第一製薬自社開発の合成抗菌剤クラビットの発売と、輸出による海外売上の拡大
自社創薬か、導入品か——海外に販売網を持たない4位グループが世界に届く薬を持つまで
- 概要
- 1993年、第一製薬が自社開発の合成抗菌剤クラビット(一般名レボフロキサシン)を発売し、1986年発売のタリビッドと合わせた抗菌剤2品を輸出の柱に据えた経営判断。格段に広い適応症と副作用の少なさによって、世界規模のヒットとなった。
- 背景
- 1980年代前半、第一製薬は売り物になる新薬を欠いて国内順位を10位前後まで落とし、仏サノフィ社から導入したパナルジンと1986年発売のタリビッドで苦境を脱した。国内は薬価の引き下げで市場成長率が2%まで鈍っていた。
- 内容
- タリビッドと同じオフロキサシンの系列から、7年後にクラビットを出した。海外に自前の販売網を持たないため、海外での伸びは製品の輸出と、販売力を持つ他社への導出に頼る形をとった。
- 含意
- 1997年9月中間期、製薬大手八社の増収分はほぼ輸出332億円で説明され、第一製薬もタリビッド・クラビットの輸出を伸ばしていた。一方でノバルティスファーマ社の研究開発費2000億円との距離は、抗菌剤2品では埋まらなかった。
一本で終わらせなかったことと、売る場所を持たなかったこと
タリビッドの発売が1986年、クラビットの発売が1993年。7年の間隔で、同じオフロキサシンの系列から二本目が出ている。抗生物質は製品寿命が短く、大型化した一本もいずれ競合品と後発品に削られる。1980年代前半に国内順位を10位前後まで落とし、1967年発売の成熟品を拡販するしかなかった10年が、すぐ後ろに控えていた。一本で止める選択肢は、この会社にはない。導入品は製品の空白を埋めても、輸出できる自社の薬にはならなかった。
売れる薬を持つことと、それを売る場所を持つことは別である。第一製薬は海外に自前の販売網を持たず、山之内製薬のアイルランド工場や武田薬品工業の米国持株会社にあたるものを築かないまま、輸出と導出に頼った。国内で年商2億円程度だった塩酸イリノテカンは、導出先の米国アップジョン社では発売8カ月で1億ドル以上を挙げている。同じ薬でも、誰がどこで売るかで桁が変わった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
売る新薬がなかった10年
1980年代前半、第一製薬は医薬品売上高の国内順位を10位前後まで落としていた。理由は、売り物になる新薬を欠いたことにある。営業の現場には出したばかりの製品がなく、1967年発売の高脂血症治療薬という成熟品を改めて拡販していた。営業の現場でこの端境期を過ごした森田清氏は、のちに「売れ筋製品さえあれば、とひしひしと感じた」と語っている。今あるものを売るしかない以上、新薬のない時期は営業がそのまま苦しくなった[1][2]。
自社開発主義を採っていたのは1960年代前半までである。方針が変わったのは1974年で、取締役経営企画担当へ就いた鈴木正氏が、他社の開発した新薬も積極的に導入すべきだと主張し、外資などからの導入が始まる。製薬業では新薬が一品目当たれば年商1000億円も可能な一方、競合品の発売や特許切れに伴う後発品の参入があれば売上は急減する。端境期を実際に支えたのは、仏サノフィ社から導入して1981年に発売した脳梗塞治療薬パナルジンであった[3][4]。
寿命の短い抗菌剤と、鈍る国内市場
1986年、第一製薬は自社開発の合成抗菌剤タリビッド(主成分オフロキサシン)を発売し、この一本の大型化で苦境を脱した。ただし抗菌剤は、大型化しても長くは持たない。1997年の業界分析は、塩野義製薬と藤沢薬品工業が承認申請中だった大型薬について「抗生物質自体の製品寿命が短いだけに、発売に至るころには現在の主力品と代替えになりそう」と書いている。一本当てた次の一本を、間を空けずに用意する必要があった[5][6]。
国内市場の側も狭まっていた。薬価の引き下げと後発品の低価格攻勢で医薬品市場の成長率は2%まで鈍り、厚生省は4200億円にのぼる医療費削減策を進めて、1998年4月にも薬価の大幅な引き下げが予定されていた。海外の比重を上げるほかない。ところが海外は、もっと速く動いていた。1987年に1.5倍(3965億円対6114億円)だった武田薬品工業と米メルク社の医薬品売上高の差は、その後の10年で世界五強と日本五強の1桁違いにまで広がっている[7][8][9]。
決断
同じ系列から出した二本目
1993年、第一製薬は自社開発の合成抗菌剤クラビットを発売した。一般名はレボフロキサシン。タリビッドと同じオフロキサシンの系列から出た二本目である。特徴は、格段に広い適応症と副作用の少なさにあった。導入品で製品の空白を埋めた10年を挟んで、同じ研究の筋から続けて二本が出たことになる。第一製薬は、感染症治療に用いる合成抗菌剤の国内トップメーカーとなった[10][11]。
発売の翌年、この薬は社外の評価でも最上位に置かれた。国際商業出版『国際医薬品情報』編集部は1980年から年に一回、発売前の新薬を予想年商規模でA(240億円)からE(36億円以下)までの5ランクに格付けし、『製薬企業の実態と中期展望』誌上で発表している。1994年版でAランクとなったのは、ハルナール(山之内製薬)、クラビット(第一製薬)、エポジン(中外製薬)などで、いずれも実際に大型化した[12]。
海外に販売網を持たない会社の出方
残る問題は、売り先をどう海外へ広げるかであった。当時、上位3社は自前の足場を海外に築いている。山之内製薬は1986年にアイルランドへ国内メーカー初の海外生産拠点を設け、武田薬品工業は1997年12月に米国へ100%出資の持株会社を設立して販売網の整備を急いだ。第一製薬にそれはない。残る道は、製品を輸出することと、販売力を持つ海外企業へ導出することの二つであった[13]。
導出がどれほどの差を生むかは、同じころの自社製品が示している。ヤクルト本社と共同開発した抗がん剤の塩酸イリノテカンは、1994年4月の承認に、投与できる医療施設と医師を限る条件が付いた。第一製薬が売るトポテシンの年商は2億円程度にとどまり、ヤクルト本社のカンプト注も1997年3月期で2億3500万円。同じ薬を導出された米国アップジョン社は発売8カ月で1億ドル以上を挙げている。ヤクルト本社はこれを「非常に小さい」と説明した[14][15]。
結果
輸出で伸びた抗菌剤2品
クラビットとタリビッドは、輸出で伸びた。1997年9月中間期、製薬大手八社の総売上高1兆2690億円は前年同期比189億円の増収であったが、増えたのは輸出の332億円で、薬価改定の響いた国内は減収である。同時期の誌面は、上位3社に比べ国内主力品は弱いながら輸出拡大に力を入れている三社としてエーザイ、藤沢薬品工業、第一製薬を挙げ、「第一製薬も、合成抗菌剤タリビット、クラビットの輸出が拡大中」と記した[16][17]。
1996年3月期の一人当たり経常利益は、山之内製薬1530万円、三共1272万円に次いで第一製薬が1107万円。エーザイ以下は1桁違い、藤沢薬品工業412万円、塩野義製薬329万円、田辺製薬に至っては210万円だった。順位は4位でも、社員1人が稼ぐ額では上位3社のすぐ後ろにいる。研究開発費に100億円以上を注げる国内15社の一角を占め、1999年時点の国内順位も武田薬品工業・三共・山之内製薬に続く4位グループに位置している[18][19]。
グローバル・テンと、埋まらなかった距離
10年先を数字で示したのが、1998年5月に発表した長期ビジョン「グローバル・テン」である。技術力と世界市場への展開力を軸に、2006年度に連結年商5000億円(当時2900億円)、連結純益550億円(同200億円)を狙う。10年に及ぶ企業像の表明は、製薬企業として異例であった。自社製品重視の「研究開発型国際製薬企業」を譲れない看板としながら、他社との提携・導入による補完をそこへ書き添えている。1974年に鈴木正氏が打ち出した方針が、ここで明文になった[20][21]。
それでも距離は残った。1999年の発売を狙った大型新薬の脳神経伝達薬トランスロンは承認が延期され、ビジョンの見直しもありうるとされる。研究開発費で比べれば、ノバルティスファーマ社の2000億円に対し、武田薬品工業は629億円、三共は495億円。100億円以上を注げる国内15社の一角という位置と世界の巨大企業との開きは、抗菌剤2品では埋まらなかった。1999年6月に社長へ就いた森田清氏は、国内3位以内を目標に掲げている[22][23][24]。
- 週刊東洋経済 1999年7月17日号「[キーパーソン]「熟慮断行」で製薬3位を目指す 第一製薬社長 森田清」
- 週刊東洋経済 2002年11月2日号「[特集]生き残る会社の条件」
- 週刊東洋経済 1998年1月3日号「[特集]2000年に勝つ会社、負ける会社 医薬品海外販売で格差が鮮明化」
- 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界」
- 週刊東洋経済 1999年4月24日号「[特集]どこまで行く「格付け」ブーム」
- 週刊東洋経済 1999年2月13日号「[特集]世界の最強・日本の最強 医薬」
- 週刊東洋経済 1997年7月26日号「[特別レポート]死者39人の副作用情報が伝わらない」