壊後の1993年、顧客の製造業が研究開発費の削減に転じると、契約は次々に打ち切られた。同社は最終赤字に沈み、正社員の約半数にあたる約3000名の削減に踏み切った[1][2]

人を商品とする事業では、契約が切れても雇用は残る。稼動しない技術者の人件費はそのまま損失に変わり、顧客の開発投資が落ちた分だけ損益が沈む構造が数字で確認された。1996年には景気回復を見込んで理工系大卒の大量採用を再開したが、削減と再採用を数年で往復した経緯は社内に重い記憶を残した。1997年7月31日の取締役会では創業者・関口房朗社長の解任動議が可決され、23年続いたオーナー経営が終わる。1999年に社長へ就いた西本甲介氏が最初に掲げたのが、1993年の削減を二度と繰り返さない会社をつくるという方針であった[3][4]

「1,000億円企業グループ」を掲げた四方向の拡大

削減に頼らない構造をつくる手立てとして、西本社長は本業の周囲に事業を並べる道を選んだ。2001年12月にアイエムエス株式会社を株式取得で完全子会社化し、2003年3月には株式会社メイテックグローバルソリューションズを設立、同年9月には上海に現地法人を置いた。単一の顧客層・単一のサービスに収益を預ける限り、製造業の設備投資と研究開発費の増減がそのまま自社の損益に映る。複数の事業を束ねれば、どれかが沈んでも別のどれかが支えるという設計である[5]

この構想は「Global Vision21」と名づけられ、2008年3月期までに1,000億円の企業グループへ育てる目標を掲げた。技術者派遣を中核に、①フルライン型人材派遣、②エンジニアリングソリューション、③グローバル、④アウトプレースメントという四つの方向へ事業を広げ、顧客の製造業が必要とする人と技術のサービスをグループ全体で受け止める。有価証券報告書は、産業界全体の「第二人事部」「第二技術部」としての機能を果たす計画と記した。四本目の柱にあたるアウトプレースメント、すなわち再就職支援の担い手が、この時点ではまだ社内に存在しなかった[6]

決断

再就職支援という「逆相関」の事業を買う

2004年1月、メイテックは日本ドレーク・ビーム・モリン株式会社の株式を取得して関連会社とし、同年10月には株式交換によって完全子会社化した。同社は再就職支援とキャリア研修を主力とする外資系のコンサルティング会社で、米国に子会社を持っていた。再就職支援は、企業が人を減らすときに仕事が増える。顧客の製造業が開発投資を絞れば技術者派遣は縮み、同じときに人員整理の支援需要は膨らむ——景気に対して逆向きに動く事業を抱えれば、グループ全体の振れ幅は小さくなるという読みであった[7][8]

買収は、四つの事業ベクトルの最後の一角を外から調達する動きでもあった。1993年の削減を再演しないという方針は、雇用を守ると宣言するだけでは実現しない。稼動しない技術者を抱えたまま資金を回すには、不況期にも現金を生む別の商売が要る。日本DBMの取得はその論理から導かれた買い物であり、技術者派遣とは顧客も収益の性質も異なる事業へ、メイテックが初めて本格的に足を踏み入れた場面にあたる。四事業体制のもとで、同社はキャリアサポート事業という独立したセグメントを構成した[9]

結果

好況が奪った買収の前提

買収の直後から、日本経済は製造業を軸に拡大へ転じた。企業が人を減らさなくなれば、再就職支援の仕事は細る。2007年3月期、メイテックは日本DBMの米国子会社Novations Group Inc.の売却に伴う海外事業売却損失6億73百万円に加え、株式取得時に検討した事業計画に対して当初想定した収益が見込めなくなったとして、同社に係るのれんの帳簿価額を回収可能価額まで引き下げ、42億92百万円を減損損失として特別損失に計上した。連結営業利益115億81百万円を確保しながら、連結当期純利益は2億95百万円、前期比94.4%減にとどまった[10][11]

撤収は減損の2年後に決まった。2009年3月24日、メイテックは日本DBMを会社分割し、再就職支援事業を承継した新設会社の全株式をテンプスタッフへ譲渡することを決議する。譲渡価額は2億8500万円、譲渡日は2009年5月1日であった。皮肉なことに、譲渡の商談が進んだ時期はリーマンショック後の不況の只中であり、対不況事業として買った会社を、当のメイテック自身が非稼動社員2300名を抱えるさなかに手放した形になる。四方向への拡大を掲げた構想のうち、外から買った一角は5年で消えた[12][13]

出典・参考

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