神戸製鋼所テキサス・インスツルメンツ社との半導体合弁の設立と、マイクロン・テクノロジー社への全株式譲渡

鉄鋼の外に第四の柱は作れるか——下請けから入った半導体を十年で手放すまで

時期 2000年10月
意思決定者(推定) 水越浩士 社長
論点 多角化と事業ポートフォリオ
概要
1990年5月、神戸製鋼所は米テキサス・インスツルメンツ社との合弁でKTIセミコンダクターを設立し、兵庫県西脇市に半導体工場を建てた。1998年に合弁相手を米マイクロン・テクノロジー社へ入れ替えたのち、2000年10月18日に保有株式の全部を同社へ譲渡すると発表し、2001年5月に撤退を完了した。
背景
1992年に動き出した新中長期経営計画「ターゲット2000」は、鉄鋼・アルミ銅・機械に並ぶ第四の部門として新分野を置き、その中核に半導体を据えていた。自前の半導体技術を持たない会社が最先端の製造技術に触れる方法として、TI社の生産体制へ組み込まれる道が選ばれた。
内容
譲渡完了時にマイクロン・テクノロジー社が1億2500万ドル(135億円)を支払い、KMTセミコンダクターの借入債務約500億円を全額引き継ぐ内容であった。水越浩士社長は理由を「連結の財務体質改善のため」と述べ、300ミリウエハー対応に控える1000億円規模の投資案件が決め手であったとも説明している。
含意
撤退の線引きに使われたのは「シナジー効果」という物差しであった。半導体はその列から外れ、市況の振れを吸収する第三の収益源は、同じ時期に投資が決まった電力卸供給事業が担った。
筆者の見解

借りた技術は、借り続けなければ古びる

自前の特許を一つも持たないまま最先端の製造技術に触れる方法として、TI社の生産体制へ丸ごと組み込まれる道は、当時としては合理的な選択であった。歩留まり80%はその成果であり、亀高素吉社長の「損するビジネスをしているつもりはない」という言葉にも根拠があった。ただ、借りた技術は借り続けなければ古びる。0.28ミクロンから0.18ミクロンへ、さらに300ミリウエハーへと、参入時に見えていなかった投資の階段が十年のあいだに積み上がっていった。

撤退が決まったのは、KMTが経常利益51億円へ浮上し、累積損失を二年で消す展望まで見えていた時期であった。目先の採算ではなく次の一段を登れるかで決めた点に、この判断の性格が表れている。水越浩士社長が「シナジー効果」を物差しに据えたのは、鉄鋼の技術も人も転用できない事業へ鉄鋼の稼ぎを投じ続ける理由を見いだせなかったからだとみられる。同じ物差しで残されたのが、製鉄所の運転経験をそのまま使える発電であった。半導体で借りた技術は譲渡とともに手元を離れ、発電で使った技術は残った。多角化の成否を分けたのは、投資を止めれば価値が消える技術か、止めても手元に残る技術かの違いであったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

第四の部門をつくる計画

1992年から動き出した新中長期経営計画「ターゲット2000」は、1991年度に1兆3500億円だった売上高を2000年に2兆4000億円へ広げる構想であった。鉄鋼、アルミ・銅、機械の三部門が既存事業の強化を担うのに対し、新分野部門だけが新事業を受け持ち、その構成比は5%から21%へ引き上げられる。1部門5000億円以上の事業体を四つ並べる「高度技術複合企業体」が、当時描かれた姿であった[1]

その新分野の中核に半導体が置かれた。1990年5月、神戸製鋼所は米テキサス・インスツルメンツ社との合弁でKTIセミコンダクターを設立し、兵庫県西脇市に生産拠点を構えている。資本金88億円のうち神戸製鋼所が75%、TI社が25%を出資し、設備投資に要した550億円も出資比率に合わせて負担した。情報エレクトロニクス全体で2000億円、うち半導体と周辺事業で1000億円という売上目標が掲げられた[2][3]

名を捨てて実を取る座組み

「下請けと言いたければ、そう言ってください。しかし、我々は損するビジネスをしているつもりはない」。1992年6月4日の西脇工場完工式で、亀高素吉社長は記者にこう言い切った。生産品目や生産量の決定権はKTIになく、設計も販売もTI社に依存し、製品はすべてTIブランドで売られる。それでも提携に踏み切ったのは、半導体技術の基盤が全くないまま最先端の技術を取り込める唯一の方法だったからとされる[4][5]

名を捨てた見返りは、当初の数年に現れた。本格操業に入った1993年度は売上高196億円で4億円の経常黒字を計上し、フル生産へ移った1994年度は売上高が前年度の倍の400億円、経常利益も50億円を超える見込みとなった。歩留まりは推定80%前後で、TI社の全世界13工場のうち際立って高いと評価されている。ただ、最終製品を売るTI社の販売力に売上が左右される点は変わらず、成長の天井は低いとも見られていた[6][7]

決断

合弁相手を入れ替えて続ける

転機は1996年度に訪れた。DRAM市場の供給過剰で価格が下がり、KTIは1996年度以降の三年間、毎年100億円を超える赤字を計上する。「TIは技術的についていけず、特に97年度の大赤字が痛かった」と高橋出雲男社長は後に振り返っている。同じ頃、新日本製鉄は1998年に国内LSI事業からの撤退を発表して日鉄セミコンダクター株を台湾のUMCへ売却し、NKKもLSI設計事業を富士通へ譲っていた[8][9]

神戸製鋼所はここで畳まず、相手を替える道を選んだ。1998年6月、TI社が保有するKTIの合弁パートナーの地位をマイクロン・テクノロジー社へ譲渡することで基本合意し、マイクロン社が25%の全株式を取得した。既存設備を徹底して使い切る相手であったため設備投資は当初の470億円程度から200億円へ圧縮され、線幅は0.28ミクロンから0.18ミクロンへ全量置き換わっている。1999年4月にはKMTセミコンダクターへ社名を変えた[10][11]

黒字化の途中で手放す

2000年の夏、半導体事業はむしろ強化される側に見えた。同年6月末の組織改正に伴い、KMTセミコンダクター社長の高橋出雲男氏が本社執行役員に就いて半導体グループを担当している。KMTは前3月期に売上高526億円・経常利益51億円を計上し、経常赤字138億円からの黒字転換を果たした。水越浩士社長は2000年度に200億円の経常利益を見込むと述べ、前期末の累積損失345億円も今期で半減、来期に一掃という展望が語られていた[12][13]

2000年10月18日、神戸製鋼所はKMTセミコンダクターの全株式75%をマイクロン・テクノロジー社へ譲渡し、経営権を移すと発表した。譲渡完了時にマイクロン社が1億2500万ドル(135億円)を支払い、9月末で約500億円あったKMTの借入債務を全額引き継ぐ内容で、連結総資産は810億円、外部負債残高は630億円減る計算であった。水越浩士社長は譲渡の理由を「連結の財務体質改善のため」と説明している[14][15]

結果

十年で置いていったもの

発表の当日、水越浩士社長は目先の採算とは別の理由を挙げていた。引き金は0.15ミクロン対応に要する200億〜300億円の投資であったが、決め手はその先に控える300ミリウエハー対応の1000億円規模の投資案件で、「300mmへの投資負担があまりに重かった」と述べている。1990年に550億円で始まった設備投資は、十年を経てもなお一桁上の資金を要求し続け、鉄鋼本体の投資余力では支えきれない水準に達していた[16][17]

株式の譲渡は2001年5月に完了した。西脇の工場はマイクロン・テクノロジー社の日本での生産拠点となり、1990年に「第四の柱」として始まった事業は連結の外へ出ている。2004年1月、水越浩士社長は「集中と選択のうち撤退と再編については、ほぼ終了したと見ている」と述べた。1999年の就任から五年で、自動車用ブレーキ、リース、半導体などシナジー効果が期待できない事業の整理を含め、40件以上の集中と見直しを進めている[18][19]

シナジーという物差しに載らなかった事業

何を残し何を捨てるかの線引きに使われたのは、シナジー効果という物差しであった。水越浩士社長は複合経営の成果として、メタラジー(金属組成)から生まれた液晶向けスパッタリング材が世界シェア90%を持つこと、鉄鋼での経験が自動車向けアルミに生きたことを挙げ、電力卸供給事業も同じ列に置いている。半導体は、TI社の生産体制へ組み込まれた十年を経ても、この列に加わることがなかった[20]

資本の向かった先は電力であった。半導体子会社の株式を手放した2001年の9月、神戸製鋼所は全額出資の神鋼神戸発電所を設立し、翌2002年4月に1号機が営業運転へ入っている。鉄鋼市況の振れを吸収する第三の収益源は、最先端の技術を外から借りる事業ではなく、製鉄所が半世紀近く動かしてきた自家発電の延長線上に置き直された[21]

出典・参考

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